きみはみんなのおにいさん

 二〇一五年。神成岳志は、渋谷警察署の眼前に長々と渡る歩道橋の上で、漫然と渋谷の夜景を眺めていた。
 手すりからはみ出した右手には、野菜ジュースのブリックパック。半分以上残ったそれに口もつけず、ぶらぶらと揺らしている。腹は鳴っているような気がするが、まるで食欲がなかった。
 『ニュージェネレーションの狂気の再来』――そのセンセーショナルに報じられた事件の現場担当者に、彼は願ったとおりに収まった。そして自身が過労という死因で被害者になるのでは? というぐらい神成は忙しくて、それは全くではないけれど割と構わなくて、けれど天下の労働基準法も裸足で逃げ出す地方公務員は、『今死なれると余計大変なんでひとまずゆっくり飯でも食ってきてください』と職場を追い出されたのだった。
 眼下の立ち食いそば屋を見下ろす。渋谷署にいる分にはとにかく近くて早くて安いので、便利ではあったがいかんせんチェーン店のその味にいい加減神成も飽きていた。この渋谷の中心で、行ったことのない飲食店を探すことなど造作もない。きっと網羅する方が圧倒的に大変だ。
 けれどこの、人の話し声も、街に流れる安いポップスも、店の中のBGMに至るまで無闇にボリュームのでかい街に――ただしそれは神成の体感で、単に今の彼が過敏になっているせいかもしれないが――人ばかりひしめく通りに自分の用事で下りていくのは、ある意味で仕事よりも気が滅入った。
 月など見上げてみるが、その良し悪しなど神成にはよく分からない。夜風に吹かれながら、少し冷えるなと、そんな誰にでも分かることを思った。
「あら、神成ちゃん。こんな外で何してるの?」
 耳慣れたかすれ声にはっと振り返る。信用調査会社フリージアの女社長、百瀬克子がハンドバッグを手に立っていた。
 神成はあやうく足下の道路にブリックパックを落としかけ、手の中で二・三度持て余した後どうにか握り直した。
「百瀬さん、どうしてこんな……というか、外に出るんですか?」
「失礼ね。用があれば出かけるわよ、まったくヒトを引きこもりのアナグマみたいに」
 百瀬が大袈裟に腰に手を当ててみせる。すみませんと首を縮ませながら、アナグマという表現はいかにも的確だと神成は思う。思うだけで、女性相手に口にすることはなかったが。
「どうしたの。似合わないもの飲んじゃって」
 百瀬は歩み寄ってきて、神成の隣で通りを背にする。神成は通りを見下ろしたまま、ああ、と自嘲しながら手の中の野菜ジュースを揺らした。
「エナジードリンクばっかり飲んでたら、胸焼けがひどくて。健康にいいものでも摂ろうと思ったんですが、どろっとしてて旨くないですね」
「そう」
 百瀬は微笑むだけで、その話題については深追いしてこなかった。そういうところがありがたく、同時に頭の上がらないところである。きっと彼女には、この不調の正体が、カフェインの過剰摂取だけではないことも見抜かれている。
「真面目よね、神成ちゃんは。本当に」
「そう、ですか」
 今度は神成が短く答える番だった。エンジン音と擦過音を立てて車が行き過ぎる。
「真面目というのは、無能と同義なんじゃないかって――前から思ってはいましたけど、最近は特に思います。久野里さんのおかげで事件は大きく進展して、でも逆に言えば、彼女がいなければ俺はきっとずっと、無意味に周辺を嗅ぎ回るだけの哀れなワン公で。今だって、虚勢を張っても結局は彼女の犬みたいな扱いで。まったく自信を失くしますよ」
 何とか冗談めかしたつもりだが、果たしてちゃんと上手くいったろうか。百瀬の苦笑を聞けば、結果はすぐに分かった。深く長い息をついて、百瀬は先程の神成と同じように月を見上げる。
