赤を囲う - 1/5

眼下の緑

 その日、兄が飛び降りた。
 どうしてなのか理奈(りな)には分からない。救急車のサイレンが異様にうるさくて、外を見たら団地の前に人だかりができていた。他人に運ばれていく兄も、連打される玄関チャイムも、鳴りやまない固定電話も全て現実味がなかった。
 翌日、母に引きずられて面会に行った。ガーゼで人相の判別もほとんどつかない兄の前で、医者は唾を飛ばして『四階から落ちたにしては奇跡的だ』と傷の浅さを力説していた。
 兄はずっと黙っていた。自分の落ちていった空を確かめるように、開かないガラスの向こう側を見つめていた。母にも妹にも目を向けずに。
 慣れない横顔を遠巻きに見つめて、理奈は胸の内で呟いた。
 そういえば、私は兄さんのことを何も知らない。生まれてから十六年、同じ家で生きてきたはずなのに。
 兄さんが飛び降りたとき、私はあの家にいたのに。

 

「いえね、強制ではないのだけど、部活動をしていた方が人生が豊かになると思うの」
 理奈の担任だという島村先生は、『人生』と『豊か』に力を込めて言った。
 制服姿の理奈の手には大量のプリント。入学式の翌日から今日までの二ヶ月分、一番上にあるのは入部届だ。
 島村先生はひとしきり理奈に合いそうな部活を並べ立てた後、野球部のマネージャーなんてどうかしらと出し抜けに言った。
「前任の先生が異動されてね。引継ぎでわたしが顧問をさせてもらっているのだけれど、詳しくないのよ。ご迷惑をおかけしているようで。よければ相模さんの手を借りたいわ」
 十代の好むようなピンクの口紅は、かえって本人の年齢を際立たせていた。
 もっとも歳に不相応なのは自分の三つ編みだって変わりはない。セーラー服に二本のおさげでは、まるで戦時中の女学生だ。
「厄介事を押し付けたいって、はっきりおっしゃったらどうですか」
 理奈は眼鏡を押し上げて素直な気持ちを告げる。島村先生は真っ黒に縁取った目許をゆがめた。
「やめた方がいいかしらね。お兄さんのいた野球部だもの」
「そうします」
 理奈は頭を下げて職員室を出た。大人の嫌味はみんなワンパターンで、いちいち傷つくのも面倒だ。
 廊下を歩きながら外を見た。体育棟の屋上、人工芝の青さが目に付く。ビルの合間に建つ高葉ヶ丘(たかばがおか)高校は運動施設が狭い。
 そのグラウンドに野球部員がいた。独特の服装で、ボールもバットも持たずに短い距離を何度も走っている。シャトルランというやつだろうか。
 不意に、一人と目が合った。丸い目をした男子だった。理奈に気付いて白い歯を快活に覗かせる。爽やかな運動部員のイメージそのものの笑顔。
 理奈は表情を変えず、ゆっくり窓辺を離れた。
 兄の雅伸(まさのぶ)も、二年前まであの野球部に在籍していたらしい。飛び降りたときに抱えていたのは、当時使っていたグローブだった。病室でもずっと膝の上に置いていた。
 それでも理奈には野球部と兄が結び付けられない。物影に置かれた鉢植えのような人だった。呼吸すら密やかな人だった。陽射の下で汗を流す兄を想像しても、つかみ取る前にどこかへ消えてしまう。
 梅雨晴れの紫外線が目に痛い。理奈は眉間にしわを寄せて、知り合いのいない教室を目指した。

 

