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青い教室

新田(にった)センセー、見えない」
「待って。あと一行だから」
 左利きの侑志(ゆうし)が縦書きをしていくと、書いた文字に必ず身体がかかる。しかも身長一八四センチ、スポーツ経験者なのでそこそこ体格がいい。一言で表すと、邪魔。
 中学の国語教諭も三年目だが、黒板問題は未だ着地点が見つからない。
「先生座ればよくない?」
「新田先生デカくて下の方見えないから意味ない」
「ねー黒板消すのだるいから上まで書くのやめて」
 中学生ともなると一丁前に真実を衝いてくる。そのくせオブラートの持ち合わせはほとんどないから、侑志の胸はいつも傷だらけだ。血が出るほどではないが。
 かん、と最後の一画をわざと音高く書ききった。
「はい五分間板書に集中。それから解説するので、写し終わらなかった人はその間に隙を見てやってください」
 二年三組の生徒はいっせいに利き手の速度を上げた。シャープペンシルの芯がノートの表面を走る音を聞きながら、侑志は黙って入り口脇に移動する。いろいろ立ち位置を試して、そこが一番マシと生徒に言われたのだ。廊下側前方の生徒には、先生が近いとやりづらいと不評だけれど。
 衣替えの済んだ六月、生徒たちは半袖のポロシャツ姿。とはいえ雨の日は二十度を下回ることもある。今も、ときおり腕をさする子がいた。
「寒い人、上にジャージ着ても――」
 侑志が言いかけたとき、引き戸がいきなり開いた。心許ない髪が目に入る。湯上校長だ。また抜き打ちの校内見回りか。
「新田先生、壁に寄りかかって授業をしないでください」
「すみません。教壇に立っていると黒板が隠れてしまうので」
 別に寄りかかってねぇけど、と反論は内心で。父親よりも年上で、母親よりも背の低い上司は、首の前面をぐっと伸ばして侑志の頭を睨む。
「その髪も黒に戻してください。生徒に示しがつかないと何度も」
「何度も申し上げていますが、戻すも何もこれは地毛です。証明書も提出しました」
 今度は遮って言い返した。
 侑志の髪が茶色がかっているのは生まれつきだ。夜闇では一見黒だが、光の加減によってかなり明るい色に見える。このまま働くために、いい歳をして親に印鑑まで押させた。添付を求められた乳児期の写真も、ネガフィルムがないので焼き増しするのに店まで行った。これ以上とやかく言われてはたまらない。
「私は受け取っていません」
 校長は額に汗を光らせてなおも言う。前任の校長から引き継いでいないのは侑志の責任ではないのに。この四月に湯上校長が赴任してきてから、いろいろなことがやりづらくなった。
 生徒たちがちらちら視線を送ってくる。校長は嫌味をやめようとしない。
 侑志は声のボリュームを一段上げた。
「再提出が必要なら可及的速やかにそうします。とにかく今はやめてください。生徒たちには集中して授業を受ける権利があります」
 校長は侑志の背後に目を遣り、いきなり顔を強張らせた。このクラスの生徒は担任以上に気が強い。きっとすごい形相をしている。
「と、とにかく、私は注意しましたからね」
 月並みな捨て台詞を最後まで聞かず、侑志は教室のドアを閉めた。右手の腕時計を見て眉をひそめる。
「五分過ぎちゃったな。ロスタイム欲しい人いる?」
 一人の生徒が手を挙げた。一際ずけずけと意見を言い、またそれを格好いいと思っているタイプの男子だ。
「新田先生っていじめられてんの?」
「どうして?」
 否定も肯定もせず先を促せば、得意げな答えがぶつけられる。
「職員室じゃなくて教室で仕事してるから」
 ああ、いやだな、と思う。傷つくことができたらまだマシかもしれないのに。
 こういうとき、生徒に対しても感情がすっと失せていく。
「左肘が隣の先生に当たるからさ。自主的に避難してるだけ」
 年度が変わって一月後、侑志は校長から机の配置換えを指示された。左利きである旨を伝えたのに、新田先生だけ特別扱いはできないと右端の席にやられた。ご丁寧にキャビネットは右側で固定してあって、二組の担任は肘がはみ出すたびに舌打ちをする。
「おかげでこの教室から見る夕陽が綺麗だってことも分かったし、悪いことばかりじゃないよ」
 侑志は力なく笑った。