「あの人もあの頃、今の澪ちゃんと同じ歳の女の子と、一緒に捜査をしたことがあるの」
「え?」
 神成は思わず身を起こす。百瀬が『あの人』と表現するのは、基本的に彼のことだけだからだ。
 初代ニュージェネの途中で燃え尽きた、神成の尊敬する先輩刑事。
 百瀬は月を見たまま、懐かしむように目を細めた。
「その子は、澪ちゃんみたいな特別な子じゃなかったのよ。ただ人より探偵ごっこが得意なぐらいの、普通の女子高生。大人しい、お育ちのいいお嬢様って感じの子だった」
「いよいよ久野里さんとは正反対ですね。事情は分かりませんけど、きっと上手くいってたんでしょう」
 神成が自虐で口にした言葉に、百瀬はゆるゆると首を横に振った。
「ほら、あの人って、まぁ少しいい言葉を選べば、だけど……『放任主義』でしょう? その子の身の安全を気遣ってはいたけれど、それだけだった。他人にあまり心の中を見せようとしない人だったしね。だから最後まで彼女は、あの人との距離を測りかねてたみたい」
「そう、なんですか?」
 考えてみれば当然のことかもしれない。確かに捜査上必要とあらば、民間人との関係も構築する刑事だったが、久野里澪ぐらい異色の経歴でもなければ、神成たち同職の人間と同じ対応はしないだろう。
 だけどね、と百瀬は歌うように続ける。
「あなたは、澪ちゃんの言ってることがいくら捜査上効率的だと理解していても、人の道として間違っていると感じたら、容赦なく叱りつけるでしょう?」
「そんなの、当たり前――」
「そう、当たり前ね。でもその『当たり前』は、あの人がしようとしなかったことだわ。真っ向から他人とぶつかるなんて、疲れることだもの。相手を諦めてしまう方が、ずっと早くて楽だから」
 百瀬の声で、ふっとビジョンが降ってくる。ずっと手の届かない遠くを歩いていた、記憶の中の彼が、ふと足を止めたような。わずかにこちらを向こうとしているような。
「だから澪ちゃんには神成ちゃんでいいのよ。あの人みたいなのが傍にいても、お互い強情になるだけだから。『正しく』在り続ける大人が隣にいてくれるのは、澪ちゃんにとっても大きな武器になるわ。他の子たちにも、神成ちゃんの細やかな気配りは伝わっていると思う。そしてそれを『当たり前』に思える感性を、あなたはまだ持ってる。前に自分で言ってたでしょ、『先輩の性格まで見習う気はない』って――それでいいのよ、神成ちゃんは」
「……ホント、敵わないな。百瀬さんには」
 神成はジュースを持っていない左手で、ぐしゃりと前髪を握った。そんなありきたりな説教で、ただれるようだった胸は随分と軽くなって。彼の微苦笑までも、見えた気がするなんて。
 さてと、と百瀬は手すりから離れた。
「これから澪ちゃんとお鍋にする予定なの」
「鍋、ですか。いいですね。少し時季が早いけど」
 神成は笑って頭をかいた。鍋なら胃にも優しいかもしれない。ヒカリオの中にそんな店がなかっただろうか。神成が考えていると、そうでしょう、と百瀬も笑う。
「神成ちゃんも、時間があるなら来ない? おいしいお野菜いっぱい食べられるわよ」
「え、いいん、ですか?」
「お鍋なら二人も三人も、材料はほとんど変わらないしね。ただし荷物持ちは……」
「あ、はい、喜んでやらせていただきます」
 頭を下げ、先に歩き出した百瀬について、神成は歩道橋を降りていく。
 そういえば、駅から出てきたなら、ここはフリージアへの通り道ではないのでは? と――浮かんだ疑問は何となく、口に出せなかった。
「……っ」
 フリージアに着くと、神成は思わず息を止めてしまった。