「ちわ」
 昼休みになるなり、今朝グラウンドで見た男子が理奈の席の前に立った。上履きの色が違う。上級生だ。
 教室が妙な空気になっているのに、彼は構わず話を始める。
「島ちゃん先生に、相模先輩の妹さんが来てるって聞いたんだけど。君がそう?」
 理奈は無礼を承知で舌打ちした。
 厚かましい。いい歳をしてちゃん付けを生徒に許す女教諭も、冷やかしで下級生の教室にやってくる先輩も。
 理奈はコンビニの袋を持って廊下に出た。先輩が後をついてくる。
「オレ、三年の井沢(いざわ)徹平(てっぺい)。野球部の副キャプやってんだ。ノブさんにすごくお世話になったから挨拶したくて」
「誰さん?」
 聞き慣れない呼び名に理奈は思わず振り向く。井沢は何故か表情を和らげた。
「ノブさん。相模先輩のこと、みんなそう呼んでた」
 理奈は眉を寄せて黙り込んだ。
 上下関係にうるさい兄が、そんな気安い呼び方を許したのか。雅伸で『ノブ』。母の『マサくん』呼びへの当てつけだろうか。
「それで、井沢先輩は私にどうしてほしいんですか」
 三つ編みを片手でいじる。井沢は視線をさまよわせてから、ゆっくりと理奈に目を据えた。瞳は切実な色をしていた。
「卒業してから誰も連絡つかなくて。心配、してたんだ。ずっと。今ノブさんが元気にしてるか教えてほしい」
 心配、と区切ったリズムがあまりに本物で、それぐらいのことで何をと吐き捨てそうになった。直前で飲み込んで顔を背ける。
「兄なら入院中です。この先もしばらく連絡はつかないと思います」
 井沢は言葉を失っていた。つけるつもりでつけた傷とはいえ、大袈裟なリアクションだ。訝る理奈の前で井沢が何か呟いた。緑の上履きが急に距離を縮めて、骨ばった両手がセーラー服の肩を強くつかむ。
「飛び降りたのか」
 疑問ではなく確認の声音だった。理奈より事情を知っている口調だった。
 目の前で、赤の他人が心から相模雅伸を案じている。血を分けた妹ができなかったことを必死にしている。
「連絡つかないって、無事なの? 意識とか、ちゃんと」
「意識ははっきりしてます。危険がなくなるまで様子を見るんだそうです」
「そう」
 そう、と弱々しく繰り返して、井沢は理奈から離れた。解放された肩はまだじりじりと痛んだ。
「面会とかは、できるの」
「兄に訊いてみないと分かりません」
 自分で思うより語気が荒くなった。井沢は怒るどころかやわらかく笑う。
「ダメ元でお見舞いについてってもいいかな。目の前に来ちゃえばノブさんも追い返さないと思うしさ」
「分かりました。じゃあ放課後に」
 理奈は言い捨て井沢に背を向けた。階段を戻り一人になれる場所を探す。
 兄に会いに行く予定はなかった。初対面の先輩に対して何の義理もなかった。非常識な申し出に即答した理由を理奈ははっきりと自覚している。
 私はただ、あの人が兄さんに追い返されるところを見たいだけなんだ。

 

