美しい背中

「連れていってよ」
 海翔のその言葉に、天王寺綯は少しだけ眉尻を下げて笑った。海翔も眉を寄せながら、口許だけで笑い返す。
「俺も東京に、連れていって。いいよね」
 八月三十一日、夏休み最後の日。JAXA前で海翔は、東京に発とうという綯を待ち伏せていた。何が必要か分からなかったから、とりあえず数日分の着替えをボディバッグに詰め込んで、あとは何をおいてもポケコンと周辺機器。そして旅費には足りていないかもしれないけれど、貯金をありったけかき集めてきた。
「でも海翔くん、学校は?」
 綯が意味ありげに首を傾げながら問う。海翔は眉間のしわを解かないまま、そーいうこと言っちゃう、と肩をすくめた。
「今更そんな常識的なこと持ち出して、はぐらかそうとするのやめてくんない? 綯さんが誘ったんでしょ。それとも、その気にさせといて『そんなつもりじゃなかったのに~』とか、言っちゃうタイプ?」
「やだ。そんな魔性じゃないですよ。本気かどうか確かめたかっただけ」
 一転屈託のない笑みになり、綯は青空を仰いだ。
種子島は空が高いですねと、以前ぽつりと言っていた。ロボワン前の海翔なら、その意味がよく分からなかっただろう。東京に行くまで、海翔にはこの空が当たり前だったから。今は、これから向かう場所の空がどんなに低いか、思い知っているけれど。
「だってさ。ゲームは、どこでも出来るし」
 あのラグのなさにも慣れないけれど。
「――倒すべき相手が、そっちにいると、思うから」
 幼い俺は一度ここに忘れて行こうと、決めた。今の俺は『追う術だって持っている』と。
 海翔も小さく伸びをして、空に目を遣る。
「どうせ、十月には戻るんだし。ちょっとした国内留学、みたいなもんだよ」
 そうですか、と綯はうっすら微笑んで、白い指先で海翔の手を取った。
「じゃあ、行きましょうか」
 彼女はきっと気付いていたのに。海翔の追いかけた背中のことも。ここに置いていく視線のことも。
 海翔を連れ出してくれた。この時間に取り残されたような、誰かに忘れられたかもしれない島から。『なんの準備もない』、感傷に突き動かされただけの少年を。

 

「ここが東京ですよー」
「知ってます。この前来たんで」
「そうですね。あはは」
 空港の前で、スカートを翻してくるりと回る綯の表情に、不自然さはまるでない。少女のような仕草なのに、そう出来るのはいかにも大人だと海翔は苦笑いする。
 種子島を出る際、事前に何の相談もせず飛行機に乗り込んだ海翔へ、父は何も言わなかった。ただ乗り継ぎの為に降りた際、訳知り顔で頷いただけ。そういうところが、息子としては少し苦手だ。嫌いではないけれど。
「綯さんは職場に?」
 思い出しても詮無いことを振り切るように、海翔はこれからのことを問う。いいえ、と綯は胸を反らして伸びをした。
「今日は移動日でお休み取ってるから。一回、家に荷物置きに戻ろうかなって」
「男子を連れていくと、鬼の形相になるお父さんのとこに? そうやって甘い言葉で島から一人二人男を誘い出して、順番に消してく気なんだ。恐いね綯さんは」
「そんなことしないしない」
海翔の言葉を綯は笑い飛ばしたが、言った方はあながち冗談でもないつもりだった。天王寺綯は――というより、東京という街は、『戻る』と言った人間も言わなかった人間も、たくさん取り込んできているはずだ。そう、伊禮瑞榎のことは帰さざるを得なかったのかもしれないが、事実この街は瀬乃宮みさ希を吐き出そうとはしていない。
 海翔は白茶けたフィルターをかけたような空を、漫然と見回した。何の意味もないことだった。視線を下ろせば、綯はポケコンを取り出して、何かを調べている。恐らくここからの経路だろう。
「えーと、じゃあ、海翔くんの当面のお宿も考えなきゃですし。とりあえず、秋葉原に行きましょうか」
「それ、移動中キルバラ出来る?」
 近づいて、スクリーンをなぞる右手を軽く掴んで止めてみた。綯は海翔の指ごと、しなやかにその手を上げる。
「あとでね」
 例の笑っていない目で口の端を吊り上げ、海翔の口唇に人差し指を軽く押し付ける。その圧迫感に、一瞬目眩がした。綯はくすりと息を漏らして、踊るように海翔から離れる。
「ここからは自費なので、お安く電車移動ですよー。海翔くん、男の子なんですから、お土産ぐらいは持つの手伝ってくれますよね?」
「今時そーいうの、昴くん風に言えば『ナンセンス』だよ」
 文句を垂れつつ、綯が買い込んだ『りんかけ』の袋を持ってやるくらいは大したことではない。重いのは芋焼酎だけ。
「こわいね、綯さんは」
 ひとりごちて苦笑する。海翔は彼女のプレイスタイルを『はまると手が付けられない』と分析したが、どうやらそれは格闘ゲームに限ったことではないのかもしれない。
 陽は高い。今日はまだ夏の続きだ。キルバラは、荷物持ちの報酬として後払いで付き合ってもらうとしよう。綯ならばどうせ、本気の海翔からでも、一勝ぐらいはもぎ取っていくだろうから。

 

 秋葉原は、先日来たお台場よりも、もっと騒がしい街だった。実際訪れている人が多いのかどうかまで海翔には判断がつかないけれど、密度はこちらの方が高く感じる。
「海翔くん、こっち」
 綯は片手でスーツケースを引きながら、空いた手で海翔の手を握る。東京に着いてからずっとこんな調子だ。
 電車では運よく、二人共シートに腰を据えることが出来た。疲れていたのか綯はすぐに舟を漕ぎ始め、海翔の肩に寄りかかってきた。健康的な浅い寝息が肌にかかるのは、発作の看病であき穂の肩を抱いているときとは、明らかに違う感覚。小さく開いた口唇がかすかに震えるのを、どうするでもなく見ていたら、いつの間にか海翔も眠っていて。はっと目を開けたとき、綯は海翔の片腕を抱いて、だって海翔くん手すりに頭ぶつけそうだったんだもの、と微笑んでいた。
 それでも、現実に移動時間は一時間もかかっていないのだという。時計を確認すれば、綯の言葉に間違いはなかった。あき穂のFFや海翔のスローモーほどではないが、体感と示された事実が乖離して、どこか気持ち悪い。
 綯の手を強く握りしめる。配置を間違えたままセーブして進めてしまった、失敗作のデータみたいなごちゃごちゃの箱庭を、綯に導かれてどうにか進んでいく。AIの愛理よりも無表情の人混みをすり抜ける。
 前回は、オーロラだけがここも種子島と同じ日本だと思い知らせてくれた。今回海翔が『島と同じだ』と信用出来るのは、少し汗ばんだ綯の手の平の、温度と感触だけ。
「どこへ、向かってんの。綯さん」
 少し切れがちな息で問う。なるべく覚らせないようにしたつもりなのに、綯は振り返り、歩調を緩めてくる。
「お父さんのお店です。正確にはその上ですけど」
