本音と嘘と裏切りと親愛

 神成岳志は、ニュージェネレーションの狂気の再来の情報を得るため、今日も信用調査会社フリージアを訪れていた。
 警察官として情けない限りだと自覚してはいるのだが、今はプライドより事件解決が優先だ。これ以上死人を出しては『先輩』に申し訳が立たない。
 他の社員たちが出払っている時間帯を指定したとはいえ、ドアを開けるとそこに立っていたのは久野里澪一人だった。社長の百瀬克子の姿はない。
「どうも、久野里さん。百瀬さんは?」
 神成が挨拶もそこそこに問うと、久野里はスマートフォンをいじりながら顔も上げずに答える。
「茶を切らしたそうだ。あの人のお気に入りは少し離れた店にあるから、待たされるかもな」
「自分が代わりに買いに行ってやる、って選択肢はないんだな……」
 神成が呟くと、百瀬と四半世紀ほども年の離れた小娘は悪びれず言う。
「馬鹿か。私がいなかったら、他の誰が席を外すより話が進まないだろ――」
 神成は天罰などというものを信じていないが。まぁそんなようなタイミングで久野里は手を滑らせてスマホを落とし、珍しく動揺したのか、拾おうとして動かした足が小さな機械を蹴飛ばして。スチールラックの下に、スマホは吸い込まれていった。
 正直、ざまぁないという気持ちがなかったわけではないが。久野里がラックではなく、振り向いて神成に向かってきたのは想定外である。
「なんで! 今のは俺、何も責任ないよな!?」
 腹に鋭くぶち込まれそうになった右膝。内臓を両腕でかばいつつ前屈みでブロックする。何が悲しくて、せっかく習った護身術をこんなところで発揮しなければいけないのか。
「……はぁ。わかったよ。取ってやればいいんだろ」
 どうせ他に人手もないし、久野里が床に這いつくばってあれを拾うとも思えない。神成はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの右袖をまくり上げた。
 しゃがんで手を突っ込んでみようとしたが、どうしても腕の一番太いところで引っかかってしまう。
「ん、ちょっと待て、今指先に触っ――!」
 と思ったら、スマホを引き寄せ損ねた指先は、本当に届かない、更に奥に目的の物を押し込んでしまい。
 右腕が塞がって無防備な神成は、今度こそノーガードで脳天を殴られたのだった。
「で、どうする? 何かないのか、長い棒とか。でかい定規みたいな」
「細かい備品の場所までは把握してない」
「となると、ラック自体を動かすしかないな……今度は手伝えよ」
 几帳面な職員の少ないフリージアのラックは、これで本当に整頓の役割を果たせているのか? というぐらいぐしゃぐしゃだった。おかげで物の位置がずれていても訝しむ奴は多くあるまい――というのは神成の刑事としての勝手な危惧だが。
 ともかくも中身を落とさないように気を付けながら、キャスターのストッパーを外して、重いラックを二人がかりで少しずつずらしていく。
「これぐらい動かせば、君なら隙間に身体入らないかな」
 神成が問うが早いか、久野里は壁とラックの間にするりと身を滑らせた。礼もなく、安堵の表情もなく、スマホについた埃を払いながら戻ってくる。
 何か言えよなぁとは思いつつ、揉めるのも面倒で、神成はただ、よかったなと伸びをした。
 久野里は顔を上げると、明らかにスマートフォンほどの厚みのない何かを、気の抜けた神成の前に突き出してくる。
「これ、誰だか心当たりは?」
 涼しい声で問われる。久野里はきっと本当に知らない。だが神成は思わず、奪い取るようにそのスナップ写真を手にしていた。
「先輩!? うっわ、若……! 昔から百瀬さんと知り合いって本当だったんだ」
 写真の中の青年は、着方こそだらしないものの、まだスーツ自体は少ししゃっきりしていて。無精ひげも薄くて。もしかしたら、今の神成よりも年下かもしれなくて。
 けれど緩んだ口許も、油断のない目つきも、神成の尊敬する『先輩』に違いなかった。
「一緒に落ちてた。大方棚の中のアルバムから抜けたんだろう」
 久野里の推測も耳に入らない。
 隣に映っている女性はふくよかながら、今よりずっと細身の、きっと百瀬克子。今と同じように少し少女趣味なブラウスを着て、すました顔で微笑んでいる。
 写真を裏返してみると、異なる筆跡で一行の文句が書き記してあった。
『公の立場から』『民の立場から』
『共に真実を』『ここに求めましょう』
(交互に――書いたのか)
 神成は沈んだ目でその文章を見下ろしていた。
 フリージア立ち上げにも関わった知己だとは聞いていたが、こんな姿を知ったのは初めてだった。二人はあまり自分のことを話そうとしなかったから。
 こうも若い頃から信念を共にしていた盟友だったのか。それとも、文字だけを後から書き足したのか。油性マジックの劣化具合を見ても、鑑識でない神成には分からない。
「それが前に言ってた『先輩』か?」
 久野里が、ラックを戻すよう手振りで示しながら言う。ああ、と神成は一度テーブルに写真を置く。
「そうだよ。俺がニュージェネに固執する理由になった人」
