赤を囲う - 5/5

赤を囲う

 相模(さがみ)雅伸(まさのぶ)は赤色が好きだ。朝夕の陽の色を見ると、自分の身の内に流れるものの少なさを知る気がする。
 地元の神社から眺め下ろす夕刻はまさに特別だった。街の全てが茜色に染め上げられていく。否も応もなく何もかも。自分も同じ色に溶けてしまいたくなる。安っぽい囲いをこの足で越えて。
 無料のアルバイト情報誌を開き、付き合いの長いフェンスに寄りかかった。
『明るく元気に働ける方!』
『笑顔が素敵で前向きな方!』
 募集要項のフレーズはどれも雅伸に当てはまらず、『未経験者大歓迎!』を真に受けない程度には世間も知っている。
 履歴書と向き合うたびに思い悩む。すらすらと埋まるのは学歴までで、資格もなければ大した職歴もない。就職戦争から早々に弾き出された雅伸は、社会的肩書きを何も持たない。せめて女の子ならねぇと嘆いた母はどこまでも本気で、ままならない自身よりも女に生まれた妹の身を憂えた。
 このまま情報誌も履歴書も未来も放り投げていきたい。金網の向こうの暮れなずむ街を見つめて、そうもいかない現実からしばし逃避する。
「こんばんは」
 ちょうど紺色の濃くなり始めた頃、雅伸は女に声をかけられた。あまりに親しげで、知り合いかと記憶をさらったが、どう考えても知らない女だ。
 雅伸と同じ三十前後だろうか。黒い髪をシュシュで束ねて前に垂らしている。
「ここから落ちたら死ぬと思います?」
 この辺カフェでもあります? と訊くようなトーンで女は尋ねた。雅伸は意図がつかめないまま、空気に呑まれて頷く。
「わかりました。ありがとうございます」
 女は快活に笑ってパンプスでフェンスを蹴った。違う、ものすごく不格好によじのぼろうとしている。
「危ないでしょう!」
 雅伸は思わず見も知らぬ女の腕に飛びついていた。女は小首を傾げて心底不思議そうに問う。
「なんで止めるんですか?」
「な、なんで?」
 なんでだろう。突然すぎて頭が真っ白になった。
 目の前で死なれたら寝覚めが悪いから? このままやらせたら法的に何か問題になりそうだから? 命を粗末にするなとか手垢のついた倫理観?
 雅伸にご多幸を祈ってきた面接官たちの顔が次々浮かぶ。
『どのようなかたちで当社に貢献できますか?』
『この仕事を通じてどのように成長したいですか?』
 そんなこと知らない。どう答えればいい。面接のときと同じでいいのか。同じでいいならすぐでも言える。
「わかりません!」
 精一杯正直な台詞に、そうですか、と女は頑なな腕と頬を緩めた。雅伸も我に返って女の腕を放す。
「あなたに迷惑をかけるのは本意じゃないので、今日は帰りますね。ご親切にありがとうございました」
 女はにこやかに一礼して背を向けた。石段に消える後ろ姿を、雅伸は呆然と見送った。
 赤色は既に失せ、夜の色だけが辺りを満たしていた。

 

