いつも少しだけ不自由

 神成岳志が渋谷署から出ていくと、久野里澪が立っていた。
 そのうち飯にでも連れて行くという約束をした覚えはあるが、呼びつけていないときに待ち伏せされるのはなかなかのテロである。
「恋人かと訊かれた。ここの警官は不躾だな」
「人相を教えろ。あとで誤解だと重々言い聞かせておく」
 挨拶もなしに歩き出した。店を探したいとは思うけれど、とりあえず署の前は嫌だ。
 久野里も大人しくついてくる。どうでもいい世間話で間を繋ぐ。
「相手がいるのかどうか訊くのがマナーだったか? 刑事さん」
「うるさいな、断らなかった時点でわかってるんだろ。そっちこそ俺なんかを構ってて、彼氏の一人もつくらないのか」
「彼氏が一人じゃなくてもいいような言い草だな」
「いや、一人にしておけ……無用なトラブルを招く」
 一年ぶりなのに、相変わらず揚げ足ばかり取る奴だ。
 歩道橋を渡りきってから、神成は道の端でタブレットを取り出した。どうせとんでもなく食べるだろう、どこか空いている店の食べ放題コースをネット予約していった方がいい。
「久野里さん、酒飲むのか」
「それなりに」
 彼女の言う『それなり』のレベルが怖すぎたので、飲み放題もつけることにした。どうせ自分も飲むつもりだから別にいいのだけれど。
 ため息をついたら白いもやが風に流れた。タブレットを鞄にしまって、歩みを再開する。意見は聞かずに勝手に鍋にした。そういう気分だったから。
「こういう財布が恒常的にいてもおかしくないのにな。顔はいいんだし、惚れ込む物好きな男だってゼロじゃないだろう」
「失礼な奴だなあんたも。飯の対価が性的搾取じゃ、私を安く見積もりすぎだ」
「そうとは限ら……ないけど可能性としては高いのか、本当に嫌気がさすな男って」
「だろ?」
 何だか得意げに言う久野里に頷きかけて、神成はぐんと顎を上げた。今、ものすごく不本意な結論に達しようとしている気がする。
「待て。それだと俺がそういう見返りを要求してるみたいに聞こえる」
「まさか。あんたは去勢された国家の犬だからな」
「どうして一言『信用している』と言えば済むものを、わざわざ悪意に満ちた言い回しにするんだ?」
 問いながら、面白いから以上の理由がないことも解っていた。
 店は駅近くの雑居ビルだから話しているうちにもう着いてしまう。エレベーターを呼ぶ間に久野里があくびする。
「あんたこそ。その気もない女引っ掛けて、浮いた話の一つもないのかよ」
「引っかけてるんじゃなくて巻き込……ああそうだよ、ないよその手の話は」
「そういう欲求は?」
「なくはないけど、今は仕事でそれどころじゃない」
「こういう奴が四十五十になって、嫁という名の介護要員を探し始めるんだな」
「……自分の始末は出来る限り自分でつけるつもりだぞ」
 五階の店は週中のためか予想より混んでいなかった。これなら予約は要らなかったかもしれない。入り口で名前を告げるとすぐ席に通された。こういうとき、珍しい苗字だと楽だなと思う。
 勝手に『とりあえず生二つ』をして、一緒に頼んだサラダが来るのを待つ。抗菌のビニール袋を引き裂いておしぼりで手を拭いた。めちゃくちゃ冷たかった。
「なんだかなぁ。だからって君とどうこうなるっているのは冗談としても悪質すぎるというか、金を積んでも勘弁してくれという話ではあるんだが」
「おい何をしれっと私がフラれた感じにしてる」
「最後まで聞けよ。仮に特定のひとを見つけたとして、君と二人で行動する時間が制限されるのはいかにも窮屈だなと思う部分はある」
「人を都合のいいキープみたいに言いやがる」
「そういうことじゃない。この国の異性同士ってのはやりづらいってことだよ」
 アルバイトが聞き取れない言葉を連ねながら(多分日本語だろうとは思う)ビールジョッキ二つとシーザーサラダを置いていく。
 そういえば酒を飲むかとは訊いたがビールが飲めるかとは訊かなかった、と神成が今更反省していると、久野里は乾杯もせずに口をつけて半分減らした。つくづくかわいくない。
「神成さんの言うことにも一理ある。そういった偏見は世界に満ち溢れているが、日本は顕著だからな。メディアもフィクションもこぞって『血の繋がらない男女は恋愛関係にある方が幸福だ』って価値観を再生産してる」
