青すぎたシトラス

■本日はやけにフルーティです

 2016年3月。人々は『ニュージェネレーションの狂気の再来』の余熱から抜け切ったわけではなかったが、世の関心は『カオスチャイルド症候群者』の集団昏睡へと移り変わっていた。
 神成たち刑事ももう『再来』にかかりきりではなくなり、絶え間なく起こる別の事件たちと戦う毎日である。
「『その目神の目』……」
 忌々しいフレーズを呟きながら、神成は現場写真を睨み付けた。
 今月7日、渋谷区で女性が変死体となって発見される事件が起きた。月こそ違うが日が『集団ダイブ』『こっちみんな』と同一だったこと、犯行現場が『非実在青少女』の近くであったこと、これは報道されていないはずだが被害者の血で『その目神の目』と書き殴られていたことから、『ニュージェレーションの狂気の再来の再来』か、という噂も挙がっているという。ここまで来ると言葉遊びにも限界が来ているとしか思えない。
 『再来』の担当であった神成は自動的に、件の『その目神の目殺人事件』も任されることとなり、代々木のAH東京総合病院を訪れていた。
 冷たいロック解除の音に抗うように、神成は無理に笑顔を浮かべてその部屋に足を踏み入れる。
「や、宮代くん。ちょっとお知恵を拝借出来るかな」
 宮代拓留はいつも通りベッドに腰かけて、いつになく怪訝な顔で神成を迎えた。
 いろいろ原因はあるだろうが神成は概ね自覚しているつもりだ。
 かいつまんで事件のことを話すと、宮代は静かな怒気を含ませて断言した。
「僕は関係ないですよ。あいつにももう動機がない」
「だよ、なぁ」
 神成は苦笑するしかない。こうなることは解っていた。
 再来では犯行にこの言葉は使われていない。彼らはこのフレーズに価値を見出していなかった。好んで使ったのは煽る側の部外者たちだ。彼の大嫌いな、無責任な連中。
「それでも立場上、訊いて来いと言われたら嫌とは言えなくてね。こうしてポーズで出向いたわけだ。気分を悪くしただろ、すまない」
「……いえ。僕こそ、すみません。本当は、訪ねてきたのが神成さんだったのを、感謝しないといけないんでしょうね」
 宮代はばつが悪そうに目を伏せた。そういう気の遣われ方をされると、神成の方でもかえって困ってしまう。
 その通りだ。お前では先入観もあるだろうし肩入れするかもしれない、と上司が宮代の尋問をしようとしたのを、もっと上に掛け合って、彼の信頼をある程度勝ち得ている自分が穏便に済ませるべきだと説得した。
 だがそれを子供本人に見抜かれるというのは、まだまだ未熟だなと思う。
「ところで」
 しかも、話題を変えてくれたのも宮代が先だった。その返礼にどんなことでも答えようと、なんだいと笑ってみたはいいのだが。
 宮代は鼻をつまんで、横目でじろりと神成を見た。
「そのにおいなんなんですか? はいってきたときから、ずっときになってたんですけど」
「うっぐ」
 思った以上のボディブローに笑顔がひきつる。
 そう。今日の神成の肌は妙にフルーティな香りを放っているのである。
「あの……ツッコミどころは多いと思うんだが、これから話すことは誓って本当だから、どうか信じてくれないだろうか?」
 下手に出ると、宮代は嘆息して鼻から手を離した。
「神成さんが、こんなことで僕に嘘をつくメリットもないでしょうし。別にいいですよ」
「たすかります」
 目を合わせられず宙に視線を遣りながら、神成は十ほど歳下の相手に敬語を使った。
 その後で、咳払いして眉を寄せる。
「えっと、出勤前にどうしても風呂に入りたくて……でもボディソープを切らしてたのをすっかり忘れてて」
「はい」
「この前ドラッグストアで湿布とか頭痛薬とか買ったときに、何千円以上お買い上げのお客様に試供品プレゼントだか何だかって、やたら派手なデザインのアルミの小袋渡されたのを思い出して」
「はい」
「背に腹は代えられないと思ってそれで洗ったら、匂いがホントにすさまじくて、いくらお湯で流しても泡しか落ちなくて……時間がなくなって、そのまま」
「神成さんって……」