 夜歩きの癖はいつ始まったのだろう。二十五は過ぎていたと思う。反抗期にしては笑えるほど遅い。
 ある日の深夜、不意に叫び出したくなった。毎日をやり過ごす自室がひどく疎ましく感じて、そのままではまた飛び降りてしまいそうだった。外の空気を吸おうと家から出た。数時間前に飲んだ睡眠導入剤と、直前に飲んだ抗うつ剤のために意識は曖昧で、河川敷まで来ていたことに気付いたのは翌朝だった。
 ――ああ、人間って別に外でも眠れるんだな。
 朝陽に輝く川面を見ながら、当たり前の事実を噛み締めた。
 以来、胸がざわつくと外をうろついている。二、三ヶ月に一晩程度。川辺のこともあれば街中のこともある。幸か不幸か事件に巻き込まれたことはない。職務質問は何度か。一度だけ交番まで連れていかれたけれど、ひどくても説教と家族の呼び出しぐらいだ。雅伸はその時点で自殺を企図していないし、犯罪に手を染めてもいない。ただ何か起こったら真っ先に疑われる覚悟だけはしている。
 神社のそばの高架下で、時刻を確かめるために携帯電話を見た。スマートフォンが随分普及した中で、雅伸はまだ二つ折りのものを使っている。何故とはなしにメールボタンを押す。フィルターをかけた個別フォルダは『家族』『高校』だけ。ここ数ヶ月、二番目の通知がよく来る。
『無理してませんか。あんまり理奈ちゃんに心配かけたらダメですよ』
 月一で現況を尋ねてくるのは井沢徹平。二つ下の後輩。妻と二人の子供を持ち、市民の安全を守る立派な警察官。
『ずいぶん寒くなってきましたね。冬の準備は大丈夫ですか』
 週一で学級通信のようなメールを送ってくるのは新田侑志。彼も二つ下。中学校の教員として、たくさんの生徒たちの人生を預かっている。
 思い出したように連絡してくるのは二人だけではないが、他のは大体同じ用件だ。結婚した。転職した。子供が生まれた。全て雅伸には縁遠いこと。面と向かって祝う余裕も、羨み妬む気力もない。
 枯渇したものをどう社会に還元するというのだろう。今している呼吸も、親に『自分たちのためだと思って』と泣きつかれて持っているこの携帯電話も全部無意味で無価値だ。
 雅伸は歩き出すと、削除できないメールの代わりにバイト情報誌をゴミ箱に突っ込んだ。
 行く当てはない。帰りたい場所もない。属す組織も継ぎたい家もなければ、失って困るものも残っていない。
 終わらせる決心もないから、いずれ歩みも尽きることを祈って無様にうろつくのだ。

 

 雅伸が家に戻ったのは翌日の夜だった。どこに行っていたのかと遠慮がちに問う両親を無視して、自室のドアを開ける。衝立で仕切って共有していた洋間は、妹が就職を機に出て行ってから雅伸のものということになっていた。
「おかえりなさい」
 妹の理奈が床に座っている。
 戻っていたのか。雅伸は眉をひそめて、剥き出しのフローリングに目を遣った。
「そんなとこ座ってると冷えるぞ」
「暖房ついてるから平気」
 理奈は手指を揉みながら淡々と答える。雅伸は年季の入ったストーブの設定温度を一度上げ、理奈の横を通り過ぎる。
 さすがの理奈もおさげはもうやめていた。三つ編みだけは愛着があるのか、器用に後頭部にまとめてある。いかにも『デキる女』の風情で、実際就職先では忙しく立ち働いているようだ。
 理奈は消え入りそうな声で、何もない空間に向けて呟く。
「こっちも使っていいって言ってるのに」
「これで足りてるんだよ」
 雅伸は机に家の鍵を置いた。雅伸の占有空間といえばほとんどここだけだ。たった五畳半を持て余して、姿のなくなった衝立を何年も取り去れずにいる。これ以上ものを持つことは分を超えているように思えてならない。
「兄さん、また痩せた?」
 呼びかけられて振り返る。理奈が立ち上がり近づいてきていた。雅伸の手首に触れる左手、薬指に光るものがある。雅伸が逆の手で指差すと、理奈は重々しく頷いた。
「兄さんにも会ってほしい」
「それを言いに来たのか」
 雅伸は腕を揺らして理奈の手から逃れた。理奈はなおも食い下がる。
「家族になる人だから、私の家族をちゃんと紹介しておきたいの」
「お前が行くんだろう。俺とは他人になる」
「バカ言わないで。家が違っても親族は親族でしょう」
 雅伸は黙って顔を伏せた。その男は雅伸を親族とは思いたくないだろう。こちらもその気はない。
「いい人なの。高葉ヶ丘のOBで、兄さんもそうだって言ったら会ってみたいって」
 理奈は訊いてもいないのに婚約者の話を続ける。
 知り合ったのは井沢の結婚式の二次会だそうだ。理奈は彼を覚えてはいなかったが、向こうは『遠くから見てずっと気になっていた』と言ったらしい。
 見せられた名刺には、有名なロゴマークが記されている。音響機器において日本有数のシェアを誇る一部上場企業。何の偶然か理奈の勤め先の親会社だ。名前の上には小さく役職も書いてあった。
 井沢の同期であるなら、とりもなおさず雅伸より二つも年下ということになる。にもかかわらず、その男は雅伸が持ちえないものを全て揃えていた。
「父さんたちにだけ顔を見せればいい。俺は会わない」
 残りの台詞は喉を通らず胸で腐った。
 俺が会ってどうするんだ。そんな非の打ち所のないやつに、こんな兄貴をどう紹介するっていうんだ。精神病持ちで無職。破談になるには充分な地雷じゃないか。
 後ずさって机にぶつかった。その程度の小さな衝撃で理奈は心配そうな顔をする。四階から落ちたときでさえ、鉄のような無表情で兄を見ていた妹が。
 井沢にしろ、その男にしろ、理奈を変えていくのはいつも雅伸ではない。
「お前だけでまともに生きろ。俺はその人生に、関わらない」
 十年前。あのときから、最初から、ここではなく、
 ――俺は越えたいと願い続けた囲いを越えるべきだったんだ。
 雅伸は妹の制止を振り切って家を出た。今度は両手も空のまま、すがる想い出も何ひとつ持たずに。

