彼の足跡の追随 - 2/3

2015年10月2日

 疲れた。警察官になってからというもの疲れなかった日など数えるほどしかないが、今日は一段と疲れた。
 有村雛絵と久野里澪――最近の10代はあんなのばかりなのだろうか? 平成生まれはこれだから理解出来ない、とぎりぎり昭和生まれ・ゆとり世代第一期生の28歳神成岳志は、胃を押さえて嘆息した。
 片や死体の傍に倒れたきり、意識がはっきり戻っても自らの意志で黙秘。片や強いられてもいないのに事件現場を見たがり、それに関する情報を警察より先に手に入れる。ああ、現場を見たがった10代はあと2人いたか。本当に近頃の若者は理解に苦しむ。
 彼らとせいぜい一回りほどしか違わない神成は、本屋の前で天を仰いだ。もう暗い。雨が降っているので尚更そう感じる。時刻は閉店間際だが、ざっとなら見て回れそうだ。目に入りそうな雨粒を片手で拭うと、神成は書店内に踏み入った。
 目当ての書籍を探して歩く。一回り下――『先輩』や百瀬にも、自分はあんな風に映っていたろうか。そう考えると顔から火が出るようでもある。一人で恥ずかしくなったのを、意味のない咳払いでごまかす。分からないなりに姓名判断の本も目に入ったが、何の科学的根拠もないことに思い至ってやめた。調べたところで、それが彼女たちに当てはまっているかどうか、判断する材料すら神成はまだ持っていない。
 各種専門コーナーをざっとめぐる。特殊撮影技能などに関する本、インターネット配信に関する本、心理学の中でも特殊状況下の異常行動に詳しい本など、一応基礎は知っているはずの書籍も、何冊か見繕って棚から引き出す。こういうものは『知っているつもり』が一番恐ろしいのだ。情報は常に更新され続けている。全てを追えなくとも、最低限の知識がなければ、狡猾な犯罪者共の背中はすぐに見えなくなる。
 立ち去り際通りがかった辞書コーナーで、ふと漢和辞典が目に入って、気紛れに手を伸ばす。
 『澪』と、あの生意気な小娘の下の名前は、確かそういったはず。よく聞くけれど、意味がおぼろげにしか分からない漢字。
 ページを繰る。『「澪」一:河海の中の、船が通る水路。 二:川の名』と新明解には書いてあった。
 熟語例には『澪標(みおつくし):舟の水路を示すためのしるし』とも。
「……無事、路になってくれりゃいいんだがね」
 神成は苦い声で呟いた。濁流に流されたり、船頭多くして船山に登るといった有様ではたまったものではない。漢和辞典を棚に戻し、神成は重たい本たちを抱えて会計へと向かっていった。
 大枚をはたいて(当然自腹を切った。まだ今月も始まったばかりなのに)自分のものになったたくさんの書籍は、肩が外れそうに重い。試験前の学生かよ、と内心でぼやく。特殊分野に関する知識を一気に詰め込むという点では似たようなものだが。そして、成果は一夜漬け程度で構わないのも同じこと。神成には、これらを『完全に』理解する必要も時間もない。
 ひとまず彼がやるべきことはひとつ。彼女たちが『何を見ているのか』最低限掴めさえすればいい。会話が成立しさえすれば、後はどうとでもする。刑事の意地と経験で。
 これらが『オカルト』だろうが『現実』だろうが、そんな区別、この事件に限っては最早意味がない。そんな『常識的な』――極めて常識的な、判断基準など、もう。
『こんな非常識が蔓延している現場で――』
 自分の考えの上に、そう言い捨てた少女の声が重なって、くそ、と神成は語彙もへったくれもない毒づきを夜闇に散らす。天狗になっているつもりはなかったが、ああも力業で鼻っ柱をへし折られたのなんていつ以来だろう? お高い専門書を濡らさないように抱えながら、神成は傘も差さずに、渋谷警察署まで足早に戻っていった。

 