 西陽の染め上げた教室は郷愁以上に幻想的で、泣きたくなるくらい愛しい景色だ。それは本当のこと。だが事実が本音でなくなる瞬間は、いつも消えてしまいたくなる。特に先生と呼ばれているときには。
「新田先生、暗くなったよね」
「去年よりつまんなくなった」
 生徒たちの目は冷ややかだった。特に昨年度から続いて担当している子たちの口調は厳しい。
「新田先生って、どうして先生になっちゃったんですか?」
 さっき見た時計と経過時間を頭の中で合わせる。じきにチャイムが鳴るはずだ。
「それは先生にとって大事な話だから、授業中の雑談にしたくない。他の時間にきちんと話すよ」
 間延びした鐘の音がスピーカーから響いて、生徒たちはおざなりな号令を済ませて散り始める。日直が早速黒板の字を消している。
 侑志は居場所のない教室を静かに立ち去る。こうやってあの日の自分が嫌った教師になっていく。夕陽が沈んでいくように、止める術もないまま。

 

朔夜(さくや)さん、そっちの荷物も貸して。俺が持つ」
「別にいいよ。侑志はいつまでも過保護だな」
 妻の朔夜が隣で苦笑する。籍を入れて二ヶ月足らず。帰りに駅で待ち合わせて買い物をするのも、まだデートみたいに特別だ。
 朔夜とは高校で知り合った。侑志が野球部に入ったのは、先輩だった彼女の熱心な勧誘があったからだ。当時は侑志の身体能力にしか興味がなかったようだけれど。
「侑志こそ左肩大事にしな。先生って腕上がらないと困る仕事じゃん」
「そうだけど」
 侑志は口ごもり、右手のエコバッグを握りしめる。
 あの頃の朔夜はマネージャーと同時にプレーヤーで、利き手側に負荷がかかることを極度に嫌っていた。今は製薬会社の食品開発部門に勤め、自身はスポーツから遠ざかっている。左肩は年々頓着されなくなってきた。
「俺は現役のときだって雑にしてても平気だったよ。元々丈夫だし。いいから貸して」
 侑志は早口に言い、朔夜の鞄をつかんだ。書類の詰まったバッグは思った以上に肩に食い込む。
 朔夜は小さく首を振っただけで、侑志の意地に付き合ってくれた。空いた両手を後ろで組んで、水たまりを軽やかに避けていく。
「電車待ってる間ラジオ聴いてた。大﨑またスタメンだったよ」
「こないだみたいに打てるといいな。負けたけど」
 野球にもかつてほど興味が持てなくなってしまっているが、交流戦は話が別だ。彼女のごひいきと、自分がかろうじて応援している球団に接点ができる季節。
「朔夜さんがご機嫌ってことは、そっちは先制した?」
「松山が丸のこと還したからね。でも一回までしか聴けなかったから油断できない」
 朔夜は落ち着いた様子で、ショートカットの黒髪を左手で耳にかけた。
 彼女の方でも、十代の頃のように全力で一喜一憂しなくなっている。自己同一化をやめるほどには二人とも大人になったのだ。だが失くした熱量を自分たちに向けられているかと問われたら答えに窮する。単に他人のことを喜ぶには疲れすぎているだけかもしれない。
 新居は朔夜の希望で、互いの実家の近くにした。侑志の勤務先である高葉第一中学校からも徒歩圏内だ。アパートの一階1DK、築四十年越えでも家賃は八万ちょっと。親元を離れて初めて、当たり前に暮らしていた街の地価がえげつないことを知った。
「おかえりー。お二人さん今日もラブラブだね」
 玄関ドアに、これも高校時代からの親友である桜原(おうはら)皓汰(こうた)が寄りかかっていた。アルバイトと作家を兼業している義理の弟。火の点いていない煙草をくわえてスマートフォンをいじっている。
 朔夜が侑志の手から自分の鞄を取り、弟をドアから剥がした。
「皓汰、合鍵持ってるんだから勝手に入ってていいって言ったじゃん」
「いや、姉の嫁ぎ先って普通にひとんちだからね?」
 皓汰は眉をひそめて答える。偽悪的なきらいはあるが、根は割合と常識人なのだ。あくまで割合。
 朔夜が鍵を開けている間に、侑志は皓汰に耳打ちする。
「上手くいってんのか。この間言ってた人とは」
「あー、ダメダメ。騙されてた。人妻だったの。知らずに寝ちゃってさー、旦那さんに刺されないといいなぁ」
 皓汰は半笑いで片手を振った。そうか、と呟いて侑志は首をかく。
 いい加減相手を見つけるのが下手なやつだ。性別の隔てなく『自分を大事にしてくれない人間』を見つけ出す、というのは作家として面白い才能なのかもしれないが、友人として侑志は甚だ面白くない。
