第六章 こんな空の下でさえ - 2/6

SIDE Rethe

 

 

戯れに似て

 

「なぁ、アイク。その――手に巻いている布を交換しないか?」
 決戦の日の夜明け前、レテはアイクの天幕を訪れてそんな提案をした。
 ガリアの民にとって、愛の告白かそれ以上のものである。レテだとて、簡単にそんな申し出をしたのではない。
 この日攻略するはずのナドゥス城には、アイクの父の仇である漆黒の騎士がいるという。部外者のレテにはどうすることも出来ない。見守ってやることすら彼の邪魔になるだろう。
 だからせめて、自分の『証』を一緒に連れて行ってほしかった。手を繋いでやることの代わりに。
 妙なことを、と言いながら、アイクはすぐに受け入れてくれた。アイクが布を解くので、レテも自分の方を解く。
「多分あんたの鼻には相当臭うぞ。まめに替えてはいるが、やっぱり汗が染み付くからな」
「私もお前と同じようなものだろう。たまに洗ってはいるが、替えがないだけ私のものの方が臭うかもしれないぞ」
「あんたの匂いなら、俺は別に構わないが」
 アイクがさらりと言うので、レテは思わず赤面した。再三思ったように、きっと深い意味はないのだ。かえって腹立たしい。交換するときに指先が触れた、それだけでもう、レテの心は揺れるというのに。
 二人は慣れた手つきでそれぞれ自分の腕に布を巻いていった。一見何も変わらない。けれどレテの決意を固くするのには充分だった。
「ありがとう。これで私も、まだお前のために戦える」
「よく分からんが……」
 アイクは手の甲に鼻を寄せながら答える。
「レテの匂いがするから、俺も安心する」
「ばかもの」
 レテはいつもと同じような文句で、また頬を赤く染める。
 全くアイクという奴は、口説いている自覚がないのだから曲者だ。無表情で歯の浮くようなことを言う。
「……用件は、それだけだ。じゃあな」
 レテが言い捨てて去ろうとすると、その前にアイクは、なぁと短く声をかけた。振り向くと、あの真っ直ぐな目で迷いなくレテを見つめている。
「今日も、漆黒の騎士と出逢うまでは隣にいてくれ。その方が落ち着く。それに――」
「それに?」
 懲りずに期待する心と裏腹に、素っ気なくレテは尋ねる。アイクは躊躇なく言い切る。
「俺の帰る場所は、ひとつじゃないって思い出せる」
 レテは耐え切れずに天幕を飛び出した。逃げたのは羞恥だけではなかった。ミストが、彼の妹が近づいてきているのが分かったからだ。アイクとよく似た、しかしもっとやわらかい香り。肉親の時間を邪魔しては悪いと思った。 
 ラグズの天幕が並ぶエリアに戻ると、朝の鍛錬をしているライに遭遇した。
「なんだレテか、アイクかと思っ――」
 言いかけて、ライは急に顔色を変えた。自らの髪色と同じ青に。
「な、なんでそんな、オマエ、アイクのにおいすんの……? えっ、えっ? もし、かし、て……」
 そして震えながら、ライはとんでもないことを口にする。
「アイクと、寝た……?」
「そんな訳があるか!!」
 レテは質の悪い冗談を叱り飛ばしたが、ライときたらまるで冗談ではない顔つきである。
 大声のせいで他の連中まで集まってきてしまった。
「なになに、どした?」
「うわレテ隊長ベオクくせっ」
「あれっもしかしてやっと女になった?」
 下劣な話題だから、殊更癇に障ったわけではないけれど。
「――やめろ」
 がやがやと笑っていた連中が、レテの低い声で水を打ったように静かになった。レテが恥じらっているだけなら、こうはならない。もっと騒ぎ出す。皆が黙ったのは本気を感じ取ったからだ。
 レテは熱い顔をぐいと左腕で拭った。アイクの匂いがした。
「私はラグズでアイクはベオクだ。そういう関係を疑うことは、禁忌を囃し立てるも同然だろう。我々は女神を侮辱してはならないはずだ、違うか兄弟?」
 獣牙の同胞たちは神妙な顔つきで頷いていた。
 ラグズとベオクの愛の果て――『親無し』もしくは『印付き』。呼び名はどうでもいい。この世に生み出してはいけないものだ。
 だからガリアの戦士たちは誓う。
「じゃあ! レテの禁じられた恋を、せめてクリミアにいる間だけでも応援してやろう」
「いい思い出たくさん作らせてやろう」
「なんだったら初ちゅーぐらいは捧げて帰ってもいいんじゃないだろうか?」
「な・ん・の・相談だ貴様らァアアア!!」
 こうなってしまってはもうレテは格好のオモチャである。やれどこまでいった、やれどこに惚れたの質問攻めだ。
 モゥディが事情を理解していないながら、イじめはヨくない、とかばってくれた。しかしライは珍しく拗ねたような顔をして、レテを助けてはくれなかったのだった。
 空がレテの瞳の色に染まる。運命の日の朝が、訪れる。