 執念とか恨みとか、強い言葉は使わなかった。彼を怨霊扱いするようで嫌だったのだ。
 二人して、動かしたとき以上に慎重に棚を戻していく。
「ファグ? あんたしょっちゅう彼の名前出してるだろ」
 久野里の言葉は侮辱的な割にちっとも面白そうではなかった。だから神成も別に腹は立てなかった。
「違う。警察組織ってものがホモソーシャルの傾向が強いことは認めるが、俺も先輩も別にミソジニストじゃない。ただ、先輩は百瀬さん以外の女性の扱いは、あまり得意ではなかったみたいだけど」
 少なくとも、モモちゃんバンちゃんと呼び合っていたような仲の女性は、神成の彼に関する乏しい記憶の中にはない。
「あの写真を見た限り、男女の仲ではなさそうだったな」
「そうだろうな。俺から見てても、世話焼きのお姉さんとやんちゃな弟みたいな感じだったよ。実際百瀬さんの方が少し年上だったはずだし」
 百瀬はしょっちゅう彼に説教を喰らわせていたように思う。
 いっつも私の忠告を無視するとか、それでいつも尻ぬぐいさせられるのは私なんてたまったもんじゃないとか。連れてこられただけの神成まで縮こまるような剣幕で。
 それでも彼はどこ吹く風で自分の知りたい情報をさっと得て、飄々と事務所を出ていくのだ。
 がしゃんと間抜けな音を立てて、スチールラックが、見た目上、最初の場所に戻る。
 キャスターのストッパーをかけ直し、神成は、まくっていたシャツの右袖を元のように伸ばしていく。
「なんていうか――先輩はさ。百瀬さんが、そこは危ないっていくら怒鳴っても、足を止めない人だったな」
「危機管理能力が低い?」
「というよりは。そこが地雷だと想像がついているからこそ、確信を得る為に片足を差し出すような人だった」
 脚だけで済まなかったからこんなことになっているのだけど、とくだらない冗談は胸にしまって、神成はシャツの袖ボタンを留めた。久野里が写真を摘み上げ、皮肉気に笑う。
「ひどい愚か者だったわけだ」
「おい、よせよ。日本じゃ故人のことを悪くは言わないもんだ」
 とはいえ、神成も苦笑するしかなかったが。あまりいい気分ではないとはいえ、久野里の言うことも一理ある。
 神成がジャケットを羽織ると、久野里がひらひらと写真を振ってきた。
「あんたも同じ愚か者か?」
「どうだろうな」
 神成はスーツのボタンを一つだけ留めた。
「俺も地雷原だと分かってて突っ走るときはある。だが、『ここは地雷原だ』って意識だけは、絶対に頭から抜け落ちないようにしてるつもりだ」
 俺は脚の一本だってくれてやるつもりはないからな、と久野里の手から写真を抜き取る。スチールラックまで歩いていって、わざわざ裏っ側に落とし直した。
「おい?」
「見なかったふり、知らなかったふりをするのも、大人の振る舞いってもんだよ」
 彼の癖を真似て、ポケットに手を突っ込んでみた。
 彼はフリージアに来て、渋谷署に置かれた捜査本部が知らなかった情報を得て、独断専行しすぎて、力尽きた。
 それが本当に彼だけの過失だったのか。百瀬はどこまで本気で彼を止めたのか。奈落に足をかけようという彼を、引き戻そうと手を伸ばしてくれたのか――それとも。
 知らなくていい。解らなくていい。
 神成が弁えるべきはただ、信用調査会社フリージアは宝島のようにひどく魅力的でありながら、どこまでも『ここは地雷原だ』ということだけ。
 人の心を信じても。情報を利用しても。絆なんてものはいずれほつれ、千切れてしまうものだと。そう割り切って、深入りを避けることぐらいが、神成に出来る最低限の、生存戦略。
「あらぁ神成ちゃん! ごめんなさいね、レジがすっごく混んでて。約束の時間過ぎちゃったわね」
 聞き覚えのあるかすれ声に振り向き、神成は愛想のいい笑顔を浮かべてみせる。
「いえ、また都合のつくときに出直します。あ、そこにお菓子あるんで皆さんで食べてください。駅前の物産展で買ったんですが、地方限定品らしいですよ」
「悪いわねぇ、まったく神成ちゃんったら気が利くんだから。いつも同じお店のお菓子しか買ってこなかった人とは大違いだわよ」
「はは。だって百瀬さん、あそこの和菓子が一番のお気に入りなんだから。目先変えてごまかしてる俺と違って、先輩は一周して、ちゃあんと解ってあそこに腰落ち着けてたんですよ」
 和やかに談笑する神成と百瀬を、久野里は嫌悪感も露わに見つめている。  まぁ仕方ないだろう。あれぐらいの娘には、こんな茶番はきっと不潔にしか思えない。
「久野里さんも。よかったら食ってくれよ、せっかく買ったんだから」
 久野里は舌打ちしただけで答えなかったが、それでいい。彼女自身が言った通り、慣れ合う必要はどこにもないのだから。
 そそくさとフリージアを辞せば外は真っ暗で。渋谷の夜空に降るような星なんてなくて、あるのはたくさんの人工灯ばかり。神成は漫然と周囲を見回しながら、呟く。
「作りものでも。紛いものでも。その瞬間明るくて、あたたかければ、それで構わないものだって、山ほどあると思うんだよなぁ……」
 歩き出す街の冷気。
 『先輩』の味わえなかった、二〇一五年の夜。