青すぎたシトラス - 5/5

■グラジオラスの影をさがして

 そびえ立つ渋谷警察署、その傍らでどれだけ見事な月が照っていても、中の警察官には何ら関係がない。
 神成岳志は、プラスチックのケースからミントタブレットの粒を手の平にざっと流すと、それが何個だかも確かめず全部口に入れた。いい加減舌も胃もひりひりするが、こうでもしないとやっていられない。
「神成さん、少し休んだ方が」
「ありがとう。だがさっき15分寝たから」
 部下の気遣いを顔も上げずに一蹴すると、神成はタブレットを噛み砕きながら、昨日発見された三人目の件を中心に、事件について再考していた。
 被害者は23歳の女性。センター街のコンビニでアルバイトをしていた。
 やはり身寄りがないが原因は渋谷地震ではなく、15年クラッシュ直後に頻発した交通事故。症候群者ではない。勤務態度はいたって真面目。だが数日前から無断欠勤、不審に思った店長が警察に相談。自宅アパートは空。捜索の結果、昨日になってライブハウス跡付近の路地裏で発見。ちなみに、かつてファンタズムが活動拠点としていた辺り。
 死亡はその前日。眼窩および下腹部の著しい損壊。現場のアスファルトには被害者の血で『その目神の目』。
 一体何が目的でいつまで続くのか。何故殺されたのはあの三人なのか。
 『再来』と違って日付の模倣を放棄している分、警察も後手に回らざるを得なくなる。
 まさか渋谷中の女性に外出禁止令を出すことも出来ず、何とかしろと怒鳴るしか能のない連中に、俺が一番そうしたいんだよと怒鳴り返すことも出来ず、神成はただただ真面目に事件と向き合うしかない。
 だがそろそろ、『真面目』も限界か。
 ツイぽで見かけた『脱走した精神病患者』も、新宿のAH系列病院に入院していた20代の男だということが分かっただけで、今どこにいるのかも掴めていないし。
 気は進まないながら携帯電話を取り出して、着信があったことを知る。メールだった。携帯キャリアのものではなく、パソコンと同期しているアドレスにだ。鳴動が短いので、集中していて気付かなかったのだろう。
 差出人は、ちょうど今電話しようかと思っていた人物だった。
『お届け物。誰もいないところで見て』
 動画ファイルが添付されているが、ガラパゴス携帯で受信出来る容量ではない。
「悪い、やっぱり少し抜ける」
 私物のノートパソコンを取るために、部屋を移動しなくてはならなかった。
 空き部屋を探す時間も惜しく、更衣室のすぐ傍の壁に寄りかかり、イヤホンをしてファイルの受信を待つ。
 その動画に音は入っていなかった。駅、恐らく渋谷駅の防犯カメラ映像。記された数字によれば年は2009年、日付は地震による崩壊より前――。
 大きなリュックサックを背負った、いわゆるオタク風の男が立っている。待ち合わせのようにも見えずひどく目立っていた。
 そこに誰かがフレームインしてくる。翠明の制服を着た少女。誰かに似ている。少女の手の中に、唐突に何かが現れて。鮮やかに男のリュックを両断し、長い黒髪が広がる。
 似ている。あの、武器としてあまりに不合理な形の剣。以前、ギガロマニアックスたちにはディソードってどんな風に見えてるんだろうなと口にしたとき、久野里が、これは一例と言って写真を見せてくれたレプリカに。
 似ている。いや、そうではない。久野里は、ディソードは持ち主によって大きく形状が異なり、同じものは一つとして存在しないはずだとも言った。
 だとしたら、似すぎている。同じ特徴を持ちすぎている。つまりこれは。
「……オリジナルだ」
 呟く神成の声は無様にかすれていた。
 久野里の持っているレプリカは、このディソードを基に作られたに違いない。
 オリジナルのディソードを持つギガロマニアックス。長い黒髪が印象的な、涼しげな目許の少女。狼狽する男を一瞥もせず、手の中の巨大な得物を跡形もなく消して歩み去る長身。
 似ている。この少女は。
 三人の被害者は、いずれも若い女性で、またいずれも、髪が黒く長かった。生前の写真は全員、意志の強そうな切れ長の瞳で。
 似ている。まるで。
 唐突に聞いたことのない音が鳴る。一緒に開いていたツイぽの通知だと、すぐには分からなかった。