「お父さん、こんな都会にお店持ってるんだ。すごいね」
「ああいえ、多分海翔くんが想像してるようなのではないですよ。趣味のお部屋がお家に入りきらなかったから、外に借りてるーって感じの、儲からないお店だから」
 それにね、と前へ向き直る綯の横顔は、どこか寂しげで。
「秋葉原もね。きっと、海翔くんが思ってるほどは、都会じゃないの」
 呟く口調はそれ以上の質問を拒んでいた。海翔は何も言わずに、綯の言葉を反芻してみる。
 これだけ人がいて。これだけ車が行き交って。あれだけの電車が一駅に集まってきていても。東京育ちの綯にはなおここは都会でないのかと、その途方もなさにアスファルトを睨む。ハイビスカスを、自宅の庭から一輪くすねてくればよかったと思った。そうすれば綯だって、なんごく~って感じと、笑ってくれたかもしれないのに。

 

「ここ?」
「はい。あれ、今、出張点検か何かかなぁ。閉まってる」
 雑居ビルの前。ウインドウの向こう側には、テレビが何台も並んでいる。大小こもごものレトロなブラウン管。シャッターこそ閉まっていないがドアは開かず、どれ一つとして電源の入っているモニターはない。
「壮観っていうのかな、こういうの。すごいね。ロボクリニックとは違う迫力があるよ」
「あ、海翔くん、ブラウン管に興味あります?」
 綯が目を輝かせて顔を覗き込んでくる。その目には慣れていたので、海翔ははっきりと首を横に振る。
「正直あんまり。圧倒されたのは事実だけどさ」
「なぁんだ、やっぱり」
 綯は笑ってすぐに引き下がった。その引き際のよさが、誰かさんとは違うと――無意識に比べてしまって、皮膚のどこかを針で刺されたような痛みが生じる。
 綯はガラス越しにブラウン管テレビを見つめながら、ぽつりと言った。
「地デジ化が、確か二〇一一年でしたっけ。海翔くん、〇〇年代生まれじゃ覚えてないか」
「……あのね、言っても俺、〇一年生まれだから。十歳のときのことなら覚えてるよ」
 海翔は自分のものと同時に、綯の過剰な感傷をも両断した。
「島じゃブラウン管が現役の家、まだあるから。チューナー通せば放送は映るし、単体でゲームだって出来る」
「わぁ! 嬉しいな、それならもし動かなくなったら言ってくださいね、お父さん飛んでいかせますから!」
 綯は急に元気になって、両手で海翔の右手を振り回した。それ出張費いくらかかんのさと冷静に返せば、そうでしたと小さく舌を出す。どちらが大人だか分からない。
「それで、これからどうすんの?」
 ここでその、『お父さん』を待たなければいけないのだろうか。暑さには強いつもりの海翔だが、こうじめじめとして風通しの悪い屋外で長時間というのは、旅疲れもあってつらい。綯は、肩をすくめて上を示した。
「二階にいましょう? 冷房あまり効かないけど。ひとまずお金はかからないし、この時間なら誰もいないと思うから」
「二階もお店なの?」
「いやぁ~あはは……でもオーナーはお父さんだから、大丈夫」
 早口でごまかすと、綯はそそくさと脇の階段をのぼっていってしまう。海翔も仕方なく荷物を持って追いかける。ちらとポストが目に入った。テープで貼られた紙に『未来ガジェット研究所』と書いてあったが、正体は全く分からない。
 綯は若干不慣れな手つきで、うーぱ……あれは『うーぱ』といったはずだ、確か、のキーホルダーのついた鍵で、二階のドアを解錠する。
「お先にどうぞー。散らかってるかもしれないけど」
「ホントにいいのかな」
 綯の態度が曖昧なので、海翔も警戒してしまう。開かれた扉の中を、恐る恐る覗き込む。
「ねえこれ、誰かの部屋じゃないの? 入ったらまずいんじゃない」
「ああ、特定の誰かの部屋じゃないんですよ。なんていうのかな、複数人が共同で使ってる部屋といいますか」
「『研究所』?」
「そうそう。代表は『ラボ』って呼んでますけど」
 綯はなんだか決まり悪そうに笑った。とにかく、彼女は出入りを許可されているし、個人の居住空間ではないと言うので、海翔も肚を決めて、おじゃましますと中に踏み入る。
海翔の部屋とあき穂の部屋を足して割らなかった、というのが一番率直な感想だった。研究所という割にものものしい実験器具などもなく、目立った機械といえばテレビとデスクトップパソコンぐらい。閉まっているカーテンの向こうを足しても、大した広さではなさそうだ。ソファには大きなうーぱのクッションが転がっていて、ところ狭しと並べられたガラクタ――と言っては失礼かと、海翔は内心で『インテリア雑貨』とそれらしい言葉に置き換えてみるが、正直やはりガラクタ――も、ファンシーなものから男児が喜びそうなものまで、さまざま。相当無節操な人間が使っているか、相当多種多様な人間が出入りしているのだろう。こういう環境で育ったのなら、綯がロボ部に対して、悪く言えば馴れ馴れしく、よく言えば偏見なく接してきたのも、当然なのかもしれない。
「ちょっとお父さんに電話しちゃうので、海翔くん、適当に座っててもらっていいですか? あ、冷蔵庫の飲み物、好きに飲んじゃっていいから。多分ドクペしかないけど」
 綯がポケコンを取り出しながら、そこ、と冷蔵庫を指差す。ドクペってなんだよと海翔は首を捻りながら開けてみる。確かに同じパッケージのペットボトルが何本も入っている。見た目からしてあまりに毒々しかったので、コップを借りて、家庭用ボトルに入った麦茶をもらうことにした。ですよねと綯は苦笑していた。
「電話、天王寺裕吾」
 機械的な声が、機械に命令を出す。海翔もソファに陣取ってポケコンを取り出し、キルバラを起動しながら綯の横顔を見ていた。普段は童顔にすら思える彼女も、伏し目がちになると歳相応以上に大人びて見える。海翔がそれを知ったのは、彼女と初めて対戦した日。
「ああ、繋がらない……。お父さん? 綯です。東京戻りました、今ラボにいます。気付いたら連絡ください」
 留守番電話に吹き込む声を聞きつつ、海翔は既にオンライン上で一人のユーザーを倒していた。相変わらず東京での対戦は、ラグがなさすぎてかえって感覚が狂う。まぁ、何戦かすればこれにも慣れるだろう。一月この状態でやっていて、島に戻ったときまた調整するのも億劫だが――。
(いて)
 一瞬刺すような頭痛がして、ひどいコンボミスをしてしまった。ラグがあったのは通信ではなく海翔の思考。ひとつき、という単語が引っ掛かったのだと気付くのに、しばらくかかった。
 海翔は、綯の手を掴んでしまったから。無条件に、『彼女が種子島に再び派遣されるとき、一緒に戻るもの』と決めてしまっていた。その間、彼女とキルバラをする以外のことを、どうするかも考えないまま。
とりあえずオフラインに切り替えた。このままではランクがどんどん下がっていく。