 

 戦いは苛烈を極めた。
 デイン軍は、クリミア防衛の要とも言える双璧のうち、片方のピネル砦を既に失っている。だが撤退や投降はなされなかった。デイン兵にとってそれは『死』と同義である。背水の陣でもまだぬるい。狂ったようにただ前へ、前へ、一人でも多くのクリミア兵を凶刃の錆にしようと得物を振り回す。
 既に理性のない『なりそこない』と呼ばれるラグズの狂戦士も同様である。恐れを知らない敵ほど厄介なものはない。
「行ってください、アイク!」
 その窮地で、セネリオが叫んだ。アイクが漆黒の騎士との一騎打ちを申し出たとき、一番難色を示したのは彼だったのに。行く手を阻む敵兵を疾風が切り裂く。
「すまん、セネリオ。無事で帰る!!」
 アイクはそう答えて駆け出した。レテは化身せず、その後ろをつかず離れず走っていく。
「レテさん、あのときの借り!」
 ヨファが弦を引き絞り、レテのことを狙っていた魔術兵を屠った。だがそのせいで、後ろにいた兵が斧を振りかぶるのに対する動作が遅れた。代わってアイクが抜き身の剣を構える。しかしその刃が血に濡れる前にデイン兵は事切れた。
「――ったく。一人倒して気ィ抜くなって、いつも言ってんだろうが」
「シノン」
 レテは思わず名を呼んだ。自分の身に迫る気配は自分で振り払えたが、あのシノンがヨファのフォローとはいえ、ラグズの自分を助けてくれるとは。シノンはその感慨を読み取ったらしく、苦虫を噛み潰したような顔をして顎をしゃくる。
 アイクがレテの手を取って先を急ぐ。
 雷が道を作る。炎が道を拓く。剣が敵を斬る。斧が敵を倒す。槍が敵を薙ぐ。
「アイク!!」
 そして、猫が叫ぶ。
 レテは化身してアイクの足元をすくうように滑り込んだ。そこにアイクが危なげなく乗る。
「度々足にしてすまんが、頼む!」
『気ニスルナ。毎度ノコトダロウ?』
 レテは先へ先へと目標を捜す。モゥディに乗ったミストが少し遅れてついてくる。
 幾多の敵を払いのけながら辿りついたドアの前には、見覚えのない一人の男が立っていた。四駿クラスとまではいかないまでも、只者ではないことは気配で分かる。
「漆黒の騎士はこの奥だな?」
 アイクはレテから降りてそう尋ねた。ミストもモゥディから降りる。名も知らぬ男は、左様、と重々しく答える。
「だが、私とてデイン将校の端くれ。騎士殿の前に、私を倒さねばならぬこと……お忘れなきよう!」
「出張るな、三下ァッ!!」
 そう叫んで男に踊りかかったのはアイクではなかった。化身前のライだ。上段の飛び膝蹴りは槍の柄で防がれたが、続く回し蹴りが兜を直撃し、男は平衡感覚を失って数歩脇に退く。
 対ベオク格闘術。ジフカが編み出し、ライが磨き上げた非化身戦法。現在講習が検討されているそれを、ほぼ完璧に使いこなすのは、現在ガリア軍でも前述の二人だけだ。
「行け! アイク、ミスト!!」
 ライは叫びながら化身した。レテも猫の姿のまま頷いて、先を促す。
「三下とは聞き捨てならぬ、獣牙の戦士よ!!」
 男の意識が完全に逸れたのを確認して、アイクはミストの手を引き扉の向こうに足を踏み入れた。
 二人を見送り、ライは『本気でそんなこと思ってねェよ』と獣牙の言葉で苦笑いする。
『モゥディ。後方ノ守リガ薄イ、戻ッテヤッテクレ』
『分カッタ!』
 モゥディを下げたとあっては本気だろう。猫は状況次第でどんな残忍な殺しでもする。二対一でも今は厭わない。アイクを守るためとなれば、その程度の外道はレテも喜んで引き受ける。
 そして果敢に戦った勇士の亡骸を脇に除け、ライは息をつきながら化身を解いた。
「レテ、オマエ、少しは手伝え」
「『神聖なる一騎打ちに女人の横槍は無用!』とまで言われてはなぁ……」