 

 石段をのぼった先には先客がいた。昨日の女だ。
「あれ、あなたも戻ってきちゃったんですか」
 女はパンツスーツが汚れるのも構わずフェンスの前に座り込んでいた。空っぽの愛想笑い。付き合っている余裕も雅伸にはない。
「越えようと思います」
 一言告げて金網に手をかける。握力も随分落ちたけれど自分を向こう側に運ぶぐらいはできそうだ。
 女は雅伸を止めようとはしなかった。名残惜しそうに見上げただけだった。
「ひとりでいっちゃうんですか?」
 拗ねたような声。雅伸の手は本人の意に反して止まる。
 考えたんですけど、と女は人差し指を振りつつその場をうろつき始めた。
「ここから落ちるじゃないですか。そうするとぺしゃんこのトマトみたいになるじゃないですか。死ぬほど、っていうかつまり死ぬほど? 痛いし人生で一番人様にお見せできない姿になるわけじゃないですか」
 この女はおかしい。話を聞くべきではない。そう思っているのに、はぁ、そうですね、と雅伸はつい相槌を打ってしまった。女は足を止めて勢いづく。
「でしょ? そんな全身潰れてぐちゃぐちゃになるより最悪なことって、多分世の中にあんまりないと思うんですよ」
「もしかして止めようとしてます?」
「いえ、止めていただいておいて恐縮なのですがその気は全くありません。あ、全くは言いすぎました。現時点では止めようとしてます、本気で」
 一体何なのだ。登るにも下りるにもはずみがつかない。
 女は首をいっぱいにのばして雅伸を見上げていた。
「つまりですね。終わりを一時間二時間延ばしたって、一生を基準に考えたら誤差でしょう? だったらその誤差の範囲に、正気なら絶対やらないような、自分でもびっくりするようなことしてみないともったいなくないですか? だって自分を殺そうとしてるんですよ。その時点でもう充分狂ってるじゃないですか。ついでに他にもおかしいことしたって全然いいと思うんです!」
 女の目は将来の夢を語る子供のように輝いていた。そうして口走っているのは滅びへ向かう刹那の熱だった。その黒々とした瞳に映り込んでいるのは相模雅伸だった。
「わたし、昨日家に帰った後、どうせならあなたに飛び降りればよかったなって考えてました。どうせなら一緒に痛がってみたかったって」
 女が微笑みながら雅伸に両手を伸ばす。晴れやかに、切実に。
「あなたもわたしに飛び降りてみませんか?」
 どこまでも正気ではない。心底そう感じてなお、雅伸は静かに指を伸ばし彼女の手に触れた。十一月の空気に似合わず汗に湿っていた。
 どうせ全てが終わるなら。見苦しくバラバラに千切れるなら。
 これ以上気が狂れてみたって、もうただの誤差だ。

 

