第六章 太陽と手を携えて - 1/6

SIDE:Ike

 

神妙

 

 難所と呼ばれるマレハウト山岳を踏破し、クリミア解放軍はついにガリア軍との合流を果たした。
 しかしアイクにはそれを喜んでいる余裕はない。すぐに取って返すと言うカイネギスと、急に加わった鷹王を交えて、軍議を開かなくてはならなかった。
 正直アイクは、何を話したのかは覚えていないのだ。覚えているのは、何を話そうかと思っていたことだけ。
 メダリオンのこと。【呪歌ガルドル】のこと。ナーシルのこと。両親の過去。父の仇である漆黒の騎士のこと。
 ――実はデルブレー城で、宴の前に漆黒の騎士と一戦交えたこと。現状では全く歯が立たなかったが、対抗出来るらしい武器を自分が持っていること。この二つの話題は慎重に避けたのだけは覚えている。
 知った全てを話したとは言ったが、本当にあけすけにしてはミストの心に負担が掛かりすぎる。
 とにかく目的は同じ、一刻も早くアシュナードを討つべし。クリミア・ガリア・フェニキスの意志は固まった。
「あの……アイク様」
 解散した後に、エリンシアがおずおずと口を開いた。両手を胸の前で硬く握りしめている。
「お傍にいても、いいですか?」
「うん?」
 アイクは奇妙な質問だと思った。セネリオが近くで足を止めたが、何も言ってはくれない。
「話がある訳じゃないのか?」
「えっ? あの、いえ、その……具体的にどうということでは」
 エリンシアは真っ赤になって俯いてしまった。よく分からなかったが、もしかして今の話を聞いて不安になったのかもしれない。王女の矜持に傷をつけぬよう配慮して、アイクはエリンシアの右肩に手を置きこう返す。
「俺よりミストの傍にいてやってくれ。大分参ってるだろうから」
「あのっ、ミストちゃんにはティアマト様が……いえ、そういうことではなくて、その……私はアイク様が……」
 蚊の鳴くような声で言うので、アイクにはよく聞き取れないし用件が分からない。見かねたのか、セネリオがやっと口を開いた。
「エリンシア姫。あちらに、貴女の傍にいたいとアイクよりも強く思っている人たちがいるようです。行ってさしあげたらいかがです」
 手で示す先には、ジョフレとルキノが立っていた。気遣わしげに自分たちの主を見ている。
「……はい。ごめんなさい、出すぎた真似を」
 エリンシアは震えた声で言って、身を翻すと姉弟に駆け寄っていった。アイクは首を傾げる。
「出すぎた真似?」
「アイクのことが心配だから傍にいてあげたかった、ということですよ」
 セネリオがやっと通訳してくれた。アイクは少し考えて、それから、ああ、と手を打った。
「それは、悪いことをしたな……」
 しかし呼び戻すのも今更である。セネリオが、ぎこちなく肩をすくめる。彼はこういうおどけた仕種は不得手なのだ。
「僕が『彼女』を呼び寄せるのも、出すぎた真似ですか?」
 こちらに関してはすぐに意味を理解したアイクは、いや、うん、と曖昧に答えながら口許を拭った。
「自分で呼ぶ」

 