「皓汰さぁ、とりあえず出会い系使うのやめた方がいいぞ」
「えー、マッチングサイトと出会い系サイトの区別もついてないの? 新田先生ふっるーい」
「うるせえクネクネすんな。お前の女子学生像も古いよ」
「マジで? 仕事柄アップデートしないと死活問題なんだけど。先生個人授業してよ。えっちなのでもいいよ」
 皓汰は軽い口調で言いながら、全く焼け焦げていない煙草を携帯灰皿に押し込む。真面目に心配しているのにいつもこうだ。説教しかけたところで、二人とも遊んでないで早くと朔夜に叱られた。侑志は遊んでいないのに不本意だ。社会は概ね不本意と理不尽でできている。
 でも、まぁ、新妻のエプロン姿を目前で見られるのは、人生におけるご褒美のひとつ。
「私ご飯の支度しちゃうから侑志は座ってて。皓汰どうせお酒持ってきてるんだろうし、先に始めてな」
「でも、朔夜さん野球観たいでしょ」
「作りおき温め直すぐらいだしすぐだよ。テレビつけといてくれればいい。音だけ聞こえるようにしといて」
「わかった。俺も先に着替えてくる」
 戻ってくると、朔夜がオクラとささみの梅肉和えを先に出してくれていた。侑志は缶ビール、甘党の皓汰はフルーツ系の缶チューハイを手に、グラスも使わず乾杯する。
「ところで侑志、最近ノブさんと話した?」
「ノブさんって、あのノブさん?」
 懐かしい名前だ。相模(さがみ)雅伸(まさのぶ)
 侑志は中学一年のときと高校一年のとき、二回世話になった。
「なに、ノブさんがどうかしたの」
 朔夜が侑志の前に茶碗を置く。彼女は中学の頃から高校の部活に出ていたそうだから、相模とはまる三年間の付き合いだったはずだ。
「ちょっとね。朔夜はノブさんと連絡取ったりしてる?」
「私は全然。追い出し会以来会えてないな」
「俺も。あの人、同窓会とかも絶対来ないしな。みんなそうじゃねぇの」
「そっか。困ったな」
 皓汰は左のこめかみを撫でる仕種をした。ツーブロックの今は髪を除ける必要もないのだが、耳にかけるようとする癖は抜けないらしい。
「どっから説明していいか分かんないんだけど、どうもノブさん最近不穏らしくて」
「具体的に言えよ」
 侑志は顔をしかめる。アルコールは自分の口の滑りをよくするためだったのか。ザルもザル、ワクにも近い皓汰に効果があるかは疑わしい。
 皓汰が渋っている間に、朔夜は食卓に料理をそろえて席に着いた。
 逆転のタイムリーにテレビの中の観客が沸く。朔夜は録画ボタンを押して電源を切る。姉にとっての酒・煙草である野球中継を止めさせたとあって、皓汰もようやく肚を決めたようだ。チューハイの缶を置いて姿勢を正す。
「なんか夜中とか結構出歩いちゃうんだって。もういい大人だしさ、俺も最初は『女じゃないの』とか言いながら聞いてたんだけど、そういう感じじゃないっぽい」
「聞いてたって、誰から」
「井沢。ノブさんの妹と仲よかったの覚えてる?」
「そういえば井沢の結婚式、二次会だけ来てたよな。お兄さんの分までご祝儀持って」
 侑志はカツオの甘辛煮をつつきながら記憶をたどる。三つ編みの印象的な女の子。侑志たちが三年生のときに一年生だったはずだ。残念ながら名前は忘れた。
「その妹さんが、井沢にノブさんのこと相談してきたらしくてさ。でも一応帰っては来てるし、違法性とか自傷他害のおそれとかもなさそうから、どうにもできないって」
「公務員はその辺り世知辛ぇからなぁ」
 侑志はため息をついた。公の仕事に従事する者は、どうしても私的な行動が制限される。警察官は教師よりもっと縛りがきついはずだ。
「でも警察は警察じゃん。市民が不安だって言ってんだから、何かしら手を打つべきじゃないの」
 朔夜が皓汰と侑志の前に麦茶のグラスを置く。侑志は素直にビールの缶を手放したが、皓汰はまたチューハイをあおった。
「井沢が電話受けたのは公務外だし、通報扱いになんないの。それにノブさんち城羽(しろば)署の管轄でしょ。この辺まで足のばしてるんでない限り、高葉署の井沢は口も手も出しづらいわけ」
「オスの縄張り争いかよ。くっだらねぇ」
 こういうときの朔夜は口が悪くて的確だ。侑志も公務員の『くっだらねぇ縄張り争い』に巻き込まれている最中なのでコメントできない。
