流行おくれのおにいちゃん

「ああ。ああ、そう処理してもらって構わない。それじゃ」
 神成岳志が目の前でガラパゴスケータイを折り曲げたとき、わずかだが上下がずるっとずれたのを澪は見逃さなかった。というかいい加減、澪のいる病室内で電話するのはやめてもらいたい。
「ヒンジ」
「あ?」
「あじゃない。やばいだろ、それ」
 澪が指差すと、ああ……と誠に遺憾そうに神成は自分の携帯を軽く振った。連結部からガタガタと頼りない音がして、画面部分と本体部分が上手く重ならずに震えている。神成は特別物の扱いが雑な類ではないが、それにしたって随分長期間酷使しているようだし、よく動かすところが劣化するのも当然の結果だった。
「やっぱりやばいよな。気になってはいるんだが、どうも俺の機種サポート切れてるらしい」
「そりゃあ2016年にもなって今時、老人向けケータイすらスマホが主流だっていうのに」
「いやお年寄りはタッチパネルのが直感的でいいんだろ……あと根強いガラケーユーザーは未だに結構いるんだからな」
 彼は子供みたいに拗ねた口調で言った。かわいくないんだよと蹴りたいのを我慢……しきれずに無言で蹴ったので、何だよ! と怒られた。
「グダグダ言ってないで機種変しろよ! 物に愛着を持つのも結構だが大概にしろ、いつか繋がりもしないガラクタ抱えて現場に行くつもりか!?」
 逆ギレも兼ねて正論で罵れば、うぐと神成は黙り込んだ。無線があるとはいえ、警察組織で通信途絶は致命的である。澪は舌打ちして頭をかいた。
「別にガラケーがよけりゃ、今でも置いてはあるだろうさ。だがそこまで固執する理由は何だ? 拾って育ててもらった恩でも?」
「何で携帯に拾われなきゃいけないんだよ。そうじゃなくて、こう……折ったときにさ? 通話終わったぞ! って気持ちが切り替わる気、するじゃないか」
 神成は自分の愛機を一回開いて閉じてみせたが、新品の頃は小気味よくパチンと鳴ったであろうそれも、今はヒンジが死にかけているせいか、ぱひ、と間抜けに空気が抜けるだけ。澪はじろりと神成を睨む。
「じゃああんた、固定電話も通話終わったら受話器折るのか?」
「……折らない」
 神成は目頭を押さえて、見え透いた言い訳を即時捨てた。澪がこの男を評価出来るとしたら、こういう本能的な状況判断の早さだけだ。神成は、はぁあと聞こえよがしな長い嘆息をして、俯いたままうめく。
「だってさぁ。言ったら君、絶対に鼻で笑うだろ?」
「そんなことはしない」
 澪が即答すると、神成が期待を込めたような瞳でちらと視線を上げる。澪はただ真っ直ぐに、その希望を打ち砕く。
「最初から馬鹿だと思ってるから、今更驚かないし、笑うまでもない」
「本当に言いたい放題だなお前!」
 がっと吠えてから、神成はやはり言いづらそうに髪をかき回して、眉間にしわを寄せて首を巡らせ、しびれを切らした澪が怒鳴る寸前にようやく観念したようだった。片手で目許を隠しながら、顔を背けて言う。
「――区別がつかない」
「は?」
「スマホと、ポケコンと、タブレットの区別がつかない」
 澪は呆れて言葉が出なかった。情弱と罵る気すら起きなかった。勿論、この昭和生まれにそれぞれの特色を噛み砕いて説明してやる義理はもっとなかった。
「これだけ覚えろ」
「はい」
 神成が悔しげに下を向いたまま、声だけは素直に答える。澪は淡々と言う。
「スマホは疑似的なパソコンにもなる『携帯電話』。ポケコンは電話も出来る『多機能携帯デバイス』。タブレットはキーボードのない『パソコン』」
「はい」
 ここまで大雑把に括ると語弊も出てくるが、細かいことは混乱を招くし何より面倒なので全部省いた。
「欲しいのは?」
「携帯電話です」
「よろしい」
 それだけ分かっていれば後は自分で何とか出来るだろう、いい大人なのだし。澪は痛む頭を切り替えて、作業に戻ろうとした。神成はまだぐちぐち言っている。
「今年車検あるのにな……給料日前だし……湯沸かし器壊れたし……こないだ結婚式重なったからご祝儀でかなり飛んだ……」
「替えるのか! 替えないのか!!」
「替えます替えます」
 澪が耐えかねて決断を迫れば、神成はがっくりと肩を落として、懐に手を突っ込んだ。残金でも確かめるのかと思えば、取り出したのは手帳で。さも当然の顔でぺらぺらとめくる。
「で、いつなら空いてる?」
「は?」
 本気で意味が分からなくて聞き返すと、え? と向こうにも意外そうな顔をされた。