 それまで淡々と相槌を打っていた宮代が、そのままの調子で言った。
「ドジっ子なんですか?」
「いい歳した男にキッツいこと言うな君は……!」
 神成は頭を抱えて座り込んだ。ドジだけならまだしも『っ子』までつくのは厳しい。宮代の指摘はなおも冷静に続く。
「じゃあ大人っぽく相応に言い変えますけど……正直、『前日女性の家に泊まったまま来た』か『ラブホから出勤した』風にしか見えません」
「いいたいことはよくわかる!」
 神成は実感を込めて吐き捨てた。ラブホテルの石鹸の匂いを知っているのか? という追撃まで受けなかったのは、男同士の最後の情けなのだろうか。
「でも、神成さん独身なんでしょう? 別にいいじゃないですか」
 フォローらしきものが入って、ようやく顔を上げる。まぁどうせ女じゃないってみんな分かってますよ、という表情をされていたのが逆に胸に刺さった。
「でも一応イメージ商売なんだよな、警察官って」
 同職の顔見知りには事情を説明すれば笑ってもらえるかもしれないけれど、この香りを纏ったまま一般人に聞き込みをするのは、違法ではないがいかにも不適切だ。今日、現場周辺ではなく病院に回された理由の一部だって、実はこれなのに。
 神成が落ち込むほどに、宮代の顔貌には同情が色濃く出てくる。
「とりあえずなんというか、その。久野里さんには、会わない方がいいと思いますよ」
「そうかも……匂い抜けるまでここで仕事するっているのはナシかな?」
 縋るように見つめると、宮代ははっきりと首を横に振った。
「僕を巻き込まないでください」
「だよなぁ」
 神成も本気で言ったわけではない。本気でいさせてくれるならそんなにありがたいことはないが、そこまで甘えるわけにはいかない。
 よっと声を上げて立ち上がる。
「手間をかけたね、宮代くん。君は全く関係ないってしっかり報告しとくから」
「はい。頼みます」
「じゃあ見つかる前に渋谷署に戻――」
 振り返ったとき、戦慄した。
 ボディソープの件といい、今日はあまりに失態が重なる。今の今まで、この部屋に出入り出来る自分以外の人間がいたのを、忘れていたなんて。
「誰に見つかる前にだって?」
 いつの間にか、久野里澪が不機嫌そうに立っていた。宮代よりも露骨に鼻を押さえ、周囲を睨み付けている。
「何だこの甘ったるい匂いは」
 宮代は躊躇なく神成を指差した。久野里の容赦ない眼光が神成を射抜く。
「宮代くん!」
「事実ですし。僕ここに異物持ち込めませんし」
 抗議しても、宮代はただきっぱりと真実を述べるのみだった。
 神成の、そんな様にまでなってせっかく洗ってきた肌に、脂汗がにじむ。だが久野里は何も言わず、ふいと宮代に顔を向ける。
「宮代。前回の検査結果だが」
「あ、はい」
 宮代も居住まいを正して久野里の話を聞こうとしている。どうやら批難は免れたようだ。
「じゃ、俺はお邪魔だろうし今日は失礼――」
 神成は愛想笑いで部屋を出ようとして、神成さん、と冷ややかな声で呼び止められた。いや、続く響きは冷ややかどころか凍てつくようで。
「昨晩は随分お楽しみだったみたいだな?」
「いや、そういうんじゃ……!」
 言い訳は、首だけで振り向いた彼女の視線に制された。
「すぐに済むから、『奥の廊下』で待ってろ」
「はい……」
 奥の廊下、というのは、宮代の部屋に来る一つ手前の角を曲がった、行き止まりのことだろう。何せこの階は彼の貸し切りだから、他の患者はもちろん、スタッフすら定時以外にはほぼ通らない。
 非常識が白衣を着て歩いているような女に何を説教されなければいけないのか想像したくもないが、ろくな話はされない気がする。
「宮代、話の続きだ」
 久野里は神成に興味を失ったように、というより『この空間には神成岳志という人間など端から存在しないかのように』、話を再開した。宮代は申し訳なさそうに神成に一礼して、久野里に向き直る。
 ばっくれたいなぁ、と胃を押さえながら、神成は今度こそ宮代の部屋を出た。
 それにしても、今日の彼女はいつもより大人びて見えたようなのは、気のせいだろうか。