 箸を置いて立ち上がる。
「次の休みにノブさんち行ってみる。誰に連絡すればいい?」
「え、妹さんの番号なら預かってるけど。今から電話すんの?」
「こういうの先延ばしにして好転すること一〇〇パーねぇから」
 皓汰からメモを受け取る。ポケットの携帯電話を確かめて、隣の寝室に向かった。
 知らない番号。ほとんど会話したこともない相手と、重大な問題について顔も見ないで話し合う。何度経験しても、胃の潰れそうなプレッシャーだ。
「ねえ朔夜ぁ、三住って今日は投げるの?」
「ちょっと前に登録抹消されてなかった? てか父さんに訊きゃいいのに。ファンなんだから」
「野球自体に興味あると思われたら後がめんどくさいじゃないよ」
 きょうだいの声を聴きながら、ベッドサイドのランプを点ける。メモにある十一桁を押していく。
 呼び出し音を耳の中で転がして眺める薄闇。居間から漏れくる光は冗談のように遠く感じた。

 

 相模雅伸と初めて話したときのことを、侑志は今も覚えている。
 入部したてで、まだ同輩とも馴染めていなかった頃だ。相模と帰り道が一緒になった。野球部の中で、そこを通学路にしているのは二人だけだった。
 青いけやき並木が続く環状道路。長い信号を待つ間、相模が先に口を開いた。
 ――この辺に住んでるのか。
 侑志は頷いて、当時住んでいた団地を指差した。父が単身赴任中で、母と二人で越してきたばかりだということも話した。
 相模はじっと黙っていた。聞いていないのかと思うほどだった。やがて彼は腕を上げ、侑志が指した建物の向かいを示した。
 ――俺はあの棟の四〇五号室に住んでるから。困ったことがあったらおいで。
 信号が青になって、相模はそのまま歩き出した。侑志は慌てて後を追いかけた。
 不躾な詮索をしない人だった。
 容易い同情を口にしない人だった。
 そうして思いやりが不器用な人だった。
 侑志が件の四〇五号室を訪れるのは十四年ぶりになる。事情を把握した相模の家族は、それぞれに用事をつくって出かけてくれた。今は本人一人のはずだ。
 呼び鈴を押すとき学校の家庭訪問より緊張した。玄関で挨拶して終わりというわけにはいかないのだ。手のひらに汗がにじむ。
 家の中と繋がった音。侑志は慌てて口唇を開いたが、発声する前に変な息の吸い込み方をしてしまった。
「あのっ、お、ひさしぶり、です」
 声がひっくり返って、焦るあまり名乗り忘れた。立て直そうとするほど言葉が出ない。インターホンが切れた。不審者と化したまま立ち尽くす侑志の前で、重そうなドアがゆっくりと開く。
「やっぱり侑志か。そんな気がした」
 成人男性が苦笑している。耳を覆う長い髪も、伸びたひげも知らない。こんなに様変わりしてしまっているのに、細める瞳の穏やかさだけはあの頃のままだった。
 相模雅伸。侑志の尊敬する先輩だ。
 侑志は表情を隠すために深く礼をした。
「突然お伺いして申し訳ありません。ご無沙汰してます、相模さん」
「昔の呼び方でいいよ。お前は間が空くたびに他人行儀に戻る。入って」
 相模はドアを押さえて侑志を招き入れてくれた。用件を訊いてはこない。誰かが自分を訪ねてくることを、最初から察していたのだろうか。
 昼下がり。照明の点いていない、薄ぼんやりと明るい部屋。
「今日は出血してなかったから安心した」
 相模は侑志の前にカップを置いた。先輩にもてなされるなんて変な感じだ。侑志はつい鼻をこすってしまう。
「そんないつまでも殴り合いなんてしませんよ」
「侑志は元々大人しいからな」
 相模はそこで会話を切った。侑志も甘えて黙っていた。
 この辺は都内でも荒れていない方だが、面倒な子供はどこにでもいる。侑志も中学時代はときどき因縁をつけられた。初めてここに来たのは、特別派手にやられ自分では怪我の処置をしきれなかった日だ。期待しないでインターホンを押すと、ろくに話したこともない先輩は驚いた顔をした。追い返されるなと思った。
 相模雅伸は、鼻血の止まらない後輩を見て短く言った。
 ――入って。散らかってるけど。
 やった相手を尋ねることも、理由を問うこともしなかった。淡々と具合を確かめて、大袈裟に見えないよう傷の手当てをした。最後に麦茶を一杯飲ませて、侑志の住んでいた棟のエレベーターホールまで送ってくれた。
