第六章 こんな空の下でさえ - 4/6

 

SIDE Rethe

 

 

君が望む永遠

 

 決戦前夜。クリミアのベオクたちは、目前の王都に沸いていた。その興奮に水を差さぬように、レテたちラグズは脇で様子を見ている。
 塔から戻ってから、アイクとは会話をしていない。アイクは将である。持ち込まれる用件も、話したがる者も多い。レテも、戦のとき彼と共に在る牙であればそれでよいと思っていた。
 今も軍議はライに任せてある。
「おいら、クリミア王都なんて初めてだ。どんなところなのかな?」
 トパックは、横に控えているムワリムを見上げた。
 周囲が騒がしい。ムワリムは少し腰を屈め、主の少年と高さを近づける。
「私も初めてです、坊ちゃん。絢爛豪華なベグニオン王都とは違い、優美で洗練された文化を味わえる都だと聞きます。ぜひ目に焼き付けて、皆にも語ってやりましょう」
「その為にも、王都メリオルを必ずやエリンシア姫の御下に取り戻さなければな。働けよ、トパック」
 レテが口を挟むと、トパックは顔を上気させて大きく頷いた。モゥディも、言葉は発さなかったが満面の笑みを浮かべている。
 リィレによくしてやったように、レテはトパックの頭をかき回した。この少年には、どうもそういうことをしてやりたくなる。トパックはくすぐったそうに身をよじった。
「いい顔をするようになったな。レテ、モゥディ」
 聞き覚えのある低い声に、レテは耳と背筋をぴんと伸ばす。
 振り返ると、黒い大柄な獅子が歩み寄ってくるところだった。
「ジフカ様!」
 モゥディがぎこちない敬礼をした。レテも姿勢を正す。
 ジフカは、威厳が服を着て歩いているような男だった。それでいて息苦しさを感じさせない。あんなにしっかり大地を踏みしめているのに、いつでも闇に溶け込めそうにも見える。
「お久しぶりです、ジフカ様。王にお変わりは……?」
「ご健勝だ。王から、お前たちにお言葉を預かっておる」
 ジフカの声は平淡で感情が読めない。レテは恐る恐る問い返す。
「お言葉、ですか? 命令ではなく?」
「そうだ」
 ジフカは重々しく頷いた。
「必ず生きて戻るようにと。それから……お前たちのこの一年の働きに、心から満足し感謝していると」
「それは……!」
 夜なのに、レテの目の前はぱっと光った。
 貧乏くじのように押し付けられた役目。孤独と痛みに膝を抱えた日々。
 それでも足掻いた。ベオクたちと共に戦い傷ついた。そうして見つけた得がたいものを、誰よりも敬愛する王が認めてくれるのだとすれば。
「光栄です。大変嬉しく思います」
 レテの右肩に、モゥディの大きな左手が置かれた。ずっと彼女を支えてくれた、頼もしい部下の手だった。
「モゥディたちは、頑張った。ダけど……辛くはなかった。アイクたちは、イい奴だったから……イっしょに戦えて、嬉しかった」
「そうか……」
 噛み締めるように呟いて、ジフカはムワリムに目を移す。ムワリムが身を硬くするのが分かった。
 レテは半歩ムワリムに寄りながらジフカを見上げる。
「彼は獣牙の兄弟ムワリムです。こちらはトパック。この少年と共に、ベグニオンで……ラグズ奴隷解放軍という組織で活動しています」
「ほぅ」
 ジフカの相槌からは内心が読めなかった。主、ベグニオン、聞いたこともない団体の名前……訝かしむ要素はいくらでもあるはずだ。
 トパックが前に出る。恐れなどないように、ジフカの目をじっと見る。
「なぁ、ガリア軍にはガリア育ちじゃない獣牙族も入れるのか? 腕の立つ獣牙族なら?」
 ジフカは即答しなかった。質問の意図より深く、トパックのことを見据えている。