「確かに、見上げたオッサンだった」
 ライは歩いて戻ってきたが、本隊には帰らずレテの隣に立った。
 レテが眉をひそめると、オマエじゃ二人も担げないだろとさも当然のことをさも当然という態度で言う。
「だったらモゥディを戻さなければよかったじゃないか」
「オレの方が小回りが利く」
「へりくつ屋め」
「……オレだって」
 ライは口唇を尖らせて他所を向いた。見もせずにレテの左手を掴む。
「アイクの決戦ぐらい気になる。オレはあいつに――漆黒の騎士に傷一つつけられなかった。そんな奴と戦うってのに、心配するなって方が無理だろう」
 ライに手を握られて、レテは初めて自分が震えていることに気付いた。案外これを見抜いて傍にいてくれるのかもしれないと思うのは、思い上がりだろうか。
 兄弟の手を握り返す。
「勝つかな、アイクは」
「あれ。レテさんからそんな弱気な言葉が出るとは意外だね」
「混ぜ返すな。お前だって心配だと言ったろう」
「そりゃあ、オレはな」
 力のこもった指先は、あたたかった。
「でもオマエぐらいは、まるっきり信じててやれよ。心配すんのは、オレらの役目」
「……ああ」
 信じてやるから、負けるなよ、アイク。
 レテは扉の向こうに神経を研ぎ澄ました。そして異音を拾う。何かを引きずるような音……。
「ライ! 本隊を今すぐ脱出させろ!!」
 ライの手を離し、レテは両手を耳に添えた。目を閉じて集中する。
「多分、『城潰し』だ。何かが少しずつズレている音がする」
「本当だ……ヤバいぞおい」
 ライが余裕のない声で呟いた。
 『城潰し』とは、ガリアの一部の砦に組み込まれている仕掛けである。獣牙族は基本的に、城や砦を使った防衛戦に向いていない。そのため誘い込んで城ごと潰す、という戦法でベオクを全滅させることがあった。
 しかし主にガリア軍が使うとはいえ、仕掛け自体はクリミアから流入してきたものだ。クリミアの城に仕掛けられていたとして何の不自然もない。
「本隊、撤退しろ! 城が崩れる! 今すぐ一番近い出口から脱出するんだ、アイクたちはオレたちが回収する!!」
 ライが大声で怒鳴ると、追いつきつつあった本隊が徐々に遠ざかっていった。恒例だったセネリオとの問答がなかったのは、オルリベス大橋での功績が認められてのことだろう。
 時間がない。レテは目を開ける。ライは口唇を軽く舐めて、扉に向き直った。
「さて、と。こっちも、そろそろ配慮してやってる場合じゃないぜ」
「そうだな。今のデイン軍は何をやらかすか知れたものではない。四駿の死体ごと敵将を潰すぐらいは、平気でやるだろう」
 獣牙の耳に頼らずとも聞こえる轟音が鳴った。同時にライが扉を蹴破る。
「アイク!!」
 化身の光を身にまといながら叫ぶ。
「逃げるぞ! この城、長くは持たない!!」
 レテはこの緊迫した状況の中で、一人小さな喜びに胸を沸かせた。
 傷ついた漆黒の騎士が倒れている。あの深さと出血量では助かるまい。
 アイクは、仇を――討ったのだ。
「勝ったよ」
 レテが化身して駆け寄ると、アイクはそう呟いてレテに身を委ねた。
 知ってるよ、とレテはアイクの匂いをかいだ。大丈夫だ。深い傷は負っていない。
「あんたのおかげで、勝てた」
 首っ玉にかじりつくアイクがいつになく幼く思えた。レテは紫の目をぐりんとアイクに向けたが、すぐに前に向き直り、一鳴きして駆け出す。
 今は脱出することが先だ。ミストを乗せたライがレテに続く。背後で瓦礫の降り注ぐ音がする。四人の脱出とほぼ同時に、ナドゥス城の入り口は閉ざされた。これではさしもの漆黒の騎士とて、助かるはずもない。
 漆黒の騎士は死んだ。アイクは、否、アイクたちは、このとき確かに仇を討ったのだ。

