赤を囲う - 3/5

桜色ポラリス

「今日も寒いねー、おばあちゃん。んでマルボロのアイスブラストとケントお願いします」
 煙草ならスーパーにもコンビニにも自動販売機にもあるけれど、皓汰(こうた)はいつも近所の煙草屋で買う。中華飯店の真裏にある小さな店。中に客が踏み入るスペースもない。
 老婆はすぐに二つの箱をカウンターに置いた。さっき横断歩道の向こうから手を振ったから、あらかじめ用意してくれていたらしい。
「コウちゃんは自分と櫻井(さくらい)先生のばっかりだねえ。お父さんのはいいの?」
「俺が買ってっちゃったら親父また出不精するじゃない。たまにはおばあちゃんに顔見せに来ればいいんだよ」
 皓汰は笑って、四つ折りにされた野口英世をダウンジャケットのポケットから出す。トレーには入れ替わりに釣り銭が並ぶ。面倒がって札で払うことまで読まれていたとは恐れ入る。
 老婆は苦み走った口調で言った。
「コウちゃんも、若いうちからそんなに吸ってるとロクなことにならないよ。うちの亭主もだいぶ苦しんだからね」
 心配されるような頻度だろうかと皓汰は首をひねる。外出の口実にわざとカートン買いはしないから、店に来るのは恐らく二・三日に一度ぐらい。大した量ではない、はずだ。
 そして皓汰は現在二十四歳。ヘビースモーカーだった祖父の享年まであと十九年だ。なーんだ今年の新生児が高校出るまであるじゃん、と思ってしまう。前の店主の享年までならあと五十年ぐらい。その歳になればもう何が理由で死んでもおかしくない。
 オイスターソースの匂いを嗅ぎながら、老婆と軽く世間話をする。高校同期の井沢(いざわ)徹平(てっぺい)が自転車で通りがかる。
桜原(おうはら)、おつかれー。歩きタバコしないで帰れよー」
「はーい。おまわりさんもおつかれー」
 青い制服の背中は、我が友人ながら頼もしい。やはり公務員は安定感がある。
「じゃあ俺も帰るね。おばあちゃん」
 ダウンのポケットに、マルボロとケントとお釣りを突っ込んで歩き出す。身を切るような寒さに身を縮め、俺にはなんもないなとあらためて思った。
 文筆家だった祖父に憧れて作家を志した。小説を書き、何度か応募したうちの一作が運よく評価され文芸誌に載った。それだけだ。単行本化に向けた修正は粛々と進めているが、二作目のアイディアが何もない。書きたいことも書くべきことも何も。日々の中に楽しい悲しいもないではないが、ペンを執る衝動に繋がるほどは心が動かない。
 祖父の論によると、二本目を落とした作家はデビュー前の作家より本が出版されにくくなるそうだ。生業とする以上、納期に間に合わないなら干されるのも当然ではある。
 ただのフリーターに戻るのと、二本目書くのとどっちが楽だろ。
 消極的な葛藤に脳を浸して家に戻る。この時間、父と姉はまだ職場。母は十年ほど前に出て行ったきりで家には皓汰だけだ。皓汰だけのはずだった。
 その青年は桜の樹の下に立っていた。ふわふわした髪は冬の陽に透け、上背の割にがっしりした身体はライムグリーンのベンチコートに包まれている。左手を伸ばし、この季節は何も持たない枝を、花でも待つようにうっとりと見上げていた。
 塀の内側、玄関脇。がっつり桜原家の私有地で。
「あの」
 皓汰の情けない声は北風越しでも届いたらしく、青年がこちらを向いた。皓汰の警戒を嗅ぎ取ったのか、鼈甲眼鏡の奥の瞳がやわらかく細まる。青みがかったレンズ越しに、不思議な色の光が弾ける。
「やっと帰ってきた。はじめまして、櫻井センセー」
 は? と呟き皓汰は硬直した。この界隈で『櫻井先生』といえば、祖父の筆名『櫻井(はじめ)』のことだ。皓汰のペンネームは同じ家に住む肉親さえ知らない。