 やがて、厚い口唇をゆっくりと開いた。
「不可能ではない。ガリアに生まれた者たちと馴染むことに、時間はかかるかもしれないが……その労苦を惜しまぬというのなら、優れた戦士を迎え入れることも検討しよう」
「やった!」
 トパックは両手を挙げて飛び上がった。ムワリムはやはり狼狽するばかりだ。
 ジフカは、改めてそんな彼を見る。直視に耐えられず目を逸らすムワリムを。
「ムワリム、といったか」
「はい、ガリアの方。相当な御身分とお見受けします」
「そんなことはない。老骨故、若者が謙虚に敬ってくれているだけのこと。我が身は一介のラグズに過ぎず、そこに貴賎はない。面を上げよ」
「……はい」
 ムワリムには、ジフカの言葉が謙遜であるとレテたち以上に解っていたのだろう。顔こそ上げたものの、視線は噛み合っていなかった。
 ジフカは多くを語らない。今だけでなくずっとそうだ。だからこそ、短い言葉に全てがこもる。
「いい戦士だ。誇れ」
 ムワリムの左肩をとんと叩き、ジフカはきびすを返した。
 去っていく。それ以上は何も言わなかった。
 トパックが、自慢げにムワリムにまとわりつく。ムワリムは何かをこらえるように、ジフカの背にじっと頭を下げていた。
「あの人は他人への評価をあまり口にしない。その分、言うときは本物だ。自信持っていいと思うぜ」
 ライが入れ替わりにやってきた。ジフカの後ろで待っていたのだろう。
 思えばムワリムにはずっと遠慮がちであった。気を回しすぎるライのことだから、自身の立場が既にムワリムの脅威であると知って、交流を避けていたのかもしれない。
 今度もライが覗き込んだのは、ムワリムではなくトパックの顔であった。
「落ち着いたら、ガリアに来いよ。全部とは言えないけど、お前の見たいもの出来る限り見せてやる。仲間を送り出すに相応しい土地か、存分に値踏みしてってくれよ」
 だがムワリムに聞こえているのも、ライは充分に解っていたはずだ。現に、彼が急に上体を跳ね上げても、少しも動じなかった。
「行く! 絶対行くからな。なっ、ムワリム!!」
「はい。……お心遣い、感謝します」
 トパックに促され頷くムワリムは、ライの顔をきちんと見ていた。
 レテはつい笑みをこぼす。最後まで目の離せない二人だった。
「私も待っているよ。ライの知らない気に入りの場所にも連れてってやる。私の祖国を、見てほしい」
 では明日また会おう、と残し、レテはその場を辞した。
 ガリアに友を呼ぶ。国の中にいただけの頃には考えもつかなかったアイデアに、胸を弾ませながら。

 

 天幕の中は少し冷えた。初めは窮屈だと思ったこの布の中も、もうすぐいる必要がなくなるのだと思うと妙に広く感じる。レテは丸めた毛布に寄りかかり身を縮めた。
 大まかな作戦会議も終わった今、武器の手入れに余念がないベオクたちと違い、ラグズは休息しか明日に備える術がない。しかし心は昂ってまるで眠れそうになかった。
 何度目かのため息をつく。無理に目を閉じると、一人の顔だけが浮かぶ。
 初めて会ったとき見下ろした、驚きに瞠られた蒼い瞳。
 最初は濡れていて気付かなかったけれど、乾くと少し癖のある髪。
 不遜に見える仏頂面。笑おうとして不器用に引きつる頬。
 戦意に吊り上がる眉。泣けずに震える目許。
 痛いほど真っ直ぐに言葉を紡ぐ口唇。
『レテ』
 彼の発するその響きの、何と心地よかったことか。差し出された手の何とあたたかったことか。
 レテは彼を認め、見下ろすことをやめた。同じ大地に立った。そして今、彼の背は伸び、見上げるほどになっている。
 ――成長した。国のことも、ラグズのことも、世界のことも知らなかったあの少年は。もう、青年になろうとしている。