「相模さんって、なんで高葉ヶ丘受けたの?」
「学力的にちょうどよかったので」
「ならいいけど」
 学校から病院までの道中、井沢はしきりに話しかけてきた。踏み入った質問も多く理奈は辟易した。しかしさしもの先輩も、乗り物で隣に座っては来なかった。理奈も敢えて、どうぞと勧めはしなかった。
 バスの降車ボタンを押す。黙って降りたが井沢も静かについてきている。
「他の先輩方には知らせなかったんですか」
 受付で面会の手続きを待つ間、理奈から井沢に話題を振った。前に来たときは母が全部やっていたから、一人だと手持無沙汰だ。
「だってノブさん、今はオレ以外絶対嫌がると思うから」
 随分な自信だった。そのくせ得意げな響きも笑顔もない。
 井沢は理奈よりむしろ、一人で大声を上げる男性に注意を向けているようだった。
「何かあったのかな」
「さあ。ここ、有名な大学病院だから重症の人も多いみたいです。前に来たときも頭のおかしい人がわめいてたし」
「そういう言い方はよくない」
 理奈の余計な説明を、井沢は同情も叱責も付け加えず冷静に切り捨てた。
「他人の病気を、見下すための道具にするのはよくない」
 言い切るや否や足早に歩き出す。事務職員につかみかかろうとしていた男を取り押さえる。白衣のスタッフたちが慌てて三人に群がる。理奈は騒動を遠くから眺めていた。
 あの人は、井沢徹平はきっと正しい人なのだろう。
 理奈の嫌いなタイプだ。
 許可が下りて、二人で入院病棟に向かった。渡り廊下を抜けると外来の喧騒が消え、空気も冷えていく。理奈は腕をさすったが、隣を行く井沢は顔色ひとつ変えない。
 電子ロック付きのガラス戸を二枚くぐり、いかにも『心にやさしい』パステル調のロビーに入る。受付から連絡がいったのか、一番手前の机に兄がいた。こちらに背を向け一人で座っていた。
「ノブさん」
 井沢の声に兄が振り返る。顔中に貼られていたガーゼは大半がただの絆創膏になり、理奈の記憶にある兄に近づいていた。
「井沢。わざわざ悪いな。理奈も」
 兄の声を聞いたのは随分久しぶりだ。こんな声だったろうか。
 話を始めたのはやはり井沢だった。
「焦りましたよ。ついに越えちゃったかと思って」
「植え込みに助けられてこのザマだ。不精して手近で済ませようとしたせいだな」
 井沢は笑っていた。兄も一緒に自分の生死を笑い話にしていた。
 テーブルにはまたあのグローブがある。井沢が目ざとく覗き込む。
「それ、追い出し会のとき寄せ書きしたやつですよね」
「ちょうどお前のとこだけ血で潰れた」
「じゃあ書き直しますよ。何書いたか覚えてるんで」
 鞄からペンを取り出して文字を書く井沢と、話しかけながら見守る兄。二人は二人だけで空気を閉じていた。あたたかに。
「ちょうど抽選会終わった頃か」
「そうなんです。新田(にった)、くじ運ねーからしょっぱな強いとこ引いちゃって」
侑志(ゆうし)がキャプテンなら上手くいってそうだな」
「まぁ一応オレたちも支えてるんで。っていうか、野郎共の話ばっか聞いててもしょうがないでしょ。せっかく理奈ちゃんもタカコー入ったのに」
 突然話に引きずり出されて理奈は息を詰める。固まっているのは兄もだった。初めて理奈の制服に気付いた顔をしていた。
「理奈が?」
 切れた口唇が妹の名を呼び、小さく息を吸う。
 続きが発せられる前に理奈は背を向けた。ドアに向かって足早に歩き出す。ほとんど走っている速度で。ついてくる足音はない。もし扉がロックされていなくても、兄は理奈を追ってはこなかっただろう。今までずっとそうだった。首から提げた許可証を握りしめれば、角張ったビニールケースが手のひらに食い込んだ。
 病院を出た後、待ち時間の長いバスを避け本数の多い地下鉄に飛び乗った。息が上手く整わない。ドア横の座席に陣取って手すりにもたれかかる。
 電車が動き出す直前、マナーモードの携帯が震えた。知らない番号からの着信だ。井沢先輩だろうと無視をした。どうせ駅から離れれば圏外になる。
 次の駅でも着信ランプが光った。ショートメールだ。兄の番号からではないのに、どうしようもないほど兄の言葉だった。
『来てくれたのにごめん。その髪もうやめていいから』
 やっぱり兄さんは何も解ってない。解らないくせに謝ればいいと思ってる。
 怒鳴り散らす代わりに、理奈は三つ編みをつかんで電車を降りた。地下鉄のホームはどこも似たり寄ったりで、本当にさっきとは違う場所なのかと疑わしくなる。
 初めての、反面見飽きたようなタイルを睨みながら留守番電話を聞いた。
『理奈ちゃんごめん、聞いてたらワン切りでいいからこの番号かけて。ノブさん心配してる。いろいろごめん、でもホント頼んます』
 後は耳に障る電子音。メッセージを削除しますかと訊かれたのでお言葉に甘えた。
 なんだ、ノブさんって。バカバカしい。
 なんだ、理奈ちゃんって。馴れ馴れしい。
 電話を持ったままの手がだらりと落ちる。兄のために、生意気な後輩へ繰り返し謝ってくれた少年の声を反芻する。
 井沢先輩が、兄さんのきょうだいならよかったのに。
 知らない学生服の一団がホームに降りてきた。華やいだ笑い声に理奈は目を伏せ、携帯電話を鞄の一番深いところにしまい込む。
 滑り込む電車がつくった風はただ生ぬるいばかりだった。

 