 メッセージが来ている。情報収集用のこのアカウントに、興味を持つ人間などいないはずなのに。
 差出人欄には『K』。アカウント名は『@k3_livethere』。本文は一行だけ。
『To the Catcher in the Crazy City』
「クソ!」
 神成は毒づいて壁を殴った。
 ツイート件数1。位置情報のみで本文なし。住所は渋谷区代々木、AH東京総合病院。
 どう考えても彼女の仕業だった。勝負を仕掛けている。連続殺人犯と神成、どちらが先に自分を見つけるか。
 そいつが『どんな目的のために』『どんな特徴の女を狙っているのか』、明確に自覚したうえで。
「サリンジャーとか嫌いなんだよ、俺は!」
 まぶたの裏の後ろ姿に怒鳴りつけた。
 すぐに頭を切り替えて、考えながら動き出す。
 どうやって追う。まず彼女が狙われることは確定情報ではない。
 犯人が今夜誰に目をつけるか、あるいは誰も殺さないか。そんなものは予測したところで、分の悪い賭けにしかならない。
 まだ誰にも言わずに探すことにしよう。
 とりあえずパソコンは絶対に持っていく。
 銃もだ。場合によっては発砲するし被弾させるかもしれない。署内では携帯していないニューナンブM60を手にして、欠損箇所がないことを確かめると、弾倉に執行実包を押し込んでいく。古い銃だからスピードローダーの規格が合わない。
 それに、こうやって一発一発、弾を丁寧に装填することで、命の重みを実感するのが、人を殺しうる道具を持ち歩く前の、神成なりの儀式だった。
「それ持ってどこ行く、神成」
 フルハラ警部だ。面倒なのに見つかった。内心で舌打ちしつつ、神成はトリガーの安全ゴムを確認してホルスターに銃を滑らせる。
「事件のことで、話を聞かなければいけない相手がいるので。会いに行きます」
「一人でか」
「そうですね。そうでないといけないと思います」
 警部はまたビニール袋を提げていた。歩み寄ってきて、先日の八朔とはまた違う柑橘類を取り出し、一つ差し出してくる。神成もそれを真顔で受け取る。
「すぐ戻るつもりです。もし一時間経っても、何の連絡もなければ――」
「なければ?」
 手の中で一回転、果物を弄んだ。滑々していて悪くない手触りだけれど、今は味わっている場合ではない。苦笑して、すれ違い様ビニール袋に果実を戻す。
「そのときは、渋谷に死体が二つ増えてます。捜してやってください」
 警部はそれ以上問いかけて来なかった。部屋を出ようとする神成に、背中を向けたまま一言呟く。
「神成、命令だ。死ぬなよ」
「そういうの、今時流行りませんよ。……善処します」
 そう答えてドアノブを捻る。決意の眼差し。凛とした歩みで進み行く。
 そしてもう大丈夫だなと思ったところで、神成は露骨に表情を変えた。
「ああいうドラマごっこ嫌いじゃないけど、今は急いでんだよな……!」
 だから面倒だったのだ、あの警部に見つかるのは。甘酸っぱいのはフルーツと頭の中だけにしておいてほしい。
 パソコンを小脇に抱え、今度こそ誰にもつかまらないうちに建物を出た。自分の車に乗り込んで、助手席にパソコンを置いてツイぽを確かめる。
 Kのツイート2件目。位置情報は依然代々木だったが、病院からはやや動いているようだった。
「安直なアカウント取りやがって……嫌味かよ」
 『k3_livethere』――自動投稿かもしれないが、とりあえず可能性としてこれが更新され続けている間、彼女は、『ケイさんはそこで生きている』。もしくは中継という意味でのLIVEなのかもしれない。いずれにせよ悪趣味だった。
 パソコンを申し訳程度にシートベルトで固定して、代々木に向けて車を発進させる。
 2009年、あの翠明の女生徒はディソードを現実化して、一般人の目にも触れるところで振り回していた。破壊していたのは恐らく、委員会の洗脳装置だろう。アレを神聖視する者にとっては、許しがたい冒涜であったに違いない。
 そして新宿の病院から脱走した男。重度の精神障害と診断され、代々木のAHから新宿に移されたそいつは、病棟内のロビーにあるテレビで『再来』の報道を見ると、必ず『被害者を』指差して、『違う』と呟いていたらしい。