 心は穏やかなのに、どこからか肌寒い風が吹き込む。その正体を直視することが、この期に及んでもレテは恐ろしいのであった。
 気のふさぐ時間だけが流れる。いっそこのまま夜明けまで、眠らずにじっとしていようかと思っていると、ふと慌しい足音が聞こえてきた。
 二人分だ。少女特有の甘い匂いがする。嗅ぎ慣れた――。
「レテさん! レテさん!」
「レテ、起きてる?」
 ミストとジルだった。武装を解いて身軽な姿でいる。入り口から顔を覗かせ、レテが寝ていないのを見て安心したように身を寄せてきた。
「ねぇレテさん、お菓子食べない? ルキノさんが分けてくれたの」
「オスカー殿から果汁も分けていただいたから、一緒に飲もう」
 シノンたちが景気づけに呑むと言っていたのの少女版か。レテは呆れながらも頷いた。二人は笑顔で、小さな宴の準備を始める。
 思えば――レテはいつから、彼女たちが自分の空間に入ってくることを許すようになったのだろう。
 アイクを一番傍で支え、アイクの生きる一番の理由である少女。
 ラグズを忌まわしい名で呼び、敵だと言って憚らなかった少女。
 ミストからは、守るだけでいいと思っていた存在にも、人としての強さがあることを。
 ジルからは、信条を突き崩された者が掴み取った、新たな信念の輝きを。
 それぞれ鮮烈に教えてもらった。獣牙の兄弟や、戦で認め合った男たちとは別の、あたたかな繋がりを二人には感じる。
「お前たちに出逢えて、よかった」
 ミストが菓子を包みから取り出す手を、ジルが果汁を器に注ぐ手を止めた。
 二人はレテを注視していた。微動だにせずに。その真意は分からないけれど、レテは目をそらさず、順々に彼女たちの顔を見る。
「ガリアにいた頃の私はもっと傲慢で、賢しげだったと思う。正義は我らにあると確信していた。自分の思想を『我ら』と括ることにすら何の抵抗もなかった。だがこの戦いで、お前たちから自分の弱さと愚かさを教わった。私は人として、獣牙の戦士として、以前よりもずっと大きくなれた。礼を言う。ありがとう、二人共」
 二人が動かずにいたのは、涙を必死に堪えていたからなのだと――気付いたのは、同時に飛びつかれてからだった。
「お礼を言いたいのは、わたしの方だよ! わたしもお兄ちゃんも、レテさんがいなかったら死んでたかもしれないって、いつも……!!」
「私だって、レテが本気で怒ればいつ殺されてもおかしくなかったのに……! 何も知らない私にレテはたくさん教えてくれて、見守ってくれて、と、友達って、言ってくれて……すごくっ、嬉しくて……っ!!」
「そうか」
 レテは微笑しながら、長さも色も性質も違う二人の髪を撫でる。
「ならば笑ってくれ。泣くことはないだろう?」
 二人はレテの服を握りしめて、同時に叫んだ。
「「だってもうお別れなのに!!」」
 その言葉は、少女たちにとっても思いがけないものだったらしい。ミストもジルも泣くことを忘れ、目を丸くして見つめ合っていた。
 レテの指先から、栗色の髪がさらさらと零れ落ち、紅い髪が爪をくすぐる。
「確かに我らはこの戦に勝っても、ミストはクリミアに残り、私はガリアに帰り、恐らくはジルも――どうなっているのかは分からないが、デインに戻るのだろう。だがそれが、何程のことだろうか」
 レテの静かな声に、二人が身を起こした。
 彼女たちも、この一年で随分と大人びた。レテは真っ直ぐ、少女から女性へと変わりゆくかんばせを見る。
「大洪水の後で幸運にも残ったこの大陸で、偶然にも同じ時代に生まれ、季節が一巡りする間にこの大地を回った。そんな我らが、たとえもう一度居場所を散らそうと、どうしてこれを『お別れ』と呼べる?」