「おはよ」
 翌朝、井沢は校門で理奈を待ち伏せていた。部活の朝練で、と訊いてもないのに言い訳をしてくる。
「でも、学校来てくれてよかった。オレ君んち知らないから」
 理奈は無視して通り過ぎる。井沢が三歩後ろを貞淑に、ただし口調は図々しくついてくる。
「理奈ちゃん、今日も放課後空いてる?」
「面会なら一人で行ってください」
「そうじゃなくてさ。見せたいものがあるんだ」
 懲りない人だ。理奈は視線だけで振り返る。井沢は困ったように笑っていた。
「昨日、ノブさんとオレが何の話してたか分かんなかったと思うから。理奈ちゃんも連れていきたいなって」
「兄にそう言われたんですか?」
「オレが勝手に思っただけ」
 いいかな、と尋ねた井沢はひどく遠慮がちで、断れば大人しく引き下がりそうに見えた。だったら、嫌ですの一言で話は終わりだ。
 理奈が息を吸った瞬間、待ってと井沢は手のひらを見せた。
「ごめん、放課後も部活だった。もしよかったら明日の放課後」
「今日でもいいです」
 答えた自分の気まぐれが、理奈自身にも理解できなかった。続けた台詞も自分が言ったのではないみたいだ。
「島村先生に、野球部誘われたので。見学ぐらいは、一度だけ」
 井沢は泣きそうに笑った。嬉しそうでも悲しそうでもなく、ただ優しく口の端を上げた。
「ありがとう」
 放課後、井沢が教室まで迎えに来た。学校のグラウンドは狭いので、週に一度近所の広場を借りているそうだ。行ったことのない公園まで連れていかれた。他の部員は既に練習を始めていて、声だけで挨拶はされたが囲み取材は受けずに済んだ。
 理奈は井沢の後に続いてベンチへ歩み寄っていく。テレビドラマで見るような『野球のベンチ』ではなく、普通の公園の長椅子だ。頼りない柱に載った古いトタン板の下で、黒いスポーツウェアの青年がボールを磨いていた。
朔夜(さくや)さん。新田から話いってると思うんですけど、この子が相模理奈さんです。野球全然興味ないんで、そういう感じで案内お願いします」
「おー。了解」
「じゃあ理奈ちゃん、あとでね」
 井沢は理奈に一言残して、キャッチボールをしている部員たちに交ざっていく。朔夜と呼ばれた青年が立ち上がる。
「相模さんだね。桜原(おうはら)朔夜です。よろしく」
 華奢だが精悍な顔つきの青年だ。学校指定の服ではないから卒業生かもしれない。歳は兄とそんなに変わらないように見える。
 青年――桜原朔夜は、ジャージの襟の前で軽く握った拳を揺らした。
「それかわいい。やっぱ三つ編み上手だね」
「こんなの上手いとか下手とかあります?」
 わけの分からない褒め方をされたせいで失礼なことを言ってしまった。いきなりかましすぎたと反省し、理奈は片手で口を押さえる。桜原はけらけら笑っている。
「私も髪長かったときやってみたけど、めちゃくちゃ下手だったよ。見かねてノブさんが教えてくれたんだ。前は妹によくやってたっつってさ。もう自分でやった方が上手いからお役御免になったってぼやいてた。ノブさんが自分のこと話してくれるの珍しかったから覚えてる」
 情報量が多くて処理しきれない。そもそも桜原の性別が意外だった。言われてみれば、声も男性というより低めの女性だ。
 桜原はひとしきり笑うと、ジャージのポケットに両手を突っ込んだ。
「お兄さんがここでどんな風だったか、聞く?」
 理奈は自然と頷いていた。朔夜は歌うように続けながら、決して広くはない広場を見渡す。
「優しい人だった。みんなを勝たせるために誰よりも真面目に練習して、投手を助けるために誰よりも堅実に内野を守って、走者を進めるために誰よりも多く犠牲バントを決めた。そういう人だったよ、相模先輩は」
 野球のことは全く分からない。具体的に何がどうだったのか、理奈には理解できていない。けれど懐かしそうに目を細める姿で、彼女たちにとって兄がどういう存在だったのかは感じ取ってしまった。
 本当は井沢と話したときから気付いていた。
 属する場所が違っても、兄のしていることは本質的にずっと変わらないのだ。
「桜原コーチ。肩慣らし終わりました」
 一際背の高い部員が来て、帽子を取って理奈にも少し礼をした。茶髪だ。いくら頭髪規定の緩い学校だからといって、野球部にもあんな色がいるなんてさすがに驚いた。
 桜原はクリップボードを手にふむと呟く。
「せっかくだからシートノック先にすっか。新田は外れてブルペン入れ。一年の世話は井沢たちに任せていい」
 手持無沙汰の理奈を振り返り、桜原は少年のように溌溂と笑った。
「見てて。井沢のいるとこがノブさんが大切にしてた場所だよ」
 ボードを突き出され、理奈は勢いで受け取ってしまった。何が書いてあるのか意味不明だった。立ったまま守備練習を眺める。桜原があちこちに打った球を、部員が捕れたり捕れなかったりするだけだ。じきに飽きて長椅子に腰を下ろした。
 島村先生が投げ出すのももっともだなと思った。