 綯が仕事をしている日中の間、自分は具体的に何をするのだろう。アルバイト? この身体で、土地勘がなくて、親の同意書も得られないのに、どこで? それとも、みさ希に会う? 何の為に? どの面を下げて? 正しい資質(ライトスタッフ)が何かも見極めることが出来ていない愚かな子供に、大事な時間を割くほど甘い相手ではないと、海翔は誰よりも知っているはずなのに。
 シャツが不自然なしわを作っていた。自分が胸元を握り締めているせいなのだと理解するのに時間がかかった。息が、ひどく詰まっていた。
「海翔くん」
 いきなり頬を襲った痛みに、背中が跳ねる。違う。痛みではない。綯が手にした、サイダーのペットボトルだった。そんなもの、冷蔵庫にはなかったのに。
 透明な結露が、彼女の細い手首をつうと伝っていく。
「……キルバラ、しようか?」
 綯は雫を拭いもせずに微笑んで。ずっと用意していた台詞を奪われた海翔は、彼女の顔を見ずにポケコンへ視線を落とした。
「待ちくたびれちゃったよ。俺、綯さんいなきゃ東京なんか来なかった、のに。あは」
 せめてもの強がりで付け足した笑いが一層無様に響く。綯はそれを笑わずに、うん、そうだねと、海翔の隣に腰かけて、静かに『キルバラッド・オンライン』を起動した。
 海翔のガンヴァレルと綯のボルトヴァリアンが対峙する。呼吸が落ち着いていく。それでいて鼓動は高まっていく。研ぎ澄まされていく。意識が。神経が。
 シグナル。明滅。目の前の対戦のこと以外、どうでもよくなる。それが逃避であっても。思考停止であっても。何でもいい。このままでいたい。八汐海翔という、たった十八歳の少年にとっては、今こうして、魂のひりつくような勝負をすることだけが、生きている実感の全てだから――。
 もっと、もっと教えてほしい。もっと、昂らせてほしい。傍目には指先を動かしているだけの行為の中で。八汐海翔はここにいると、確かに存在していると、繰り返し叩き込んでほしい。それが社会的に何ら価値を持たなくとも、海翔の中でそれは『意味』になる。
次手を。読み、かわし、ときには敢えて退かずに突っ込む。次手の次手の為に今の一手を捨てながらでも肉薄する。繰り返し。繰り返し。嵐の中を前に、前に進むように。矢の降り注ぐ戦場を往く士のように。笑いながら限界を、境界を、臨界を目指す。なんという馬鹿な行いだろう。自覚があって、なお海翔は止まることが出来ない。止まることをしない。たとえその先がどこへ繋がっていようとも。駆け上がらずにいられない。何故ならそれが、それこそが、『八汐海翔』の全てだから。その頂にある者が、世間で何という名で呼ばれていようが、関係ない。いずれ斬り伏せて、その座を奪う。
「俺が――」
 俺は。八汐海翔。UMISHO。リーダーボードじゃずっと上から数えて五位以内。今は凄まじい相手と凄まじい読み合いをしてる。それですぐに、この人も、あの人も、誰もかれも全部倒して。必ず。
「俺が、全一に、なるんだよ……!」
 ガンヴァレルが、ボルトヴァリアンを撃破した。それだけのこと。たったそれだけのこと。今日だけで何度目になるかも分からないこと。
「海翔くんの、勝ちですね」
 綯は穏やかに呟いて、海翔の肩にくてんと体重を預けた。自分が負けたと言わないのがいかにも解っている。苦笑して、海翔も綯の方に少し重心をずらす。
「綯さんって、ホント、こわいよ」
「何がです?」
「何もかも。俺、既に綯さんなしじゃ生きられなくされてるんじゃないかって、思うよね」
 マッチング画面を落とし、綯のキルバラも横から勝手に終了させてしまった。あれ、と綯は大袈裟な声を上げる。
「珍しい、海翔くんから対戦切り上げるなんて」
「だってこれ以上は、やばいよ。自制利くうちじゃないと。……俺きっと、綯さん、帰れなくしちゃうから」
 言ってしまってから、なんだかいやらしい台詞だなと少し居心地の悪さを覚えた。やましい気持ちなどないつもりなのに。綯もそれは知っているだろうに、どうしてか海翔の片腕をそっと胸に抱いた。電車内と違うのは、海翔は眠っていないことと、頭をぶつける先もないこと。そして、人の目はどこにもないこと。
「何か、してほしいですか?」
「え?」
「勝負。海翔くんいつも言ってるじゃない。言うこと聞かせたかったら勝武(キルバラ)で勝てって。勝ったんだから、私に何かしてほしいことあったら、言っていいですよ」
 綯の声は撫でるように優しく、そのくせ本気であるのは痛いほど伝わってくる。海翔の剥き出しの腕に、薄い布越しの膨らみが触れている。そんなに細い肩紐だけで、綯さんブラどうしてるのかな、と下衆なことが頭をよぎる。けれど一番強く心を占めているのは、男になりたいという願望とは真逆のものだった。
 ――どこにも行かないで、俺のそばにずっといてよ。
 そんなこと、何百回と勝ったところで申し出ることの出来ない、子供の駄々だと解っていた。綯は大人で、仕事と生活がある。海翔だけに都合のいい存在にはならない。いつかきっと、いや必ず、海翔を置いていく。みさ希と同じように(・・・・・・・・・)
「じゃあ、教えてよ」
「え?」
 聞き返す綯の手を振り払い、主導権を自分に明け渡させた。そのうえで、目の前の細い肩を両手で掴む。
「教えてよ! どうすれば、俺は綯さんの手を離さずにいられるのか!」
「ちょっ、海翔くん、痛……」
 綯が顔を歪めるのには気付いていたのに、海翔の指先にはいっそう力がこもる。
「代わりになんかなんなくていいから! 約束してよ、俺のこと、もう置いてか……ッ!」
 叫びは最後まで言葉の体を成さず、引きつれた呼吸に埋もれた。心臓が内側から殴られたように大きく跳ね、時間を正しく認識出来なくなる。
 ああ、いっぺんにいろんなことに神経を使いすぎたんだと、海翔は涙も出ないほど緩慢な世界の中で思った。どうせ今回は終わるまで急いですることもないから、ゆっくり反省したり、綯のことを見つめていたりしよう。
 綯はこれ以上ないほど目を見開いて、大きく口唇を開けていた。きっと海翔の名前を呼んでいるのだろう。綯さん、俺のことでそんな焦った顔してくれるんだ、そういえば発作のこと話してなかったんだっけ、と考えた。彼女を落ち着かせようにも、これが治まってくれないことには何も言えない。
 手を伸ばそうとしたけれど、重い。頬に触れたかった。背中があれだけ滑らかだったのだから、あまり化粧っ気のないその頬はさぞ手触りがいいのだろうと。ゆっくりと、低スペックの機械でやるゲームみたいにもどかしい動きで、綯の顔を目指す。蒼褪めた白い肌。いつものように、少し赤らんだ健やかな色の方が、綯にはずっと似合っているのに。ハイビスカス。あの南国の花みたいに。