 その日を境に、同級生による幼稚な嫌がらせはぴたりと止んだ。バックにいた三年生が手を引いたらしいと、随分してから風の噂で聞いた。
「ノブさん、俺には言わなかったけど何かしてくれたんですよね。かっこいいな、ああなりたいなって、ずっと思ってました」
 侑志はコーヒーの湖面を見下ろす。今度は相模が返事をしない番だった。そのつもりで告げた本音だ。ずれていく話題に大人しく付き合う。
「侑志は今、中学の先生やってるんだったか。朔夜たちの母校?」
「隣の高葉第一です。二人の卒業した第二中学と、近いうち統合しそうですけど」
「俺たちの中学もなくなったしな。この辺もいろんなことが変わってくよ」
 学校か、と相模が天井を仰いで呟く。息継ぎのように。
「教室って水槽みたいだなって、ずっと思ってた。空気の吸えるやつと、餌を食えるやつだけが自由に泳いでいられるみたいだって」
 視線を追っても何もない。相模は今を見ていないから。
「ノブさんは、苦しかったですか」
「楽しくなかっただけだよ。苦しくはなかった。ただ」
 向き直る目だって、侑志を映してはいない。
「侑志に担任をしてもらってる子たちが、羨ましいなとは思う」
 浮かべた笑みの虚ろさだけが本当だった。肌をひりつかせる痛みだけが真実だった。
 侑志はテーブルの下で両手を組み、手の甲に爪を食い込ませる。
 どれだけ長い間、余裕のある先輩だなんて勘違いを。この人はただ吐き出す術を知らなかっただけだ。頑なに身を丸めて息を潜めている。青い水槽の底で、今もまだ。
「相模さんも、困ったことがあったらいつでも連絡してください」
 意識して笑顔をつくった。そうでないと泣いてしまいそうだった。自己満足で、彼の守ろうとしたものを踏みにじってしまいそうだった。
 目を丸くしている相模に向けて、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「今の学校、男女関係なく名字にさん付けなんです。生意気でしたか」
「お前は本当に変わらないな。侑志」
 相模はようやく本当の笑みを少し覗かせてくれた。
「ありがとう、新田先生。そのうちにまた」
 ただ、連絡はきっと来ないだろうと思った。

 

 家に帰る頃には夕方近かった。朔夜が食事の支度をしながら振り向く。
「おかえり。遅かったね」
「実家寄ったら、印鑑だけのつもりだったのにお袋の話が長くて」
「いいじゃん。一人息子なんだし孝行しなよ」
 朔夜の言うことももっともではあるが……コメントを差し控え、侑志はドアを開けたまま寝室で着替え始めた。自然、互いに大声になる。
「お義母さんたちにもらいに行った印鑑って、髪の色のやつでしょ。まだ続いてんの? 新しい校長のガキみてぇな嫌がらせ。侑志も無視すればいいのに」
「そのガキみてぇなオッサン放置すると、真面目に勉強したい生徒に迷惑かかんの。さっさと黙らせたくて。ノブさんもあのまま放っておけないし」
「ていうかさ」
 いきなり声が近くてぎょっとした。朔夜がいつの間にか真後ろに立っている。初めて見せたわけではない、なんなら恋心を自覚する前から見られていた上半身が急に恥ずかしくなる。
 朔夜は侑志の頬を両手ではさみ、自分の方に無理やり引き寄せた。真顔だった。
「ノブさんのことは私も心配だよ。でも侑志、今自分も相当しんどいって気付いてる?」
「別にそんなこと」
「あるよ。私が何年お前のマネージャーやってると思ってんだ。十一年だぞ」
 目の前に鋭い瞳がある。出逢ったときに男子と間違えた長身は、侑志の視線が泳いでいくことすら許さない。
「平気だって思い込もうとすんのはやめろ。他人の弱音引き受けたいなら、自分の全部吐き出してからにしろ」
 揺らいでしまったことだって、きっと見抜かれている。
 侑志は臆病な手つきで朔夜の身体を抱き寄せた。随分慣れたと思ったのに、鼓動は憧れの頃と変わらず速い。
 同じ利き手と不便を持つ人。違う立場で同じ場所を目指した相手。どんなみっともない姿をさらしても、見放さず隣にいてくれたパートナー。
「強がりじゃないんだ。俺は、朔夜さんがいるから平気なんだよ。今までも、これからも」
 本音を見つけ出してくれる人が俺にはいる。いない人の本音を探しに行く勇気は、いつだってあなたがくれるんだ。