 こいつじゃない、罰せられるべきはこいつじゃない、と。
 『宮代拓留逮捕』の際には、頭を掻きむしってこう叫んだそうだ。
『だから違うって言ったじゃないか』
 それきり病院を飛び出した。
 神成からすれば、そんな危険人物を野に放った時点で警察に連絡を寄越せよという話ではあるのだが、あのAHの系列なら後ろ暗いことでもあったのだろう。
 今そのことで病院スタッフをなじったところで、現状は好転しない。
 そして宮代の『新たな犯行声明』の直後から、『その目神の目連続殺人事件』が始まった。
 宮代が、男にとって最も裁くべき相手だった、そのギガロマニアックスを殺さなかったがゆえに。何年も前の記憶を頼りに、男は今も、あのディソードの幻影を探している。
 あの少女が何者なのかは知らない。当時高校生だったのなら、今は大学生か社会人のはず。男も途中でそれに気付いている。だから翠明の犠牲者は一人だけだった。
 多分、神成が本物を捜すことに意味はない。狂気そのものを鎖に繋がなければ、渋谷にいる無関係の女が死に続ける。長い黒髪の。背の高い、涼しげな目許の、若い女。そう、まさしく。――久野里澪のような女が。
「ふざっけんな本当、いい加減にしろ」
 どちらにともない呪詛の言葉を吐きながら、信号ごとに位置情報を見て、少しずつ進行方向を補正していく。
 彼女は代々木公園に向かってぶらぶらと南下しているようだった。
 こちらは車だ、大した距離じゃない、すぐに見つかる。そう言い聞かせてもちっとも近づいた気がしない。
 ようやく、この付近ではないかというところにやってきて、路肩に車を停める。
 最新の位置情報を取得しようとして、ノートパソコンのF5を押す。何も起こらなかった。更新されない。もう一度試しても同じだった。きっちり一定間隔で行われていた現在地の報告は、途切れていた。
「連投規制……の、わけないよなぁ」
 彼女がそんな初歩的なミスをするとは思えない。
 念のため携帯電話のビューアーからも確認をして、神成は久野里の個人番号をコールする。呼び出し音がずっと鳴っている。耳を澄ませて待つ。ばつん、と繋がったとき独特の弾けるような音がして、神成は出来るだけ能天気な声を出す。
「あ、澪? 俺さぁ、こないだのこと別に怒ってないから――」
 ぶつん、と今度は切れるとき独特の音がして。神成は、不謹慎にも笑ってしまった。
「本当に拉致られやがった、あの女」
 久野里澪は、神成岳志からの電話には99%出ない。1%の確率で出たとして、こんな馴れ馴れしい態度を『通話終了』などという生ぬるい手段で責めるはずがない。
 そして、最後に決定的な証拠が手元に転がり込んでくる。番号だけで送れるショートメール。文面はこう。
『ごめん、あとでかけ直す』
「ハッ、意外と気配り屋さんなんだな。道理でなかなか尻尾を掴めないわけだ」
 だが今回に限っては悪手だ。なにしろ。神成は笑いながら、携帯を助手席に放ってステアリングを握り直す。
「隠滅を図る余裕があるんじゃ『心神耗弱』は厳しいぞ。黙って電話を切ったら謝るべきって、常識的な考え方もな。――それくらいでごめんなさいが言えるなら、久野里澪はもう300回ぐらい俺に頭下げてていいはずだ」
 撒き餌になったのは彼女の意思だが、今日被疑者の男が彼女を狙ったのは『代々木にいた最も特徴の近い女』だったからだろう。だったら代々木からは離れない。AH総合病院以外に、この付近でニュージェネの舞台となった場所があるとすれば……。
「高科史男の遺体発見現場!」
 今まで失踪から殺害までには数日以上の猶予があったが、犯行ごとに期間は短くなっている。四件目ともなれば即日だっておかしくはない。悠長にしている余裕はなかった。
 アクセルを踏み込む。
「間に合え、間に合えよ……!!」
 『今度こそ』。強く念じながら、神成は車を走らせる。
 これが正義でなくともいい。エゴだ私情だと批難されてもいい。ただ、今度こそ。
「俺はもう誰かを、遠くに置き去りにするのは……嫌なんだ」
 呟いた本音すら、本人の気付かぬままに風が撒き散らしていった。

■食べ頃は今じゃない

