みかんを食べたら帰ります

 電話がかかってきたのは、ある冬の日の18時すぎ。澪が自宅アパートで、ちょうど足の爪など切っているときだった。安っぽい爪切りは、放っておきすぎた立派な獲物を上手く噛み切ってくれない。
 澪は舌打ちでそのことに対する悪態を中断すると、充電中のスマートフォンを足先で器用に引き寄せた。発信者が牧瀬紅莉栖でも百瀬克子でもないことを確認するや、何とか始末をつけた右足の親指をスクリーンに当て、『拒否』の方にすっとスライドさせる。
 静かになったので爪切りを再開。親指ほどの脅威にはならないだろうが、右の人差し指も安全とは言えない長さになっている。ばちんばちんと折り潰すように要らない分を落としていく。
 再び電話が鳴り叫ぶ。こうなったら、向こうは出るまでかけてくるのに違いない。澪は眉をひそめ、右足の手入れを続けながら左足で『スピーカー受話』のボタンをタップした。
『久野里さん? 神成です』
「用件を」
 黙っていれば社交辞令を並べ立てかねない相手に、短く返す。素っ気ない対応も慣れたものとでも言いたげに、神成岳志は平気で会話を進めてくる。
『こたつ要るか?』
「は?」
『いや、こないだストーブの電熱線切れたとかって聞いたから。要るなら持って行こうかなと』
 べしん、と爪切りが空ぶった。澪は苦い顔でスマホを睨む。
 慣れないのはむしろ澪の方だった。この男はいつも『俺にも分かるように頼む』だの『順を追って説明してくれ』だのほざくくせに、澪相手ではときどきこうやって『自分の分かっている程度のことならそのうち勝手に分かるだろう』と雑な見立てで説明を省く。確かに観察力も分析力も高い自負はあるが、別にエスパーではないというのに。
「どこかのお古か?」
『新品。節電タイプって書いてある』
「サイズにもよるが、タダならもらう」
『そうか。で、今は家に?』
「ああ」
『実はもう下まで持ってきてるんだけど――』
「よし分かった、あんた本当の馬鹿だな?」
 これで澪が在宅していなかったらどうするつもりだったのか。忙しいとしきりに口にする奴ほど時間の使い方がなっていないものであるが、澪から言わせればこの男はその典型例だ。
『いるならちょうどいい。部屋まで運ぶぞ?』
「どうぞ。あんたが下着一枚でくつろいでいた部屋の主に、文句の一つも言わないと誓えるのなら」
『……待ってるから着替えてもらってもいいかな。お休みのところ大変申し訳ない』
 裏返った声を聞きながら、童貞でもあるまいしいい歳をした男がそれぐらいで動じるなよと内心で呆れる。だがとりあえず謝罪の言葉を引き出せたことには満足し、服を着たらドアを開けるからと言って通話を終了した。
 先に足の爪を切ってしまうことにする。先ほどまでより丁寧かつ集中して――要するにわざと余計に時間をかけて両足を整えると、澪は傍にあったジーンズを引っ掴んで脚を通した。上は……面倒だが、さすがにノーブラで男と二人きりは、こちらが訴えられかねない気もする。一応透けないように、型崩れした下着だけつけておいた。随分待たせてしまっているが、そもそも澪には急いでやる義理がない。
「やぁ。こんばんは」
 ドアを開けたら神成が既に立っていて、ものすごく呑気な挨拶をされた。澪は何だか苛ついて、もう前言を撤回し鍵を閉めてしまいたい。だが彼が抱えた大きな箱は気になった。なにせ澪はまともな暖房器具を持っていない。あれがそうなら、追い返すのは受け取ってからだ。出来ればもう一つの布団と思しき方も。
 神成は愛想のいい笑顔でほざいてくる。
「上がってよければ、セッティングしていくけど?」
「待て。何が望みだ」
「人聞き悪いこと言うなよ。あ、とりあえずアイス溶けちゃうからこれ冷凍庫に。みかんも買ってきた」
 これ、と左肘を突き出される。ビニール袋がかかっているが、一度その荷物を離してくれないと奪いようもない。そこに有名な銘柄のカップアイスが2個入っているのを見て取った澪は、ようやくこの男の魂胆を看破した。聞こえよがしに嘆息して、横幅のある箱を迎え入れる為に大きくドアを開く。
「あんたがこたつを楽しみたくなっただけだな? 刑事さん」
「実はね。うちダイニングテーブルがあるから置くとこなくてさ、君んちテーブルないって聞いたから、ちょうどいいかなって。おじゃまします」
 手前勝手な理屈を悪びれずに言いながら、神成は澪の部屋に入ってきた。ここで『本当に邪魔だよ』と定型句に噛みつくほど澪も律儀ではない。懐事情も手伝って、机がなかったのは事実だ。確かに狭くなるが、あったらあったで使いようはいくらでもある。こたつを広げる場所を確保すべく、先に四畳半に戻って洗濯物やペットボトルを端に寄せた。
「君さぁ、もっと根本的に片付けようとは思わないのかよ?」
「文句があるなら帰れ」