「一緒に来て選んでくれる流れじゃないのか?」
「あんた本当にしれっと他人を予定に組み込むよな!」
 今なら有村のイラつきがよく分かる澪である。この男は、いかにも俺は相手の意思を尊重しますよという面をして、実のところ強引に他人を巻き込むのが大得意なのだから。
「え、無理か?」
 そんな捨てられた子犬みたいな目をしたって全然かわいくないんだよ、と言いたくて言いたくて仕方ないけれど、とりあえず蹴った。だから何だよ! と文句を言われるが知らない。
 こういうところがずるいのだ。嫌かと聞かれれば嫌だで済むのに、無理かと訊かれたら別に無理ではないのだから。澪は諦めの意味も込めて舌打ちをする。
「あんたの財布だか預金通帳だかの都合がいいときでいい」
「それ、永遠にないかも……」
「分割きくんだから数年払いで月ごとに対処しろよ」
「どのみち、またしばらくロクなもん食えそうもないな……」
 神成は首を振って、それから意を決したように顔を上げた。
「よし、じゃあ今から行こう」
「は、今?」
「善は急げだろ。明日壊れない保証もないし、決めたんなら早い方がいい」
 こういう無駄な行動力も澪の苦手なところだった。事件のときは大いに役立ったものだが、平時までそれをやられるのはたまったものではない。結局白衣を脱ぐことになり、キャリアショップまで連れ出されてしまった。
「量販店のが安いぞ?」
「いや、ああいうとこで携帯買うのなんか嫌だ。こわい」
「柔軟なのか保守的なのか分からんときがあるな、あんた」
 自動ドアが開く。ずらっと整列するスマートフォンの実機たちに、うおっと気圧されたような声を出しているのを、澪は聞き逃さなかった。浦島太郎……と浮かんだけれど、黙っておく。
「え、選ぶコツとかは?」
 それでも果敢に訊いてくるわけだが、澪はそこまで面倒を見てやる気がない。
「どれでもいいだろ。全部あんたの持ってるオモチャよりはハイスペックだ」
「ひどい言われようだな……」
 助けが得られないことをようやく悟ったのか、神成はつかつかと陳列台に歩み寄り、目についたらしい黒いものを手に取った。澪も一応ついていってやる。遠くから叫ばれるのだけは絶対に避けたいので。隣に並ぶと、神成は案外冷静な横顔で、指先をすっすと動かしていた。
「画質いいな、やっぱり」
「毛嫌いしてた割には手慣れてるな?」
「操作自体は割としてるんだよ」
 そういえば、山添にスマホを見せたときも、彼は『自分の所有物ではない』と言いながら、澪が教えずとも普通に使いこなしていた。思ったよりも機械に弱いわけではないのかもしれない。すぐ傍に貼ってある、スペックの比較表を見る目にも特に疑問の色はなく、指差しで数値を計算しながらぶつぶつ言っていた。これだったら私要らなかったじゃないか、と澪は明後日の方を向きながら小さく嘆息する。
 神成が、何かに納得したように、ふむと言ってサンプル用の実機を置いたとき、ちょうど女性店員が話しかけてきた。
「何かお探しの機種などおありですか?」
 お決まりのセールストーク。神成は対外的な笑顔をうかべ、やんわりと答える。
「いえ、妹が見立ててくれるっていうんでね。とりあえず一通り見て回りますよ。ありがとう」
 澪は眉をひそめた。
 ああやって、相手を不快にさせないラインで、明確に拒絶の意を表す癖は、彼の生来のものなのか、それとも刑事という職が培わせたのか。とにかく店員は引き下がり、誰が妹だと澪は小声で毒づいた。仕方ないだろ、と何故か言い出した神成まで不満げである。
「ここで、知り合いですって言ったら、どんなだよ? って思われるだけなんだから。余計な疑いは持たれない方が動きやすい」
 これも職業病なのだろうか。澪はいまいち釈然としない。
 とにかく、神成はふらりと歩を進め、別の台にある次の候補に手を伸ばしていた。
「あー、こっちのが持ちやすいな」
 さらっと言うので、澪は何だかむっとする。
 神成がひょいと持ったのは、澪が自分のものを選ぶとき、でかいし重いし論外と思って早々に候補から外したのと同じシリーズの機種だったのだ。神成の骨ばった左手の中に、その電話はいかにも自然に、軽そうに納まっている。身長はさほど変わらない気でいたのに、手首にごつごつした時計のベルトが覗くそれは、間違いなく澪の華奢な手とは違う、男の手だった。
「でもさっきのより1万も高いのか、ちょっとなぁ……」