 神成が代々木の路地裏に車を停めたとき、KのTLには新しい投稿が1件だけあった。
 最新の位置情報は、この辺りの民家。
 2016年の渋谷は、主要な街並みこそ甦っていたけれど、住宅地はそう簡単でもなかった。
 住まわせるべき主を永遠に失ったままの家も、この街にいることに耐え切れなくなり家を捨てて出て行った者も多い。だから一見普通の住宅街に見えても、近づいてみたら廃屋が交じっているということは珍しくもないことで。今回の監禁殺害は、死角であるその廃屋を使って行われ続けてきた。
 しかし手口が分かってきた今、犯行に使われそうな廃屋を、事前にいくらか絞り込んでおくことぐらいは出来る。候補の一つ目は外れだったが、次に向かった細い路地の奥に不自然なバン。手入れのされていない玄関先、雑草をついさっき踏み潰したような、青い匂い。
 神成はホルスターのふたを外し、密やかに息を吐く。息を止めて、銃把を握り、ニューナンブを取り出した。
 少し悩んだけれど、フルメタルジャケット弾を一つ抜き、左手に握り込む。シリンダーを戻して、その空白が決して一発目に来ないことを確かめて、安全ゴムを外した。
 もう一度無線の所持を確認、銃口を下に向けると、ふっと鋭く息を吐いて、迅速かつ静かに屋内に踏み入る。
 最初に目に入ったのは、床に座っている久野里の姿だった。
 柱などに括り付けられている様子はないが、両手を後ろに回してじっとしている。碧朋の制服姿で、白衣はなく、『彼女』に近づけるためなのか髪は結ばれていなかった。少し眠そうな顔をして、神成に気が付くと視線を少しだけ上げた。
 すぐ傍に見知らぬ男が立っていた。明らかに正気ではない様子で、ぶつぶつと何かを呟いている。
「何をしている」
 神成は低く抑えた声で尋ねた。人差し指はまだトリガーガードに。撃鉄も起こさない。慎重に踏み出す度に、割れたガラスが、腐りかけの床が不快な音を立てる。
「ゲームは終わりだ。どっちの勝ちでもない、引き分け。もう気は済んだろう。俺はこれ以上くだらないお遊びに付き合うつもりは――」
「これは遊びではない!」
 いきなり男が声を荒げた。金切り声で、右手のコンバットナイフを振り回しながら喚く。
「裁きだ!! オレは神を見た、神光の救いを! あの悪魔はそのご威光を隠した、冒涜の背信の徒! ミヤシロは正しく誅を下さなかった! 万人に遍く『その目』が『神の目』であることを説かなかったが故に――!!」
「うるさい! 俺はその女と話をしてるんだ!!」
 頭痛に耐えかねて怒鳴り返してしまってから、しくったなと神成は内心で舌打ちした。
 だが、今ので男の敵意は久野里を傷付ける方でなく、神成を排除する方に向いたらしい。これはこれで成功か、と銃把に添えていた左手を外し、ゆっくりと頭の後ろに持っていく。
「話を遮ってすまなかった、君の主張を聞こう。……だからもう少し、彼女から離れてくれないか」
 視線を男に固定したまま、左手も動かさず、右手の銃をそっと床に置いた。男が顎をしゃくるので、右足で蹴って、手の届かないところまで飛ばす。
「聞かせてくれ。君の言う、『悪魔』のことを。出来るだけ詳しく、俺のような『愚かな民衆』も『遍く理解』出来るように」
 右手も頭の後ろに回した。これで神成は無抵抗の丸腰というわけだ。
 これまで『崇高なる目的』を世に理解してもらえなかった男は、堰を切ったように犯行の動機と方法を早口で語り始めた。神成が己の袖口に密ませた、ペン型のICレコーダーが、ついさっきから録音を始めていたことも知らずに。
 はっきり言って、神成は内容を全く聞いていなかった。
 稚拙で支離滅裂で、お話にならないとはまさにこのことだ。真剣に聞き入っているような顔をして、気付かれないようにじりじりと、半歩ずつ距離を詰めていく。
 男のボルテージが上がっていく。唾を撒き散らして叫ぶ。そこであろうことか、そいつは久野里澪を指差して。
「その女は敬虔なる信徒だ、オレの話を理解した! 供物になることを願った、故にこれより殉教の儀を――!」
「笑えるな、それ!」