 というか、その顔、どこかで見たような。
「祖父に何かご用でしょうか」
 恐る恐る問うと、青年はいたずらっぽく眼鏡を下にずらした。
「ううん。おれ『双頭の狗』を書いた人に会いたくて来たの。櫻井(あきら)センセー」
 どういうことなのだ。ペンネームが割れている。さらに自宅が割られている。
 印象的な猫目は知っている気がするのに、焦るほど記憶はこんがらがる。
「元球児に知られてねーとかショックー。もっと頑張んなきゃなぁ」
 子供のような笑い声を上げ、青年が眼鏡を取る。記憶の糸がぴんと繋がる。
 皓汰がその名を叫ぶよりも早く、青年は作為的なまでに明るく笑った。
「野球選手やらしてもらってます、三住(みすみ)椎弥(しいや)です。寒いんで中で話してもいい? 桜原皓汰クン」
 ――こちらの本名まで。
 皓汰は桜の樹の横を駆け抜けて鍵を開け、引き戸の玄関をくぐった。
「散らかっておりますが」
 社交辞令を投げつけて、早く入れと目で言う。心から気が進まないが仕方ない。自宅前で立ち話などしていたら、じきサイン会が始まってしまう。
 三住は強豪私立でエースナンバーを勝ち取った投手だ。皓汰は軟式で活動していたため対戦する機会はなかったが、当時から噂ぐらいは聞いていた。現在は皓汰の父のひいき球団で活躍しており、父は三住が先発の試合をわざわざ録画する。他球団のファンである姉も『三住に負けるならしょうがない』と腕組みでうなっている。
 片付けもしていない家に上げたと知られたら、皓汰は身内に殺されるかもしれない。
「いいの? んじゃおじゃましまーす」
 こちらの気も知らず、三住は上機嫌で桜原家の敷居をまたいだ。無遠慮に家の中を見回す三住を後ろに、皓汰は頭をかいて客間に向かう。
「お茶とか要ります?」
「いい、いい。でも構って」
 そこはお構いなくだろ。ぼやくのは内心だけにしておいた。
「てゆーかタメ語でよくない? 同い年じゃん」
 三住が馴れ馴れしくしなだれかかってくる。皓汰は眉を寄せ、怪我をさせない程度に振り払った。
 お言葉に甘えてタメ語にしよう。こんなやつにいつまでも敬語を使っていたくない。
「何の用か知らないけどさっさと済ませて。俺仕事したいから」
 もちろん嘘だ。できるならとっくにやっている。
 三住は遠慮するどころかぱっと顔を輝かせた。
「家で書いてんだ。おれ櫻井センセーの仕事場見たい!」
 そうだった。彼は桜原皓汰ではなく『櫻井皓』に会いに来たのだ。
 皓汰の逃げ道を塞ぐように三住は距離を詰め、期待に満ちたまなざしを送ってくる。顔を背けようとしたのに、皓汰はつい動きを止めてしまう。
 気になったのは三住の虹彩。かなり黄味の強い色だった。光の加減か、右側は緑がかっているようにも見える。レンズの縁はなく、どうやら生来のものらしい。
 皓汰の網膜に独特の色が焼き付く。脳に小さな焦げ穴が開く。
「見て面白いとこじゃないけど。それでもいいなら」
 きびすを返して歩き出せば、やったーと声を上げて三住がついてきた。野良猫を餌付けしている気分だ。それも並外れて厚かましいやつを。
 皓汰が仕事場にしているのは二階の和室。左右の壁を埋める本棚には、焼けた本ばかり差してある。何となく、ここには昭和以前に発行されたものしか置いていない。入りきらず床に積まれたものも多かった。
「すっげー。イメージぴったり」
 はしゃぐ三住を無視して皓汰はダウンを脱ぎ、ガスファンヒーターの電源を入れる。そのまま窓際の文机へ。開けっ放しのノートパソコンを向いて、かたちだけでも働いていそうに見えるファイルはあるだろうかと悩む。どれも微妙だ。