「恥ずかしくない先生で在りたいんだ。俺が今、任されてる生徒たちにも。あの子たちを『羨ましい』って言ってくれた人にも」
「そう」
 朔夜の両腕も侑志の背に回る。荒々しかったと思えば突然優しい。厳しい言葉は何より侑志の心を解きほぐす。この人には一生かなわない。
 長い抱擁のあと、朔夜は侑志の首にかじりついて無邪気に笑った。
「じゃあご飯食べながら野球みよ! マエケンも再登録されたし、今日はきっと一〇〇〇投球回いくよ」
「朔夜さんマエケン好きだよね」
「身長が侑志と同じぐらいなんだよ。入団したときの体格なんか高校の頃そっくり」
「……そうなの」
 他の男の名前も、好きな理由が自分では強く止められない。
 朔夜の身体を抱きかかえてリビングに行く。こういうときガタイがよくてよかったと思う。侑志の腕から解放された朔夜は、リモコンをつかんでテレビを点けた。義父が応援している球団のビジターユニフォームが大きく映っている。デイゲームのハイライトのようだ。
 朔夜は息をついて小さく頷いた。
「三住も再登録されたんだ。よかった。皓汰も気にしてたもんね」
「グラサンかけてたっけ。あんまりイメージないな」
 マウンドの三住椎弥はスポーツ用のサングラスを着用していた。ミラーグラスの反射で印象的な両目が見えない。朔夜は画面を気にしながら皿を並べていく。
「生まれつき目が過敏とか言ってたかな。調子悪いとナイターでもかけてるよ。球場の照明ってキツいから大変だよね」
 そのハンデを背負って、あそこまで登りつめたのか。そしてなお最前線で戦い続けているのか。
 侑志は背筋を伸ばし、テレビ越しの三住に正面から向き合った。正直なところ性格は気に入らないが、尊敬は本気でしているのだ。中学三年生の夏、ホームランを打ってやったことを密かな誇りにしているぐらいには。
「俺も頑張らないとな」
 いけ好かない姿は既に消え、画面の中には朔夜がひいきする投手がいる。彼はこの日偉大な記録を打ち立てながら、勝利を手にすることはできなかった。

 

「あれ」
 月曜の三限目。自分の受け持つ二年三組の教室に行ったら、生徒が誰もいなかった。ボイコットにしては潔すぎるし、そもそも何か要求された覚えもない。
 嫌な予感がして二組、一組、と覗く。教師も生徒も、第二学年全員がいない。
 侑志は苦い顔で頭をかく。
 これ、もしかして。
「新田先生? どうなさったんですか」
 階段から一年生担当の教諭が上がってきた。空の教室を見て事情を察したらしく、いきなり表情を曇らせる。
「二年生は体育館だと思います。先程連れ立って移動していたようですので」
「ありがとうございます。すみません」
 侑志は罪のない先輩に謝って下に降りた。体育館では予想どおり、二年生が臨時の学年集会をしていた。弾む息で駆け込む。向けられた視線の色で、誰が仕掛け側で誰が知らなかったかすぐ分かった。
 湯上校長は侑志が遅刻した理由を、伝達ミス――責任の所在を明らかにしない、連絡を受けなかった侑志に非があるようにも聞こえる言い方で生徒たちに説明した。誰の意図であれ遅れたのは事実であるから、侑志も言い訳せず頭を下げるしかなかった。
「緊急とか言って校長たち大した話してないじゃん」
「新田先生さらし上げたかっただけっしょ」
「うちらのクラスだけいきなり言われたし、先生に伝えなかったのも絶対わざとだよ」
 授業時間を十五分残して解放された生徒たちは、教室に戻るなりめいめい文句を言い始める。自分を批難する声が聞こえないので内心にやけそうにもなったが、それはそれ。侑志は両手を叩いて生徒を着席させた。
「前に『いじめられているのか』って訊かれたときは否定したけど、訂正させてほしい。俺はいじめられていることを認める。これをいじめじゃないって言い張ったら、もしみんなが同じことをされてても守ってあげられなくなる」
 自分たちに話が及んだせいもあってか、生徒たちがぐっと黙り込んだ。ただし目はぎらぎらと説明を求めている。侑志もここで話を終わらせるつもりはない。
「自分だけなら我慢すればいいと思ってた。慣れてるしな。でも俺は教員だから、こうして君たちの学ぶ権利が侵害されていることは我慢ならない。もっとストレートに言うと、ヒトが大切に想ってる相手まで巻き込むっていうのが卑劣すぎて許せねぇしマジでブチギレてぇ」
