彼の足跡の追随 - 1/3

2015年9月20日

「本気で言っているのか?」
 上司の責めるような口調に、神成岳志はなるべく人好きのする笑顔で頷いた。
 昨日――2015年9月19日、渋谷区の路上で女性の変死体が発見された。その報を聞くなり神成は、ここ最近世話になっていた新宿警察署の刑事たちに頭を下げ、本庁に駆け戻ってきたのだ。理由も目的もただ一つだった。
「しかし、あと一手だろう? 新宿の事件は。ここまできて手柄を放棄するってのか、お前は?」
「放棄なんてしませんよ。これでも苦労して追い詰めたんですから」
 上司の言葉に肩をすくめる。そう、確かに被疑者を絞り込めたのは神成の設置した網に引っ掛かった大魚がいたからで、それを謙遜して取り消す気はない。いや、取り消されてしまっては困るのだ。
 神成はあくまで笑みを崩さない。
「私は権利を『移譲』したい、と申し上げているだけです。この件を引き継いでくれるような『熱心な刑事』がいたら『ご紹介』願えませんか」
 彼の『お願い』は実質取引であった。
 凶悪殺人が殊更センセーショナルに報道される昨今だが、実は他殺と断定された事件の発生件数は年々減少傾向にある。この様子なら、今年は戦後最小となるのではと予想されているほどだ。その中で、今回の新宿のヤマはなかなかに大きい。この功績を、直接的な言い方こそしないが、神成は『売ろう』と申し出ている。眼前の上司の望む相手に。
「……代わりにお前は、どうするつもりだ。神成」
 苦々しそうに放たれた、その言葉を待っていた。流石の神成でも、こちらから切り出せはしないから。神成は笑みを消し、上司の机に手をかけ軽く身を乗り出す。
「やりたいことは、ひとまず一つ。次に渋谷で変死体が出たら、そのときは私に初動捜査の指揮を執らせてください」
 自分がどれだけ傲慢なことを言っているのかは自覚していた。この若さでこのポストに就いていることの幸運も、自分を蹴落とそうとしている人間がいかに多いかということも。だから普段は、求められた事件で最大限の結果を出すだけ。和を乱さない。そこに全神経を割いて、敵を増やすような真似は極力避けてきた。
 そういう立ち回りが出来たのも、ある男のおかげだ。いくら有能でも、周囲の人間の協力なくして十全な才覚を発揮することは出来ないと、その小柄な背中が教えてくれた。神成は彼の教示があったからこそ、同職からの信頼を積み上げてここまで這い上がってきた。
 そして、それ故に『渋谷の変死体』を見過ごすことだけは、絶対に出来ないのだ。
「今回の、ストリートミュージシャンの変死事件の捜査に加わりたいということか」
「いえ。『今はまだ』、そちらはお任せします。とにかく一週間以内に引き継ぎを終わらせて、新宿から引き払いたいのですが」
 ――でないと29日に間に合わない。
 神成はそこまでは言わなかった。あまりに正確な日付予告は、犯人と疑われかねない。それに、まだ論理的な信憑性に欠ける妄言を、得意げに披露する気にはなれなかった。たとえ既に心が、何を確信していたとしても。
 上司は嘆息して、神成に下がるよう身振りで示した。
「……私の一存では決めかねる」
「はい、ぜひよろしくお願いします。感謝いたします」
 断りの言い訳が出る前に、先手を打って笑顔で礼をした。相手に神成の要求を突っぱねるほどの意志がないことを知っていて、念を押したのだ。気を変えられないうちに、ではいったん新宿に戻りますので、と踵を返す。
「神成」
 呼びかけられて振り返った。上司は予想通り難しい顔をしていて。
「お前、ろくな死に方しないぞ」
 警告とも、呪詛ともつかぬ言葉を吐く。神成は苦笑して首を振る。
「ええ、そうだと思います。――ただ、『渋谷でだけは死なない』と、6年前から固く誓っていますから」
 上司はその数字を出されただけで、顔を強張らせもう何も言わなかった。
 確かそう、彼は『先輩』の同期だったはずだから。きっと回りくどく告げられた神成の悲願も、今ので全て伝わった。
「さてと。俺、あと何回頭を下げりゃあいいのかな……」
 神成は指折り数え、その多さに顔をしかめながら廊下を歩く。
 これはまだ、その事件たちが“再来”と呼ばれる前の話。

 

 