2009年10月5日

 その日東京は朝から雨だった。神成岳志は仕事用とは違う、学生時代にあつらえたスーツにウインドブレーカーを羽織り、フードを目深に被って俯きがちに歩いていた。
 渋谷の街は雨でも人が多かった。立て続けに誰かが死んでも、若者たちは減るどころか熱気を帯びてすら見える。神成は充分以上に若者と括られる年齢だが、彼らに反してこの空気に吐き気すら覚えていた。
 ――連中は、まだ『祭』が続くことを望んでいる。
 スクランブル交差点の前で、ウインドブレーカーの胸元を握り締める。この服はこもった体温を逃がしてはくれないのに、雨粒だけはどんどん浸食してきて肌を冷やす。暑いのか寒いのかさえ自覚出来ずに、神成は自分の片腕を抱いた。
「あれ、神成くん?」
 聞き覚えのある声にぼんやり顔を上げる。背後に立っていたのは、紺のスーツに不吉なほど黒い傘を差した青年。
「……諏訪さん」
「キミ、渋谷の担当じゃないッスよね?」
 諏訪が傘を少し傾けると、神成の方に雨がぼたぼたと垂れた。わざとにしろそうでないにしろ、諏訪のこういうところが神成はあまり好きではない。
「個人的な都合です。休日に渋谷に来たらそんなにいけませんか、俺にだって私用ぐらいあります」
 地味な滝を避けながら言う。キュージツねぇ、と諏訪はつまらなそうに言い、傘の角度を戻した。
「そのやっすいリクルートスーツ着てッスか? 転職の予定でも?」
「ありませんよ。仕事着を濡らしたくなかっただけです」
 それでも一応社会人だから、目上の人間に会うのにはスーツを着るべきかと思った。そんな小さな常識的判断。諏訪は上背の割にあどけない――自分より背が高く、年も若い神成に言われたくないだろうが――顔を見せる。
「何で傘差さないんス? 濡れたくないんだったら、その辺でビニ傘でも買えばいいのに」
「別に……以前の癖です」
 神成は横目でしか諏訪を見なかった。人ごみの中なので詳しい話はしない。
 まだ制服を着ていた頃、警邏中などに雨が降っても傘は差せなかった。合羽か、ひどいときには制帽に透明のシャワーキャップを被っただけで、外で仕事を続けていた。無論、金がなかったのでも濡れたかったのでもない。
「片手が塞がるのは、あまり安全とは言えないと思います」
 神成は呟いて、視線を暗い空に転じた。いざというときに銃や警棒が抜けないとは、まさかこんなところで口に出来はしないが。そうでなくても、事件が起こったときに傘など差していては邪魔になる。
 諏訪は肩をすくめて傘を軽く回した。雨粒が飛んで、周囲の人間が眉をひそめて距離を取る。神成の頬にも雫がかかった。顔をしかめて手で拭うけれど、諏訪は涼しい顔だ。
「だって男物ッスよ? 骨も頑丈だし。畳めば警棒代わりにはなると思うんスよね。リーチもあるし」
「そうですか」
 神成はもう特段反論する気も起きなかった。この男とは話しているだけで疲れる。判と別行動している理由だって、どうせ捜査情報だからと伏せられる。訊いても無駄だ。
 諏訪は苦笑して柄を握っていない方の手を持ち上げ、人差し指をぐるぐる回した。
「まだ当たりつけてないなら、先輩御用達の和菓子屋さん教えまスよ?」
 それに、何でも知ったようなことを言う。百瀬といい、諏訪といい。神成の周りにはそんな人間ばかりだ。舌打ちしたいのを抑えて、口早に答える。
「いいです。赤坂で生菓子買って行ったら喜んでくれましたから」
「そッスか。随分おしゃれなとこで買ったんスね? それにもうお帰りのとこだったとは、失礼失礼」
 諏訪がけらけら笑ったところで、信号がやっと青になった。神成は雑な一礼を残して歩き出す。
「神成くん」
 呼ばれて渋々振り返る。諏訪の声はいつになく真剣で。
「もう、渋谷には近づくな」
 いつもの浮薄な語尾がない。表情もいつになく冷酷……というよりも、それを通り越して最早まっさらだった。
 言われなくてもと怒鳴ろうとしたら、諏訪は踵を返して反対側に歩き出してしまった。憎いほど追いかけた背中が視界から消える。神成も横断歩道を渡ろうとする人間に押され、駅に向かわざるを得なくなる。首を傾げながら、歩みを再開する。
 先日の失態を帳消しにするため、百瀬の元を訪れていたことに勘付かれたのはまだしも。
 諏訪は何故、然程見慣れていないはずの神成が、いつもと違う――ましてフードを被った状態でいるのに、すぐ顔見知りだと気が付いたのだろう。前を閉めたウインドブレーカーの着丈もそこそこ長いのに、スラックスの裾だけで『安いリクルートスーツ』と断言した。
 そして何故、同じ方を向いて信号を待っていたくせに、横断歩道を渡らずに引き返していったのだろう。わざわざ進行方向を変えてまで、神成に声をかけねばならなかったのだとして、その理由が思いつかない。『先輩』に、渋谷を嗅ぎ回っている小僧がいたら追い返せと、釘を刺されたのか。
「――まさか。そんな約束、わざわざ履行するほど律儀じゃないだろ。あんた」
 口唇を歪めて、神成は雑踏と共に渋谷駅へ吸い込まれていく。あとはもう帰って寝るぐらいしかやることはないはずだが、無性に酒が飲みたかった。
 神成はこれらの疑問を雨に流したことを、後々ひどく後悔することになる。
 渋谷駅構内で、からからの死体が発見されるまで、あと5日。

 