 生徒たち、特に前列がびくりと肩を震わせる。皓汰に『今の顔やばいよ』と心配されたときと同じような気分だから多分『やばい』顔をしている。ちなみに、学生時代後輩に『桜原コーチとヤッたんですか?』と言われたとき。
「やり返すの?」
 おずおず問われて、まさかと首を振る。生徒たちを怯えさせるのも、復讐を果たすのも目的ではない。
「差別や偏見をなくすには周囲の理解と協力が必要です。僕だけでなく、職員生徒全員がこの先の学校生活を気持ちよく過ごしていくために、君たちも力を貸してほしい」
 教卓に手をついて、なるべく前向きな顔で生徒たちを見回した。
 いつも冗談でクラスを明るくしてくれる子。
 分かりやすく頼ってはこないけれど、授業を熱心に受けてくれる子。
 毎朝一番に登校して、窓を開け空気を入れ替えてくれる子。
 顔を見ればひとりひとり違うフレーズが浮かぶ。誰に対しても迷ったり詰まったりはしない。大丈夫だ。侑志が踏み出せば彼らも応えてくれる。
 ぐっと身を乗り出して声を張った。
「来週の授業参観、国語の予定でしたが今週金曜の学活と入れ替えます。『いじめ』について一緒に考えよう。保護者の方にもなるべく参加していただけるようお願いしてください。僕が黒髪に染めない理由も、小学校や高校ではなく中学の教師になった理由も、そこで全部話します」
 たとえここが息詰まる水槽であっても、窮屈な箱の体積が変えられなくとも、満たす液体を別の色にすることぐらいはできるはずだ。
 チャイムの音が空気を震わせ、教室に新鮮な風を吹き込んだ。

 

「新田先生、キンチョーしてる?」
「してる。吐きそう」
 体育の授業が終わった生徒たちが教室に戻ってくる。ドア脇で待機している侑志は、ネクタイを直しながらうめいた。朔夜が選んでくれた一本。高葉ヶ丘高校の校色である深緑色だ。
 教室内には十四名の保護者がいる。中学生ともなると、授業参観は子も親も渋りたがるもので――たとえば去年は二人だったが、随分頑張ってくれたようだ。
 息を吸う。チャイム。吐いて止める。ドアを開け保護者に一礼。
 教壇に上るとき、夏のマウンドを思い出した。今の捕手は三十二人。本気で投げれば、どんな球でも捕ってくれるはずだ。
 侑志は一番前の生徒に一冊のアルバムを渡し、左手でチョークを持った。
「今日の学活は『いじめ』についてみんなで考えていきたいと思います。そのためにまず、僕が中学校の教師を目指した理由をお話しさせてください。今、回覧してもらっているアルバムには、先生の生まれたときから中学までの写真が入っています。後ろまで行ったら保護者の方にも渡してください」
 黒板に書きつける『いじめ』の文字。そして『なぜ他人をいじめるのか』。
 振り向いて生徒たちに問う。
「写真を見て、何か気付いたことがある人はいますか」
「お母さんがキレイ」
「ありがとう。恥ずかしいな」
 侑志が鼻をこすると教室に笑いが起こった。
 発言したのは、先日侑志をやり込めようとした男子だ。彼なりに思うところがあったようで、義理堅いことに空気を温めてくれた。すかさずおしゃべり好きの女子も声を上げる。
「赤ちゃんのときから茶色い」
「そう。ざっくり説明すると、髪が黒く見えるのはユーメラニンという色素が光を吸収するからなんです。僕もさっき話題に出た母も、生まれつきそのメラニンが少ない。だから一部の光は透過してしまって、人の目には茶髪に見えます。僕はスポーツをやっていたせいもあるかも。塩素とか紫外線とか、どうもユーメラニンを壊すらしい」
 侑志は苦笑まじりに答えた。幼い頃やっていた水泳も、中高の部活でやっていた野球も、身体にはよかったのだろうが髪には悪かったわけだ。
 アルバムは教室の半分ぐらいまで回って、一人の女子が手を挙げる。
「ブレザーのときだけ黒いです」
「そうだね。中学生になって、髪が茶色いことを理由に『いじめ』を受けるようになったから。相手は先生でした」
 何気なく言ったつもりが、教室――特に保護者周りの空気が凍り付いた。
 それでいい。そのつもりだ。侑志はいつもより目線を高くして話し始めた。
「母も髪のことで心ない言葉を受けて育ちましたから、僕の入学に際して事前に先生方に説明をしておいてくれました。ですが実際、生活指導の先生は僕の髪色を許してはくれませんでした」