 なえさん、と届かないのに呼んでみる。不思議な名前だね、と。俺、初めて聞いた。そんな漢字あったのも、知らなかったんだ。綯さんに逢わなかったら、一生知らなかったかも。思わず調べちゃったけど、それ、好きな子の名前を辞書で引いてにやにやしてる中学生みたいで、相当イタいよね。あは。
 ねぇ、綯さん。
「なかないでよ」
 自分の声がして。背中がようやくソファの座面に到達して。世界が等速に戻ったことを、海翔はやっと実感出来た。
 綯が潤んだ目で、麦茶のコップを差し出そうとしてくる。海翔は寝ころんだままどうにか首を横に振り、自分の右腕を目許に押し付ける。
「わす、れて」
 かすれた声を絞り出す。綯がそれを聞き取る為に、顔を近づけてくるのが分かった。表情は見せず、続きを短く告げる。
「キルバラの、後のこと、ぜんぶ」
「はい」
 綯は静かに答え、その速度を確かめるように、海翔の胸に軽く右手を置いた。そんなわけにはいかないでしょうと、大騒ぎしたっておかしくはない状況なのに。海翔の要求を真っ直ぐに呑んだのは、勝者の権利だと思ってくれたからなのか。
 まだ涙しているのか確かめたくて、腕をずらし綯の顔を盗み見る。立ち上がろうとする横顔は至極冷静で、発作中に見せた取り乱しようの影はなかった。海翔は少し口唇を噛む。綯はどこかから、くたびれたタオルケットを持ってきて、海翔の身体にそっとかけた。暑いぐらいの気温だというのに。
「少し、寝ますか?」
 綯はソファの傍らにぺたりと座って、投げ出されたままの海翔の左手を握った。その行動が既に、『キルバラの後のこと』を忘れてなどいない証だと、彼女はきっと解っている。それでも海翔の言葉ではなく、本心を叶えようとしてくれているのだ。天王寺綯は。
「ずるいよな、綯さんは……」
 観念して顔を見せると、綯は海翔と同じようにはにかんで、おやすみなさいと額に淡いキスを落とした。母にもされた覚えのない、異国の風習だった。

 

『カイ』
 呼ばれたような気がして、海翔は目を開ける。一瞬、ここどこだっけ、と天井を睨んだ。
 そうだ。秋葉原。ナントカ研究所とかいう場所。綯に連れて来られ――綯は?
「綯、さん?」
 海翔は身を起こす。電気は点いていたが、外は随分暗くなっているのが分かった。視界の中に綯の姿はない。立ち上がり、仕切りのカーテンの向こうも覗いてみたが、誰もいなかった。シャワールームらしき場所も見た。いない。
「綯さん!」
 この部屋に彼女がいないことを今完全に確かめたはずなのに、声を張り上げていた。当然答えはない。忙しなく歩き回っていたら、テーブルの脚を蹴ってしまった。いってえと悪態をついた海翔の前に、紙切れが一枚落ちてくる。
『海翔くんへ お父さん帰ってきたから、少し下にいます。
晩ご飯も買ってくるから、ちょっと待っててね。 なえ』
「……なんだよ」
 海翔は力なく笑いながら、座り込んでしまった。そうだった。ここは彼女の父親の店の真上。まして留守電にあんなメッセージを吹き込んだのだから、そのうちに父が連絡してくるのは道理だ。改めて、綯のスーツケースがまだそこにあることを確認し、自分も大分参っていると思った。
「カイ、か」
 綯の置いていったメモを指先でひらひらさせながら、呟く。目覚める前に夢で自分を呼んだのは、一体どちらだったのだろう。みさ希? それともあき穂? 単なる呼びかけだったのか。それとも。
「どのみち、俺の頭の中の話だね」
 自嘲する。海翔がどんな罪悪感を抱えていようと、本物の二人がどう感じているかとは全く無関係だ。ことによれば罪の意識すら思い上がりで、案外どちらにとっても八汐海翔など、所詮代替の利く存在にすぎないのかもしれない。
「いってて、今のは自爆……」
 海翔は立ち上がれないまま、片手で側頭部を押さえた。どうせ結論の出ない話なら、ネガティヴな発想すら無意味だ。これ以上余計な考えで自分を追い詰めるのは得策ではない。深く息をついて、立ち上がろうとした瞬間だった。
 ドアが、錆び付いた音を立てて開こうとしている。
「なんだ、まゆりかー? 今日は残業あるから来られないって言ってなかっ……」
 綯ではない。無造作に言いながら入ってきたのは、海翔の見知らぬ青年だった。雑に撫でつけた髪に無精ひげ、ひょろりとした長身、歳は恐らくロボ部顧問の長深田充彦よりも上だろう。海翔と目が合うと、気怠げだった瞳を大きく見開き。
「誰だ貴様ー!」
 指差して怒鳴った。どこか芝居がかった大声に一瞬耳を塞ぎつつも、おじさんこそ誰なのさと問い返すほど、海翔も無作法ではない。どう考えても、この場にいるべきでないのは海翔の方なのだから。
「はじめまして。ええと……ラボの人? 俺、八汐海翔っていいます。天王寺綯さんの……」
 知り合い、という言い方はなにか癪だ。少し考えて、連れ、と続けた。つまらないプライドなのは自覚している。青年は怪訝な顔のまま部屋に上がってくると、掛けてあった白衣を大袈裟に翻しながら身にまとった。
暴走小町(フラットアウト・プリンセス)(フラットアウト・プリンセス)の? そういえば、種子島に行ったとかでミスター・ブラウンが大層嘆いていたな。戻ってきたのか」
 海翔は引きつった笑みを浮かべる。
 うわ、この人完全に、例の『二つ名のおじさん』だよ。
「俺の名は鳳凰院凶真。狂気のマッドサイエンティストにして、いかにも、このラボの主よ! フゥーハハハ!」
 決めポーズを披露する姿に、既視感を覚えた。多分『ミスター・プレアデス』だ。ホウ何とかというのも本名なわけがないが、そういう設定ならば深く触れない方がいい。配慮ではなく面倒そうだから。
 そういえば――と、海翔の意識は種子島に飛ぶ。自分を『クズですね』と罵った後輩は、今回の行動をどう評するだろう。またクズだと言い捨てるだろうか。どんな言われ方をしたところで、自身は痛くもかゆくもない。日高昴は、2号機の設計に携わると言った。彼ならば、言ったことは責任を持って成し遂げるはずだ。あき穂の夢見がちな部分は、彼が現実的に制御してくれればいい。最初から海翔には、技術面で彼女を支援することは出来ない。
「……と、いうわけだな?」
「は? すみません全然聞いてませんでした」
「正直なやつだな!」
 心が秋葉原に戻ってくると、鳳凰院が舌打ちしながらあの黒みがかった赤色のペットボトルを開けるところだった。あれ、飲むんだ……と内心思う。勧められると困るので口には出さなかった。
「調布のJAXAを見に来たのではないのか?」
 躊躇いなくその液体を喉に流し込み、鳳凰院が問い直す。はあ、まぁ、と海翔は言葉を濁す。意外と常識的な発想だな、とこっそり考えつつ、首の後ろをかいた。
「えーっと、それより、ホーオーインさん」