 久野里澪が、長椅子で身体を横にして、すやすやと寝入っている。目の前のローテーブルでは、広げたままの彼女のノートPCが光っている。
「あら、澪ちゃんたら、待ち疲れて寝ちゃったのね。風邪ひいちゃうわ、毛布毛布……」
 百瀬は鍋の材料を神成から奪い取ると、ぱたぱたと奥へ引っ込んでいく。
 神成は少し腰を落として、じりじりと久野里に近づいていった。
 本当に寝ているようだ。いつも不機嫌そうに周囲を睥睨する瞳は閉じられて、睫毛が案外長いことを、神成は初めて知った。覚醒時は舌打ちと暴言ばかりの口唇も、今に限っては小さく息を吸ったり吐いたりするだけで。その姿は本当にただの少女。天才だか秀才だかでもない、ただの十七歳の娘。短いスカートからこぼれそうな白い太腿が目の毒で、神成はスーツのジャケットを脱いで、百瀬が来るまでの応急処置として長い脚の一部を覆った。
「ん……」
 普段の態度からは想像もつかないような幼い――あるいは歳相応な――声をこぼしはしたものの、久野里が目を覚ます様子はない。わずかに首を動かしたときに、艶やかな黒髪が頬に落ちかかる。厭わしそうに眉を寄せたのを見て、思わず身をかがめ、指先でそれを払ってやる。
『澪ちゃんには神成ちゃんでいいのよ』
 百瀬の言葉を胸の内で反芻する。
 そうだ、今ここにいるのは俺だ。あの人じゃない。だったら。こいつらの起こす面倒は、結局のところ俺が最後まで尻拭いをするしかないじゃないか。
 そんな風に微笑んだところで、彼女が何の前触れもなく瞼を上げた。
「あ……!?」
 狼狽する神成を、彼女は無表情で見上げている。焦点が合っているので恐らく寝惚けてはいない。神成の全身からぶわっと汗が噴き出す。
「いや、その……別に何も!?」
 ざっと後ずさった。頭の中は『どうやって被害届の提出を思い留まらせるか』ということばかりで、肝心の『身の潔白を証明する』という方法はなかった。状況が悪すぎる。眠っている未成年の肌に不用意に(笑いながら)触れたといって、誰が三十近い男の無罪を信じるのか。
 久野里は何も言わず、自分の腰元にかかっていた神成のジャケットを無造作に掴み、背もたれ越しに床に放った。神成は跪くようにそれを拾うことしか出来なかった。
「神成ちゃん? 何やって……ああ澪ちゃん、起きたのね。昨日も遅くまで作業していて疲れたんでしょ?」
 百瀬の声が別世界のように遠い。久野里が、ありがとうございますと言っているのが聞こえた。毛布でも受け取っているのだろう。神成はといえばジャケットを拾ったまま、着直すことも立ち上がることも出来ない。
「準備出来たら呼ぶから、それまでもう少し寝てていいわよ」
「では、お言葉に甘えますね」
 百瀬への愛想のいい敬語が、これほど肌を刺すように痛かったことがあるだろうか。これではもう二度と、何で俺にはタメ語なんだよとも言えそうにない。
「神成さん」
「あ……?」
 いやでもこんなでも敬称は付いてるんだよなと思いながら顔を上げると、久野里は背もたれに顎をのせて、いつになく機嫌がよさそうににやにやと笑っていた。
「襲うなよ?」
「なっ、誰がお前みたいなションベン臭いガキ襲うか!」
 神成は勢いよく立ち上がった。いつもより汚い言葉遣いをしたのは、それが即ち自分への罵倒でもあるからだ。
 久野里はひらりと身をひる返し、全身を毛布で覆ってすぐにまた寝息を立て始めた。神成は、くそと毒づいてジャケットを羽織る。本当にかわいげのないガキだ。
 百瀬がしみじみと呟く。
「なんていうか……仲のいい兄妹みたいよね?」
 狸寝入りだと気付いたのは、どこがですかと怒鳴る神成の声に、久野里の声も重なっていたからだった。