「文句じゃない、忠告。じゃあちょっと場所借りるぞ」
 神成は荷物のビニールを廊下でばりばり破いた。中から出てきた厚手の布地は2枚。より毛足の長い方を和室まで持ってきて、空いたスペースに広げた。
「下にも敷いとかないと、熱が逃げるからな。もう1枚断熱シートとかがあればベストなんだろうが、流石に手持ちがね」
「思った以上にでかいな……」
「でも、ただ座るにしろ畳に直よりはあったかいだろ」
 もっともらしいことを言って、神成は箱を開けにかかる。澪は2リットルのペットボトルに直接口をつけながら、座椅子にあぐらをかいて手伝わずに見ている。
「本体は思ったより普通のテーブルだな」
「な。今はこういうフラットなやつばっかりなんだってさ、真ん中の出っ張ったとこ蹴っ飛ばす心配ももうないってわけだ。長方形のとか、上掛け布団が要らないってのも多くて。でもやっぱりこたつは正方形で布団ありって相場が決まってる」
「ステレオタイプの懐古主義だな。せいぜい頑張ってくれ」
 あくびを噛み殺しながら、アイスクリームのことを思い出した。澪は立ち上がり、あぐらをかいて熱心に取り扱い説明書を読んでいる男の脚をまたいで、ビニール袋をかっぱらう。室温が低いので中身は無事だった。元々このアイスは買ったばかりでは固くて、少し溶かした方が食べやすいぐらいなのだ。
 澪は眉をひそめて、ストロベリーと抹茶という取り分の分かりやすすぎるパッケージを見ていた。すぐにその行為をやめ、小さな冷凍室にビニール袋ごと2個のアイスを突っ込む。戻ってパソコンのそばに放ってあった洗濯済みの靴下を、不揃いのまま履いた。
「神成さん」
「ん?」
「少し外す。鍵はかけていくが留守番を頼む」
「いいけど。どうした?」
「女に行き先を訊くな、dick」
「おい、言葉遣いに気を付けろと何度も」
「10分かそこらだ、部屋のものには一切触るなよ。特に衣類。少しでも位置が変わっていたら通報する」
「触るか!」
 真っ赤になって怒鳴る能無し刑事ディックを無視して、澪は財布と携帯と鍵だけ持って部屋を出ようとした。だが、何かをやわらかいものを投げつけられて足を止める。紺のチェスターコート。いつもはスーツ一丁でうろうろしているのに珍しい。
「近所でも冷えるぞ」
 背を向けたままつっけんどんに言われた。どうもと短く言い、歩きながらざっと腕を通す。他人の匂いがする。前を閉めずに外に出る。袖も着丈もそんなに悪くはなかった。
 澪がコンビニで買い物を終えて家に戻ると、神成は既にこたつのセッティングを終えていた。それどころか、布団に脚を突っ込んで天板に顎を載せ、すっかりくつろいでいる。
「おかえり、久野里さん」
「……一瞬私があんたの家に来たのかと錯覚した」
「悪い、コート貸しちゃって寒かったから。まだコンセント入れてないから勘弁してくれよ」
「どうせ、今まで使っていた古いストーブよりは電気代もかからないだろう。私も冷えた。プラグを差せ」
「どうも」
 神成がコードを掴むのを待たず、澪はこたつに身を滑り込ませた。神成とは直角の位置。話には聞いていたが、実際に入ってみるのは初めてだ。赤いチェックの綿入り布団。ブラウンの木目調テーブル。ザ・昭和、レトロ趣味ここに極まれり。どうせ彼だって、生まれは昭和でも、覚えている範囲なんて全部平成だろうに。
「親の実家にあってさ」
 神成が身体をこたつ側に戻した。天板の裏側がじんわりと熱を帯びる。大きな手が赤い網を破いて、机の上に黄色いみかんがいくつか転がる。
「正月とか。そんなに興味もない駅伝観ながらみかん食って、岳志今年いくつだっけって、親戚中から毎年訊かれてた」
「ふぅん」
 澪はコートを脱がずに、ビニール袋の中身をみかんにぶつけるように落とした。そんなテンプレートな思い出話、澪には縁がない。実の親とでさえ、ゆっくり正月を過ごした覚えなどなかった。
『持っていないものを嘆いても仕方ないんでしょう? だったら、今からでも獲得しに行く方が、よっぽどあなたらしいと思うけど』
 同じようなことを澪に言ったのは、赤の他人たち。年代は違えど、どちらも年上の女性だ。
「あれ、このアイス」
「あんたが手抜かりをしたからな。こたつにはこっちの方が似合いだろう?」
 似合わないお高めのカップアイスなんて買ってくるから。澪がわざわざ買いに出た、大福を模したアイスのパッケージを、神成は心底嬉しそうに指先で揺らす。親戚でなくとも、岳志今年いくつだっけ? と訊きたくなるような顔をしている。
「ありがとう」
 こつんと置かれた500円玉を、澪はすぐにジーンズのポケットに突っ込んだ。まるでお年玉だ。
「いいから。溶けないうちに食うぞ」
「ああ。いただきます」