2015年10月7日

「ほらほら、協力するって言ったばっかりでしょ? 落ち着いて」
 険悪な雰囲気になった神成と久野里の間に、百瀬が割って入った。
 次の事件が起こると予想される日、10月10日になったら、有村を囮にするのもいいというようなことを、久野里が言い出したことが発端で。神成がそれに激昂して、久野里は萎縮するどころか一層威圧的に――いっそ獰猛なまでの態度で、『犯人と、「そいつら」を殺したい』と言い放ったのだった。
 百瀬が、落ち着きなさいと静かだが有無を言わさぬ口調で繰り返し、久野里は舌打ちして神成から離れる。神成は口を引き結んで背中を向け、無意味にスーツの袖を直した。本当なら彼だって同じような悪態をつきたいところだが、これでも『年長者』なので自重した。
 神成は、軽率に「死ね」だの「殺す」だの言う若者が嫌いだ。だが彼女の場合は、本当に実行しかねない響きでそれを口にする。不快というレベルを通り越して危険人物にしか思えない。どんなに優秀だろうと、百瀬の身内でなければとっくに手を切っている。
 もっともそう思っているのは――まぁ優秀とは思ってくれていないだろうが――久野里も同様のようで、苛立たしげにソファに座り直して、長い脚を邪魔そうに組んだ。この小娘は発育がよくて、神成よりは低いが、身長が並みの日本人男性より高いのだ。この何もかもを見下したようなガキに大抵のものを見下ろす目線が与えられているとは、世の中の皮肉を感じる。
「ところで、神成ちゃん」
「あ、はい」
 百瀬に声をかけられ、神成は声のトーンを平素のものに戻した。百瀬には何の咎もない。不当な態度を取るつもりは全くなかった。百瀬も先刻の諍いをなかったことのように、何気なく尋ねてくる。
「その子。有村雛絵ちゃん。まだあんな調子?」
「ええ、まぁ……」
 しかし逸らされた話題もあまりいいものではなかった。神成は苦笑して頬をかく。
「友人の子たちにはすごく愛想がよかったんですけどね。俺には相変わらずつっけんどんというか、取り付く島もないというか……今日も、もう昨日か、校門の前で立ってただけで怒られて」
「そりゃあんたみたいなウドの大木が、スーツ姿でガンつけてりゃあ『普通の女子高生』は嫌がるだろうよ」
 久野里はパソコンをいじりながら鼻で笑った。神成は怒鳴りつけそうになったのを、百瀬に注意された手前ぐっとこらえる。平均身長の女子に言われるのならともかく、自分と5センチそこそこしか違わない女に言われたくない。
「あら神成ちゃんたら、スーツのまま行ったの? それは確かにあんたが悪いわよー」
 味方はいなかった。百瀬まで批難がましい目で、ばしんと肩を叩いてくる。痛い。百瀬さん力ありますねなどと口走った日には最大出力でこられそうなので、神成は賢明にも愛想笑いで済ませた。
「いけませんかねぇ。『普通の社会人』の仕事着だと思うんですけど」
「なんのための『私服警官』なの! 場から浮かないのは刑事の鉄則でしょ? だからそういうところは真似しなくていいのに」
 腰に手を当てる百瀬に、はは、と神成は乾いた笑いを返すしかない。
 確かに『先輩』は、敢えて浮くことで強烈に自分を印象付けていく刑事だった。だが神成にはあそこまでのインパクトがない。だからもう、それこそ鉄則どおり場に馴染んで違和感を抱かせないことに気を割くしかないのだが――どうも今回はしくじったらしい。
「校門前にスーツはダメですか。教育関係者に見えませんかね」
「ちょっと若すぎよねぇ。かといって大学生の教育実習にしちゃ歳が過ぎてるし。それに有村ちゃんにしてみたら、『教育関係者』がどうして自分を待ってるのかお友達に説明するの、大変だと思うわよ? ラフな格好なら、『お兄さんのお友達』で済ませやすかったかもしれないのに」
「う」
 正論だった。確かにそう言われると、スーツの青年と制服の少女というのはインモラルな香りしかしない。ここに至っては神成も自分の手落ちを認めざるを得なかった。
「って言っても、家帰ってる暇なんかありませんでしたよ。捜査用の私服も、ないこともないんですけど……本庁のロッカーで」
「あっきれた。意味がないじゃない」
 百瀬は大袈裟にため息をつく。神成も、要らない言い訳だったと口に出してから反省した。
「ちょっと待ってね。うち結構泊り込みで作業する子が多くて、少しなら着替え置いてあるのよ。まぁ神成ちゃんぐらい背の高い男の子はいないから、サイズが合わないかもしれないけど」
「ちょ、ちょっと待ってください何を始める気です?」
 百瀬が奥に行って何か漁り始めたので、神成は後ずさった。まずい。出て行った方がいい。刑事の、いや、男としての勘がそう言っている。
「ニットなら多少伸びるから、体格よくても大丈夫かしらねー」
「お暇します! 遅くにすみませんでした!」
 まず間違いなく着せ替え人形にされる。逃げようとした神成の前に、さっきまで組まれていた無駄に長い脚がぬっと差し出されて、転びそうになった。顔を上げると久野里澪が悪魔みたいに笑っていた。
「あったあった! 神成ちゃーん、ジャケット脱いでこのカーディガン羽織ってみるのはどう?」
「ぐ……」
 神成は日常的にゲームをしない。だが、捜査の一環として独自にアカウントを取得し、オンラインゲームをプレイしていた時期があるので、とっさに思った。これは逃亡不可の強制戦闘だ、と。
「あー、肩幅は何とかなったけど、やっぱりちょっと袖が短いわねぇ」
「はぁ……」
「下も替えたいけど……これだけがっちりしてると合いそうなのがないわぁ」
「ちょっ、どこ触ってるんですか! 腰周りを叩かないでください!」
「おいおい、私に手を出すなと言われたからって、百瀬さんに発情か? こんなところでおっ勃てるなよ」
「そんなことにはなってない! オッサンみたいな野次を飛ばすな!!」
「あ、それとも神成ちゃん、いっそワイシャツ脱いじゃう?」
「脱ぎませんよ!?」
 10歳以上年上の女性と10歳ほど年下の小娘による辱めから解放されると、神成はソファの陰にしゃがんで、ワイシャツのボタンをひとつひとつ留め直した。顔が赤いのは分かっていたし正直涙目だった。立場が逆なら完全に訴訟ものなのに、男とはなんて損なのだろう。久野里はソファの背もたれ越しに顔を出したかと思えば、無表情でスマートフォンを構えて――。
「撮るな!!」
 完全にセカンドレイプ案件である。神成はスマホを振り払うと、挨拶もそこそこに、ネクタイとジャケットを引っ掴んでフリージアを出た。
 百瀬のは場を和ませるための悪ふざけが行き過ぎただけで、次に会うときにはお互いけろっとしていられるだろうが。
 ――あの娘、中身は絶対に悪質なオヤジだ。セクハラだけでなく、企業のイメージ操作の件も含めて、17歳の少女のやることとは思えない。しかも好意を持っているからでも楽しいからでもなく、混じりっ気なしの単純な嫌がらせとしてそれをやってくる。『ケイさん』とやらのやわらかな声音に騙されている男共が心底哀れだ。
 毒づいて、神成は10月の渋谷を大股で歩く。もうインナーのTシャツにワイシャツを着ただけではいい加減涼しくて、くしゃみが出る。ジャケットを羽織り直しながら、何で先輩はこんな時季までうちわ持ってたんだろう、と改めて疑問に思った。