「……お別れじゃ、ない」
 呟いたのはジルだった。不安げに発せられた言葉を、迷いを振り払うように繰り返す。
「お別れじゃない。何かあったら、私はきっと飛んでいく。ミストのところにも、レテのところにも」
「わたしだって、駆けていくよ。馬は覚えたばかりだけど、絶対上手くなって会いに行くから」
 ミストも強い瞳でそう言った。レテは二人の手を握り、しっかりと頷く。
「いつでも呼ぶがいい。この絆のある限り、馳せていこう」
 少女たちは、あたたかな手で握り返してくれた。
「今の言葉、アイク将軍にも言ってあげてほしい」
「お兄ちゃん、レテさんのこと待ってるよ。何も言わないし、きっと自分でも気付いてないだろうけど、わかるの」
 だから、行ってあげて――少女たちの細い指がほどけていく。別離の印ではなかった。他の絆へと導くための解放だった。
 レテはその好意をどう咀嚼していいか分からない。けれど、アイクとこのままうやむやに別れたら、今少女たちに感じている確信を得られないまま、本当のさよならになるような気がした。それなら、分からないままの気持ちでも、丸呑みにしてしまえばいい。
「分かった。少し声をかけてくる。お前たちも話したいものがあれば行ってくるといい。それでもまだ夜が長いというのなら、再び集まって語り明かそう」
 笑顔に見送られて天幕を出る。
 アイクは間もなく見つかった。人だかりの中心にいるのがアイクだった。辟易したように抜け出してきたので後を追うが、将軍殿はまた誰かにつかまっている。戦場での姿からは想像もつかぬ覚束ない足取りで、アイクは人を避け林の先の小高い丘に逃げていく。
 しかし息をついたのも束の間。落ち着かない様子でしきりに星空に目をやる。
 その視線は何かの輝きに満ちていた。
 一人になりたかったようには見えない。まるで、そう、誰かが来ることを期待しているような。
「アイク」
 声をかける。アイクが振り向く。自惚れるつもりはなかったが、あんたを待っていたんだと、あの蒼い目は言っている気がした。
「レテ。鍛錬か?」
 この期に及んでそれか。レテは苦笑して肩をすくめた。
「やめておこう。お前も今宵ぐらいは大人しくしておけ」
「珍しく逃げ腰だな」
 アイクの方こそ珍しく挑戦的だった。レテもそう言われては黙ってはいられない。
「休息も仕事だと思ったがな。力が有り余っているのなら相手をするぞ。お前はこのところめざましい成長を見せているからな、私も負けてはおれん」
 化身の光をちらつかせるが、アイクが間抜けな顔をしているので戦意が削がれた。
 何だ、と問うと、いや、とアイクは口許に手をやった。
「あんたに褒められるのは、嬉しいもんだな」
「ひょっとして……最初に会った時のことを、根に持ってるのか?」
 レテは眉をひそめる。確かに、ベオクを『能無し』と呼んだのは軽率であった。
 行動であの言葉を否定してきたつもりだが、やはり頭を下げねば収まらぬということか。
「そういう訳じゃない」
 アイクは頭を振った。何のことだと聞き返さない程度には覚えているのだな、とは思ったが。
「あんたは強いからな。強い奴に褒められるのは、単純に嬉しいだけだ」
 大真面目にこうきたものだ。今度はレテが面喰らった。尻尾を震わせながら、腕組みして殊更尊大に鼻を鳴らす。
「えらく買いかぶられたものだ。私以上の戦士など山程知っているくせによく言う」
「あんたより力のある奴ならいない訳じゃない。でもあんたは、力だけでなく、いろんなことをひっくるめて強い。そういう奴はざらにいるもんじゃない」