「――ざっと要約するとそういう話なんだが」
 最低限の相槌だけで聞いていたレテの前で、アイクはそう締めた。
 天幕の中で向かい合ってするには重い話ばかりだった。突如聞かされて彼女は随分面喰らっただろう。
 アイクはたまらず目を逸らした。
「ティアマトやセネリオにも、ミストにも話した。これを機会にあんたにも、きちんと説明しておこうと思った」
「……おい」
 レテは低い声でアイクを睨み据えた。震える拳は、すぐにでもアイクの身体にねじ込まれそうだ。
「デルブレー城で様子がおかしかったのも、それが原因か?」
 脅すような響きに、アイクは渋々頷く。
「その……宴の前に、一戦交えた。全く歯が立たなくて――というか、攻撃が通らなくて」
「攻撃が通らない?」
「そうなんだ。『女神の祝福を受けた鎧だから』と言っていた。俺が持っている……奴が置いていった同じく『祝福を受けた』剣ならば渡り合えるようなことを言っていた。今のは本当に、他の誰にも言ってない。……すまん。あんたにも話すべきじゃなかったかもしれない。迷惑なら忘れてくれ」
「忘れろ、って……」
 レテは絶句した。この後どんな反応をするのだろう、とアイクは呆と待った。
 忘れてほしいくらいなら、最初から私を巻き込むなと突き放す? どうしてもっと早く言わなかったと怒鳴る? よく話してくれたと手を握って――いや、これは都合のいい妄想だ。
 どんな裁きでも受けようとアイクが沈黙に耐えていると、レテはすっと立ち上がり、アイクの頭に手を置いた。
「なら、鍛錬だな」
 思わず見上げる。相変わらず澄んだ、夜明けの紫を。
「お前はそのとき、現状では勝てないと知って退いたのだろう。それはそれで賢明な判断だ。だがそこから動かないのは愚行だ。そうだろう?」
 ああこの色は、いつだってアイクに光を連れて来る。
「希望があるなら、その切っ先を己の牙にしろ。その重みを自身の腕としろ。勝手が違うので返り討ちに遭いました、では誰も納得せんぞ」
「……そうだな」
 アイクは頷いて、簡易的な革の鞘に納まった大剣を取り出してきた。
 父が受け取るのを拒んだ剣。母を刺し貫いた剣。今度は妹と、他のたくさんの大切な者を守るために使う。
 もう絶対に、愛する者を傷つける兇刃にはさせない。
「流石に抜き身でやる度胸がない。鞘に入れたままでもいいか?」
 問うと、レテはつまらなそうに少し笑った。
「ありがたい申し出だな。女神の思し召しで輪切りにされるのは、私も好かんよ」
「俺もあんたの肉は食べたくないな」
「流石のお前でも?」
「からかうな」
 アイクは気を取り直して、ラグネルと呼ばれたその剣を持つ。かなりの刃渡りだ。今までのように腰に差すのは無理だろう。
「あまり目立ちたくない。ラグズにはバレるかもしれんが、せめてベオクに気付かれにくい場所を選ぼう」
「分かった。探してみよう」
 レテが連れて来たのは森の広場のような、少しひらけた場所だった。奇しくも父が斃れた場所に似ていた。
「よし。始めるか」
 レテがいつも通りに言った。彼女がそう言い、燐光に包まれ、化身が終わるときが合図だ。
 アイクも背に負った剣を、鞘に入れたままベルトから外し、上段に構える。
 いつになく熾烈な鍛錬だった。最早本当の『戦闘』と呼ぶに相応しいほど、二人は本能の命ずるまま互いを削り合った。気が高ぶりすぎていたのだ。神経が鋭敏に過ぎた。
 斜め後ろからレテが飛びかかろうとしたとき。アイクは。
 はっと気付いて手を止めるまでの一瞬。
 レテの脇に、全力で。
 女神に祝福された剣を叩き込んでいた。
「レテッ!!」
 剣を放り出す。解けた化身の光を纏いながら宙を舞う少女の姿は、不謹慎ながらこの世のものとは思われないほど美しかった。レテは右肩から地面に叩きつけられ、しきりに咳き込んでいる。
「すまない! 大丈夫か? どこを傷つけた?」
 アイクが膝を折ると、レテは力なく乳房の下に手をやる。かすれた声が漏れる。
「あばらが何本かいった……かな」
「すまない、本当に……すまない」
 アイクは項垂れて、謝罪の言葉を繰り返した。
 泣き言を言った末に付き合ってもらって、挙句不注意で怪我をさせた。謝罪の他に何をしたらいいのか分からなかった。
「すぐ衛生兵を――」
 立ち上がろうとして、ぐっと腕を引かれた。負傷して動けないとは思えないほど強い力だった。
「……が、来るから」
「え?」
 聞き返すのとほぼ同時、化身したライが駆けてきた。人型に戻りながら二人の傍らに立つ。
「何があった」
「鍛錬で俺がやりすぎて、レテに怪我を……」
 アイクが言うと、ライは無表情でレテの前で膝をついた。そのまま襟ぐりを掴んで顔を上げさせ、アイクが予想だにしなかったことに――音高くレテの頬を張った。
「ライ!?」
「お前は黙ってろ」
 ライはアイクの顔すら見ずに、冷たい声でそう言った。虚ろなレテの目だけを見つめて続ける。
「殴られた理由は解っているな」
「……はい。師団長」
 レテはアイクの聞き慣れない称号を使い、力なく答える。
 解っていると言われたことを、アイクに説明するようにライは述べた。
「一国の命運を担う軍の総司令を、一介の兵士の判断で鍛錬と称した戦闘行為に連れ出した。挙句自身が負傷した。治癒魔法の使えるベオクの軍隊だから許されるようなものだ。我らガリア軍にその失態を埋める者はいない。いきなり主力戦闘員が前線から退いたらどうなると思う?」
「戦線は、混乱します」
 レテは脂汗をかきながら、短く答えた。
「浅慮です。申し訳、ございませんでした」
「そんなこと言ってる場合か!!」
 アイクは立ち上がり叫んだ。今こうしている間にもレテは苦しんでいるのだ。小さな体躯を不規則に上下させて、じっと痛みに耐えているのだ。それを心配するどころか、殴って説教をするライが許せなかった。今までアイクの知る誰よりもレテの身を案じてきたライだからこそ、一層腹立たしかった。
 ライは立ち上がり、今までに見せたこともないような剣幕で怒鳴り返した。
「お前が言うのか! レテを巻き込んで、こんなに傷つけたのは誰だと思ってる!!」
 アイクは言葉をなくして口唇を噛んだ。ライの言うことは完全に正論だ。むしろアイクは彼の叱責を脇で聞いている余裕があるのなら、衛生兵を呼びに走るべきだった。
 せめて今からでもとレテに背を向けると、タイミングよく誰かが駆けてくる。
「……エリンシア姫?」
 いつもの鮮やかな橙のドレスに身を包んだエリンシアだ。お供の姉弟を連れている。ライにもアイクにも目もくれず、倒れているレテへ一目散に駆け寄った。
 治癒の杖を持っている。エリンシアが聖句を唱えると、レテが深く息をついたのが分かった。痛みが抜けていったのだろう。
「どちらですか」
 エリンシアは低い声で呟いた。振り返りきっと睨みつける琥珀の目は、涙を湛えながらも決してそれを流さない。
「レテ様のお顔を叩いたのは、どちらですか」
 答えられないアイクの前で、ライが小さく手を挙げた。恐ろしいほどの無表情で。
「軍律違反を犯した部下を叱責しました。それについて、謝罪の必要はないと考えます」
「そうですか。ではレテ様の上官としての謝罪は求めません」
 エリンシアは立ち上がり、つかつかとライに歩み寄り、向き合ったと思ったらいきなりライの左頬を平手で張った。ライも流石に驚いたらしく、色違いの双眸を見開いて固まっていた。
 エリンシアは杖を握りしめ、震えた声で言う。
「レテ様、はっ、今はクリミア軍が、お預かりしている方です! 友軍のガリア軍代表のライ様より、わた、しの方がっ、上位命令権を持っているはずです! 謝ってください、レテ様に!!」
「……ごめんなさい」
「私にではなくて、レテ様にです!!」
 曖昧な謝罪を許さず、エリンシアはライに詰め寄った。
 ライは参ったという顔をして、頭をかきながら耳を下げた。
「悪かったよ、レテ。オレも頭に血が上ってた」
「構わん。お前の言ったことは大方正しい」
 レテが起き上がり、倒れたときについた土を払った。
「訂正するなら、私が負傷したのはアイクのせいじゃない。避ける実力のなかった私の非だ」
 アイクは座ったままのレテに、無駄とかと思いつつ手を差し出す。意外にも、レテは素直にそれに応じた。断るか払われると思ったのに。
 そして立ち上がったレテはアイクの手を離し、エリンシアと向き合った。
「お手数をおかけしました。おかげで助かりました」
「いいえ、手数だなんてそんな」
「――ところで」
 アイクははにかむエリンシアの言葉を遮り、周囲を見回した。
 どう見ても樹しかない。本陣から物音が聞こえて、という距離でもない。
「どうしてここが?」
「将軍がいらっしゃらないので、ラグズの方々にご協力を仰ぎましたの」
 ルキノが腕組みをして前へ進み出た。お世辞にも友好的な表情とは言えない。
「そちらの方ばかり責めておいでですけど、将軍にも多大な非があるのではなくて?」
「やめて、ルキノ。その話をしに来たのではないわ」
 エリンシアは強い声でたしなめ、アイクの目をしっかりと見つめた。
「実は――」