 

2009年10月9日

 こんなところで俺は何をやっているのか、と、大音量で流れるロックサウンド――パンク? 彼は音楽に興味が薄くて、その辺の区別が曖昧――を聴きながら、神成は壁に寄りかかっていた。
 渋谷のとあるライブハウス。『ファンタズムの歌姫は、かねてからニュージェネを予言していたらしい』という愚にもつかぬ噂に引き付けられるように、神成もこの場所を訪れた。バンドマンをしている高校時代の友人に衣類を借りて、浮かないように努力してまで。ついでに『服だけ合わせたって顔が野暮だよ』とヘアワックスで固められた髪が、キシキシして気持ち悪い。
 開演前の物販で目当てのCDは手に入れたから、もう帰ってもよかったのだが、どうせだから件の歌姫の顔も拝んでいこうかと気まぐれに思ったものの……バンドの生演奏というのは非常にうるさい。学校行事で連れていかれたクラシックコンサートや文化祭を除けば、神成が直の音楽に触れるのは初めてだが、訓練の実弾発砲の方が耳栓をしている分まだマシだ。鼓膜とかおかしくならないんだろうか、とファンたちを見回しながら、神成はこっそり溜息をついた。
 それでも神成が会場を出て行かなかったのには、一応理由がある。とても個人的な。曲の途中で退出するのは無礼だろうと配慮したのもあるが、近くに立っている少年が少し気になったから。
 翠明学園の制服を着た男子生徒。ファンタズムのヴォーカル・FESが翠明の岸本あやせであることぐらいは、神成も自力で調べ上げていた。だから、黒や赤ばかりを基調とした服装の観客の中で、一人だけ淡い色の上着を着ている少年が余計目についたのだ。
 明るく染めた髪にピアス。素行はお世辞にもよさそうとは言えない。けれど端正な顔に笑みを浮かべて、心から楽しそうに身体を揺らす様は、どこか愛嬌と品のようなものを感じさせた。FESの友人か恋人だろうか。単に学校が同じだけかもしれない。けれど彼女に注がれる視線には、明らかな好意が含まれていて。
 神成はぼんやりと、自身の高校時代を思い出していた。
 本分である勉強の他には、部活と弁当の中身と家に用意された夕食の内容と、くだらないおしゃべりと、ちょっとした色恋沙汰と、ささいな楽しみのことだけを考えていれば幸福だった日々。自分たちもあんな風に、スポットライトなど要らないぐらい、眩しかったのかもしれない。あの頃は人が死んだことなんて、ニュースで聞いて他人事として悲しむだけでよかった。
 今は、人が死ぬことを前提にした職場で働いている。何度姿を見ても何度においを嗅いでもなかなか慣れない『生きていたはずのもの』の前で、何故そうなったのかばかりを考えて暮らしている。己で選んだ道だから、後悔はないけれど。――この少年のような無辜の人間を、輝かしいまま生かし続けるために、自分はこのまま汚れて生きてくべきなのだろうと、ふと思っただけ。
 一曲目が終わった。神成はすかさず出入り口に向かおうとして、少年が先に走り出たことに目を丸くした。あれだけ興奮していた様子だったのに、もう帰ってしまうのだろうか?
 慎重に、視界が確保出来る幅だけ内扉を開ける。少年は受付でCDを二枚買っていた。我慢出来ずに曲の合間に欲しくなったのか。余程気に入ったらしい。浅く息をついて扉を普通に開け、神成は堂々と彼の傍を通り、外へ出ようとした。しかしやはり少年の方が先に出ていくのだから、また驚いてしまう。今更立ち止まるのもおかしい気がして、ゆっくりとした足取りで外扉を開ける。
 ライブハウスの前には、もう一人翠明の男子生徒がいた。自信なさげに背を丸め、先程の少年がしきりに何か話しかけているのを、曖昧な顔で聞いている。あるいはファンタズムのライブに来たかったのはあの内気そうな少年で、直前になって怖気づいたのを、派手な方の少年が説得しているのかもと考えた。
 ――翠明の男子生徒が捜査線上に浮上していることまで、担当でない神成はまだ知らない。