 初めてラブホテルというものに入った。初めて女というものを抱いた。じき壊すつもりの器を満たそうとするのは、壊したくない想い出と心中しようとしたいつかの矛盾に似ていた。
「でね。なんか話おかしいなと思って、問い詰めたらそのひと結婚詐欺師だったんですよ」
「はぁ、まぁ、お気の毒に」
 そして雅伸はうつ伏せで両肘をついて、懸命に睡魔と戦っていた。どうにか勃つものは勃ったし出るものも出たが、性欲という概念が滅びかけていたので賢者モードの威力を想定できていなかった。抜ければ眠剤は要らないんじゃないかとすら思う。死のうというのに入眠の手段を考えるのも馬鹿のようだが。
 女はバスローブを羽織って、広すぎるベッドの縁に腰掛けている。他人事じみた淡々とした口調だった。雅伸に聞かせているつもりもないのかもしれない。
「でも早くに気付いたので、被害って言うほどのお金も持ってかれてないんですけど」
「じゃあ、そんなに思い詰めなくてもよかったんじゃ」
「そういうことじゃないんですよね」
 女の声が不意に鋭くなって、どきりとする。
 雅伸が口にしてしまったのは、いつか他人に言われた言葉だった。彼女はそのとき雅伸が思い浮かべたのと同じ言葉で否定した。
 無神経な思い違いをはっきりと拒んだのだ。声にできなかった雅伸とは反対に。
「わたしが悔しかったのは、騙されたこと自体じゃなかったはずなんです。上手く言えないけど、やっぱり普通じゃなかったことに絶望したんだと思います。彼を心から愛していたというよりも。どうしても彼と結婚したかったというよりも。なれもしない『普通』に擬態しようとした自分の愚かさが、許せなかったんですよ。きっと、わたしは」
 強いまなざしをたたえた横顔を見上げる。おぼろげだった女の輪郭が急に鮮明になる。何にかも知れない安堵感が胸に兆す。
「わかるかも、しれません」
 雅伸は身を起こして、彼女のほつれた髪を手櫛でとかした。女の首がかすかに揺れる。
「あなたは優しいんですね」
「俺は、別になにも」
「でも『わかる』って言い切るの避けてるでしょう。昨日も、今も」
 雅伸は黙って俯いた。
 眠気はだいぶ治まっている。こちらも、誰にも話さなかった本当のことを打ち明けてしまおうか。今更理解されなかったところで、元々赤の他人だ。
 雅伸は素肌に着衣をまとい、ジャケットの内ポケットに入れっぱなしだった身分証を差し出した。
「反復性うつ病障害というそうです。言ってしまえば、手帳持ちの障害者です」
 女は精神障害者手帳をまじまじと眺め、雅伸の予想と全く別のことを口にした。
紺野(未紅)です」
「は?」
「名前、書いてあるから。一方的に知ってしまうのは不公平じゃないですか」
「そうですか」
 道義のよくわからない女だ。雅伸はベッドの上で、ジーンズを穿いた脚をあぐらに組んだ。
「初めて受診したのは高校のときです。どこで間違えたんだか長くたたりまして、ついに就労困難のお墨付きまでもらってしまいました。二十九にもなってバイト経験もまともにないんです。役所に障害年金の相談もしましたが、等級が半端で門前払いだし、親と同居中で生活保護も受けられない。女に産んでやればよかったなんて言われる始末です。加えて妹が結婚すると言い出して、本格的に生きていることに申し訳が立たなくなりました」
「二十九。あ、本当だ。昭和五十九年。わたし二つ上ですよ」
 女――未紅の声はのんきで、雅伸はだんだん場違いなことを言っている気になってきた。未紅は開いていた手帳をたたみ、写りの悪い証明写真を観察している。
「髪短かったんですね?」
「すみません。今は汚らしくて」
 雅伸はのびてしまった髪を片手で握り潰した。手帳の更新かバイトの面接の前には髪もひげも整えるけれど、もう半年以上どちらの機会もない。
「違います。わたし、そんなこと言おうとしていませんよ」
 未紅は手帳を雅伸の膝に置いて、真っ白な右腕を伸ばしてきた。指の甲が雅伸のこめかみをなぞって、煩わしい髪を持ち上げる。
「せっかく綺麗なかたちの耳なのに、隠れててもったいないなぁって思ったんです。違う方向に先回りして謝られたら、わたし困ってしまいます」
 こんな歳で、こんな場所で、こんな格好なのに、未紅の笑み方は童女のようだった。純粋で表層的な、概念としての『無垢』。いっそ空だから気味が悪いとは感じない。
「女なら働けなくても大丈夫なのにって、ご両親はおっしゃったんですか?」
「ええ」
 正確には母が、だが。雅伸は離れていく指を内心で惜しんで目で追った。
「わたしは女ですけど、働かないと生きていけないですよ」
 穏やかな声で言いながら、未紅は両手をバスローブ越しの下腹部に置く。爪先にかかった紅色のグラデーションがやけに艶やかに見えた。
「卵巣ないんです。処女のうちに病気で取っちゃって。片方残すって話だったんですけど、結局両方。家庭を作れる女じゃないってフラれたことありますし、孫を産めないなら社会に貢献しろって親にも言われますし。その割にわたしは社会から還元してもらっている気があまりしないので、やんなっちゃいますね」
 衝撃で眼前が白く瞬いた。雅伸は自分の発言がどれだけ軽率であったか思い至って、彼女を余計に傷つける前に何故死んでおかなかったのかと後悔した。
 未紅は苦笑して、バスローブからこぼれた両脚をシーツの上に引き上げる。ラメのかかった十片の薄紅が、雅伸の両の耳に触れる。
「そんな顔しないで。つけなくていいって言ったのに、あなたはちゃんと避妊しようとしてくれたでしょう? これから死ぬって言っている女に。おかしいけど、それがね、わたし、とても嬉しかったんです」
 瞳を見つめ返せずに、雅伸は露を弾いた彼女のまつ毛を見ていた。
 やっぱり普通じゃなかった。
 普通に擬態しようとした自分の愚かさが許せなかった。
 決然と紡がれた台詞は、雅伸の『理由』でもあった。彼女の選ぶ単語は雅伸の見つけたかった『意味』だった。
 結婚自体を欲したのではない。就職自体を欲したのではない。
 自分は『普通』でいられると、少なくともそのふりができるのだと、すがりたかった自己像が目の前で砕けたから。叶わない夢を見たみじめさに絶望したから。
 ――もう終わらせたかった。
 自分以上に細い手を、指を、雅伸はつかむ。
「紺野さん」
 今日聞いたばかりの名を、呼んでみる。
「どうせなら一緒に痛がってみたかったって、今でも思ってくれてますか」
 未紅は目を丸くした。呆れるような童顔だ。二つ上だと言ったけれど、二つ下だと言われてもきっと雅伸は信じた。
 繋がった指に力を込める。一度寝たぐらいで童貞が調子に乗っていると思うかもしれないけれど。
「誤差、もう少し延ばしてもらっても、いいですか」
 あなたの話、もう少し聞いていたいです。
 言い切らないうちに口唇を塞がれた。
 二度目は最初の交尾より、ずっと人らしい目合(まぐわ)いだった。