「うわ、その吸い殻の量。さては進んでないな」
 一瞬でばれたので選ぶ必要もなくなった。皓汰は小さく悪態をついてパソコンを閉じる。三住はコートを着たままあぐらをかき、満面の笑みで左右に揺れていた。
「タバコ吸う? どーぞどーぞ。センセーの部屋だもんな」
「アスリートに副流煙浴びせるほど無神経じゃない」
 と強がったものの落ち着かず、皓汰は買いたてのアイスブラストを一本くわえた。メンソールカプセルを潰しておけば、火がついていなくても少しは味がする。煙草を歯で挟んだまま問う。
「ていうか、俺の小説なんてどこで読んだの。まだマトモな本にもなってないでしょ」
「処女作にはその人の全部が詰まってるってよく言うだろ。おれ、リアルタイムでそーゆーの見るの好きなんだ。だから文芸誌ばっか買ってる」
 三住は天井を仰いで歌うように答えた。
 随分とマニアックな読書をする。そもそも活字が好きなタイプには見えないのに。
 皓汰の無言の感想を察したか、三住が視線を戻してくる。
「おれのしゃべり方ってけっこーアレでしょ。社会人としてはヤバいじゃん? お医者さんがゆーには、耳がちょっとバカだから発音の正解を脳がわかってねーんだって。今はだいぶ直されたけどさ。昔から親に、せめて書き言葉の教養(キョーヨー)をつけなさいって言われてて。そのおかげかな、本はよく読む」
 飽いた口調だった。愛想笑いを付け足す余裕があるほどには繰り返した説明なのだろう。その両目で難聴なら虹彩異色症(ヘテロクロミア)かなと思ったが、初対面で訊く必要もない。
 皓汰はフィルター越しに空気を吸った。
「そろそろあったかいよ。もう肩大丈夫じゃないの」
「さっきから気ィ遣ってくれてんだ。センセーやさしーな」
 三住はけらけら笑ってベンチコートから腕を抜いた。
「おれのことよりセンセーの話しようぜ。『双頭の狗』すっごいよかった。でもあの回の選考委員、とんちんかんな選評書いてたよな。なにが『現代社会の闇を的確に描いた~』だよ、クソ笑える」
 嘲笑された選考委員長は、教科書にも短編が載ったベテラン作家だ。皓汰自身はそこそこ的確な――もしくは身に余る評価をいただけたと感じていたので、三住の評価の方こそ意外だった。左手の人差し指と中指で煙草を挟んで口から離す。
「三住君ならどんな書評をつけてくれるわけ?」
「ンな大層なことできないけど。連中よりはマシなこと言いたいよな、せっかくご本人に会えたんだし」
 三住の左手が、雑然と積まれた本の山に伸びる。角がめくれ上がった文芸誌。三住は開き癖のついた頁を一発で開いた。
「『「こころ」を彷彿とさせるホモソーシャルな空気』とかはまぁわかるけど、近親愛について誰も言及してなかったのがおれは不満っていうか、不本意?」
 独特の猫目も伏せられてしまうと愛嬌が消える。赤の他人を相手にしている実感が戻ってくる。
 皓汰はフィルターをぐっと噛んだ。既に潰れたカプセルから、メンソールがまた強く香った気がした。
 処女作となった『双頭の狗』。男二人と女一人、三人の大学生が、警備システムのトラブルによりサークルの部室に閉じ込められたところから――皓汰自身全面的に認める陳腐な地点から――話が始まる。登場人物は、マッチョイズムを信奉する(かがみ)、神経質な皮肉屋の諸谷(もろたに)、偽善的な美女である砂希(さき)の三人。それぞれに警察の介入を躊躇する理由があり、朝が来て誰かがドアを開けてくれるまで待つことを決める。そして各人がSNSに現状を投稿し始めたのをきっかけに、密室の一夜は狂気の色を帯びていく。
「あの三人は生物学上も戸籍上も真っ赤な他人だよ。安い韓ドラじゃあるまいし」