 殊更緩慢に煙草を取り出しながら、一本口にくわえて、安物のライターがなかなか点かないふりをしながら階段を下りていく。煙草は好かないが、ふらりと外に出てきた口実としては、便利な小道具だ。気の弱そうな少年は、明るい顔の同行者に引きずり込まれるように、ライブハウスの中に消えていった。
 神成は火の点いていない煙草をくわえたまま、しばらく扉を見つめていた。やがて、単に取り出しただけのそれを携帯灰皿に押し込んで、歩き出す。
 適当な店の喫煙席で、味の分からない煙草を一本吸った。バニラの香りとパッケージには書いてあったが、駄菓子屋の麩菓子みたいな匂いだと感じた。お前でもいけるよと、服を貸してくれた友人が勧めてくれて、確かに吸えないこともないけれど、やはりあまり好かない。
 ファンタズムのCDを取り出す。インディーズの割にブックレットは意外としっかりしている、と詳しくもないのに考えた。歌詞は確かに深読みすればニュージェネを予見しているように見えなくもないが、むしろFESの世界観が犯人に利用されていると考える方が自然に思われた。
 こんな難解な『物語』を紡ぐ少女の犯行にしては、『ニュージェネレーションの狂気』は雑に過ぎるし、ひどく低俗だ。自分が彼女なら絶対にあんな品のないやり方だけはしない。神成はそう分析し、ブックレットをケースに戻した。
 写真も何もない簡素なジャケットを、見るでもなく眺める。テーブルに置かれた硝子の灰皿に、ほとんど口をつけず惰性で燃焼させていた煙草を押し付け、火を揉み消す。何をやっているんだろう、と改めて思った。捜査に加えてもらえなかった事件に執着して。周りを嗅ぎ回って。こんなこと何にもならないのに。何の、誰の役にも立たないのに。自分自身のためにすら、全くならない。デメリットの方が大きい、否、デメリットしかない。
 東京都では絶えず事件が起こっている。いくら渋谷の『これ』が異常でも、これ以上人員を割くべきではないし、まして自分が余計なアクションなど起こす必要はないと。それだけ解っていて、何故、なおもこんなことを。これではまるで、字義通りの、『狂気の新世代』――。
「申し訳ありません。混み合ってまいりましたので、相席よろしいでしょうか?」
 女性店員にやんわり問われ、神成ははっと我に返った。首を横に振り、慌てて喫煙道具とCDを片付ける。
「すみません。もう出ますから」
 伝票を引っ掴んで、珈琲一杯分の代金を払って夜の渋谷の路に出る。
 ちぐはぐな街だ、と思った。若者の街と言いながらオフィスビル然とした箱が立ち並んで。日本一行き交う人が多いと呼ばれるスクランブル交差点にだって、若いと呼べない人間は山ほどいる。田舎とは呼べないが殊更垢抜けているわけでもない。流行の最先端と称されながらも取り立てて特徴的なものがない。それなりになら何でもあるが専門的なものはある種何もない。ぎらぎら街灯が光っているくせに他の繁華街より夜闇が濃い。坂ばかり多くて平衡感覚が狂い、真っ直ぐ歩いたつもりが直進出来ない。こんなにたくさんの音が鳴っているのに、聞くべき音なんて何もない。
 俺と同じだ、と神成は乾いた笑いを浮かべた。俺は警官だけど、一般人と同じぐらい何の力もなくて。社会人だけど、社会から大人扱いはされてなくて。けどもう、あの子たちみたいに、少年でもいられない。どこにも行けない。行き方が分からない。生き方が。俺は何者で、どこへ向かおうとしてるんだ?
「俺は、刑事だろう?」
 いつもなら前髪で隠れているはずの額に片手を押し付けて、神成は自問した。
 ――そうだ。俺は刑事だ。惑うな。成すべき正義を成せ。それが最善で唯一の道のはずだ。
 深く息を吐いて、神成は駅へと歩き出す。諏訪さんの忠告通り、もう渋谷には近づかない方がいいのかもしれないと、人混みをすり抜けながら思った。
 この街は、おかしい。長居すると、きっと……どこかが、狂ってしまう。

 