 

 部活が終わって、井沢と二人で自宅方面に向かう電車に乗った。行き先は理奈の地元の神社だ。駅を出たらすぐ右、つづら折りの坂をのぼって、さらに石段。引きこもりでなまった身体にはつらい。
「高いでしょ」
 境内に着くと、井沢は自慢げに笑った。理奈は皮肉る元気もなく頷いた。ずっと前に家族で来たことがある。最寄りの神社ではないからと拝殿をさっと見て帰ったきり。
 井沢に促されて、西側のご神木の方へ行く。ここからの景色は初めてだ。電車の高架も、見慣れた雑居ビルも、通っていた幼稚園もみんな上から見下ろせる。
「オレの通ってた中学、ここから近くてさ。なんかしんどいことがあるたび、一人でこの神社に来てた。高校入って、実はノブさんも常連だって知ってから、いろいろ話とか聞いてもらうようになったんだ」
 井沢は土を踏みしめながら歩いていって、フェンスの前で振り向いた。後ろ手に緑の金網を握りしめて笑う。
「理奈ちゃんは、ここを越えたいって思ったことある?」
「は?」
 やっと出た声は無礼そのものだったが、本音だったので取り消しようもない。井沢は気にした様子もなく続ける。
「まぁ、『は?』だよね。オレもノブさんに言われたとき正直困ったし」
 それは兄が高校生の頃のことなのか。尋ねる代わりに理奈はフェンスに近づいた。見る角度が変わると高さは余計に現実感を増し、囲い越しでも足がすくんでしまう。
 そんな問いを発したということは、きっと兄さんは。
 だから先輩は。
「ここからじゃなくて、よかったよな」
 力なくひし形をなぞる節ばった指。理奈もそろそろと金網に触れた。日向の緑は意外なほど熱を帯びていた。
「井沢先輩も、ここを越えたいって思ったりしたんですか」
「どうだろ。家に帰りたくないなぁって話は二人ともよくしてたけど」
 すぐそばにベンチがあるのに、井沢は土の上に腰を下ろした。あぐらをかいて遠くを見る姿は、神社にいるのに僧みたいだった。
「理奈ちゃんは、どうして学校行きたくなかったの?」
 聞き飽きた、ずっと答えることを拒んできた質問。
 理奈は少し悩んで、井沢の隣にしゃがむ。大事にしたい制服でもないし、どうせなら同じ高さでものを見てみたかった。
「理由は特にないです。そう言うと怒られて原因探しをされますけど」
「大人ってそういうとこあるもんね」
「多分兄もだったんです。理由を探して、勝手に決めつけたのは」
 理奈は、切るに切れない三つ編みを指先で撫でた。
 小五の頃、理奈は三つ編みのアニメキャラに憧れた。同じ髪にしてと母に頼んだら、一度目は喜んでやってくれた。二度目はしぶしぶ、三度目には忙しいからと断られた。
 代わりに編んでくれたのは兄だった。当時中学三年生の男の子。理奈はほつれたおさげで学校に行った。髪のことをさんざんクラスメイトたちにからかわれ、中心になっていた男子の椅子を振り上げて教室の床に思いきり叩きつけた。全員黙った。
「それからほとんど学校行ってません」
「そりゃ、ノブさん自分のせいだと思っちゃうよ」
 井沢が震えた声で言った。引いているのかと思ったら笑いをこらえていた。
 その方がいい。理奈は満足して続ける。
「ひとが一生懸命やったことを、指差して馬鹿にするやつの方が悪いに決まってるじゃないですか。くだらない連中と一緒にいなくても、勉強だけなら家でもできますし。学校とか心底必要ないですよね」