2009年9月24日

「お疲れ様です、判さん」
 デスクにとんと湯呑みを置く。判安二は新聞から視線を上げ、神成の顔を認めると、おおと破顔した。
「足立の件はもう済んだのか、神成」
「ええ、元々複雑な事件ではありませんでしたし……」
 神成は苦笑しながら頬をかく。判が特に問題なく茶を口にしたので、心の中でガッツポーズ。猫舌の判のために、冷えた別の湯呑みを一度経由して温度を下げたのだ。これで『飲みたそうなのに飲めずにいる』という状態を回避することが出来た。表面には出していなかったつもりだが、自分を見る判の視線の色が変わったのでびくりとする。
「神成、お前さんなぁ。気遣いは結構だが、天下の捜一で茶汲みが上手くなったところで、出世は見込めねぇぞ?」
「そ、そういうつもりではないんですけど」
 神成は肩をすぼめて、先刻まで他の刑事たちにも茶を配っていた盆を抱えた。
 警視庁の職員は、この国の首都を管轄とするだけあって、本来常に忙しい。最近は特に渋谷の方で不可解な事件が起きているので、神成の所属する捜査一課殺人班もいつも以上に出払う人員が多く、慌しさを通り越して寂寞さえ感じさせる有様になっていた。
 それこそ本庁に残っているのは、ド新人の神成や、自称『窓際』の判のような、いわゆる『戦力外』の刑事たちばかりだ。
 判は無精ひげのある顎を撫でながら笑っている。
「まぁ、お前がごますりだけで成り上がろうとしてるなら、俺なんざ眼中にも入れないだろうからな。好意は素直に受けるとするさ。実際フリージアのミホちゃんより、神成の方が茶を淹れるのは……とと、今のはナシナシ」
「はい、何も聞いてません」
 神成は首を振って判の冗談を流した。
 判安二は32歳にして警部補の役職にあり、警視庁捜査一課に身を置いている。これは充分以上に順調な出世であるはずだった。しかし彼は、本人曰くだが『あまり世渡りが上手くない』ので、その有能さを周囲に疎まれたらしい。彼が解決に導いた事件のうち、彼自身の手柄になったものはそう多くない。
 本人は『誰がかけようが手錠は手錠だ』と気にしていない様子だが、神成はその不当な評価に内心腹を立てていた。ただ、組織の中でそれを表沙汰にするほど無分別ではなかった、というだけの話だ。
「神成」
「はいっ」
 呼びかけられて、はっと我に返る。また難しい顔をしていたのだろうか? 警察学校時代にも、『すぐ顔に出る癖だけは刑事に向いていない』と散々叱られたのに。
 判は神成の淹れた茶をすすりながら、さっきまで読んでいた新聞をデスクに広げ、何気なく指でなぞっている。
「なにも自分を殺してご機嫌とれたぁ言わんが、その調子で周囲とはちゃんと連携とっていけよ」
『高校生の少年重体、同級生のいじめによる集団暴行か』
「はい」
 本当は何気なくなどない指の動きを、神成も漫然と、そう見えるように、目で追う。
「今はまだお前自身、ケツに殻のついたままのヒヨっこだが。後輩が出来たら、上へのご機嫌取りだけじゃあなく、下への労いも忘れるな?」
『新人社員、職場の人間関係を苦にして首吊り』
「はい」
「打たれない程度の杭になれよ。肝心なときに――」
 判は両手を新聞の上につき、ゆっくりと立ち上がる。二箇所になったので神成の視線も振れる。片手の傍は大見出し。
『隠蔽体質、長年の方針か』
 もう片方の手はもっと文字が細かく、その汚職企業の現場責任者らしき人物のコメントで。
『悪いことをしている自覚はあった。止めようと思ったが命令には逆らえなかった』
「――肝心なものを守るのは、最終的に何だかんだで『権力』だからな。俺の諦めたそれを、お前はまだ掴めるだろう?」
 神成は答えられなかった。意味が解らなかったというよりも、受け取りたくなかったのだ。判はまだ、諦めるべき場所まで遠ざかっていないはずだと信じていたから。
 茶を飲み干すと、判はいつものように、くたびれたスーツのポケットに両手をしまう。机を回ってきて、神成の傍をすり抜けようとする。その一瞬、滅多に聞かないほど真剣な声が、神成の耳孔を貫いた。
「『力』を持て、神成。『武力』でも『暴力』でもない、手前の『正義』を押し通すための、真っ直ぐで純粋な『力』をだ」
 ぽんと背中を叩かれて、振り返っても見えたのはやはり猫背がちな背中。
 お茶ご馳走さん、旨かったぞ、と。それが最後に神成に向けられた言葉で。
 メシ行ってきますと判は軽い声で宣言し、係長も書類から顔を上げずひらと手を振っただけだった。
 追いかけて、もう一度正面からその話を聞くべきだったと。この時点で世間的にはただの小僧にすぎない神成が、そうと気付けなかったことにも無理はなく。
 まだ無力な手は中途半端に伸ばされたまま、彼の背を引き止めることがついに出来なかった。
 