 

「もう気分はいいのか?」
 レテが後ろから問いかけると、アイクはバンダナを揺らして振り向いた。
 あれからもう数時間経っている。アイクはミストや傭兵団の面々と短い会話を交わした後、疲れたと言って寝込んでいたのだ。今は高台に立って、崩れたナドゥス城を見下ろしていた。
「身体はまだ少し疲れてる。でも気分はいい。今日からは夜もしっかり眠れそうだ」
「……アイク」
 レテは彼に駆け寄って、その頬に――厳密には口許に、触れた。
「お前、笑ってる、のか?」
 逆光に浮かぶアイクの表情は、レテが今まで見てきた『笑顔の出来損ない』ではなかった。儚いながらも正しく『笑顔』だった。
「もう、ちゃんと笑える……のか」
 もうあんな泣きそうな笑い方はしないのか。しないで済むのか。
 アイクには自覚がなかったようで、上手くレテの気持ちが通じなかったのかもしれない。小さな震えを夕暮れの涼しさのせいと取ったのか、外套で包むようにレテの肩を抱いた。
「同じことをティアマトにも言われた。全部レテのおかげだな」
 至近距離で、『あんた』ではなく固有名詞で呼ばれ、レテの心臓は高鳴った。顔が熱くて何を言ったらいいのか考えられなくなる。
「なぁ、レテ――」
 近づく口唇の欲するところに気付いて、レテはひゅっと息を呑み込んだ。
「嫌か?」
 切なげに呟くアイクの(そう、まさかアイクの!)放つあまりの色香に、なまじ鼻のいいレテはくらくらするばかりである。
 嫌なことはない。嫌なはずはないのだが、ちょっと待ってほしい。心の準備が出来ていないし、それに。
 ガリアの兄弟たちが、涎を垂らして三方で待機している!!
「嫌じゃないなら、許してほしい……」
「だぁっ、ちょっ、まっ」
 色気の欠片もない声を上げながら、レテは思わずアイクの身体を両手で押した。鍛え抜かれた胸板は、その程度ではびくともしないはずなのに、アイクは数歩後ずさってレテから離れる。
「あ……」
 アイクの顔には、強く叱られたときのリィレと同じ表情が浮かんでいた。
 それを見ていたくなくて、卑怯だと知りながらレテは背を向けて走り出す。
 アイクは追いかけてこなかった。
「オマエも随分悪いオンナだなぁ、レテ?」
 夢中で足を動かしていたレテの前に、突如棒が突き出された。ライの腕だと認識しないうちに抱きすくめられる。
「よーしよし。恐かったねぇ。ちゅーされるとこだった?」
「うるさい、離せ!!」
 レテは吠えた。今はライの些細なからかいの言葉さえ気に障る。早くどこかで頭を冷やして、アイクに謝ってやりたかった。
 だがライは腕を緩めない。レテの耳許で小さく笑った後、橙の毛並に甘く歯を立てる。思わず身体がびくんと跳ねた。
「オレでも動揺するんだ。キスは? してもいいの?」
「黙れ!!」
 レテは腹の底から怒鳴り、自分の背を這う手指を振り払った。
 全身の毛を逆立てる。ライにこれだけ怒りを覚えたのは初めてだった。
「色魔、地獄に堕ちろ!!」
 言い捨てて走り去る。涙が浮かんできた。
 なんだってこんな大事な日に、アイクもライも、それを台無しにするような戯れに手を伸ばすのだろう?
 戯れ――でなかったらと思うと、もっと恐ろしい。レテは化身して、本陣の端の端まで駆け抜けた。
 陽が落ちる。新しい夜が始まる。