 言いながら神成は、左手を思い切り振った。握ったままだった.38スペシャル弾が男の鼻先に当たる。当然弾丸一つ投げつけただけでは何の威力もない。不意を突いただけ。状況を理解される前にだんと踏み込んで、無様に仰け反った懐に入る。振り下ろされるナイフ。両手の親指でその手首をブロックし引きつけるように身を捻れば男は簡単にバランスを崩し、神成の左肘は勢い任せに男の喉へ叩き込まれる。咳き込んでナイフを取り落としたところに神成の右膝がしたたかに急所を打ち、悲鳴すら上げられず男は倒れる。
 そこで、かちりと重い音がして。神成は、やっとお目覚めかとため息をつく。背後にいるから見えないが。彼女はきっと笑顔で引き金に手をかけている。今のは絶対に、ハンマーを起こす音だから。
 神成は半分だけ男に同情しながら、ICレコーダーを止めた。 
「ご愁傷様。今夜の贄はお前だってさ。それでその女は――お前の首から下には用がないそうだ」
 聞くに堪えない悲鳴が上がった。這いつくばりながらなおナイフを拾おうとする諦めの悪い背中を踏み潰して、神成は男の両手首に手錠をかける。時刻を確認しつつ、そのままどかりと男の背中に腰を下ろす。ぎゃあぎゃあうるさいので、上から顎を床に叩きつけてやったら大人しくなった。
 久野里が傍らにやってきて、肩をすくめる。
「過剰防衛では?」
「女子供を殺して犯そうって奴に過剰もクソもあるか。死なないだけありがたいと思え」
 神成は彼女の顔を見ずに右手を差し出した。素直に銃が返却される。慎重に撃鉄の位置を戻して、ホルスターに入れた。
「やっぱり、いつでも抜けられるように縛られてたんだな」
「勿論。素人に私が御しきれるとでも?」
 楽しそうに言われても笑う気になれず、神成は少し迷って、無線ではなく携帯電話を取り出した。
 こんなのはただの独断暴走で、大っぴらに報告なんて出来やしない。なるべく面倒を引き受けてくれそうな人間に回すに限る。というわけで、電話したのは。
「あー、警部? すみません神成です。19時23分、未成年者略取及び殺人未遂の現行犯で男を逮捕しました。はい、例の連続殺人事件についても関与を認めています。そうです、ええ、しかし被害少女が憔悴しているので、男と同乗させたくありません。至急応援を願います。現場は――」
 ほどなくサイレンを鳴らさずにパトカーが到着して、昏倒したままの男を運び去っていった。
 神成は、知り合いだから自分が連れていくと言って、久野里だけを残らせた。
 二人きりになって、口を閉じてろと告げてから、白い頬を右手で張る。久野里は文句も言わず、殴られた角度のまま斜め下を見ていた。神成は感情を殺した声で問う。
「俺を暴行罪で訴えるか?」
「いや。これは、躾だろう」
 久野里は首の後ろをかきながら、他人事のような口調で答えた。もう一発叩きたいのを、ぐっとこらえる。
「何故すぐ逃げなかった」
「捕まったのが私なら、あんたは必ず見つけ出してやってくるだろうと考えた。『ケイさん』は一通の発信用キャラだから、戯言を聞きながら同調してやるって芸当は少し骨が折れたが」
 要するに、身の安全を確保しながら時間を稼いだと。このお嬢さんはそう言いたいらしい。
 神成は、頑なにこちらを見ようとしない少女を見下ろしながら、低い声で続ける。
「以前君が有村さんを囮に使うと言い出したときも、俺は『そんなこと出来るわけがない』と怒鳴った。そうだな」
「ああ」
「俺は。子供を危険にさらして点数稼ぎするほど、落ちぶれてない」
「そうだろうな」
「ちゃんと――!」
 語気を強めると、解ってる、と静かな声がそれを遮る。
「どうやら点数を稼ごうとしたのは私の方らしい。――You’d just be the catcher in the crazy city and all. You know it’s insane, but that’s the only thing you’d really like to be. 」
 涼やかな発音の英語。神成は文学にもサブカルチャーにも詳しくはないけれど、何をもじった文章であるのかは分かったし、これが引用された過去の警察アニメも、概要ぐらいなら知っていた。
 舌打ちをして、スーツのポケットに手を突っ込む。