 この女が『サラダを取り分ける=女子力』のような手垢のついたジェンダー観で動くはずもあるまい。『年功序列』というカビ臭い価値観によってもだ。
 ただ、取ってやるのも癪だったので神成は自分の食べたい分だけ取って、ボウルごと向こうへ突き出した。久野里も取り皿を使う気は毛頭ないようだった。
「俺だって、『知り合ったのは仕事で互いに恋愛感情は皆無だが、顔のいい若い女とプライベートの時間を割いて会ってる』って他人に言われたら、一度も下衆な勘ぐりをしないのは多分無理だしな」
「『赤の他人であるところの男女が二人で会っていたら、それは熱愛というコンテキストでなければならない』。傍で見る分には愉快な国だが巻き込まれたくはないな」
「悪かった、もうよそう。酒の席でめんどくさい話をするな。余計な横文字も使うな」
 神成は一杯目を一気に飲み干した。どうせ今夜は情報交換ではなく、先んじて手伝ってもらった件の報酬なのだ。久野里の腹が満たされるのであれば他に目的もない。飲んで食ったら帰りたい。
 店員を呼んで牛鍋とビールをまた二杯頼んだ。久野里は玉子の燻製とたこわさと言っていた。
「どのみち、現状じゃお互い誤解されて困る相手もいない。気ままに過ごせばいいだろ」
「それもそうだが……」
 誤解の相手がなまじ美人だからいろいろあるのだ。中身はオッサンだと言っても照れ隠しだと思われて相手にされない。うるさい外野に、ぜひさっきの注文内容を聞かせてやりたい。
 久野里はジョッキの残り半分に口をつける。
「困るのは気になる女が出来てからにしろよ。存在しないものを気にするのは妄想家のするこ……いや、男か?」
「気を遣ってるのか蹴りつけたいのかどっちだ。フェイントかけて繊細なとこ土足で踏み荒らしやがって」
「ちなみにどっちだ」
「異性。女」
「つまらねぇ」
「人のセクシャリティを酒の肴にするな」
「なんだ、気に障ったか? なら教えてやるが私は恋をしたことがないぞ」
「その歳で初恋がまだって……むしろピュアなんじゃないのか?」
「『まだ』とは恋愛至上主義者の言葉遣いじゃないか。他人に恋愛感情を抱かない無性愛者の人権を侵害しているな」
「それは……悪かった。配慮が足りなかった」
「ところで私は、自分が無性愛者だと感じたことも名乗ったこともないが」
「いい加減にしろよ……」
 さっきの何語を喋っているのか分からない店員が鍋を持ってきて、カセットコンロをつけていった。多分アクションからして、強かったらつまみを回せとかそういう説明をしている。久野里は届いた料理に手を付けないうちからサラミ三種盛りと唐揚げを追加している。
 二回目のビールで今更乾杯もなく、神成は三個ある燻製玉子のうち一つを刺し箸で奪った。
「何であんた女なんだろうな」
「ハッ、呆れた男性中心主義(アンドロセントリズム)だ。私が男になるより、あんたがモノを取ってくる方がよっぽど手早いのに」
 久野里は鼻で笑った。やめろと言った長い横文字を持ち出してくるからには怒っているのだろう。女性蔑視と取れる発言についてか、玉子が一つ減ったことについてかは分からないが。
「悪かったって。俺は男を捨てたいわけでも、君に女を捨ててほしいわけでもないんだよ。ただ」
「ただ?」
 白身はそこそこだが黄身がもそもそする。粉っぽいのをビールで飲み下すと、神成は口の周りの泡を手で拭った。
「ただ、少しだけ不自由だなと思う」
「それは同感だな」
 久野里の箸が玉子を挟む。縦に真っ二つになったけれど、黄身と白身の割合はものすごく偏っていた。極端に黄色っぽい方を目の前の皿に置かれた。普通に考えたら黄身側をくれるのは優しさということになるのだろうが。
 神成はテーブルに突っ伏した。
「難しいなー、世の中って……」
「目下、鍋の火加減の方が問題だぞ」
「言えてる」
 気を取り直し、鍋の煮えるのを待つ。直箸で遠慮なくつつき合う。
「おい肉ばっか食うな! 俺まだ一枚も取ってないぞ!」
「あんたもう代謝落ち始めてるだろ、白菜でも食ってろ!」
 恋人だとかきょうだいだとか友人だとか相棒だとか仲間だとか。
 彼女との関係を表そうとすると、言葉が上手くはまらない。何だかどれも着心地が悪い。
 さしあたって、一緒に飯食って文句を言い合う仲、とかでどうかご勘弁いただけないだろうか。
 神成は誰にともなく伺いながら、しらたきをずるずるとすすった。