「ていうか理由、あるじゃん。それじゃん」
 井沢が肩を揺らして指摘してくる。理奈は赤面して下を向く。しゃべりすぎた。普段他人と話さないから加減が分からない。
 膝の上で頬杖をつき、兄の見ていた景色に臨む。さすがに家までは見えなかった。
「兄が家で居場所を失くしたのは、自業自得だと思います。年頃だから男の子と女の子の部屋は分けた方がいいとか、周りの言うこと真に受けて勝手に物置部屋に引っ越して。当の私は嫌だとも出てけとも言ってないのに。どの口で帰りたくないなんて言うんですかね。お兄ちゃんっていつもそうだもの」
 やはりやめどきを失ってまくしたてる理奈を、井沢が苦笑しながら止めた。
「その辺にしてやって。オレも妹によく似たようなこと言われるからさ、耳がいてぇわ」
 妹がいるのか。理奈をやけに気にかけるのもそのせいだろうか。腑に落ちたとき空いた隙間が風で冷えていく。
 井沢の横顔もだんだんと静かな色になっていった。
「わたしを勝手に決めないでって、彼女にも言われたことあるよ。なかなか直んねぇな。悪い癖って」
 彼女もいるのか。しかも他人に話すのに照れもしない。なんだかとても釈然としない気分だ。
 井沢は理奈の不機嫌に気付いた様子もなく、汗に濡れた額を腕で拭う。
「伝わると思ったことって意外と伝わんねぇし、解ったつもりのことって結構あさってだから。こうです、こうですかって、根気強く言ってくしかないのかもね」
 理奈はまた三つ編みに触れる。
 兄はあの頃から何も弁解しなかった。学校に行かなくなった理奈の髪を、会う人もないのに毎日編んでくれていた。もういいよと気遣うつもりで告げた言葉も、兄には贖罪の機会を奪われたように聞こえたろうか。
「兄は、何も言わないと思います。これからも。私もきっとそう。弱虫だから」
 私たちはこれからも、互いを決めつけて勝手に苦しむのだろう。
「そうかな」
 井沢が天を仰いで、理奈もつられて上を見た。
 マジックアワーだ。薄紅と紫の雲が流れる。色の境界が淡くにじんでいく。
「理奈ちゃんは解ろうとしてるじゃん。だから同じ高校受けて、頑張って登校してきたんじゃないの。弱くなんかないよ」
 これも決めつけかなと顔を覗き込まれて、理奈は答えられなかった。頷きたいような気もしていたが、口をつぐむことしかできなかった。
 井沢が腰を浮かせ、理奈に手を差しのべる。理奈は首を振り自力で立ち上がった。自分がすがっていい手ではないことぐらい解っている。
「お参りしていきましょうか」
 拝殿側は囲いの外が林になっていて、斜面を覆う緑が眼下によく見えた。六月の湿気が風に鳴る。夏の気配を肌が知る。
 あの問いの答えがはっきりと決まった。
 私は越えない。空に近い金網も、野球部を見下ろすあの窓も。兄たちの見た緑に身を投げたりはしない。
 井沢と並んで神様に手を合わせ、違う相手に語りかけた。
 お兄ちゃんの好きだった場所、もう少し通ってみるよ。だからお兄ちゃんも、嫌いだった家に少しぐらい引きこもってみなよ。何か解るかもしれないでしょう。
 一礼して見慣れた街に向き直る。くっとあごを上げて息を吸う。
「先輩、裏の階段から降りましょう。表の坂は車用だから、徒歩ならこっちのが早くて楽です」
「え、そんなのあるの? オレいつも正面から苦労してのぼってんのに」
「先輩は正直すぎるんですよ」
 飛び降りず、荷を負わず、理奈たちは足取り軽く緑の中を突っ切る。