池袋乙女ロード殺人事件 - 2/6

「班分けなら済んだが?」
 捜査主任――五十過ぎぐらいの隙のない、眼鏡の男。池袋署の重鎮――が机の上で両手を組んで、重々しく言う。
 デスヨネーと諏訪が引きつった笑みを浮かべる横で、判はうちわで自分を扇いでいる。暑くはない。ただの癖だ。
 捜査主任の言うことはもっともだった。判たちは盛大に遅刻をしすぎた。同じく本庁一課から送られた他の刑事たちは、もう動き出しているそうだ。
 それはそうだろう。だと思ったから、ごちゃごちゃする前に判は現場に行きたかったのだ。
 それはそれとして捜査資料だけは何とか穏便にもらえないもんかな、と判が内心で画策していると、あの、と後ろに控えていた神成がすっと前に出た。
「申し訳ありません、イケダ警視。私がお二方をお引き留めしてしまったので……」
 判が驚いたのは、よくまぁそんな『本当に申し訳なさそうに』とっさに嘘が口をつく……ということもあったが。渋面の捜査主任が急に相好を崩し、立ち上がったことだった。
「おお神成くん、君か! 元気かね」
「はい、おかげさまで。判警部補にも……諏訪巡査部長にも、よくしていただいています」
 神成はいかにも人が好さそうに、笑顔で頭を下げた。現場――というか諏訪の前での堅苦しさより、こちらの方が判にとっては見慣れた姿だ。
 諏訪はぽかんとしている。その気持ちもよく分かる。彼には神成の変身より、捜査主任の豹変の方が余程驚きだろう。
「あの。ここの出、でして」
 捜査主任に背中を叩かれながら、神成は遠慮がちに笑った。
 成程、と判は自身の無精ひげを撫でる。
 池袋は東京有数の繁華街、加えて治安は決してよくない。不謹慎な言い方をすれば、事件は探せばいくらでもある。人の何倍も真面目に働く神成が、次々と成果を挙げていったのも、おかしくはない――ただ速度はやはり異常だが。
「所轄の刑事はこれ以上出せない。君たちの到着が遅かったせいで、所轄同士で組ませてもう捜査に出ている」
 捜査主任は判たちに向き直り、厳しい顔つきに戻って告げた。地域に詳しい所轄と、捜査慣れした本庁の刑事が組むのが効率的……のはずが、判の自己判断でそれが崩れてしまったというわけだ。
 参ったねぇと判はやはりうちわで自分を扇ぐ。
「そんなら、神成を連れ歩く許可だけいただけませんかねぇ? 所轄並みに詳しいんならこっちも大助かりですんで」
「ちょ、先輩!?」
 諏訪が慌てて判を諫めようとしたが、捜査主任の決断は早かった。
「いいだろう。本部長や本庁とも相談して、可能ならそのようにする」
「ええー……」
 諏訪は困惑した声を出していたが、一番状況が呑み込めていない顔をしているのは、勝手に融通された神成であった。
 かくして、変則スリーマンセルで捜査に当たることになった判たちだが。
 とにもかくにも会議室が嫌いな判は、若い二人に押し留められ、捜査資料の確認に付き合わされて――本来当然の義務なのだが――いた。
「えーと、何だっけ。このオジサン文字読むの苦手だから声に出してあげてほしいんスけど、神成くん」
「あ、はい」
「おい諏訪、誰がオジサンだ。あと神成もさらっと『はい』とか流すんじゃない」
「す、すみません」
 そんな軽口を叩きつつも、三人の間の空気はぴりぴりとした緊張を孕んでいた。一人だけ立っている神成が、硬い声で読み上げ始める。
「繰り返しになる箇所もありますが。殺害されたのは○○○○、二十八歳男性。現場近くのカードショップに勤務。所轄の鑑識によると、死亡推定時刻は前日二十三時から本日一時頃。職場に確認したところ退勤は二十二時半、帰宅途中、何者かに襲われたものと思われます。発見時刻は本日午前五時半過ぎ。近隣のオフィスに出社途中の男性が、おかしな姿勢で倒れている被害者を発見、酔っ払いかと通り過ぎようとしたものの、微動だにしないことを不審に思い接近したところ――」
「ちょっと待て、『おかしな姿勢』ってのは?」
 判に話の腰を折られたことを気にしたわけでもないのだろうが、神成は少し眉をひそめた。だがすぐに補足に入る。
「うつ伏せで、下半身だけを露出させた状態で、臀部のみが高く上がるようビニール紐で固定されていたそうです。また直腸から異物が発見されています」
「緊縛で服従ポーズでケツから異物ぅ? ますます腐女子大歓喜案件じゃないッスか」
「諏訪さん下品な茶々入れないでもらえますか」
 判には若者同士のやりとりの意味は分からなかったが、とりあえず先を急がせた。
 神成は聞こえよがしに咳払いをして、資料に目を落とす。