「言っとくが、日本の警官で『ライ麦畑』が好きな奴はいないと思うね。あと俺は別に馬鹿なガキを助けたくて仕事してるんじゃない、馬鹿なガキを抱き止めるのも業務に含まれてるからやってるだけだ」
「結構なことで」
 彼女もポケットに手を入れようとして、今は白衣がないことに気付いたようだった。
 神成はこめかみを押さえる。また一段と、頭痛がひどい。
「お前は本当に、子供だよ。後先考えないで大人に尻拭いばっかりさせて。傍迷惑にも程がある」
「否定はしないさ」
「解ったような口を利くんじゃない」
 どこまでも大人ぶった口調をぴしゃりと否定して、前に出る。
 眼前まで顔を寄せると、彼女はようやく神成の顔を見た。探るような眼差し。少しだけ柔らかく微笑みかけてから、神成は――全力で、自分の額を彼女の額に叩きつける。
「いっ……!」
「いつまでも甘ったれてんな、クソガキ!」
 自分も結構痛かったが、仕方ない。本気でぶつかれば、ぶつかった方だって傷つくのだ。それでも必要だと思えばそうする。何故なら彼女は子供で、自分は、大人だから。
「謝らなくてもいい。だが反省は死ぬ気でしろ。……俺がどれだけ、お前のこと心配したと思ってる」
 久野里は額に片手を当て、俯いたまま答えなかった。神成も答えを急かさなかった。
 やがて彼女は顔を上げ、何か言おうと息を吸う。その、出逢った頃より幾分女性らしくなった口唇を、神成はそっと人差し指と中指の背で塞いだ。
「2年待ってやるよ」
 苦笑する。何だかんだで、こうやって甘やかしてしまうのがいけないのだろうに。彼女には、期待したくなる。望みたくなる。
 だから、人生の先輩としてつまらない宿題を。
「子供を卒業するまであと2年だ。それでちゃんと大人になれたら、そのときは本物の口唇をくれてやるし、舌でも何でも入れてやる。お前がまだそれを欲しがってたらな」
 彼女は一瞬あどけなく目を丸くした後、神成の手首を掴んで、ふっと笑う。
「下ネタかよ」
「は?」
 意味が分からなくて聞き返した。しかしすぐに、自分がどんな誤解を招きかねない発言をしたのかに気が付いて、彼女の手を振りほどく。
「違ッ、何っていうのは、そういうアレじゃなくて! 違うからな!?」
 彼女はくつくつと腹を抱えて笑っていた。
 全然格好がつかない。嘆息する神成の前に、名刺ぐらいの小さな何かが差し出される。その辺で売っているような、つまらないミントタブレットのケースだった。
「これを買いに出てたんだが、あんたにやるよ。2年も空いたら口寂しいだろうからな」
「え?」
 何を言っているのかよく分からない。
 彼女は口唇の端を歪めながら、自分の手の平に一粒その中身を落とす。鮮やかな黄色をしていた。
「私のチャップスティックの香りを覚えているか?」
「知らないけど……柑橘の香りだったと、思う」
「そう。厳密には柚子らしいが、『柑橘』という括りの方が私には都合がいい」
 反対の指でその粒をつまみ上げると、仕返しのように神成の口唇にやわらかな指の腹が押し付けられて。清涼感と酸味のある固形物が、強制的に舌の上を転がる。
 久野里は指を離すと、神成のネクタイを引っ張って、勝手に胸ポケットへそのケースを滑り込ませた。触れられない至近距離で、上目遣いに言う。
「シトラスミント。人間の記憶は香りと密接にリンクしてる。あんたはきっと、柑橘の香りを嗅ぐ度私とのキスを思い出す」
「なっ、あっ……!?」
 神成が紅潮する顔を隠そうと鼻の辺りに手をやると、そこはちょうどさっき彼女の口唇に触れた箇所で。柚子の香りがダイレクトに鼻腔に響いて。くらくらする。
「さ、そろそろ行くか。まだ聴取が残ってるだろ?」
 颯爽と歩き出そうとする彼女の手首を、思わず掴んだ。
 いや違う。動揺したとか、意識したとか、そういうことではなくて。ことではなくて……。
 神成はこれがどれほどクソ間抜けな台詞か全く自覚したうえで、自分にとっては死活問題だが、彼女にとっては死ぬほどどうでもいいであろう、頼みごとをする。
「……あのさ。さっき投げたフルメタルジャケット弾、一緒に探してくれない?」
 思いきり蹴られたけれど文句は言えなかった。

★大人の味ってどんなです?

