青すぎたシトラス - 2/5

○ネズミを追い詰めすぎてはいけない

 神成岳志がいかにも居心地悪そうに袋小路に立っていたので、澪は足早に近づいていき、飛び蹴りの勢いで彼の両脚の間に右足を叩き込んだ。白い壁がびりびりと震える。
 神成は引きつった笑みを浮かべ、恭順の証なのか両手を挙げてみせる。
「……俺もしかして今まさに、流行の『壁ドン』ってやつされてる?」
「これは派生形の『股ドン』だ、情報は正しく掴めよ。あと壁ドンは今もう然程流行ってない」
 言いながら、別にこの姿勢が何と定義されていようと澪にはどうでもいいことだった。重要なのは神成岳志を逃がさないことだ。
 大概の男を見下ろす長身――ただし神成に関しては彼の方がやや目線が高い――で、至近距離から神成を睨み付ける。
「で。なんだ? この匂いは」
「別に……君に答える義理はないよ」
 神成は急に声を低くして、視線を斜め下に落とした。
 まぁいい。言わないなら調べるまでだ。澪は神成の胸倉を掴み、ワイシャツの襟の隙間に鼻を突っ込んだ。
「ちょ……っ!」
 暴れる神成を、片手で壁を殴って黙らせる。
 この無駄にアジアンな香りは、石鹸だろうか。上から明らかに違う香りを重ねてある。シャボン系のユニセックスなオードトワレ。南国の果物とハーブを組み合わせたような強烈な匂いに完全に負けている、というか隠そうとして逆に目立たせてしまっている。西瓜に塩を振ったようなものだ。そこに彼自身の汗がかすかに混じって、もう収拾のつかないことになっていた。
 大方もらいもののバスグッズでも間違って使ったのだろう、本当に間抜けな男だ。
「だから、こういうの、やめろって……!」
 神成が澪の両肩を強く押す。澪の方でも分析が終わったので、いつまでも彼にしがみついている理由はなかった。
 素直に距離を取って、とりあえず今は手出しする意思がないと示す為に、白衣のポケットに両手をしまう。
 神成はついさっきまで澪が息をしていた辺りをこすりながら、床を睨んだまま苦い声で吐き捨てた。
「君みたいな若い子にとってはどうか知らないが。俺ぐらいの歳になると、『一度キスしたぐらいで彼女面されちゃ迷惑』なんだよ」
 澪も彼女面した覚えはないが、少し気になったので黙っていた。
 神成はしきりに襟の中をこすっている。指先の感覚を気にしているようだった。
「なんか……ぬるっとする。グロス?」
「知ったかで若そうな言葉を使うなよ。ただのチャップスティックだ」
 澪は自分の口唇に軽く触れてみた。しっとりと潤っている。
 普段は身だしなみに気を遣う方ではないが、前のシーズンには乾燥が過ぎて、下口唇がぱっくり割れたのだ。裂け目から血が流れてきていたので、百瀬が慌ててストックのリップクリームを一本くれた。確か国産の無添加でどうとか言っていた。
 とりあえず薬用品で傷を治してから、一応予防ということで、そちらも気が向けば何度かつけている。と言っても、塗るのはこれでまだ三度目か四度目だが。神成と会うときには初めてかもしれない。
「柑橘、の香り?」
 神成は指先を鼻に近づけながら眉をひそめた。
 自分の肌にあれだけスパイスがかかっていたのに、よく推測出来るものだ。警察は犬でなくとも嗅覚強化の訓練が要るのかと、つまらないジョークは胸の内にしまう。
「さぁ。あまり気にしたことがない」
 澪はポケットの中でスティックを弄びながら、再び神成に近寄った。取り出して外装を見てみれば済むのに、そうはしなかった。
 ずいと、神成の顔を覗き込む。
「味ごと確かめてみるか?」
 彼は下を向いていたので、口唇を奪うのは容易だった。
 一度目は軽く触れただけでつまらなかったから、今日は舌をねじ込んでみる。すぐに鋭い痛みが走った。噛まれたと瞬時に分かった。神成は勢いよく澪を突き飛ばし、いかにも汚いと言うように自分の口を手の甲で乱暴に拭っている。
「いい加減にしろ。不愉快だ」
 ふむ、と澪は舌を口内で動かして、傷の具合を確かめる。少し血が出ているが、流石に噛み千切るほどの強さではやられなかった。この期に及んで手加減とは、随分余裕があるらしい。
 神成は、かつての有村がいなくとも真実だと分かるトーンで、まだ何か言っている。
「どういうつもりか知らないが、こういうことはもうやめろ。本気で迷惑してるんだ」
 澪も、彼が喜ぶなどとは毛ほども思っていなかった。彼女は彼女の好奇心に基づいて行動したにすぎない。彼がいつかこんな風に、真剣に怒り出すことも予想していた。
 だから動じるわけでもない。反論する要素もないのでただ聞いている。
 それにしても、誰に対しても同じ調子で説教するなと思って見ていた。いちいちそんな風にムキになっていて疲れないのだろうか。
 ――まぁ、今回はキャパシティ越えまで遊んでしまった私が悪いか。
 そう分析はしたものの、特に反省もしていない。
「これで痛い目見たなら、二度と軽率に男の口に舌を突っ込むな!」
 最後にそう捨て台詞を残して、神成は澪の横を抜け、長すぎる廊下から足早に去っていった。
 じわりじわりと鉄の味がして、しばらくは何を食べるにも沁みそうだと、澪は小さく舌を出した。