 

2009年9月30日

「ふてくされてるわねぇ、神成ちゃん」
 百瀬克子の声に、そんなことわかってる、と神成岳志は胸中で毒づいた。
 信用調査会社フリージアの応接間。22歳――高校の同級生はまだ大学生――の青年刑事は、完全に社交辞令丸出しの礼を言って、出された茶に手を付ける。
「別にそういう……ことではないです。その、秋葉原はどうも、居心地が悪くて。俺は機械とか、アニメとか……よく分からないから。少し、休ませてほしかったんです」
 俯いて、呻くように言う。
 嘘そのものではなかった。現に彼は組み上げられた機械を扱う程度の知識しかなかったし、萌え文化に対する知識はもっとない。ジャンクパーツ屋の並ぶ狭い裏通りを巡回するのも、大音量でメイド喫茶が広告ソングを流す通りで聞き込みするのも、もううんざりだった。同じ千代田でも、警視庁のある霞ヶ関――あそこは皇居の眼前だから――とは大違いだ。
「でも最近秋葉原、特に物騒でしょう? 規模は小さいといっても、本庁一課の刑事が出るぐらいの事件だもの。ちゃんと解決してあげれば、市民も安心するわよ」
 百瀬は神成が持ってきたケーキを、フォークで豪快に口へ運ぶ。だからわかってるんだ、とやはり言葉に出さずに神成は思う。
 社長は甘いものといっても和菓子の方がお好きなんですよ、と先程いつも『ミホちゃん』と呼ばれている事務員の女性から耳打ちされた。そんなこと知らない。神成が知っているのは、愛想のいい百瀬に会いたければ手土産を持ってくるべしということだけ。好みまで教わっていない。
 百瀬当人が、美味しいわねぇ、ありがと神成ちゃん、と文句ひとつ言わず笑ってくれるのが尚更惨めだった。食べないの? と促されたが、首を横に振った。
「百瀬さん、確か、判さんより年上でしたよね」
「あらやだ。女性に歳の話する? この子ったら」
「……具体的にいくつとか訊きませんし。真面目な話なんですが」
 茶化されそうだったので、神成はあらかじめ釘を刺す。百瀬はケーキを食べる手は止めないまま、真面目な顔をした。
「そうよ、私の方がいくらか上。それが?」
 尋ねておいて神成は、何と言っていいのか分からなくなった。分からないながら、手探りで自分の疑問に触れる。
「じゃあ、判さんのことは、弟みたいとか……自分より未熟だって、感じたり、しますか」
「そうねぇ」
 百瀬は神成の問いの意味を考えるように、しばし黙った。その間が、逃げ出したいほどいたたまれない。やがて百瀬は苦笑して、ケーキの最後の一欠けを口に放り込む。
「ないと言えば嘘ね。でもそれ、多分歳は関係ないわよ。バンちゃんの方がお兄さんでも、叱り飛ばしてると思うわ」
 神成はようやく少しだけ笑った。その光景は容易に想像出来たから。
 だがすぐまた、机に視線を落としてしまう。
「歳は関係、ないですか。――そうですよね」
 口唇を噛む。少しずつ血の味がにじんでくる。
 だったら。俺が浅はかなだけだ。諏訪さんが選ばれたのは俺より有能だったからで、俺が彼より何年か遅く生まれたせいじゃない。
 わかってたんだ。全部。なのになんでこんな。俺が隣に並びたかったのにとか、そんなの。
「完全にガキの癇癪じゃないか……」
 自分の声が耳から入ってきて、しまった、と思った。さっきからちゃんと本音は隠してきたつもりだったのに。こんな断片をこぼしただけでも、百瀬は全部承知だという笑顔で見つめてきて。
「いいじゃないの、自覚があるなら。それにね、社会人としてはともかく――」
 上に立たれて悔しがるのは、立派な男の証拠じゃないの? と言われてしまって。ああだからこの人は苦手だと、神成は一回り以上年嵩の女性から目を逸らした。
「秋葉原、戻ります」
「あら、ケーキは?」
「ミホさんにあげてください。多分、『洋菓子なら百瀬さんよりお好きでしょうから』」
 立ち上がり様、苦し紛れに放った嫌味に、百瀬は目を丸くしていた。やがて合点がいったらしく、声を上げて笑い出す。神成はわざと生真面目に礼をして、フリージアから辞す。
 渋谷の空は青くて。きっと先輩刑事たちは今もこの下で真相を求めていて。離れがたい気持ちがないと言えば嘘だけれど。神成にも、求めるべき真相と、いるべき空がある。
 ジャケットの裾を直し、若き刑事は自らの役を果たすべく渋谷を去る。