2015年10月10日

 いつもなら、ここでうるさく献血を呼びかけていたような気がするのだけれど――どこかと勘違いしているのかもしれない。刑事らしからぬことを思いながら、神成は信号待ちの隙に窓の外を見た。御茶ノ水の大学病院からの帰り道。車の助手席に座った久野里澪は何も言わず、反対側の景色を見ている。
 この時季、つい『献血』というフレーズに敏感になるのは、きっと彼だけではない。渋谷の一連の事件を記憶している者ならば、皆そうではないだろうか。体内の血を全て抜かれた異様な遺体――神成は未だに、渋谷駅の中でも井の頭線のトイレにはあまり立ち入りたくない。6年あれば、もう気にせず使っている者も多いだろうが、同じようにあの個室に入りたがらない者もそれなりに残っているに違いない。
 そして今回の『再来』と呼ばれる事件では、あのときとは逆に、異物を食道に詰まらせるほど飲み込んだ、凄惨な遺体が出た。必要な分まで奪い尽くされた者と、不要なものを限界以上に押し込まれた者。これも対称を意識して行われている犯行だとしたら、神成は怒りもしたし吐き気もした。2つのニュージェネが同一犯だとは考えにくいが、『残虐』で『徹底的』であるという点においては、恐ろしいほどに一致している。
「『”The world is a fine place and worth fighting for.” I agree with the second part.』」
 久野里は何か独り言を言っていた。口調から、二重引用であって彼女の意見は毛ほども入っていないと分かった。
「His “deadly sins” wasn’t the GLUTTONY, but the PRIDE or the GREED. Absolutely this fuckin’movie is――」
「口が悪いぞ」
 彼女自身の考えだろうとどこかからの引用だろうと、まずうら若い少女が口にすべきでない単語を拾って、神成は苦い顔をしながらアクセルを踏んだ。久野里が隣で、それこそ傲慢に鼻を鳴らす。
「映画一本観る余裕もないぐらいだから出遅れるんだ、『ミルズ』」
「は?」
「フィクションがそのまま犯罪の引き金になると、安易に考えるほど私も馬鹿じゃない。だが自らの目的のため、フィクションを参考にする犯罪者というものは確かに存在する」
 話しながら、久野里の口調は感情をなくし。長い脚を組み、わずか17歳の科学者は淡々と言う。
「特にシリアルキラーには顕著な傾向だ。これからも捜査一課に身を置くつもりなら、主だったものぐらいは流し見ておけ。本物を見飽きたその目には苦痛だろうがな」
 神成はぐっと奥歯を噛む。小娘に言われたこと自体は別に痛くもない。ただ。
『えー、神成くんスパークウォーズも観たことないんスか? 人生損してるッスねぇ』
 そう大袈裟に目を丸くした男の声が頭に響いて。もう少し映画に詳しければ。もう少し早く、『西條拓巳の抱えていたダーススパイダーのヘルメット』に何か感じていたらと、詮無いことを思い出しただけ。
「……リストアップしてくれ」
 神成がかすれた声で言うと、あ? と久野里は不機嫌そうに答えた。俗に言うDQNのような口調だった。既に構っている余裕が神成にはない。ステアリングを必要以上に強く握る。
「映画なんて多すぎてよく分からないんだよ。『少なくとも再来の犯人はこれを観たはずだ』と思うやつを、教えてくれ。片っ端から観る」
「断る。私はそんなに暇じゃない」
 彼女はにべもなかった。神成も言うほど期待はしていなかった。久野里はスマートフォンをいじり始めてしまう。もう互いに何も言わない。
 検索ワードは何でぐぐればいいだろう、『猟奇殺人犯』、『異常犯罪』、『シリアルキラー』……と考えながら渋谷へ向けて車を走らせていく。ほどなく、信号で停止すると同時に、ポケットで携帯が鳴った。取り出す。久野里は反対に、ポケットに携帯を滑り込ませるところだった。成人なら煙草でも吸い出しそうな、気だるい雰囲気で言う。
「珍しく暇だった」
「ありがとう」
 神成は苦笑して、メールの中身を今は見ず、流れて消えてしまわないようにロックをかけた。
 早く渋谷に戻らなくては。この映画を最後まで上映させては、いけない。

 