 

「散らかってますけどー」
 あっけらかんと笑う未紅の部屋は、謙遜では済まない散らかりようだった。いわゆる汚部屋。自分も理奈も几帳面だから、こんな部屋で暮らしている女が実在するということ自体、雅伸にとっては衝撃だ。
 あの後、休憩時間が終わる前に二人はホテルを後にした。出るなり未紅の腹の虫が盛大に鳴くものだから互いに馬鹿らしくなって、帰りたくないならうちにという言葉に甘えて未紅のマンションまで来た……のだが。
「座るとこ適当に作ってくれます? わたしいつもあそこの隙間で生活してるので」
 未紅が指差したものが椅子だとすると、背もたれも両の肘置きもゴミ袋だ。自殺志願者は身辺の整理をするもの、というのも雅伸の勝手な先入観だったらしい。
「どうかしました? 雅伸くん」
「いえ。俺はあまり食欲がないので、紺野さんは先に食べててください」
 この衛生状態でコンビニ弁当を平気で開けられる神経が分からない。幸いというか、空の収集袋は目立つところにあった。一枚失敬して明らかに不要なものを中に入れていく。すぐにもう一枚もらわねばいけなくなった。
「すみません。呼んでおいて掃除してもらっちゃって」
「それはいいですけど。もったいないじゃないですか、高葉ヶ丘なんていいとこに住んでるのに」
「家賃は大したことないですよ。いっても1Kですしね」
 未紅は五穀ご飯をせっせと口に運んでいる。最後の晩餐なのにヘルシー志向だとは。
「詐欺師の前の彼が手料理食べたがる人で、練習しようとしたんですけどわたし全然で。せっかく別にしたキッチンもずっと持ち腐れてるんですよね」
 雅伸は恐る恐る来た道に視線を巡らせる。あれは通路ではなくキッチンだったのか。持ち腐れているとかいうレベルではない。完全に機能を殺されている。
「ま、ま。とりあえず一息つきましょ?」
 未紅は冷蔵庫から何かを取り出し、笑顔で差し出した。キンキンに冷えた缶コーヒーだ。そろそろ夜になると十度も下回るのに。
 ――この人が結婚できない原因って、自覚してるものばかりじゃないのでは。
 疑問ごと飲み込んだコーヒーはきゅっと気道を狭めていった。