 不幸自慢にならないためにはどうしたらいい。
 我が事として、我が子のこととして聞いてもらうにはどうしたらいい。
 どんなに考えても正解は出なくて、愚直に真剣に言葉を紡ぐ。
「今なら、許可はもらったんだから放っておけと思えるかもしれません。けれど十三歳の少年としては、自分を敵視する大人というのはたった一人であっても恐ろしかった。何も言わない他の先生も、道行く大人たちも本当は茶髪をよくないと思っているんじゃないかと、想像するだけで制服を着て外を歩くのがこわくなった。それまで楽しかった学校が、どこよりも行きたくない場所になった」
 アルバムは保護者の手まで回った。侑志は意識して声のトーンを落とす。
「自転車で二駅離れた薬局まで行って、染髪料を買って自分で黒くしました。やっと何も言われなくなったけれど、それで僕の心に残ったのは、傷ついた母の顔だけでした」
 スーツの胸ポケットを叩いて、生徒手帳を出してと生徒に頼んだ。侑志も校則部分を開く。
「生徒会細則第四章・身だしなみの項目の第三条。『染髪は禁止とする』と書いてあるよね。うちの中学校もそうでした。僕もその方針には賛成です。貴重なお金や時間を浪費して、まだ成長途中の身体に有害な物質を取り込む必要なんかない。破っていた先生が言うんだから確かです。みんなが勉強したり趣味を楽しんだりしている時間に、遠くまで自転車を漕いで少ないお小遣いを払って、においで吐きそうになりながら長時間薬剤の定着を待って、何で俺だけこんな風に過ごさなきゃいけないんだろうってみじめに丸まって。あんな気持ちわざわざ経験しなくていい」
 侑志は話しながら後ろまで歩いていき、生徒の母親からアルバムを受け取った。目礼して黒板の方へ引き返していく。
「僕が不登校にならずに済んだのは、二・三年のとき担任だった先生に理解があったからです。頭髪規定の緩い高葉ヶ丘高校をすすめてくれた。あの高校に通わなければ、この髪も利き手も何も変じゃないって言ってくれる人たちに出逢わなければ、僕は学校とか、極端に言うと人生とか、もう全部投げ出してしまっていたかもしれない」
 アルバムを握る左手は情けなく震えていた。自分の幼さをさらけ出してなお何かに怯えている。最早それが何であるのかも解らないのに。
 でも、そうだ。俺は。今はもう。
 侑志は再び教壇に上がり、教卓の前で真っ直ぐ立った。
「この髪の色を捨てずにいることは、僕の教師としての誇りです。見てのとおり大人になっても変わらず文句は言われるけれど、だからこそ今このとき悩みを抱えているみなさんに、折れた姿を見せるわけにはいかないんです。生まれ持ったものを曲げなくていい道を探そう、そう歩む人を笑ったり蔑んだりしない大人を目指そうって、少しでもみなさんに伝えるために僕はここに立っています。多数決の『常識』を振りかざすことを、『正しさ』と勘違いして生きてほしくはないから」
 我ながら綺麗事を言っていると思う。全員が納得してくれる言い分でもないと自覚している。けれど彼らの、彼女たちの視線が、侑志がこの水槽で息をすることを認めてくれる。新田侑志が教員であることを。
 左手を動かす。『なぜいじめはなくならないのか』を二重線で消し、『他の人と自分に違いを感じるとき』『誰かと違うのは悪いことなのか』と書き直す。
「前置きが長くなってごめん。この二点を今から十五分間、班で話し合ってもらいます。まとまった結論が出なくてもいいから、できるだけ本音の意見を出すようにして。それが終わったら六班、各三分ずつみんなの前で発表してください」
 はじめ、と手を打つ。生徒は机を動かし議論を始める。退室していく保護者はいない。どころか人が増えていた。副校長の姿まである。
 生徒たちが真面目に取り組んでいるのに、担任が緊張で棒立ちになっているわけにはいかない。侑志は黒板に向かって無心に例を書き込んだ。大学時代に鍛えた、左手でも美しく見える板書テクニックをフルに使う。
 過去の水槽の濁りは取れない。これからも充分な酸素が得られる日は来ないかもしれない。それでも侑志はこの場所で息をする。いつか飛び出していく魚たちが、少しでも健やかに泳いでいけるように。
 今日は曇り空も割れて晴れ間が覗きそうだ。
 教室の中も、青く美しい色に染まるだろう。