2015年10月12日

 神成岳志は夕方、渋谷警察署の前に横たわる歩道橋から、少女に電話をかけていた。
 相手は『女子高生』、神成と一回り近く歳が離れている。『こちら』の少女に関しては警察の方でも把握済みだから別に署内でもいいのだけれど、何となく外聞が悪い。
『――はい。有村ですけど』
 もう留守番電話になるかというぐらい長いコールの後、渋々といった声音で、有村雛絵は電話に出てくれた。神成はまず、昼間の無作法を詫びることにした。山添うきという少女の証言に間違いがないかどうか、確かめてもらった件だ。
「何度もごめん、有村さん。ランチには間に合った?」
『ごめんと思う気持ちがあるなら、二度とかけてこないでほしいんですけど。しかも何、この時間? 今部活中なんですけど?』
「ああごめん、すぐ済むから――」
『そうやってまた私をウソ発見器にするんでしょ? 都合のいい女だと思って!』
「人聞き悪いこと言うなって。今、周りには誰もいないよ」
『うわっ、じゃあ個人的にかけてきたんですか? ますますもって気持ち悪い!』
「……あのさ、すぐに済むって言ってるんだから、混ぜ返して自分から長引かせないでくれるかな」
 有村と話すと、万事こうなのだから参ってしまう。大袈裟に嘆息すると、本人も軽口が思いのほか長引いたことを自覚したのか、ううと唸った。
『それで? 謝罪の他に、用って何です? まさか本気で食事の予定押さえに来たんですか?』
「違う。だから最後まで聞いてくれ、話が進まないだろう」
『じゃあ早く用件言ってくださいよ』
「ああ、多分君、怒ると思うんだけどさ」
『ホントだ。何か私が怒りそうな話するつもりですね』
「その、だから。うきくんの件で電話したとき。俺、後輩から借りたスマホでかけただろう?」
『んー……? そうでしたっけ』
 有村は呑気な返事をした。履歴を確かめようにも、スマホは今通話に使っているので分からないのだろう。俺、嘘ついてる? と神成が訊いて、ようやくそれが事実だと認めたようだった。
『それが何か?』
「いやあのな、俺が言えた義理じゃないのは重々承知してる。そのうえでこれだけ言わせてほしいんだが」
『はぁ。何を?』
 神成は息を吸い、なるべく早口かつ明瞭に告げる。
「若い娘さんが知らない番号からかかってきた電話で先に名乗るのはよせ、名前と番号だけで個人情報なんて簡単に特定されるぞ」
 有村が意味を理解する前に、携帯電話をなるべく耳から遠ざけた。そして数秒後、案の定ぎゃんと吠える有村の声が聞こえてくる。
『自分がかけてきといてそういうこと言います!? もうホント頭おかしいんじゃないんですかあなた!?』
「有村さんっ、声、ボリューム! 下げて!!」
 つまらないコントに出てくる原始人のような片言で、神成は何とか有村をなだめようとしたが、駄目だった。語彙という弾倉が空になるまで、有村の罵詈雑言フルオート射撃は止まらなかった。
『ホンット、信じられない』
「だから、悪かったって……」
『大体、私が確かめもせず電話に出るようになっちゃったの、どっかの誰かさんたちが自己都合でひっきりなしにジャカジャカかけてくるせいなんですけど?』
「本当に面目次第もない……」
 神成は歩道橋の縁に寄りかかり、眉間を押さえた。というか今の子の中で電話は最早リンリンでもジリジリでもなくジャカジャカかかってくるものなのか? という疑問はさておき。
 そうだ、『普通の女子高生』であるところの有村に、警察官である自分と科学者である久野里が頻繁に電話をかけている。それ自体が異常で非常識で。その当人に、『ちょっと常識的に麻痺しているのではないか?』などと指摘された日には、有村でなくても怒るだろう。
 だが、有村の罵倒は再開されなかった。聞こえよがしに嘆息するので、機械を通したときノイズが混じって、神成の耳には割れた音が届く。
『……もういいです』
「え、どうしたんだ急に」
『別に。本気で謝ってる人にこれ以上追い撃ちかけたって、どうにもならないじゃないですか』
 有村は拗ねたように言う。神成が思わず笑い出すと、やっぱり怒られてしまった。
『何です!? 私も悪かったなって思って許してあげようとしたのに、その態度!』
「いや、馬鹿にしたわけじゃないんだ。すまない。たださぁ」
 神成は空を見上げた。黄昏時という言葉が似合うような感傷的な色だった。
「――君が、自分の声で、自分の言葉で話してくれるようになって。嫌なことは嫌だと主張してくれて。理不尽なことには抗議してくれて。よかったと、思って」
 全部は口にしないけれど。
 有村を初めて見たとき、神成は『もう壊れているかもしれない』と案じたのだ。刑事として、重要参考人を確保したい気持ちも勿論大きかった。だが、少女が人並みの心をまだ守っていて、ネガティヴな表現ではあっても、少しずつ素直に表に出してきてくれている。義務的ではあっても機械的でなく協力してくれている。それが、ただ人として、素直に。
「嬉しいよ。ありがとう、有村雛絵さん」
 事情なんて知らなくても、彼女は神成の感謝が『本当』だと知っている。それでいい。
 能力のない神成にも照れ隠しと分かる声で、有村がぼそりと言う。
『それで?』
「うん?」
『まだ用が?』
「ああ、今日はもうないよ」
『今日、は、って――!』
「ああ時間を取らせて悪かった、部活頑張って。部長さん」
 社交辞令で締めると、神成は通話を切った。小さく息をついて、ポケットに携帯電話を滑らせる。
 有村雛絵は何だかんだ文句を言いながらも、自分から電話を切ることをあまりしない。神成がそれを指摘しないのは、その方が彼にとって都合がいいからだ。己の醜さを自覚しながら、そのうえで神成は少女の優しさにつけ込んでいる。だからせめて警告した。これ以上、ろくでもない男に個人情報を渡すなと。
 歩き出しながら、神成はふと呟く。
「あ、そうだ。『僕』って一人称、女子高生的にアリか訊くの忘れたな」
 『僕はおまわりさんだ』なんて。いくら山添うきを安心させるためとはいえ、そんなフレーズを口にしたのは、地域課で迷子の相手をしていたとき以来だ。28にもなってまだ通用するものかどうか。
 ――ま、そんなこと訊いたら、今度こそ完全に『変態刑事』のレッテル貼られておしまいか。
 神成は苦笑いで階段を下り、また渋谷警察署の中へと戻っていく。
 今夜は『突入作戦』が控えているから、少し準備をしておかないと。

 