 

 協議の末、雅伸はこの部屋をとことん掃除することにした。死後『こんな部屋で寂しく……』と勝手に憐れまれるぐらいなら、生きているうちに綺麗にした方がいい。いなくなった後のことまで知りませんとむくれた未紅も、大家さんだって迷惑しますよと指摘したらさすがに引き下がった。
 たかが部屋で、未紅が誰かの自己憐憫に使われるのは気に食わない。
 これは雅伸の道義だ。
 まずゴミと洗濯物を分けるのに一晩かかった。朝になって、不要な袋を共用の収集所に全て出し、休日出勤だという未紅を見送る。死にたい割に律義だなと思う。何の仕事かは訊かなかったが、例の神社の近くに出勤するらしい。
 調度品の埃を払い、適当と思われる場所に物をおさめ、掃除機をかけ、ざらつく床を水拭き、乾拭き。洗濯機が止まったらシーツやタオルを外に干して、明らかに女性と分かる衣類は一応部屋干し。一回で洗いきれる量ではなかったのでもう一度セット。理奈に心配をかけないために『住み込みのバイトが決まった』と留守電を残したけれど、あながち嘘とも言えなくなってきた。
 少し息をついて、随分広くなった部屋を見渡す。
 日当たりが抜群によかった。フローリングにレースカーテンの木の葉模様が揺れている。さっきまでクローゼットの前でひっくり返っていた、スタンド付きのサンキャッチャーを試しに持ってくる。床に置いた瞬間、虹色の光が弾けて壁中に踊った。無数に散った輝きの欠片。子供みたいだなと自嘲しながら、雅伸は光の粒を指で追いかけそっとなぞった。
 昼の明るさの下だから解る。普段は見えないものにも色はあるのだ。雅伸も赤より短い波長を、別の色を知ってしまった。
 昨日のコンビニ弁当を冷蔵庫から出してきて食べた。自発的に食物を摂取したのは久しぶりだ。洗濯機が鳴ったら、部屋中からかき集めたハンガーに服をかけていく。
 三時過ぎ、未紅が置いていった鍵を持って外に出た。目眩がするような陽光の下を、雅伸は前を向いて歩いていった。

 