「『安物買いの銭失い』」
「……もう少し考えるかな。長期に影響する買い物だし」
「そうしろよ」
 澪はなるべく不機嫌に『見えるように』、片手を腰に当てる。
「一通り見ないと。私が『見立ててやってる』ようには見えないだろう?」
「そうだな」
 神成は苦笑して、2台目も陳列スペースに戻した。
「頼むよ、『澪』」
「呼び捨てにするな」
「はいはい、『澪ちゃん』」
 澪は神成について店内を一周したが、彼は結局、二度目に触れたものに決めたと言った。の、割にさっきから実機の前で腕組みをして動かないので、澪もイライラし始めている。いや、最初からイライラしてはいるのだが。
「なんだよ。決めたんじゃないのか?」
「いや」
「あ?」
「あって言うな。色だよ」
「色?」
 これとこれ、と、神成は3色展開のうち2色を指差して、難しい顔をした。
「どっちにしようかと思って」
「どっ、ちでもいいだろ、そんなもん」
 腹が立ちすぎて、もはや怒鳴ることすら出来ずに震える澪。この男はどこまで馬鹿で、どこまで澪の時間を使い潰せば気が済むのか。だってさぁ、と神成は珍しく、年相応の青年の声で言う。
「2年払いで買ったら、最低2年は付き合ってもらわなきゃ困るわけだろ? だったら客観的に似合う方選ばないと、損な気がしないか?」
「あんたの損得の基準が本気で分からん」
 とはいえ早く解放されたい。動きゃ何でもいいだろと吐き捨ててから、澪は改めて写真の色味を見た。つまらないスタンダードな白と、あまり見ない深い緑――さっき手にしていたのと同じもの。『神成岳志』の性質を考えたら、圧倒的に前者なのだろうけれど。
「緑」
「どうも。ところで即決の根拠は?」
「白は汚れが目立つからだ。それぐらい分かれよ」
「アドバイスありがとう、そうするよ」
 嬉しそうに笑いやがって、と澪は胸中で毒づく。
 光の加減で緑がかって見えるあんたの黒髪には、そっちの方が絶対似合ってる、なんて死んでも口にしてやらない。
 神成は先程の女性店員を呼んで、愛想よくこれの緑が欲しい旨を伝えていた。手続きは2階でやるらしく、もう1階を見尽して飽きてしまった澪もついていくことにした。書類記入を傍で見守っていても仕方ないので――こんなところで入手出来る程度の神成岳志の個人情報は、既に握っている――アクセサリコーナーを見るでもなく見ていた。ゲロカエルんストラップの店舗コラボ版などという酔狂なものも売っている。デコシールなどもいろいろあったが、澪には縁遠いものばかりだ。
 ふと、神成の声がして顔を上げる。
「澪!? 澪ちゃん!? 液晶保護フィルムと保護強化ガラスってどっちがいいと思う!?」
 澪は出来るなら他人のふりをしたかった。いや事実他人だった。何をそんな切羽詰まった顔で大声を出しているのだ。目の前にプロの店員がいるのだから店員に訊けばいいではないか。客前だというのに思いっきり苦笑されている。ああもう、と頭をがしがしかいて、澪は投げやりに言いながら神成に歩み寄っていった。
「まったく、何一つ自分で決められないんだな、『兄さん』は!」

 

「今日はありがとう。助かったよ」
「別に。私は色と保護シートしか決めてない」
「ケースも考えてくれた」
「あれは一択だっただろ。この店舗にはあれしかないっていうんだから」
 店を出たら結構いい時間になっていた。この刑事殿は仕事しなくていいのだろうか。澪の疑問をよそに、ご本人は呑気なものだ。
「お礼に飯ぐらい奢るよ」
「金欠のくせに何を格好つけて」
「いや、普通の食事代ぐらいなら出せるって……お高いとこでなければ」
 自分であれだけ愚痴っておいて、10代の子に心配されるなんて情けないなーとぼやいているのだから、呆れを通り越して笑える。今日の彼は徹頭徹尾情けなかったというのに。
 澪は短く嘆息して、呟く。
「マクディ」
「え、だから気を遣わなくてもそこまでランク落とすことは」
「今はジャンクが食べたいんだよ」
「だってこの前、こっちのマクディは小さいうえにまずいって――」
「うるさいな、文句があるなら帰るぞ!」
 歩き出せば、待てって、と彼は間抜けについてきて。
「わかったわかった、行こう。だから機嫌直せよ。な?」
 本当に兄貴みたいな面で兄貴みたいなことを言うものだから、殴りたいといったらない。澪はふんと鼻を鳴らして、制服姿で、スーツ姿の青年と連れ立って渋谷の雑踏に紛れていく。