池袋乙女ロード殺人事件 - 1/6

 判安二は移動中の車内で、ぼうと外を眺めていた。隣で後輩の諏訪護がしきりに何か話しているが、いずれも事件と関係なさそうなので聞き流す。
 この二〇〇八年、判はまだ三十一歳だった。『刑事の代名詞』とまで呼ばれる警視庁刑事部捜査一課の中では、若手と呼んでいい。ここまでのし上がるのに随分と苦労もしたが、才能があったのだという自負もある。
 しかし、世渡りの能力は分析力ほど高くはなかった。推薦してくれた先輩が、あろうことか汚職で警視庁から姿を消した後――状況は、坂を転がり落ちるように悪くなった。
 判は数多くの事件を解決に導いたが、要するに『有能すぎた』のである。若造の奇抜なスタンドプレーを面白く思わなかったベテランたちは、後ろ盾を失った判を、次第に大きな事件から遠ざけるようになっていった。
 判安二、三十にして『窓際』の称号を手に入れる。意外と悪い気分ではない、と彼自身は面白がっている節があった。
 ご機嫌伺いをしながらぺこぺこ働くより、刑事なんてのは一匹狼の方が余程ロックだ。
「聞いてまス? もうすぐ着くッスよー」
 情けない声で諏訪が言う。彼も一課の刑事。歳は二十三だか二十四だかといったか。大卒のくせに大した出世スピードである。それが、いきなり『じゃあ判の世話から始めてください』では気の毒だなぁとも、判本人ですら思うけれど。
 最早明確に誰だかも分からないような上層部からの直接推薦、という異例の人事でやってきた有望株も、水をやらなければ枯れるか、逆に腐ってしまう。
 自分はともかく、せめてこいつを本道に戻してやらにゃあならんなぁ、というのが最近の判の目標であった。
「先輩、先降りてください」
「おう」
 外に出て、周囲を見回す。まばらな高層ビル。秋葉原ほどは主張の激しくない、しかし何だか別のいかがわしさを感じるアニメ風の看板。首都・東京の主要地区でありながら、いつまでもどこか垢抜けない街。
 東京都豊島区池袋。今度の事件は、ここが舞台。
「うっわー、マジで乙女ロードど真ん中じゃないッスか……」
 諏訪が顔を引きつらせながら横に並んでくる。判には言っている意味が分からない。確かに実年齢こそ若いが、半分隠者のような生活を送っているから、若者文化には詳しくないのだ。多分、女性向けのかわいらしい服屋が集まっているとか、そういうことなのだろう。
 現場となった公園に足を踏み入れる。意外な顔がこちらを向く。
「あ、お疲れ様です。判さん、と、諏訪さん」
 その青年は手帳に何かを書き留めるのをやめ、二人にぺこりと頭を下げた。
 神成岳志。新人の諏訪より更に若い青年だが、一応刑事である。しかも本庁捜査一課の。
 こうしてスーツ姿で制服組と立っていたって、事件当時の状況を訊かれている就活生にしか見えないけれど。
「お前、どうしてここに?」
「あ、いえ。第一発見者の男性が、一一〇番より先にそこの交番に駆け込んできたそうなんですが……ちょうど詰めていたのが、私の同期の巡査でして。動転していたらしく、自分の担当時間内に大変なことが起こってしまったと、泣きながら電話をかけてきたんです。係長にご連絡差し上げて事情を説明したら、所轄には伝えておくから、彼のフォローも兼ねて直接初動捜査に加わって構わないと」
 神成は、まるで大学生のような――実年齢も酒が解禁になったばかりだったと記憶している――顔貌で、声だけが不相応に落ち着いているのだった。
 判の出世が『早い』、諏訪が『異例』なら、神成のスピードは既に『異常』と言っていい。それこそ、同期はまだ交番で平巡査をやっており、本物の死体を不意に発見したら、恐怖で初歩さえ忘れてしまうぐらいの歳なのだ。
 相当なことがあったのだろうと推測は出来るが、神成は更に珍しいことに、気の緩むような酒宴ですら、自身の苦労話や武勇伝の一切を語ろうとはしなかった。巧妙に話を相手のことにすり替えて、いい気分にして追い返してしまう。
 その若さなら、それだけの功績を得意げにひけらかしても、何らおかしくはないのに。むしろ頑ななまでに沈黙を守るその態度、そして頑なであることすら覚らせない立ち回りの上手さに、判は大いに興味を募らせていた。
「じゃー神成くん、練習もかねて自分ら先輩たちに状況説明してくださいよ。池袋署、経由してる暇もなかったんスよね」
 諏訪は拗ねたような口ぶりで、本来捜査本部で訊くべきことをド新人に振った。まぁこれは、所轄の会議室より先に現場を見たがった判のせいでもあるのだが……それにしても、どうも神成を面白く思っていないようである。
 神成の得体の知れなさ、諏訪の立場を脅かしかねない破竹の勢いを考えれば無理からぬことかもしれないが、普段の諏訪はあまり敵意を外に出さない。腹の底がどうだかはともかく、どちらかといえば笑って茶化してその場を丸く収めようとするタイプだ。被疑者相手でもないのに、自分から空気を悪くしにいくことなど滅多にない。