 皓汰はガラスの灰皿に煙草を投げ入れた。くすんだ燃えかすの上に、真っ白で欠けのない一本はいかにも不似合いだ。
 三住は本を閉じて山の一番上に戻す。学生のような童顔は、横から見ると最初の印象より成熟していた。
「でも砂希は鑑の娘で、同時に諸谷の母さんだ。少なくとも櫻井センセーはそう思って書いてる」
「根拠は?」
「この子の甘え方全部、女が身内に出すいやらしさだから。徹底的っていうか、執拗にそう書いてる。舞台が大学に移されてるせいで、異常なことみたいに錯覚させられてるだけ。この話は家のリビングで起こってる日常を誇張してるだけだ。本当に誰も指摘しなかったのかよ」
 三住の口調に得意げな色はなかった。むしろ陰鬱に沈んでいた。
 ヒーターの風が顔に当たる。冬の室内がおもむろな熱に乾いていく。
 皓汰は煙草をもう一度口唇に挟んだ。今度は百円ライターを右手で弄びながら。
「三住君は、『双頭の狗』って何のことだと思った?」
 出し抜けな質問にも三住は躊躇せず答えた。皓汰の作品を褒めてくれたどんな人間よりも真摯に、こき下ろしたどんな人間よりも冷酷に持論を曝す。
「三人の隠喩。両性具有(アンドロギュノス)とイヌの合成生物(キメラ)
 なるほど、と感情のこもらないうなり声を上げ、皓汰はまたカプセルを噛み潰した。爽やかな香りも今は鼻につくだけだ。
 タイトルについては何度も訊かれた。一方的に断定されもした。さまざまな解釈を聞き『そうも読めるか』と逆に感心もした。だが、皓汰の込めた本質をここまで鋭くかすめていったフレーズは他にない。
「そこまで読み込んでくれてありがとう、名探偵。お礼に俺も作家らしいところ見せないとね」
 皓汰は机の引き出しを開け、花のエンボスが光る封筒を取り出した。三住もこれに見覚えがあるはずだ。
「俺の隠した意味を嗅ぎ当てたのも、肉声での会話しかできない状態で真意を訊きたがったのも、訪ねてくるタイミングが今だったのも、理由は全部これ。違う?」
 掲げた白い封筒を振る。
 結婚式の招待状。新郎の名は井沢徹平、新婦は――三住茗香。三住椎弥の双子の妹だったはずだ。
「全部じゃねーけど」
 三住は一転脆く笑った。左手を差し出すので、何かと思えば煙草をくれと言う。
「いいの? アスリートなのに」
「センセーが思ってるほどストイックじゃねーよ。スポーツマンって」
 三住の指が皓汰の口唇から細い筒を抜き取っていく。並びの整った歯が頼りない枝を保持して、青年は皓汰にかしずくように頭を低くする。その実、奉仕を無言でねだる瞳の動きは、彼の言う『女が身内に出すいやらしさ』そのものだった。
 黄色い目をした青年の口許に、液化ガスが安い火を点す。
「ありがと。センセー、火あげるときの仕種えっちだね。恋人にやってあげたことあるでしょ」
 三住が蠱惑的に身を離す。皓汰は答えないことにした。どのみち肯定するなら無駄なエネルギーは使わない方がいい。
 そのまま二人で紫煙をくゆらせた。一箱数百円のどこにでもあるものが、ひどく不健全で寛容な空間を作り上げていく。
 三住はほとんど煙を口に入れていなかった。持て余すようにゆっくりと、左手を口許へ運んでいる。
「二人の式なら喜んで出るけど。めーかがバージンロードおれと歩きたいって言うから、それだけ困ってる」
「なんで」
「なんでって。世界で一番綺麗なめーかの隣なんか歩けないだろ。おれは世界一その資格がない男なんだから。もうわかってんでしょ?」
「わからないよ」
 皓汰は肺まで吸い込む癖がついてしまった。誰のせいだとか誰のためだとか考えるのも億劫だ。なるはずの人間になってしまっただけのこと。