 照れ隠しなど見透かしたようにアイクが言うから、レテももう意地を張り通すことが出来なくなってしまった。
 沈黙が流れる。居心地の悪いものではない。寧ろずっと身を浸していたいような穏やかさだった。
 けれど、いつまでも続くものではない。いつか夜は明け、彼女たちは最後の戦いに身を投じていく。
「なあ、アイク」
 この沈黙を破ることに、レテは身を切られるような痛みを覚えた。涙を流したくなるほど胸が詰まった。
 それでも、出来ない。してはいけない。
 レテが彼女自身である為に、いつもの調子で言わなければならない。
「何だ?」
 目は乾いているはずなのに、アイクの姿が滲むようだった。このうえは声だけでも震えていないことを祈る。
「この戦いが終わって……全てが終わったら……」
 風が吹く。木々が鳴る。
 ムワリムに言った。トパックに言った。ジルに言った。ミストに言った。
 同じことを告げるだけで、何故叫び出したくなるほど鼓動が高まるのだろう。
「ガリアに来ないか?」
 しん、と全てが止まった。揺れていた髪が落ち着いていく。星の光が刺すように降っている。
「ガリアに?」
 意外そうに聞き返すアイクの真意を、知りたくはなかった。
「ああ。ガリアで鍛錬すれば、お前はもっと強くなれるはずだ。ガリアの環境は、ベオクにとっては生きていくのも厳しい地だと聞いた。しかし、だからこそその地でお前は自身の父から受け継いだという剣技を……更なる極みへ導くことが出来ると思うんだ」
 レテは下斜め下を向いて、早口に言った。
 会いたいと。会いに来てくれと。何故そう言えなかったのか。誰に対しても正直でありたいと願ったのは自分だったのに。そのように生きてきたはずなのに。
 そんな、簡単なことを。簡単、だから、幼い、願いを。一番許してほしい相手に、申し出ることが出来ずに。
 今度の沈黙は針の筵だった。逃げ出すことすら出来ずに立ち尽くすレテの前で、アイクは意を決したように口を開く。
「……鍛錬の相手は、当然レテがやってくれるんだよな?」
 橙の尻尾がまた跳ねた。レテは制御不能の尾の代わりに片腕を強く抱く。
「お、お前が、それでいいなら……私に異論はない」
「なら、ガリア暮らしも悪くない」
 アイクは力を抜いて答えた。レテの尾も落ち着く。一つ息を飲んで、右手を差し出す。
「よし、じゃあ約束だ。いつでもお前の気の向いたときで構わない。私はその時を楽しみに待っているからな」
 言えた。真っ直ぐな気持ち。偽りのない想い。
 これでもう後悔はない。明日の戦にも、晴れ晴れとした気持ちで臨めるだろう。
「分かった。約束しよう」
 アイクも右手を伸ばす。
 幾度この手を握っただろう。骨ばった豆だらけの手。手袋越しの体温。今夜ほどあたたかいと思ったことはない。
 いつかは離さねばならぬ手でも。今この瞬間を、ずっと覚えていられるなら。
 それは、もしかして。
 ――永遠と、呼べるだろうか。
「レテ」
 不意に、あの声がレテを呼んだ。繋いだ手ごと強く抱き寄せられる。
 不思議だ。鼓動は速いのに心は静かだった。
「……鍛錬は、しないのか。アイク」
「ガリアに行くまでとっておく。今は」
 アイクの息が耳許をくすぐる。
「あんたの、匂いとか、かたちとか、重さとか、全部、覚えていたい」
「私もだよ」
 きっとお前は、この先もっと成長するだろう。背が伸びて、声からも幼さが抜けて、私が身体に手を回すのだって大変になるだろう。一足飛びに衰えていくだろう。
 だから忘れないでいたい。忘れないでいてほしい。
 今、ここに、アイクというベオクの少年がいて、レテというラグズの少女がいたことを。
 アイクの指がレテの頬に触れる。もうそれを不自然なことだとは思わなかった。