 

「まさか、姫まで参戦とはな……」
 アイクは天幕への帰り道、ため息混じりに呟いた。呆れが半分と、ついにこの日が来たかという納得が半分。
 レテは微笑み混じりに返す。
「それだけお前の戦い方には、人を動かす何かがあるということだろう」
 アイクは右の人差し指で鼻の頭をかく。自分の方こそ、レテの戦う姿に心奪われた。その本人にそんな言われ方をしたら、鼻だってむずがゆいというものだ。
 ――というか――アイクは改めて気付く。
 どうして自分とレテとだけ、別行動で本陣に帰っていくのだろう? エリンシアたちと一緒に帰ってもよかったのでは?
 意識し始めたら途端に欲が出てきた。自分の気持ちを言葉で表現するのが下手なアイクだが、行動で示すのは然程苦手ではない。感謝と信頼の証に、ただ下がっていたレテの右手を左手で握り込んだ。レテの耳と尻尾が一瞬、ぴん! と一直線になった。だがすぐにふにゃりと毛が寝る。振りほどかないということは、嫌ではないのだろうか。
 何か言おうとして、やめた。俯いたレテも何も言わない。
 二人は手を繋いだままずっと黙って歩いていたが、もう皆の声が聞こえる頃になって、レテが小さく呟いた。
「討てよ、仇。そうでなければ許さんぞ」
「――ああ。それで絶対前に進むさ」
 どちらからともなく、手が離れる。
 けれど寂しくはなかった。見えない糸で繋がっていた。だから何も恐くなかった。
 その日もアイクは深い眠りにつくことはなかった。
 しかし十全だった。間もなく訪れる戦いに臨むのに、これ以上ないほど十全だった。