 真上に吐き出したもやの降り注ぐ先は自分だけでいい。
「三人の中で、俺がまともに知ってるのは井沢だけだから。三住にどう答えるのが優しさなのか、俺にはわからない」
「優しくしようとしてくれてんだ」
 三住がおもちゃの人形みたいな笑い声を漏らす。皓汰は頷いて口角を上げる。
「俺はどうしたって正しい側の人間にはなれないしね。その点、優しさだったらクズでも持てる」
「センセーは別にクズじゃないよ。実の妹に欲情しちゃう変態と比べたら」
 三住は弱々しい笑みを浮かべて、一際大きく煙を吐いた。
 皓汰は座ったままぐっと身を乗り出す。見開かれた三住の目は人を知らない獣のようで、綺麗だなと素直に思う。
「俺はさ。同性愛や近親愛って、合理的だと思うんだよね」
「何言ってんだよ。合理性を欠くってのが定説じゃんか。自然の摂理に背くって」
「そもそも『自然の摂理』ってなんだろうね。生存のために同性とつがいになる個体なんて野生下でもいる。無生殖の交尾も平気でしてる。近親相姦だって、他の異性が見つからなければするでしょう。同性愛嫌悪(ホモフォビア)近親相姦禁忌(インセスト・タブー)もしょせん文化だよ」
 皓汰は三住の手から煙草をひったくる。自分のと一緒に灰皿で揉み消して、昨日から放置していた飲みかけのコーヒーを垂らした。
「『食べ物の好みがそれぞれなのは絶滅を防ぐため』っていう説、俺は好き。全員が同じものしか食べないと、何らかの理由でそれが行き渡らなくなったときコロッと滅んじゃうってやつ。蓼食う虫理論っていうの? そうやって多数派に迎合しない個体が複数存在することで、種や共同体は維持されていくんじゃないの」
「センセーの慰め方すっげー遠回りだな」
 ありがと、と指先で眉間をかく三住。皓汰は無視して立ち上がった。ここで取り合ったらクズの面目が立たない。
「三住。オフシーズンの投手って全然ボール触らないの」
「シーズン中に比べたら全然かも。でも触らないってことはないな」
「じゃあちょっと手伝ってくんない?」
 皓汰は人差し指の関節で窓枠を叩く。くすんだガラスの向こうには、防球ネットの張られた狭い庭があった。
「付き合ってよ。気分転換」

 

 寒空の下でストレッチ。皓汰はこれでも身体がやわらかい自信があったのだけれど、さすが現役の投手は可動域が違う。
「センセーって好きな球団どこ?」
「ない。プロ野球まともに観たことない。そもそも野球に興味ない」
「野球部だったんだろ?」
「この家、野球できないと人権ないから。設備で察して」
 ウォーミングアップを終えて、小さな物置を開ける。
 まず取り出したのは軟式A号ボール。皓汰が唯一触った野球ボールだ。もう廃版になってしまって、今はディンプルなしのボールが使われているらしい。
 グラブは右用と左用をひとつずつ。父が未練がましく手入れしているおかげで状態は良好。
「センセー右利きじゃん、なんで左利き用のグラブあんの?」
「外でセンセーって言うのやめて。うちは三人中二人左利きだから、右利きの方がマイノリティなの」
「いいなぁその家。引っ越したい」
 三住は中学以来の軟球にも借り物のグラブにも文句を言わなかった。息を白くして、素人とキャッチボールをしてくれている。皓汰に語りかける口調は穏やかだ。
「実はおれもさ、そんなに野球好きじゃねーの」
「プロにまでなったくせに」
「向いてただけ。努力できないほど嫌いじゃなかったし、せっかくだから行けるとこまで行ってみようかなって。ピアノは絶望的にできなかったしさ」
 三住が猫の目をふわりと細める。見慣れない色の虹彩は美しい光を散らしている。まるで琥珀をはめ込んだようだ。