 初めて見たときから惹かれていた深い海の色をじっと見つめてから、目を閉じる。互いの口唇を確かめる。
「難しいことは、言えない」
 顔を離し、アイクはぽつぽつと呟いた。
「けど、こうしたいと思った相手は、あんたが初めて、だから」
「わかってる」
 この先お前にどんな相手が現れても。その言葉だけで、私は生きていける。女として報われたと思える。
 だから、これからは。戦士として報われる為に、生きていける。
「私にも難しいことは言えない。ただ、お前の気持ちはとても嬉しい。――愛している、アイク」
「え?」
 レテは後ろに飛び退いた。絡まっていた指は呆気なくほどけた。これでいい。
 星空の下、再び掴まれることのないよう後ろで手を組む。
「もう休め。明日はしくじれないぞ」
「あ、ああ」
 背を向けて、歩き出す。
 おやすみ、アイク。私の愛した、最初で最後のベオク。

 

「レテ隊長、集合がかかってるみたいですけど」
「先に行け。すぐに追う」
「分かりました」
 天幕から部下が去っていく。
 明くる朝は、祝福されたような快晴だった。この日クリミアは、歴史に名を取り戻す。その為に彼らは全力をもって王都を奪還する。
 だがラグズによる同盟軍の仕事は、デイン軍の殲滅ではない。クリミアの民をなるべく欠くことのないよう守ることだ。前へ出て戦うことが信条のラグズ兵に、その受身な使命はいささか以上に窮屈だ。いかにして納得させるのかが重要であったが、レテはもうその一切をベオクに任せていた。
 自分が言葉を尽くさなくてもいい。アイクがいて、エリンシアがいる。それで充分だろう。
 個人的に二人と話すべきことは最早なかった。一戦士として、調子を整えるだけだ。
 深呼吸。雑念を振り払う。いざと外へ踏み出したとき、天馬が高度を落としてレテの傍についた。
「よかった! 戦いの前にレテさんに会えて」
「マーシャか」
 レテは軽く顔を上げた。度々沈んでいた少女の顔にも、今は歳相応の赤みが差している。
「お前にも色々とつらいことを言ったな」
「いいえ、レテさんの言ってること大体正論でしたから。痛かったけど、嫌だって思ったことはないですよ」
 マーシャは笑った。レテもつられて笑う。
「いつかお前は、ジルの強さがわからない、と言ったな」
「え? は、はい。私には、あの強さが真似出来ないって……」
「ジルにも、お前の強さは真似出来ないさ」
 丸くなったマーシャの目の前に、レテは指を突きつけた。
「私の批判に、感情以外で真っ向切って反論してきたのは、お前とアイクぐらいだった」
 間違っていることは間違っている。自分たちのことであっても事実は認める。
 だからといって揺れたりしない。正しいと信じたことは、正しいのだと胸を張る。
「誰にでも出来る強さではない。誇れ」
「……レテさんに言われると、嬉しいですね」
 マーシャは天馬の上で肩をすくめた。アイクと同じような台詞だったけれど、掛け値なしの本音には見えない。
 視線を落とし、マーシャは言う。
「私はみんなみたいに、今日中に絶対いい方にカタがつくとは思えてないです。どこかで、上手くいかなかったらエリンシア様だけでもどうやって逃がそうか、って考えちゃいます。負ける気で戦に臨むなって、タニス副長に怒られそうですけど……兄さんを見てきたせいか、勝つことだけを無条件に信じるのって恐いんです、私。こんなのじゃダメだと思って、レテさんに叱ってもらいに来ました」
「別に構わんだろう。負ける前提で戦うのでなければ」
 マーシャがはっと顔を上げた。レテはいたずらな目で少女を見上げる。