「おかえりなさい」
 未紅が帰ってきた時分、雅伸はちょうど炊飯器に米をセットしたところだった。小窓からはまだ陽の光が射している。
 未紅は狐につままれたような顔で、本来の用途で使われているキッチンを見渡していた。感謝されたくてしたことではないけれど、リアクションがよくてつい笑みがこぼれてしまう。
「風呂もすぐ湯を張れますよ。ベッドも使えるようにしました」
 未紅は返事をしなかった。難しい顔でパンプスを脱ぎ、コンロに置かれた鍋を覗き込む。
「これは?」
「カレーです」
 雅伸は鼻の頭を人差し指でかいた。
「最後の晩餐としてはあまり洒落てませんけど、弁当かき込むよりは人らしいかなと。俺はほとんど作ってないので偉そうなことは言えませんが」
 昼間スーパーに買い出しに行った際、雅伸は偶然にも新田夫妻を目撃した。いつもなら気付かれないように店を変えたはずだ。事実そうしようとした。けれど途中で足が止まった。
 そうだ。誤差。どの店に行こうと肉の区別がつかないのは一緒だし、後輩たちの前でどんな恥をかこうと、今日で全てが終わるなら――。
 事情も話さずただ、カレーを作りたいと相談した。はるか前に調理実習で作ったから、肉さえ選べれば何とかなると思うと。
 雅伸の言い分を聞いた朔夜は、昔日のまま溌溂と笑った。
『奇遇っすね。うちも今日カレーなんすよ。材料費折半して、うちで一緒に作りません? その方が安いしウィンウィンっしょ』
『朔夜さん、ノブさんにいいとこ見せたいんですよ。付き合ってやってくれませんか』
 侑志の苦笑も不器用なフォローも相変わらずだった。
 ずっと遠くに暮らしていると感じていた後輩たちは、案外近くで生活を営んでいた。互いに近況は訊かなかったし、思い出話に終始するでもない。左利きの二人には気取ったしずく型のおたまが天敵だとか、昨今のカレールーは企業の研究の結晶であるから素人が下手にいじらない方が美味いとか、小さな小さな事柄を、新田家の薄明るいキッチンで穏やかに共有した。
『思ったより簡単だったでしょ』
 薬指に銀色が光るようになっても、朔夜の左手で髪を耳にかける仕種は残っている。自分より先に野球部に入って、出ていくときにも見送ってくれたただ一人の先輩。
『ノブさん、住宅地はあんまり土地勘ないですよね。分かるところまで送ります』
 痩せた野良猫のように周囲を威嚇していた後輩も、今は『先生』と呼ばれる風格を身に着けていた。
 抱くはずだと覚悟した気持ちは予想より小さい。もっと早くに頼ってみてもよかったのだろうか。未紅が帰ってきたら二人のことを話してみようかと、いつ返せばいいのか分からないガラス製のタッパーを手にずっと考えていた。
「あの。とりあえず部屋入ったらどうですか。キッチン暖房ないし」
 動かない未紅の腕を引く。コートの繊維が冷たい。紅を塗っているはずの口唇も色を失っているように見える。
「紺野さん?」
「困ります」
 未紅が雅伸の腕をつかみ返す。見上げてくる顔は、フェンスに足をかけたときより切羽詰まっていた。
「困ります。こんな風にされたら、わたし」
 ――わたし、死にたくなくなっちゃうじゃないですか。
 かすれた囁きは予想外であり想定内でもあった。未紅から言い出すことまでは読めなかったけれど、雅伸も感じていたことだ。
 未紅の腕に触れたまま、台所を通り抜けてすりガラスの引き戸を開ける。
 部屋は雅伸の好きな赤に満ちている。
「生きてたくないからって、無理に死にたいと思い続けなくてもいいんじゃないですか。俺も昨日バラバラにならなかったおかげで、今日は久々に生きた心地がしたし」
 淀みを取り除いた床にも夕陽が流れ、未紅を誘って足を浸せばほんのり熱かった。
 気の遠くなるような昔から、人類が経験してきた熱だ。
「延ばしたいだけ延ばせばいいと思います。ほんの誤差ですよ。一生があと何十年も残っているなら」
 座り込む未紅に引きずられて膝をつく。ワックス剤で磨いたフローリングに、幾粒も水滴が降って弾けていく。昼のサンキャッチャー越しの光のように。
「ま、さのぶくん。お仕事。お仕事あるなら、妹さんにも胸張って会えますよね」
 爪を立てられた腕に痛みが走る。それよりも綺麗なネイルが剥がれはしないかと心配になる。
「わたし、ひととして生きていくの多分とても下手なので、このお部屋、すぐ元に戻ってしまうと思うので」
 雅伸はみなまで聞かずに未紅の髪を撫でた。跳ねつけられなかったから、もう一度そっと頭のかたちをなぞった。
「俺はあなたに飛び降りたんです。あなたも俺に飛び降りた。最初から痛がるときは一緒の約束じゃないですか」
「そうでしたっけ。そうならいいな」
 未紅は笑いながら濡れた頬を持ち上げ、雅伸の不精ひげだらけの顎に触れた。傍目からは見えないほどうっすらと、十年前の痕が残っている。きっと彼女にしか判らないし、解らない傷。
「わたし、家でこれ言うのすごい久しぶりなんです。ちゃんと返事してくださいね」
「わかりました。どうぞ」
「ただいま。雅伸くん」
「おかえりなさい。未紅さん」
 雅伸は水の跡に口唇を落とす。手のひらの熱を背中に感じる。
 落ち着けば邪魔になる身体なのかもしれない。ならばそれまでの使い潰しでいい。
 俺たちは早晩墜ちて千切れる夢を見る。微睡を共にする相手がいるだけで、全てから覚めるまでの無聊も少しは和らぐだろう。
 夕陽はまだ射し込む。壁に守られた部屋を赤に染める。
 今のところ、その色は囲われたまま流れ出てはいかない。