「うん?」
「綯さんの、現役ゲーマー時代のこと、聞かせてほしいかなって」
 海翔が愛想笑いで頼むと、今までふてぶてしかった鳳凰院が震え出した。手に持ったペットボトルが激しく揺れて、中身をぶち撒けそうになっている。
「き、ききき貴様そっちの……そっちだったのか!」
「はい?」
「ふ、はは、この命知らずめが……! いいだろう貴様が望むなら、かつての奴の主戦場に案内してやってもいい……!」
「ホント!?」
 鳳凰院がここまで怯える理由は海翔の興味の埒外だが、綯をあそこまでの猛者に仕上げた『秋葉原のゲーセン』には、大いに興味があった。彼女がかつて好んでプレイしていたという格闘ゲームにも。
「行きたい! それ、今から行っても遊べるの?」
 弾んだ声で詰め寄れば、まぁ待て、と鳳凰院も余裕を取り戻したようだった。
「急くな少年、ゲーセンは逃げんぞ。何故ならここは、秋葉原。(つわもの)たちは……眠らない」
「よっしゃ!」
 海翔は飛び上がらんばかりに喜んだ。早速綯にメールを打とうとして、やめた。先程のメモを手に取り、裏返す。
「おじさん、ペン持ってない?」
「おじさんではない。鳳凰院凶真だ」
 海翔が差し出した手の平に、ボールペンが一本載る。この人多分すごくいい人なんだろうね、変人だけど、と思いながら、海翔は逸る気持ちを抑えて何とか置き手紙をしたためた。
『なえさんへ 二つ名のおじさんとゲーセン行ってきます。ご飯は戻ってきたらもらうよ。ありがとう。 かいと』
 ゲームセンターの中は、確かに夜だというのに人が多かった。それでも覚悟していたほどの人数ではないし、騒がしさも身構えたほどでもない。
「やっぱりロボワンってのはお祭だったんだね。東京って言っても普段はこんなもんか」
 音楽ゲームの華やかな演出を流し見ながら呟くと、先導していた鳳凰院が振り返り、ロボワン? と静かに繰り返した。
「もしかしてお前、中央種子島高校ロボット研究部か」
「へ? まぁ、一応。もしかして中継観てたの?」
「リアタイではないが、ネットの動画でな。母校がロボワンによく出ていて……俺自身はロボット工学に詳しいわけじゃないが、同期が気にしていたんだ。今回は天才オペレーターがいたとか。そうか、お前のことか」
 薄暗い店内で、けばけばしい電飾を逆光に立つ彼は、もしかしたら『鳳凰院凶真』ではなく『素の彼』で話していたのかもしれない。それぐらい、ラボにいるときとはまるで違う、落ち着いた口調だった。
 けれどそんなこと、海翔にはどうでもいい話だ。殊更挑発的に笑う。
「そうやって予防線張って、負けたとき盛大に言い訳するつもり? 大人ってずるいなぁ」
 子供が『ずるさ』で『予防線を張った』ことには気付いていたのだろう。彼は一瞬だけ優しく苦笑すると、すぐに『鳳凰院』の顔に戻った。
「よもや、子供だからと手加減してもらえるなどと、甘えたことを考えているのではあるまいな?」
「へぇ。てことは、俺に『苦い思い』させてくれちゃう自信はあるわけ?」
 海翔はポケットから財布を取り出し、振ってみせる。百円玉は何枚かあったはずだ。
「だったらさ、勝負してよ。そんで、イナカモノにトカイの厳しさ? とか、教えてくださいよ。ね。おじ、さん?」
 鳳凰院も使い込んだ小銭入れを取り出し、握り締めて高笑いする。
「吠えたな少年、ちなみに俺は今年二十八でまだオジサンではない!」
「あそ? 奇遇だね、俺は十個下の十八。十年ひと昔ってね――まぁ試合前のおしゃべりはもういいでしょ。両替は済んでる?」
「心配無用だッ! 貴様こそ所持金が底を尽きて泣いても、ビタ一貸してはやらんからな!!」
 足早に向かった先で、鳳凰院が一つのアーケード筐体にばんと手をつく。海翔は薄笑いで向かいに腰かける。
 普段はキルバラばかりやっているが、家にはレバー式のゲームパッドもある。オンラインでの対人戦が出来るような上等なものではないけれど、不慣れというほど不慣れではないつもりだった。コインを入れずに、流れるデモ画面と下に貼ってあるコマンド表にざっと目を通す。
「オーケー、システムは大体理解したつもり。あとはやりながら慣らすよ。レディ?」
「無論、ゴーだ!」
 そうして、男と男の戦いのゴングが鳴ったわけだが――。
「……あの、なんか俺、ジュースとか買ってきた方がいい?」
「うるさい」
 鳳凰院は画面の前で突っ伏して、震えた声で言った。
 勝敗は二百円でついた。厳密には百円で決まっていて、申し込まれた泣きの一回を海翔が許可したが、何の意味もなかった。もう、海翔が上手いとか、彼が下手だとか、そういう次元ですらない。自称・狂気のマッドサイエンティストは、格闘ゲームに関するセンスというものが壊滅的になかった。海翔は師匠譲りの信条で、相手が初心者や子供だろうと一切の容赦をしないが、それにしたって『そもそも、この人をそこに座らせちゃってよかったのか?』と自問せざるを得ないほどの有様だった。
「ふ、ふふ、ふ……」
 ホントに大丈夫かな、と海翔が顔を覗き込もうとしたとき、明らかに大丈夫ではない笑い声を上げながら鳳凰院がいきなり立ち上がった。うわっと悲鳴を上げて海翔は後ずさる。
「ぬるい、ぬるいわ、俺にとってはゲームなど児戯にも等しい! 砂糖水のごときぬるさだ!」
「それ温度関係なくない?」
「やかましい! とにかく俺を倒した程度で、秋葉原を制したなどとはゆめ思わんことだな!」
「すごい三下の台詞」
 海翔の再三のツッコミを無視し、無駄に白衣の裾を揺らしてポーズをとる鳳凰院。目立つと言ったらない。
「いいだろう、貴様は第一の関門を突破した……」
「その関門、全開で見張りいなかったけど」
 海翔は正直な感想を口にした。あき穂の方がいくらかマシかもと思ったぐらいだ。鳳凰院は咳払いでそれを流すと、額に手を当て、今の海翔が絶対に敵わない武器、すなわち身長を使って見下ろしてくる。
「……連れて行ってやろう、少年。貴様をここへと誘った女が、かつて数多の猛者どもを葬ってきた、『本当の戦場』という場所ヘな」
 そこでようやく海翔も軽口をやめ、息を呑む。
「『地下フロアの一番奥』……?」
「ほう? 存在だけは聞かされているか。さすが暴走小町(フラットアウト・プリンセス)の一番弟子、といったところだな」
 鳳凰院が愉快そうに口唇を歪める。海翔は、ふいと彼から視線を逸らした。エスカレーターそばのクレーンゲームからは、ぴこぴこと楽しげなBGMが流れていて。
「俺の師匠は綯さんじゃないよ。こういう筐体は置いといて、キルバラじゃ俺は世界レベルだから。今のとこ綯さんよりランクは全然上」
「なんだと? ならば貴様の名は今日から――」
「俺は八汐海翔、ユーザー名はUMISHOです。それ以上の名前はいりません」