2015年10月13日

 神成は、代々木公園駅の方角に全力で走っていた。
 1時間ほど前に13日になったばかり。日付変更直前に決行した、AH東京総合病院への独断突入捜査は、完全に失敗だった。このうえは安全のために、少しでも夜のあの建物から遠ざかる外ない。
 走りながら携帯電話を取り出して、最近はもう短縮で登録してある番号に一押しでかける。いつもはワンコールで取られる電話。今日はやけに呼び出し音が長くて、いっそう神成の焦りを加速させる。自分の呼吸音がさっきからずっとうるさい。
 やっと、誰かが受話器を取る気配がする。神成は咳き込む寸前の荒い息で用件を伝えようとして――。
「……はぁっ、はっ、あ、あのっ!!」
『今日の私の下着の色なら黒だが?』
「知るかぁ!!」
 涼やかな声で訳の分からないことを言われ、路上に膝から崩れ落ちた。もう、緊張の糸がぶっつぶつに切れた。息が苦しい。ネクタイの結び目に指を入れ、隙間を作る。電話の向こうの少女に怒鳴る。
「今時っ、そんな古典的な変態、いるかよ! どういうことだ、お前に指示された場所、にはっ、『何も無かった』!!」
 まだ激しく上下する喉仏が天を仰ぐ。職業的にも年齢的にも体力があるはずの神成ではあったが、今日は装備が悪い。ワイシャツの下に仕込んだ防弾インナー――これが重くて、動きづらくて、暑い。
 久野里澪は、神成の必死の様子にも全く気を払う様子がなかった。ただ退屈そうに鼻を鳴らす。
『私は行けと命じた覚えなどないが。そっちが行きたがったから、鍵と情報を提供してやっただけだ。そうか、やはり連中は既に「回収」を済ませていたか。同行しなくてよかった。手間が省けたことには感謝してやってもいい』
 このアマ、と言いたいのを『おまわりさん』はギリギリで飲み込んだ。電柱に手をついて立ち上がった。このままでは、自分が通報されるか職務質問を受けかねない。どこかで落ち着いて装備を外したい。早く駅のロッカーまで鞄を取りにいかないと。
「君の相手にしてる『連中』ってのは、運送会社か何かか? それだけの設備と人間を、たった1日で痕跡も残さずに? ハッ、夜逃げのプロだな」
 神成は皮肉たっぷりに言いながら、不自然でない程度の早足で歩き出した。少女に八つ当たりしたいぐらいには彼も苛立っていたのだ。
『逃げている、というぐらい消極的な連中なら、私も苦労はしていないんだがな』
 冷静に返され、自己嫌悪に陥る。いつも露骨な当てこすりを言われているからといって、今のは大人げなかった。反省。既に戻った呼吸で続ける。
「けど、山添うきは嘘をついていないと有村雛絵は言ったし、君もその目で実態を見てきたんだろう。だったら俺が尻尾を掴み損なったからって、過去や事実が消えるわけじゃない。それらは――彼らは移動しただけで、どこかにまだ」
『その甘っちょろい戯言を今すぐやめろ、「坊や」。次に会ったとき殺されたくなけりゃな』
 ぐ、と神成は呻く。希望的観測であることは認めるが、何故そんな翻訳文みたいな脅され方をしなければならないのか。そのうえ殺意は本物なのがものすごく伝わる。有村も必要ないぐらい。となれば、『それら』も『彼ら』も既に処分されているのだろう。神成の本音としては、断固認めたくないが。
『しかしよくもまぁ、ご大層な正義感だけでそこまで命を張れるものだ。本当にご立派だな、日本のケイサツカンってのは。半端に小賢しい奴より本物の馬鹿の方が数段恐ろしい』
 久野里の冷笑が耳に届く。先程の詫びに、神成も彼女の嫌味に反応しなかった。月を見遣りながら、ぽつりと呟く。
「――俺はそんなに立派な警官じゃない。個人的な恨みが腹の中で腐っててね。いい加減吐きそうなんだ」
 彼女は何も聞き返さない。きっと興味がない。そのくせ、百瀬と神成が度々口にする人物のことだと、『ご大層な』聡い頭で察していないわけでもないはずで。
 けれど彼女は、ここまで知らないだろう。神成が今夜わざわざこんな重装備で侵入したのは、彼女の言う『連中』の恐ろしさを知っていたからではなくて。単純に、『先輩の命を奪ったのは2発の凶弾だったから』というだけだと。誰が撃ったのか、うっすらと心当たりはあるが、定かではない。その心当たりももういないけれど――百瀬に『あの人に似てきた』と言われて、ふと不安になったから。それだけ。
「死にたくないんだよ、俺は。こんなところで」
 神成は悲壮に笑いながら、歩み続ける。
 ねぇ、先輩。死に顔穏やかだったって、聞いてます。きっと刑事として、仕方ないって思える最期だったんでしょう?
 俺はあなたに憧れた。でも決して、あなたになりたいんじゃない。笑って『仕方ない』なんて絶対に言ってやらない。生きて、解き明かすんだ。最期じゃない。最後まで。生き延びて、そして。
 神成は眼前に広がる夜闇の全てを捉えるように、進む先を強く見据えた。
「俺は。絶対に、ニュージェネレーションの狂気を――」
 終わらせる。そう言おうとしたところで、がさごそと電話の向こうで動く気配。
『あらごめんなさいねぇ神成ちゃん、うきちゃんったらなかなか寝てくれなくて。待たせちゃったかしら?』
「……いえ、全然」
 百瀬の声が急に響いて、神成は引きつった笑みを浮かべた。
 ――あいつ、話の途中で電話代わりやがった。
 割と恥ずかしい部類の台詞だったので、余計に胸をかきむしりたくなる。
『それで、どうだったの?』
「それが、何もありませんでしたよ。ええ、何ひとつね」
 努めて冷静に、神成は状況を説明した。もうすぐ駅に着く。足を速める。
 話を全て聞き終えた百瀬は、最後に頷きのような声を出した後に。澄ました調子で『それで、「俺は、絶対にニュージェネレーションの狂気を」どうするんですって?』と尋ねてきて。聞いてたのかよ、と神成は駅のコインロッカーに頭をぶつけた。