 2人してびっと封を切って。澪は大福の中心に薄緑のピックを突き刺したけれど、固くて上手く器から抜けない。神成はまずピックを器との隙間に差し入れ、ぐるりと一周させてから大福の中心に刺し、底を押し上げながら引き抜いた。澪も同じようにしてみたらようやく取れた。
「はー、やっぱり冬のこたつはこれが旨い……」
 みょー、と餅を伸ばしながらアイスをかじる神成。だったら見栄を張らずに、最初からこれを買って来いというのだ。澪もかぶりついてみる。機会がないので食べたことはなかったが、嫌いな味ではない。
 神成が口の端に粉をつけながらこちらを見てくる。
「久野里さん、寒いのか?」
「なんで」
「まだコート脱がないから」
 澪はむっとして自分の腕を睨んだ。彼の車とは少し違う匂いのするメンズのコート。黙ったまま、布団の中の彼のすねを思い切り蹴る。いってえと脚を跳ね上げたせいで神成の膝は天板に当たり、揺れた拍子にみかんが転がった。内部が膨らんでいようと平らだろうと、どのみち彼はこたつを蹴る運命にあるらしい――身体をラグの上に横たえて苦しむ神成の眼前に、みかんが落ちて軽く弾んだ。
「何するんだよ!」
「うるさい」
 澪はコートを脱いで、顔の上に投げつけてやった。もう1つ入っている大福を、今度はもっと要領よく腹の中に納める。
「あ゛ー……」
「なんだよ。まだ痛むのか?」
 澪が問うと、ちがう、と彼は魂の底からという声音で呻いた。
「帰りたくない……」
「は?」
 実のところ、澪がその台詞を男に言われたのは初めてではない。食事代を出させた男のうち、半分ぐらいはそう口にした。しかしここまで切実なのは初めてだった。リアクションに困っていると、神成はコートで顔を見せないまま、ものすごく本音の調子で続ける。
「このまま寝たい……。寒い部屋に帰って、風呂入って、着替えて飯食って明日出庁するとか、考えるだけで面倒くさい……」
「私の家で里心つくのはやめろ。仕事を辞めたきゃ本物の実家に帰れ」
 なんだか腸が煮えくり返る感じがしたので、クールダウンする為に澪は残っていた神成の大福を強奪した。神成は手探りでみかんを掴むと、コートをどかしてようやく顔を見せた。疲れ切った表情をしていた。
「みかんを食べたら帰ります……」
 ふん、と澪は頬杖をつく。別にここでこの男を放り出したところで、セッティングの際に出たごみさえ持って帰ってくれるなら、澪には何の実害もない。けれど――まだ傷ひとつない天板を、片手で軽く撫でてみる。頭が少しぼうっとするのは、きっといつもより足元や床面があたたかいせい。
「まだ財布に余裕は?」
「え?」
「出前か買い出し。あんたの奢りなら、もう少しこたつを堪能していってもいい」
 澪がぶっきらぼうに提案すれば、彼は身を起こして、やっぱり久野里さんは話が分かるよと天板に片頬を押し付けた。いつもと言っていることが逆である。現金な男だ。
「外に出たくない。店屋物にしよう、何か食べたいものあるか?」
「腹にたまるやつ」
「同感」
 結局2人とも深く考えることを放棄して、近所の中華料理屋に電話してラーメン2つと餃子を頼んだ。ビール欲しいけど今日車なんだよなぁとぼやいて、神成は味噌ラーメンをすすっている。そういえば、この物件に駐車場はないのだが駐禁を切られてはいないのだろうか、と澪は皮のべっちょりした餃子に手を伸ばす。これでレッカー移動など食らっていた日には、久々に腹を抱えて笑い転げる自信がある。
「やばい、コインパーキングの時間忘れてた! あと10分でまた料金上がるっ」
 澪の心の声を読んだわけでもないのだろうが、神成は出し抜けに叫んでラーメンの丼を傾け、残りを一気に流し込んだ。忙しない奴だ。
「ごめん、食器頼んでいいか」
「それぐらいなら」
「あー、これ邪魔になったら連絡くれ、引き取りに来るから。それまでは好きに使っていい」
「もらうと言ったものはもらうし、もらった以上は好きにするさ」
「そうしてくれよ」
 神成はこたつを梱包していたごみをまとめ、じゃあと短く残してさっさと帰っていった。あの紺のチェスターコートを着て。
 澪はこたつの上にまだ残っているみかんを1つ手にして、剥きにかかる。
 今まで澪を夕食に誘った男は、帰らせたくないからそうしていた。神成岳志は自分が帰りたくなくてここで夕食を済ませていった。金で釣って澪を引き留めようとした男たちと違って、金を理由に帰っていった。
「変なやつ」
 この時季のみかんは甘い。澪はもくもくと小さな房を口に入れていく。
 そういえば、彼が買ってきたアイスのことをすっかり忘れていた。まぁあれももらったものだから、2つとも食べてしまおう。もう一度呼んでやるほどのことでもない。
 あふ、と誰はばかることもないあくびをひとつ。こたつ布団の中で靴下を脱ぎ捨てる。
 日本の冬もまぁまぁ悪くはないと思った。