「センセーは? 小説書くの好きなの」
 無邪気に問われ我に返る。皓汰は返球の勢いで短く息を吐く。
「三住と同じ。嫌いじゃないからやってみてる。ま、一緒にしたら悪いか」
 就職活動の『優れた自分』を売り込む空気に馴染めなくて、単位だけ取って大学を出た。アルバイトを転々としながら奨学金をちまちまと返す日々。自身は気楽でいいいけれど、父はそうではなかったろう。息子の職を誰かに訊かれるたび返事に窮して、そのくせ当人を批難するわけでもない。たまらなくなって行く先を考えた。祖父と同じ物書きならやれはしないかと思い上がってみても、結局は祖父にとって未踏の分野だったフィクションへと逃げてしまった。
「俺はじいちゃんと比べられるのが怖いし、事実に責任を負うだけの意気地もない。原型ないぐらいバラして、嘘を山ほど混ぜないと外に出せないんだ。三住は身体ひとつでマウンドに立ってるんだから、すごいよ」
「そんな野ざらしじゃないぜー。おれ人前じゃいつもカラコンだもん」
 三住がけらけら笑う。皓汰は付き合い程度に微笑み返す。
「もったいないよね。綺麗なのに」
 白球が三住の右手で止まった。左の拳をこめかみに当てて、皓汰にかける言葉を慎重に選んでくれている。
「あのさ。おれ初めて小説読んだとき、櫻井センセーのこと女の人だと思ったんだ。そんで今も、男に向かって平気でキレーとか言うじゃん?」
「うん。気を悪くしたりしないから直截に言って」
「だからさ。……女の子になりたい人なのかなって」
「どうだろ。男でいるのが嫌だとか、違和感あるとか思ったことは特にないな」
 虚勢を張って底の底にある本音までは言わなかった。
 自分一人が男であることに疑問はないが、長男として生きていくのは息苦しい。子を授かって家を継いでいくビジョンは、抱こうと試みるたび脆く崩れる。男性的に家長をやっていく資質を自分に感じない。
 皓汰は苦笑してグラブを振った。再開の要求だ。
「漠然と『女』になりたいっていうより、俺、ピンポイントで『姉貴』になりたかったんだよね。違うか。姉貴を『俺』にしたかったのかな。十代の頃の話だけど」
 革が鳴る。三住の球はほぼ同じ場所に戻ってくる。皓汰の球はかつてほど精確に捕りやすい場所を目指せない。
「俺と違って姉貴は本当に野球が好きで、親父が監督やってた高校で一緒に全国目指したがってた。でも高野連ってああじゃん。だから俺が立ちたかった。姉貴が立ちたいと願ってた場所に」
 できるならずっとそうして生きていきたかった。けれど姉はやがて恋をして、皓汰に自分を重ねなくなった。姉というフィルターを外したら自分には何も残っていないことを、その段になって皓汰は知ってしまった。
 からっぽな気持ちで通い始めた大学で、昔の先輩に再会した。中学時代の野球部のエース。いつも姉といがみ合って、皓汰だけを執拗にしごいてきた男。大学時代はもっと過激に生活を支配され、求められるまま肉体も与えた。この人は姉が相手をしてくれないから自分を構うのだと思っていた。こうして姉の影を自分に求めてくれれば、まだそういう存在でいられると無意識に信じていた。
「そしたら、彼と姉貴は見たまま仲が悪かったんだ。中学の頃から彼はずっと俺のことが好きで、大学生になってやっと想いが届いたと思ってたんだって。ツンデレっていうか、束縛彼氏っていうかさ。そういう。俺の本心聞いたとき、見たことないくらい泣き崩れてた。そのときほど自分をクズだと思ったことはないよ」
 告白を終え皓汰の肩は軽くなった。一方三住の返球は雑になる。
「『行き過ぎた自罰感情は陶酔であり驕慢だ。他者から向けられた一切を拒み尽くす剣の牢』」
「よく覚えてんね。素人の書いた文章をさ」