「わかりました」
 対する神成も、冷たい声で答えた。彼のそれも諏訪ぐらいにしか取らない態度だった。
 神成は、判からすればいっそ天才的なほどに、周囲の人間を自分のペースに巻き込むのが巧い。いや、女性相手だとやや鈍るようでもあるが。
 そして分を弁えていないことを気付かせないほど、礼節の方は弁えている。年上の、特に同職の者への無礼で何ら得ることがないことぐらい、神成も理解しているはずだ。何より、誠実とは、相手の性格を選んで果たされるべきものではないことも。
「殺害されたのは○○○○氏、二十八歳男性。すぐ近くのカードショップに勤務していました。所轄の鑑識によると死亡推定時刻は前日二十三時から本日一時頃。職場に確認したところ退勤したのが二十二時半とのことなので、帰宅途中、何者かに襲われたものと思われます」
「発見時刻は?」
「本日午前五時半過ぎ、近隣のオフィスに出社途中の男性が――」
「おいおい、待て待て若いの」
 判は苦笑して、すらすら続けようとする青年たちの間に入った。
 二人共怪訝な顔で判を見る。そんなに気の合う動きが出来るなら、普段からそうすればいいのに、と胸中でぼやいた。
「あのな、先にホトケさんの最期の場所を見せてくれや。事件は刑事(デカ)のもんでも、命を落としたのは、人だからな」
 判は努めて穏やかに言った。二人を責めるつもりもなければ、怒ってもいない。事件の早期解決を望むことだとて、元は正義感から生まれる気持ちなのだろうから。
 ただ、先走りすぎているようなので手綱を引いただけ。
 諏訪は、すっと表情を消した。私情を封じ込めるときの彼の癖。
 神成は、俯いて眉間に片手をやっている。小柄な判からは、長身の青年が泣きそうな顔をしているのも丸見えだ。
 これが二人の、性格と経験の差だった。判は黙って頷きながら、公園の奥のロープが張られた方へ歩いていく。
 諏訪のある種の冷酷さは、いざというとき迷いのない最善の判断を下すだろう。
 一方で神成の青さは、いつか法の字面だけを遵守するのではなく、人として公平に誰かを救うだろう。
 あの若者たちが捜査一課の未来を牽引していくのなら、判も安心して窓際に甘んじていられるというものだ。
 判は小さく礼をして、保全されている現場をざっと見た。死体状況を表すテープが明らかにおかしなかたちをしていることぐらいしか、見て取れることは既にない。血の痕すらも残っていなかった。
「……先輩、そろそろ捜査本部に顔を出さないと。班分けもまだッスから」
 諏訪が硬い声で言った。判の勝手を止めるのはいつも諏訪の役目だ。
 確かに、本部で現状を確認して役割を得ないことには、正式に捜査する権利すら持てない。
「では、私はこれで帰庁しますので。失礼します」
 神成がその傍で、警察学校で叩き込まれたままの、隙のない礼をした。諏訪は一転苦虫を噛み潰したような顔になる。
 どんな世界でも、基礎の基礎を一番厳しく守っているのは学校にいて叱られているうちで、実際社会に出てしまえば、ほとんどの場合少しずつ緩んでくる。
 その弛みがまだない、というのが判にとっては微笑ましいところであり、抜け始めの諏訪にとっては鼻につくところのようだった。
 諏訪は優秀な分、頭ごなしの理不尽な命令を嫌う。教場での不愉快を、神成の態度で思い出してしまうのかもしれない。
 ただ、それで直接八つ当たりをするほど彼も子供ではないというだけで。
「なんだ神成、お前は加わらんのか」
 判が声をかけると、神成はちらと諏訪を気にしながら顔を上げた。だが判を向いたときには、いつも通りの澄ました表情になっている。
「いえ、今回私に与えられた職務は、同期を落ち着かせ話を聞ける状態にすることでしたので。情報等々は所轄の方に引継ぎが済んでいますし、これ以上はお邪魔になるかと」
「じゃあ、なんでさっき現場の状況メモってたんスか? 担当でもないのに、捜査情報の持ち去り?」
 前言撤回。諏訪の質問は事実なだけに意地が悪い。いえあの、と今度は神成が一転、歳相応に慌てた様子を見せた。
「これは、趣味、じゃなくて、その、癖、のような、もので――」
「はー。趣味で捜査状況の漏洩ねぇ」
「その辺にしとけ、諏訪」
 判は二人の間に割って入る。背の高い神成の肩に強引に腕を回し、頭を抱えるように引きずっていく。
 彼はまだ諏訪ほど身体が出来上がっておらず、加えてあまり抵抗しないので、判でもこんな真似が出来るのだ。
「これだけ知っちまってりゃ、部外者とは言えんだろ。初動捜査にも参加してたなら、そのまま付き合ってもらおうじゃねぇの」
「え!?」
「ちょ、本気ッスか、先輩!?」
 判は二人の若者を連れて、意気揚々と池袋警察署を目指す。
 本日は晴天なり。人殺しを見つけ出すのに、やはりお天道様はあった方がいい。
「ああそれと、神成」
「はい……」
「その『私』っての、似合ってねぇぞ」
 判が笑うと、神成はがっくりと肩を落とし、諏訪は遠慮なく吹き出した。