 二つ名の授与を全力で拒むと、こちらも口唇の端をにやりと上げた。
「ぬるいのも甘いのもいらないよ。さっさと連れて行ってくれないかな。その、『血に飢えた戦士たち』のところへさ」
「よかろう、南国より来たりし飢えた狼(エキゾチック・バトルウルフ)。ついてこい」
 鳳凰院は下りエスカレーターに向けて歩き出す。結局わけわかんない名前つけられた、とむくれながら、海翔も(この秋葉原でさえ!)場違いな白衣を追った。
 短いエスカレーターを降りただけで、そこは別世界だった。こもった汗のにおいを効きすぎた冷房が耳障りにかき回し、暑いとも寒いとも言い難い独特の空気を作り出している。海翔も、感情によるものなのか温度変化によるものなのか分からない鳥肌をさすりながら、鳳凰院の白衣を風除けにしつつ奥へ踏み入っていく。
 音は空調以外にほとんど聞こえなかった。上の階が『愛想のよい表』だとしたら、こちらはまさに『裏』の顔。殴り合うSEと、単調なBGMと、レバーとボタンの操作音、そして押し殺した複数の息遣いしか感じ取れない。霧の都のようにもうもうとタバコの煙が立ち込め、綯の言ったとおり目に染みるほどだった。
 ぴたと、鳳凰院の足が止まった。対戦している二人以外の全員が、いっせいにこちらを向く。だが無言。誰も口を開かず、訝し気に鳳凰院を――いや、違う。彼にとっては、上での対戦ではなく、ここでの観戦こそがホームなのだ。不健康そうな男たちが視線で値踏みしているのは、場違いな高校生である海翔だけ。
「キルバラというゲームの上位ランカーだそうだ」
 鳳凰院が振り返らずに親指だけで海翔を示せば、黙ったままの男たちの眉がわずかに寄った。肌がぴりぴりと鋭敏になっていくのが分かる。海翔は知らず笑みながら、鳳凰院の背後にいることをやめ、前に踏み出す。
「知ってる人、います? 俺、現状でリーダーボード2位の……UMISHOって、いいますけど」
 何人かが露骨に顔色を変えた。筐体の前に座った男に、誰かが耳打ちする。ちょうど対戦が終わったらしく、病的なまでに痩せた男がすっと立ち上がり、今まで陣取っていた椅子を顎で指した。
「どうも」
 小さく頭を下げて、まだ体温の残るちゃちな丸椅子に腰を下ろした。レバーとボタンの様子を確かめる。上の筐体よりガタつきが少ない。メンテナンスは充分。巧者ほど、わずかなマシントラブルが生死を分けることを知っている。海翔が財布を取り出そうとすると、後ろからすっと手が伸びてきてコインを入れてくれた。何せ誰の手かも判断がつかないので、とりあえず見回しながら礼を言っておいた。
 一戦目はすぐに終わった。海翔の方が、負けた。些細な抵抗しか出来ず、至極普通に。声に出すことが憚られて、表情にだけ感情を出しながら、海翔は百円玉を数枚詰む。
 面白いじゃないか。こんな世界が、リアルに存在するなんて。日本もまだまだ終わってないね?
 そこからの海翔の上達ぶりは、進歩ではなく進化と呼んでいいほどだった。一足飛び以上のスピードでシステムを覚えていく。応用する。拮抗する。競り勝つ。読む。勝つ。
 自分の百円玉などいつ切らしていたのだろう。別の手が次々コインを投入してくれて、海翔にその先の舞台をねだった。いつの間にかコインを入れなくても続けていられるようになった。向こう側の筐体に座る相手もどんどん変わった。彼らの中にもきっと見えないリーダーボードがあって、下から順に海翔の相手をしてくれているのだ。それをどんどんなぎ倒し、UMISHOはこの『地下闘技場』のランキングをも駆け上がる。
「次は!?」
 マナー違反だと知りながら、海翔は声を上げていた。キルバラほどではないにしろ、こんなことは楽しすぎて。黙っていることが出来なかった。
「バトルウルフよ」
 後ろから、鳳凰院が肩に手を置いてくる。その名はやめてほしいのに。振り向くと、彼はとても難しい顔をしていた。
「今のが、暴走小町(フラットアウト・プリンセス)が第一線を退いた後、四天王の座に納まった男だ。それより上の者は今日は来ていない」
「え?」
 海翔は男たちの顔を順番に見た。言われてみれば一巡していたようだった。
「全員倒しちゃったって……こと?」
「今いる分はな」
 鳳凰院には嘘をついている様子も、もっと言えば理由もない。いい夢の途中で突然起こされた気分だ。これで終わりなんて、消化不良にもほどがある。
「なんだ、じゃあ、綯さんいないと、やっぱり俺……」
「オカリンおじさん!!」
 追い求める、声がした。しかしいつもの少しとぼけたような調子ではなく、激しい怒気を含んでいる。綯は厳しい顔つきで、真っ直ぐに鳳凰院凶真に歩み寄った。
「何やってるの! 海翔くんまだ未成年なんですよ!? こんな時間にこんなところまで連れ回して――!」
 途端にたじたじの鳳凰院を助けもせず海翔が腕時計を見れば、もうとっくに二十二時を回っていた。そういえば、いつからここにいるのだろう。
「海翔くんも!」
「あっはい」
 いきなり本名で呼ばれたので逆に驚いてしまった。思わず肩をすぼめて両脚を閉じる。綯はかつてないほど感情的な目で海翔を睨みつけていた。
「わかりますよね? これで何かあった場合、『誰の責任になるか』」
「……うん」
 うん、と繰り返しながら、本当にバカなガキだなと、海翔は自分で自分の前髪を握り潰した。
 そうだ。ここは種子島ではない。そして海翔は大人ではない。もしもこんな時間に、こんな場所で不慮の事故や発作でも起きたら、それはここにいる鳳凰院や、島から連れ出した綯、最悪JAXAの職員……例えばあき穂の父親や誰か、とにかく大人の責任になる。海翔はまだ、自分で責任を取る権利を許されていない。
 海翔が理解したことを感じ取ったのか、綯はそれ以上の追撃をしてこなかった。彼女が保身の為に『責任』という重い言葉を持ち出したのでないことが、尚更強く胸に刺さる。
「海翔くん。勝負を、しましょう」
 綯の声に、視線を上げる。静かな口調だった。彼女は感情の残滓すらない顔と同じ高さに、百円玉を掲げてみせる。
「一本勝負です。私が勝ったら、東京にいる間、無許可で夜歩きしないこと。いいですね」
「わかった」
 さすがの海翔も、自分が勝った場合の条件を提示するような真似は出来なかった。綯が勝てば約束を『守らされる』。自分が勝てば『守る』。それだけのことだ。
 綯は向かいに座ると、迷うことなくスキンヘッドの大男のキャラクターを選んだ。海翔もタイミングを掴んでしまった開始の合図が鳴る。鳴った、だけのはずが。
「なっ……!?」