「恐れる者は、最悪を回避する為に勝率を上げる努力をする。我らラグズは勇猛なあまりそれが苦手だが、ベオクは弱さ故により確実な道を探す。生き残ることだけが正義なら、我らはお前たちに敵わない」
「敵わないのはこっちですよ、もう」
 マーシャは頬を緩ませながら、華やかな色の髪を押さえた。出逢った頃よりいくらか伸びて、女らしくなったようだった。
「私、この戦が終わったら、エリンシア様にお仕えするつもりなんです。クリミアに天馬騎士はいないから、ベグニオンに戻るのでなければ指導をしてほしいと言っていただけて。だから、絶対死ねないですよ」
「そうか。ならば尚のこと、武勲を挙げねばな」
「はい!」
 飛び立つ天馬は、雲よりも眩しかった。目を細めて見送る。
「あーあー、やだね、最近の獣は人に説教すんのかよ」
 後ろからちくりと刺されたが、痛くもなかったのでレテは普通の顔で振り返った。
 他の者ならまだしも相手はシノンである。ヨファ風に言うなら、こんなものは『挨拶と同じ』だ。レテが反応らしい反応をしなかったので、シノンは拍子抜けだったようだが。
「何だよ。もうすぐアイクのガキが生意気に演説だかかますらしいぞ、笑いにいってやりゃあどうだ」
「悪いが、行く気はない。わざわざ教えに来てくれたのにすまないな」
「ちげぇ。オレが目障りなテメーを追い払いたかっただけだ」
 シノンは赤毛を揺らして腕を組んだ。引き締まった、しなやかな腕である。
 ヨファなどもそうだが、ベオクの弓使いというのはよく細腕であれだけの矢を飛ばすものだ。
「シノンこそ、団長の晴れ姿を見に行かなくていいのか」
「オレはあいつのこと団長だなんて認めてねぇぞ。どうせ激励なんつってもグレイル団長の言葉をつぎはぎしただけの借り物だ、聞くだけ士気が下がる」
「お前はよくよくアイクが嫌いだな」
 レテは肩をすくめた。アイクが嫌いというよりも、それだけアイクの父親を慕っていたということなのか。
「ああそうだよ。オレはあのガキが大ッ嫌いだ。だから肩なんぞ死んでも持たねぇ」
 シノンはいつもの調子で吐き捨て、口をつぐんだ。不機嫌や会話の終わりを意味するにしては、様子がおかしい。片足で何度か地面を叩いて、言葉でも探しているような。
 やがてその必要もないと思い直したのか、シノンは足を止め再び口を開いた。
「言っておくぞ。――あいつのアレは、熱病みたいなもんだ。マジに付き合ってやるだけバカを見る。あいつの青臭い感情に、お前が責任を感じてやる義理は、微塵もない」
 レテは静かに聞いていた。シノンの口調は、レテを気遣ったものではない。
 敢えて言うなら哀れんでいるのだろう。幸福な犠牲者としてのレテを。
 アイクの真っ直ぐすぎる生き方は、時に残酷なほど他人の人生をかき乱す。そういう危うさのある強さだった。
 アイクの父は、味方に安心を与える類の強者だったという。シノンはそれを指して、アイクのことを嫌いだと宣言しているのかもしれない。
「私は、アイクに出逢えてよかったと心から思っている」
「そうかよ。そりゃ結構――」
「だが、アイクが私に自らの人生を差し出してくれると思うほど若くもないし、私の人生を全面的に差し出せるほど青くもないのだ。お前にどう見えているのかは、知らないが」
 レテは半分だけ、嘘をついた。どこからどこまでと線を引くには成分が複雑すぎたけれど、確かに嘘を混ぜた。自分でも何が本気なのか分からないほどの、嘘を吐いた。
 シノンは答えず、険しい顔でレテに歩み寄ってきた。大股で眼前に迫り、いきなり荒々しく抱きすくめる。
「ちょ……っ!」
「……確かに乳臭くはねぇが」
 やっぱり獣くせぇよ、お前は。