「じゃあ僕とは関係なく捕まったんですか、犯人」
「ああ、申し訳ないね。不安がらせただけだった」
「いえ、そう聞いて安心しました。ありがとうございます」
 久しぶりに顔を見せた神成は、ご丁寧にも拓留に事件の概要を教えてくれた。
 事件自体にはさほど興味もなかったけれど、もう『ニュージェネ』絡みの死人は出ないという情報は、拓留にとっても素直に喜ばしい。
「ところで」
 それはそれとして。拓留は、ずっと右ポケットに入れっぱなしの神成の右手を、じろりと見る。
「さっきから何をカシャカシャさせてるんですか? うるさいんですけど」
「へ? あ!」
 全く無自覚だった、というようなリアクションをされるのだから、驚きたいのはこっちだ。あれだけ会話中にノイズを立てておいて、本人は気付いていないとは。
 神成はばつが悪そうに視線を泳がせた。
「いや、その……俺も多分、久野里さんに『捕まった』」
「それも僕とは関係ないですね……」
「すまん」
「いいですよ、別に」
 拓留はぐっと伸びをする。ずっとこの部屋にいるだけだから、たまには少し動かさないと、本当に固まってしまうのだ。
「今の自分が恵まれた環境にいないからって、他人を恨むほど狭量じゃないつもりなんで。一応」
「その、別に恨まれたり羨まれたりするほどのものじゃないというか。むしろ悪質な契約書にサインしちまった気分」
 神成は言い訳がましく言う。この期に及んで何だこの人はと拓留は内心で罵りつつ、口に出す言葉には少し多めにオブラートを。
「ペンを持ったのは神成さんでしょう? 自分の意思だったくせに」
「今日は一段と皮肉がきついなぁ……」
 力なく苦笑された。こんなに手心を加えてやっているのに心外だ。これだから大人ってやつは打たれ弱くて困る。拓留はため息をついて、もうこの件に触れないことにした。
 そこに、更に厄介なのがもう一人。
「宮代! 検査結果だが……」
「あーそれじゃあ宮代くん、また来るよ!」
 神成がすさまじくわざとらしい声を上げて立ち去ろうとする。いつもなら、お疲れ様ですとか気をつけてとか声をかける拓留だが、今日は意識して台詞を変えた。
「もうちょっと、上手い逃げ方覚えた方がいいですよ。神成さん」
 大人なんだから、とは言わないでやった。だが首ががくっと下がったということは、自分でも解ってはいるのだろう。
 彼をちらりとも見ず入ってきた久野里は、拓留に経過報告をするときはいつも持っているバインダーを黙って開く。心なし機嫌がよさそうではあったから、神成がこのままそそくさ逃げたところで、今日のところは平和に終わる確率が高い。
 だがやはり『大人だから』なのか、神成は頭をかきながらも振り返った。そして、久野里さん、としっかり彼女の名を口にした。
「あ?」
 久野里は、そんなはずはないのだが――今初めて神成に気が付いたように、視線だけで彼を向く。
 きっと覚悟して呼んだのだろうから、勇気に免じて少しは愛想よくしてやればいいのに、と拓留は胸中で思った。多分照れ隠しではなくて素で柄が悪いんだろうな、とも。
 神成はかえって安心したと見えて――この辺が拓留にとってこの二人のよく解らないところではあるのだが、笑って胸ポケットから何かを取り出す。
 先程、ずっと神成が発していたのと同じような音が鳴る。
「これ、俺から君に」
 小さなカードのような何か。よく見るミントタブレットの、一番ハードなものだった。
「大人は苦くて辛いぞ。覚悟しとけよ」
 久野里にそれを投げ渡すと、じゃあなと今度こそ余裕ある足取りで、神成は部屋を出て行った。