 瞬きすら遅い。海翔の動体視力をもってしても、確認出来たのは綯の腕が鞭のようにしなるところだけ。海翔の操作キャラクターが三歩移動した、わずか数フレームで画面が暗転し硬直状態になる。開始直後の隠し必殺。海翔はこの技を知らない。コマンド表に載っていなかったから。キルバラぐらいやり込んでいたら気付いたかもしれないが、始めて数時間では探す余裕もなかった。年季、という言葉が頭をよぎる。海翔の操作キャラはもうとっくにやられていた。天王寺綯は、確かにこの場所にいる誰よりも、強かったろう。
 普段ならば、どうやったの、もう一戦、とねだるところだが、今はそういう空気でもない。何より、綯の勝利条件を呑んでしまったから。今日のこれだって『夜歩き』に含まれるはずだ。大人しく従う以外に道はない。子供にも持てる精一杯の誠意としても、格ゲーマーのプライドとしても。
「海翔くん」
「はい」
「帰りますよ」
「はい」
 そして多分、男としても。
 綯に手を引かれ、苦笑しながら立ち上がった。今回は海翔の完敗だ。あらゆる意味で。
「お世話になりました。今度は明るいうちに遊んでよ、お兄さんたち」
 深々と一礼。我ながら道化じみている。ずっと殺気立っていた男たちも、一瞬笑ってくれた気がした。
「ふん。あの小動物がすっかりお姉さん気取りだな」
 鳳凰院が鼻を鳴らすと、綯の顔にあの『目が笑っていない』笑みがのぼる。
「まず、海翔くんをこんな時間にここに連れてきちゃった大人の自覚がない人は誰なんでしょうね。ね、オカリンおじさん?」
「うぐ、それは……!」
「ねえ綯さん、オカリンおじさんっていうのは?」
「あ、またそっちしか名乗ってないんだ。この人、本名は岡部倫……」
「は、早く帰るがいい! 子供の時間は終わりだ、バトルウルフ!」
「八汐海翔です。またよろしく、岡部さん」
 真っ赤になっている鳳凰院にもひらと手を振り、エスカレーターへ。被保護者としてだが、男だらけのあの空間から、美女と手を繋いで離脱するというのも悪い気分ではない。
「海翔くんのばか」
 縦に並んで段差に立っているので、前にいる綯の顔を覗き込むことは出来なかった。声は拗ねているように聞こえる。
「黙って出て行っちゃうんだもの」
「綯さんだってそうじゃない」
 海翔は笑いをこらえながら答えた。綯は振り向かず早口に言う。
「だって海翔くん寝てたから」
「気を遣ってくれたの? ありがと。『なえ』ってひらがなで書いてあるの、かわいかったな」
 一階に着いた。世界は健全な明るさに戻る。身長差も。綯はぷうと頬を膨らませていた。
「画数が多いから」
「俺も。書くの面倒なときあるよね」
 海翔は掴まれたままの手に、力を込める。
「このままでもいい?」
 どの状態を維持することを意図した言葉だっただろう。海翔としては、拡大解釈してくれるに越したことはない。
「甘えん坊さんですね、海翔くんは」
 綯は小さく笑っただけで、具体的な返答はしてくれなかった。海翔もそれ以上求めなかった。
「生憎、子供なもんでね」
 憎まれ口を叩いて、一緒に歩き出す。振りほどかない程度には、綯も海翔の我が侭を受け入れてくれていた。
 外には星が照っていたが、種子島とは光り方が全く違う。降るような星という表現に習うなら、東京の星は、落ちたくなくて必死に空にしがみついているような、ある種の感傷を呼び起こす。そんな柄でもないのに、と海翔は不吉なオーロラを見遣った。あの妖しさだけは種子島と同じ。
「海翔くん、明日の予定は?」
 綯が首だけで振り返る。島よりも圧倒的に光量の多い夜道は、他人の表情まで仔細に見せすぎてしまって、かえって薄気味が悪い感じがした。それでさえ光っているアスファルトに目を落とす。
「特には。綯さんが邪魔じゃなければ、こっちのJAXAも見たいかなー、なんて、漠然と考えてる程度?」
 車の量が多い。何でもう二十三時も近いのに、こんなにたくさん走っているのか。人の量も。綯が手を引いてくれなければ、『八汐海翔』なんて簡単に呑み込んでしまいそうで。
「それで、休憩時間にキルバラ?」
 綯がいつもの調子でくすくす笑って、海翔は、ぱっと顔を輝かせて視線を上げ。
「そうそう! さっすが綯さん、よく解って――」
 そう。綯は、よく解っている。だから、あんな風に泣きそうに微笑んでいる。気付いている。海翔のついた、出来の悪いその場しのぎの嘘に。
「会いには、行かないんですか」
 綯に直接誰と言ったことはないが、島を発つ前に海翔は『倒すべき相手がいる』と告げてしまった。自分に重ねられた相手だということも、綯にはきっと知られている。悪あがきと承知で、海翔は空いている方の手で頭をかく。
「俺ごとき一介の高校生がさ、そう簡単に会える相手じゃないんだよね。それが」
「じゃあ訊き方変えますね。会いたくは、ないですか」
「……綯さんはさぁ、時々すごくずるいよね」
「ふふ。海翔くんほどじゃないですよ」
 沈黙が訪れた。それも長くはなく、飲む? と綯はちょうど横にあった自動販売機を指差す。スコールのミニペット。これはこっちでも売ってるんだ、とぼんやり思う。
「今は、ダメだよ。今の俺じゃ、届かない」
「いつなら届くの?」
「わからないよ。わからないけど、でも俺は……」
 アキちゃんを、置いてきてしまったから。
 接触が悪いのか、スコールを照らしていた自販機の内の灯りが、ぱちんと爆ぜた。
「あき穂ちゃんなら、皆さんもいるし、大丈夫ですよ」
「そういうことじゃない! 『あき穂が』大丈夫かどうかじゃないんだ、そういうことじゃないんだよ!」
 こんな都会の真ん中で、みっともなく怒鳴ってしゃがみ込んでしまった。惨めだった。けれど、綯にみさ希の話をする気は全く起きなかった。
 やっぱり俺は、何も考えたりしないで、アキちゃんの保護者やって、他の変化なんか求めないで、島にこもってキルバラだけをやり続けていればよかったんだ。そうすれば、寂しくてもこんな風に震える羽目になんかならなかった。
「何、だよ、それ」
 海翔は自嘲した。だって、そんなの、笑うしかない。
「今更。俺がそうしたんじゃないか(・・・・・・・・・・・)
 俺が、自分で、ゲームを、約束を、投げ出したんだ。
『アキのこと、よろしくね』
 そう言ってくれた。託してくれた。かつて誇ったその役目を放棄したのは、他ならぬ海翔自身の意思だ。もう何を問い質すだけの権利も、合わせる顔もなくしてしまった。
 人々は海翔のことなど気にもかけずに通り過ぎる。車もお構いなしに行き交う。明るい、明るい街。光も。音楽も。何もかも。人工の楽しさに満ちた街。
「みんな、こんなところから、どこへ行くの……? こんな場所にいて、みんな、何になるんだよ……?」
「海翔くん。とにかくここだと、人目につくから」
 ずっと繋いだままだった手を引いて、綯は無理に海翔を立たせた。歩きたくなかったけれど、留まっていたくもないから任せっぱなしにした。
