青すぎたシトラス - 4/5

○そうして最大の罠にはまる

 症候群者たちの検査結果を病室のパソコンでまとめ直しながら、澪は息をついた。
 彼らは概ね快復傾向にあるようだ。澪は医者ではないので治療自体は専門外だが、分析と指針を立てることなら出来る。全面協力と称してこの病院に通い始めてから、もう随分経っている気がする。
 別に彼らがどうなろうと知ったことではないのだけれど、症候群者の完全治癒で超誇大妄想が少しでも消えてくれるなら、澪にとってそれは『ギガロマニアックスを殺す』のと同じこと。だからこんな慈善事業のようなことにも付き合っているのだ。

 膨大な量のデータを統計として整理し終えると、椅子に座ったまま大きく伸びをする。
 噛まれた舌はもうほとんど治っていた。元々口腔粘膜は再生が早い。
 神成岳志はあれから病院に姿を現さない。澪に顔を見せないだけでなく、宮代のところにも来ていないそうだ。それが自分のせいだと思うほど、自惚れてはいないつもりだが――澪はまだ少し痛む舌先で、歯の裏を軽くなぞった。

 いつからだろうか。あの凡庸極まりない男を、もう少し手元に置いておきたいと感じたのは。
 多分、この部屋で口付けをした後だ。どうしてあんなことをしたのか、自分に理由をつけたくて無理に捻り出した。だから推測でしかない。後付けのつまらない憶測。
 本当は理由なんてなかったのかもしれない。ふと、あの無防備な口唇を、無性に塞いでみたくなった。それだけの、きっと気紛れな悪戯心。なのにあんまり本気で拒むから、こちらもムキになっていった。
 これが恋だとか何だとか、そんな甘ったるい気持ちなのかどうか、澪は懐疑的だ。手に入りにくいものだから、単にゲーム感覚で欲しがっているだけなのかもしれない。
 そちらの方が、宮代の言うような感傷的な理由よりも、余程納得出来るような気がした。
 ただ、何故あの男なのか、その証明だけがどうしても出来なくて。でっち上げた理屈はあまりに綻びだらけで、自分でも笑える。
 電話は鳴らない。誰の電話を待っているのかもよく分からない。誰にかけることも出来ない。
 明確な恋愛相談なら喜んで乗りそうな知り合いもいなくはないけれど、そんなことで手を煩わせたい相手でもない。

 とりあえずその部分での思考を停止させ、澪はパソコンでブラウザを立ち上げた。
 『その目神の目殺人事件』。先日三人目の犠牲者が、ライブハウス近くで発見されたそうだ。報道規制でもかかっているのかテレビや新聞などのメディアではほとんど見かけないが、ネットではまた騒ぎになっていた。
 とはいえ『再来』ほどではない。@ちゃんもツイぽも、また『情弱共のクソみたいな意見』が挙がっているが、かつての熱に浮かされたような勢いはなく、専スレは暇潰しの茶飲み話のようなペースで流れている。

『また宮代かいい加減にしろ』
『狂気が足りないやり直し』
『ほんそれ ニュージェネにしては殺し方が普通すぎ』
『三人とも女?ニュージェネって男ばっか死んでたイメージある』
『宮代がやったんは高柳と杯田と妹ぐらいじゃね なお全員ブスの模様』
『おい訂正しろ結衣たんはかわいいぞ』
『妄想乙』
『おまわりさんこいつです』
『確か初代は集団ダイブ以外女死んでないよな オッサン大杉』
『なお美味い手』
『今回全員美人ぽいぞ しかもナイフ姦とかwww』
『世直し拓留きゅん(笑)』
『けしからん女どもをボクのナイフでお仕置きしますた、ってやかましいわ!』
『全員特定した ttp://』
『マジか俺三人とも抜ける 何故顔面潰したし』
『OLとJKと底辺バイトとか見境ねーな 次はヤリサーのスイーツ(笑)でも狙うんですか宮代さん』
『だからこれ手口的にニュージェネじゃなくね?』
『>>1 信者は巣に帰れ』
『本スレ荒れすぎクソワロタ その目厨ちゃん暴れすぎ』
『儲とアンチの泥仕合ウマー いいぞもっとやれ』
『信者とかじゃなく、宮代のやり口と違わないかって、事実を言ってるだけなんだけど。認定厨は黙れよ』
『ゴミついてるよ』
『落ち着けID真っ赤だぞ』

 言葉遣いはどうしようもないほど低俗だが、意外と本質を突いている発言も散見される。
 澪は冷め切った缶コーヒーをすすりながら、情報をふるいにかけていく。
 『宮代拓留の犯行ではない』、これは確定。動機なしアリバイ強固。
 『ニュージェネとしては普通すぎる』、それにも概ね賛成。
 むしろ取ってつけたような『その目神の目』の方が余程場違いで、捜査撹乱の可能性も大いにある。
 刃物による性的暴行は、公式発表も確たるソースもないが、『腹部を執拗に刺されていた』という一部報道や、被害者が全員18~23歳の若い女性であることを考えれば、ありえない話ではない。
 その三人の被害者。年齢は発見順に20、18、23。なお死亡していた順に並び替えると18、20、23となる。
 職業は翠明の学生、建築会社の事務職員、コンビニに勤務していたフリーター。
 今のところ若い女性であるという以外に、これは主観が入るだろうが――整った顔立ちをしている、すなわち一般的に言う美人らしいということぐらいしか、共通する項目がない。
 しかし一人一人の殺害に時間をかけていることから、完全無差別の場当たり的な通り魔ではないと、澪は踏んでいるのだが。
 そういえば、三人目の顔はまだ拝んでいないな。気が付いたので、参考までにURLを踏んでみた。
 左の二人は確かに報道でも目にした面貌だった。狭いコミュニティ内では目立つかもしれない程度の美人。それだけ。三人目も、さほど変わらない。同じような印象の――。
(……待て)
 澪は椅子を鳴らして立ち上がった。一歩引いて、改めて三つの顔を一度に視界に収める。
 似ている。顔かたちそのものよりも雰囲気が。
 そして重要なのは、結果ではなくその原因。『彼女たち同士が似ている』のは結果で、原因は恐らく別にある。
 今日は乾いている口唇を噛み締める。
 犯人が本当にニュージェネに執着しているのなら、ほぼ確実に。彼女たちはただ――『似ていたから殺された』、のだ。
 この枠組みの外にある、一人の女に。
 澪は痺れの残る舌を打って、スマホを引っ掴んだ。今やかける先は一つしかない。電話は必ずワンコールで取られる。
「百瀬さん!? 久野里です。大至急、神成岳志に送ってほしいものがあります。2009年の――!」
 一方的に用件をまくしたて、了解の言葉を聞いてすぐに通話を切った。長距離を走ったかのように息が切れ、身体は汗をかいていた。
 クソ、と毒づいて澪は椅子に座り直す。こんなの、『お医者ごっこ』以上に私の仕事じゃないのに。
 ブラウザを閉じ、猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。
 今夜は、白衣を置いて出かけなければと思った。それまでにあのクソ間抜けな警官が、ちゃんと仕事をしてくれればの話だが。