 拓留にはよく意味が解らない。だが別に解りたくもない。
 久野里は一通りパッケージを眺めた後、ケースを軽く掲げて見せる。
「宮代もいるか?」
 幸せのお裾分けなんて僕がもらっても、と思いつつ、『大人』という響きが引っかかって、じゃあ一粒だけ、と右手を差し出した。
 白い、薬みたいな粒が転がり出て。彼女も自分の手の平に一粒を出して。
 取り決めたのではなかったけれど、同時に口に突っ込んだ。
「かっら! ちょ、水!」
「ふうん。刺激的で悪くない」
 のたうち回る拓留に対して、久野里は涼しい顔で刺激物を噛み潰している。
 付き合いきれない。拓留はベッドサイドのピッチャーからおぼつかない手つきでコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。
 久野里はいっそう機嫌がよさそうに、二粒目を口にしていた。にやにや笑う横顔を見ながら、結局また僕はこの二人に巻き込まれたんだなぁと拓留はため息をつく。
 だが――。
「久野里さんがそれで未来を楽しみに思えるんなら、僕はいいですよ」
「なんだと?」
「こっちの話です」
 聞き返す久野里に笑って、二杯目を注ぐ。
 好きに利用してくれればいい。最早価値のないこの身が、誰かの役に立つのなら。それぐらいの夢を、抱いていてもいいうちは。
「悟ったような顔をするな。そう他人事でもない」
 何かに頭を押さえつけられて、拓留は飲みかけていた水を軽く吐き出す。視線を上げると、バインダーで頭を叩いたまま、久野里は拓留を見下ろしていた。
「あいつは、どうしてもお前を即身仏に戻したくないようだからな。否が応にも、いつか『未来』とやらに向き合わされるかもしれないぞ」
 彼女は微笑んではいなかった。拓留を哀れまないし、同情もしない。見せる感情は、一般的な優しさとも随分違う。けれどふと見せるその眼差しには、確かに熱を持った血が通っていて。
 拓留はその視線を向けられることが、本当は心地よかった。呆れながらも彼のお節介を受けることと、同じくらいに。
「それは結構、一大事かな」
 無理やり肩をすくめた。
 諦めたことを掘り返してこないでほしいのに。結局彼は、拓留たちが本当の『大人』になれるまで、世話を焼いてくるのだろう。くれるのだろう。この足が震えずに大地を踏みしめられるようになる、最後の時まで。
 彼女のことを見守り続けるのと同じように。
 
「やだな、本当、辛くて。……涙が出そうですよ」
 口直しでも? と差し出されたシトラスミントのタブレットを、やんわり断る。
 何も見えない窓を見遣って、拓留は微笑んだ。
「もう少し、大人の味を噛み締めていたいんで」
 2年前の自分が今の自分を想像出来なかったように、2年後の自分も今の自分には想像出来ない。
 けれど。これほど傍にはいられなくとも、二人のことを知ることが出来るくらいの距離には、居続けたいと。それだけのささやかな願いは、許してもらえるだろうか。
 あの子の幸福を望む、絶対の祈りの他に。
「ありがとう、ございます」
「何が」
「何でもないです」
 少しだけ、未来が楽しみになったから。口にはせずに、拓留は目を閉じて、鼻の奥を鋭くつく香りを確かめる。
 まぶたを上げたとき、久野里は珍しくリップクリームなど塗っていて。スティックに蓋をすると、いつもの顔でバインダーを開く。
「もう説明を開始しても?」
「はい、お願いします」
 この部屋の中では今、彼女の顔ぐらいしか見えはしないけれど。
 彼の歩く渋谷の上に広がる空は、きっと青く春らしく、晴れ渡っているだろうと思った。