 人通りが少なくなって、海翔はようやく顔を上げる。たくさんのブラウン管が並んでいた店に、シャッターが下りていた。眠りについた区画があると、それだけでひどく安堵した。
「あき穂ちゃん見てるとね。羨ましいなって思いません?」
 唐突に、綯は身体ごと海翔を向く。器用なことに手を離さず。まるでフォークダンスだ。笑わされてしまった。
「無駄に前向きなとことか?」
「一生懸命になれる何かがある、っていうこと」
 綯の手は、海翔の手を握ってぷらーんぷらーんと横に揺らす。風の強い日の吊り橋みたいに。吊り橋効果、というどこかで聞いた言葉が浮かんだ。これは当てはまらない気がする。
「海翔くんもね。行くところ、ちゃんと決まってるって、私は思うな」
 けれど、ドキドキはした。綯の笑顔が、大通りにいた時よりも控えめに光を浴びていて。
「全一に、なるんでしょう? 海翔くんには目標があって、それを叶えるだけの才能もあって、毎日努力をしている。だったら向かう道で、『その人』に出逢う日が必ず来ます」
「だけど、ゲームなんかで――」
「ゲーム『なんか』!」
 卑屈になってこぼした台詞に、綯は過剰なほど反応した。海翔は言われ慣れていて、社会的に見たらそんなものだろうと諦めていた、周りの評価に。綯は本気の剣幕で詰め寄ってくる。
「それは、ゲーム『なんか』に青春を捧げた私への挑発ですか!? これっだけ付き合わせておいて、海翔くんにとってキルバラってそんなに軽いものですか!?」
「そんなわけ……! そんなわけ、ないだろ!?」
 海翔の方も、つられて大声を出していた。こんな時間で、この辺りには民家もあるかもしれないのに。
「俺は絶対全一になる! キルバラやってたいから、綯さんがキルバラ強いから、追っかけてここまで来たんじゃないか!」
「じゃあいいじゃないですか」
 綯は一転けろっとした顔で言った。そこで、またやられたのだと海翔は気付く。引き出された。隠そうとしていた本音を。声に出して、自覚させられた。
 綯の両手が、キルバラばかりやっている海翔の両手を包む。長いまつ毛は祈るように伏せられて。
「海翔くんは。それでいいんだって、私は、思いますよ」
「……やっぱずるいよ、綯さんは」
 海翔は震える声で笑った。最後に手をロックした状態でそんなことを言うなんて、ハメ技にもほどがある。
 ぱっと片手を離すと、綯は階段の方に海翔を誘った。
「ね、中に入りましょう? 今夜は私もここに泊まりますから」
「綯さんのえっち」
 にやにやと煽ってみても、水着の女性に格ゲー迫るような朴念仁さんはこわくないでーす、と笑われてしまう。よっぽど押し倒してやろうかと思ったが、やめた。今度はケダモノ認定されるだけだ。それと、彼女の父親に殺される。
「あー、捜して走り回ったから汗かいちゃった……。先にシャワー浴びていいですか?」
 ラボに戻るなり、綯はそう言って襟元をばたばた動かした。『先にシャワー』だなんて、なんだかオトナな響きだ。どうせ綯にはそんな気が一切ないのだろうから、気にしても無駄だと海翔はキルバラを起動しかけたのだが。
「ちょちょちょ待って待っ、意識しないにも限度ってものがあるよね!?」
「ほえ?」
 いきなりワンピースを脱ぎ始められたので、危うくポケコンを落とすところだった。綯はこちらに背を向けて、首だけで意外そうに海翔を見ている。
「どうかしましたか?」
「どうかしてんのは綯さんでしょ! 何か言ってくれる、そしたら俺あっちのカーテンの方に行くとか何とかするんだからさ!」
「あれ、もしかして海翔くん動揺してますか。てっきり、下着も水着も似たようなもんでしょー、むしろ水着のが布面積狭いんじゃないのーとか、言うかと思ってました」
「俺どこまで無神経だと思われてんの?」
 似たようなことは思わなくもないが、さすがに女性本人にその理屈を押し付けるほど野蛮でもないつもりなのに。綯はお構いなしに、よっと声を上げてワンピースの裾から頭を抜く。白い背中が露わになる。
「脱衣所ないんですよ、この部屋。別に海翔くんになら見られてもいいかなーって思ったし」
「何で綯さんって、そういうさぁ……」
 海翔は片手で顔を覆った。ひどく熱い。どうしてそういう、勘違いしたくなるような言い方を、するのか。
 好奇心に負けて、指の間からついその肌を盗み見た。スポーツ用の自転車というものは案外と背筋を使うそうで、綯の肩甲骨周りには確かに余分な肉が一切なかった。引き締まった瑞々しい肌には、よく見ると赤い筋が幾本も不規則に走っていて。
「これ……?」
 海翔はポケコンをしまい、ついその赤に触れてしまっていた。綯は驚いた素振りも見せず、ああそれ、と笑う。
「この前のデートのときのです。私、適当でって頼んじゃったから、塗り残しのとこだけ焼けちゃって。あはは」
 俺の、と海翔は呟きながら、指先でその色をなぞっていく。
俺の指の跡。ちゃんと日焼け止め塗ってあげなかったから、焼けちゃったんだ。この白い肌が。
 南国の陽射しが残した火傷。少年の指のかたち。他の誰とも一致しない、八汐海翔と呼ばれる少年の、指の跡。この美しい背中に残して。東京にまで、連れてきてしまった。
 吸い寄せられるように、片耳を背骨の辺りにつけていた。綯は思ったとおりブラジャーを着けていなかったから、妨げになるものもない。少し速い心音は、一体どちらのものだろう。
「あの、海翔くん……? さすがに、ちょっと、近くないかな……?」
「綯さんの背中って、さぁ」
 ねえ。綯さんは、いつも俺をドギマギさせるんだから。今ぐらい、俺に勝たせてよ。
 海翔は首を転がし、彼女の肌に額を押し付けて、その奥の奥に染み込ませるように、ゆっくりと息を吐いた。
「きれいだね」
 渾身の文句も、密着も。そう? と綯が肩をすくめただけで、あっさり終わった。
「背中だけ?」
 綯は、脱いだワンピースを胸に抱いて、上体だけで振り返る。海翔は、繰り返し教わった挨拶を大仰に口にする。年上の女性専用のもの。
「今日も全身、おきれいで」
 月並みな恋愛ドラマならここでキスシーン。けれど高校生と、成人して間もない社会人はただ、互いに不相応なほど老獪な笑みを交わしただけだった。
「海翔くんの目も、きれいですよ」
「なにそれ。口説いてんの?」
 きっとまだ、肌で探り合うには互いに子供で、臆病だったから。
 美しい背中はふっとシャワールームに消え。彼はソファに腰かけて、夢の続きに現を抜かす。『キルバラッド・オンライン』、そのちっぽけで果ての見えない世界に沈み込む。
 時刻はもうすぐ二十四時。すなわち零時。八月が、高校生最後の夏休みが終わり。種子島ではない場所で、静かに静かに九月が始まる。