 目くらましに飾りつけた言葉を、他人の声で聞かされるとこんなにばつの悪いものか。今の箇所は意味の通るように直しておこう。
 皓汰は話題ごとボールを三住に回す。
「三住は? いつから悩んでんの」
「自覚したのは中学のとき。そのときのてっぺーも、さっきセンセーが言ったみたいに、身近に他の女の子がいないせいなんじゃないかって言ってたな。男子校だったし」
 三住が目許を歪めて笑う。ひととは違う色をした、違う色を見てきた瞳が揺れる。バランスの取れない左右の彩を自分でも不安がるみたいに。
「そうじゃなかった。どんな子を見てもめーかと比べちゃうんだ。めーかならそんなことしない、こんなこと言わない、もっとキレーだしかわいいって、誰見ててもそう。男なら好きになれるかもって思ったこともあるけど、ダメだった。おれが、世間で『恋』って呼ばれてる気持ちを抱ける相手は、生まれてからずっと、双子の妹、だけ」
 それでアンドロギュノスか。道理で。
 皓汰は白球を強く握って投げ返した。上腕の筋に軽い痛みが走ったが、三住と違って二度と投げられなくても困りはしない。
「『双頭の狗』が両性具有っていう考察は見事だった。あの作品は確かに、獣たちが引き千切られた半身を渇望する話だ。ただ仮にラベルを与えるなら、自己愛に近いんだろうね。もう自らを食らうしか道がない、そういう類のやつだよ」
 首輪も野生も失った狗は、従属も本能も選べず群れる先もないのだ。
 自嘲する皓汰に、三住は同情も軽蔑も示さなかった。続くキャッチボールは距離を遠ざけも近づけもしない。
「おれも都合のいいように間違って読んでたんだ。エラそーに講釈ぶっといて。かっこわる」
 その脆い笑みは、きっとマウンドでは見せないのだろう。皓汰だって、背中の6を誰かに見せている間はどんな涙も出なかった。
 だからこれは問答であって野球ではないのだ。
 皓汰の投げた球は無色の放物線を描く。
「言ったでしょ。俺は正しい側の人間じゃないから、間違ってるかどうかなんてわからない。三住は読んで感じたものだけを持っていってくれればいい」
「櫻井センセーってやっぱり優しいよな」
「クズだからね」
「それぐらいのがいい。めーかもてっぺーも正しすぎて、近くにいるとしんどくなる」
 ぱしん、と軽快な音でボールを止め、三住は右手のグラブを高々と掲げた。
 桜色に暮れかけた空へ向けて。北へ向けて。
「おれはクズよりタチが悪いよ。すっげーワガママなんだ。近づけないくせに見ててほしくて、死ぬ気でプロになった。スターになれば、おれからは見えなくても二人にはずっと見えてると思うから。これからもなるべくしがみついて、燃え尽きるまで空にいるよ」
「三住は強いね」
 皓汰は微笑んで、二つ並んだ金の北極星を見つめた。
 俺みたいな人間は、死ぬまで光を放てないままだろう。それでもこの筆はきっと星の痛みを綴れる。決まりきった星座を疑って、間を縫って別のかたちをつくれる。そう生き続けていれば、俺の大切な人たちもいつか俺のことを思い出してくれるかもしれない。
 皓汰は左手を振って三住を促した。三住は少し大袈裟に構えて、今日一番重い球を芯に届かせた。受けきってやる力がまだ残っていてよかった。
「三住はやっぱりバージンロード歩きなよ。俺はそれ、いつか書かせてもらうから」
「櫻井センセーが書いてくれるなら、そうしよっかな」
 三住椎弥は屈託なく笑って、革に包まれていた右手を空気にさらした。何度も瞬きをして、星色の目で北の晩天を見つめていた。
 桜色が終われば空は燃える。濃藍を経て闇が訪れる。
 人の不安をかきたてる夜にこそ、星々の光は必要なのだ。