 ひどい侮辱の言葉を吐かれたのに、その声がまるで、きずついた、と言っているように聞こえて。レテは、初めから誰と関わることもなかった風に立ち去るシノンの背を、見送ることしか出来なかった。

 

 初めて訪れたクリミア王都メリオルは、雅な風情が損なわれてはいなかった。
 一方的だったのだ。芳しき花々が踏みにじられることもなく、涼やかな水のせせらぎが堰き止められることもなく。速やかに、ほとんど無抵抗に制圧された。だから原形をとどめているのだ。
 けれどここも死地になる。レテたちはこれより、取り戻すべき王都を、蹂躙する。
「……よし」
 アイクの隣で背中を守る、最後の大仕事だ。
 吸い込んだクリミアの空気は、春色の花の香でやわらかく甘やかだった。己の運命を知らぬかのように。
 風流な都に似つかわしくない轟音が鳴った。城門が破壊されたのだ。レテの振り向いた先で、アイクが抜き身の剣を振り下ろす。
「突撃!!」
 蒼穹に雄々しい号令が響く。化身しようとするレテの腕を、誰かが引いた。
「……ライ」
 何をするんだと怒鳴れなかったのは、ライがあまりにも真剣な顔だったからだ。
「オマエはあまり前に出るな。アイクも最前線には出させない」
「どういうことだ? 私たちが何の為に……」
「ああそうだ、オマエたちはこの日のために牙を研いできた。だからこそ、雑兵で消耗させる訳にはいかない。アイクともギリギリまで揉めたが、これはガリアと、傭兵団の軍師殿と、誰よりも――クリミア王女エリンシア様の決定だ」
 二人の傍を、たくさんの兵が駆け抜けていく。
 見知った者。見知らぬ者。ベオク。ラグズ。強者。弱者。男。女。子供。
 戦うと決めた心と共に。貴賎なく、追い抜いていく。
「漆黒の騎士たち……あの四駿を実力で束ねていた王だ。一般兵では傷一つ負わせられない。アイクの持つ剣技と神剣に賭けたい。そして現状、あいつの動きに完璧に合わせられる戦士はオマエぐらいだ。誰よりも傍で戦い、間合いを、癖を、呼吸を一番把握しているのは、オマエなんだ。二人こそがみんなの希望なんだ」
 頼む。オレにオマエたちを守らせてくれ、レテ。
 言いながらライは指を緩め、レテの首の後ろに手をやった。くん、と髪を引っ張られる。髪飾りを片方抜かれたのだ。ライはその珠を口唇に寄せ、しかし決して触れずに微笑む。
「貸してくれよ。この珠は双子なんだ。オマエがリィレを必要とするように、こいつも片割れの元に戻ろうとする。オレにはそんなよすがはないから。オレがオマエたちの元に帰れるように、こいつの力を貸してくれよ」
「わかった」
 レテは拳を突き出し、ライの肩にぐっと押し付けた。
 アイクに比べて華奢な肩。その奥に潜ませたしなやかな強さを、レテはよく知っている。
「お前に託す。必ず私たちの元に帰って来い、ライ」
「恩に着る」
 ライの姿が青く光った。駆け出す猫を見送るうちに、突撃の命を出したまま立ち尽くす指揮官殿と目が合う。
 レテはすぐ思い違いに気が付いた。立ち尽くしていたのではない。
 アイクは、仲間を信じて、機を待っている。レテと共に戦う最後の時に、備えている。
「アイク!!」
 息が切れるほどの大声で叫んだ。理由は自分でも分からなかった。
 それでもその名を、呼んだから。複雑に絡み合った想いも、真っ直ぐで純粋な力に変わる。
 アイクは黙って左手を前に突き出した。レテは吸い込まれるように一歩踏み出し、二歩三歩、歩み寄り、駆け出す。
 たとえどんな未来でも、光ある方を選んでいこう。同じ時に死ぬより、前に進み続けよう。
 今この手を離さないなら。それがきっと、望んだ永遠だから。
 どこまでも続く青い空の下で、お前と手を携えていこう。