「また、頭部に白い粉末が振りかけられており、調べた結果、ん、と、ジクロロ、ジフェニル、トリクロロエタン……? 有機塩素系化合物、だそうです」
 切るところはここで合っているのか、と言わんばかりの読み方だった。諏訪も訝しげな顔をしている。
「それ何の薬品?」
「DDT。殺虫剤だ。昔の農薬だが、確か日本じゃ俺が生まれる前に禁止になってたはずだな」
 判は助け舟を出してやる。八〇年代生まれの二人が聞き慣れないのも無理はないだろう、七十年代後半に生まれた判だとて、小耳に挟んだぐらいのものだから。
「そいつの入手経路に関しては捜査一課(うち)じゃ洗いきれんね。それより、問題の異物ってのは?」
「あ、ええと、これだそうです」
 神成がホワイトボードに貼った一枚の写真には、小さな紙片が写っていた。
 丸まった跡のあるそれは、判に分かる範囲だと、卓上ゲームに使うカード。
「ケツの穴から出てきたにしちゃあ、随分原形留めてるな?」
 判が正直な感想をこぼすと、神成は何か言いたげに口を開きかけ、結局黙って首を横に振った。諏訪が身を乗り出して写真を凝視している。
「ていうか、うっわ、これダーススパイダーのSSR+じゃないスか!? こんなもん普通ケツ穴にブチ込みまス!?」
「肛門から直腸に無理にねじ込まれていた、です!」
 神成の生真面目な訂正は無視した。判としては通じれば別に表現はどうでもいい。
「諏訪、見覚えあるのか?」
「ああはい、集めてはいないんスけど……存在は知ってます。世界的な大ヒット映画『スパークウォーズ』の中でも、超人気のあるキャラクターのカードッスよ。これは箔押しの吹き替え声優サイン入りなんで、かなりレアリティが高いと思うんスけどね」
「と、いうと?」
「ただの紙切れに見えて、欲しい人間にとっては喉から手が出るほど――まぁ入ってたのは尻ッスけど、欲しい。つまり客観的にも価値があるものだったってことッス。同一のものをオークションにかけたら、かなりの額を叩き出すはずッスよ。美品だったのもきっと、スリーブか何かに収まったまま挿入されたからじゃないッスかね?」
 諏訪は肩をすくめた。スリーブ? と判が首をひねると、神成が、ああはいと投げやりに言った。
「確かに、資料にも『ビニールカバーのようなものがかかっていた』とあります」
「でっしょ」
 諏訪は何故か得意げだ。
「神成くん、マルガイの彼、カードショップの店員さんッスよね? てことはこのカードの価値は知ってる」
「分かりませんが、その可能性は極めて高いですね」
「で、同僚も恐らく知ってる。となれば犯人なら――」
 諏訪が続けようとするところに、判が被せる。
「ケツには挿さずに盗むはず、か?」
「判先輩って、刑事なのに台詞泥棒はよくしまスよね……」
 がっくりとうなだれる諏訪。神成は難しい顔で口許に手をやる。
「金銭的価値を把握しており、なおかつ普段からカードを商品として扱っている人間であれば、心理的にもレアカードを粗末に扱う可能性は低い、と?」
「そういうことッス……いややっぱ若い方が飲み込み早いッスね」
 諏訪も何とか復帰した。判にはよく分からないが、要するに職場で価値を解って触れているものを、犯行には使わないだろうというのが二人の今のところの見解のようだった。
「彼、デッキとか持ち歩いてました?」
「上着のポケットに、プラスチックケースに入ったカードの束が。ただ、いずれもその、スリーブ? には入っていなかったようです。見たところ『スパークウォーズ』でもありませんね。何らかの美少女アニメです」
「じゃあ、このレアカードが本人の所持品だとして、別の場所――例えば定期入れなんかに挟んで、大事に持ち歩いてた?」
「後で改めて担当に確認します。それから、カードショップの同僚にも、被害者がこのカードを持っているところを見たかどうか尋ねてみないと」
 なんだ、俺がいなくても話出来てるじゃねぇの、と判は上機嫌で無精ひげを撫でる。
 性格的に反目し合っていたとしても、二人は結局のところ根っから刑事なのだ。だから事件の話はとんとん進む。
「ま、カードの話は追々だ。死亡推定時刻と発見時刻についての話をしようや」
 諏訪と神成は、揃って目を丸くして判を見た。面差しは全く似ていないのに、時折兄弟のようにそっくりな顔をする。
 先に口を開いたのは神成だった。律儀に資料の文言を繰り返す。
「死亡推定時刻は前日二十三時から本日一時頃です。発見時刻は本日午前五時半過ぎ……」
「おかしかぁないか? ここは池袋だぜ?」
 判の一言で、諏訪は顔色を変えた。眉を寄せて考え込んでいる。
 間の抜けた顔をしたままの神成に、判はもう一つヒントを。
「神成よ。お前の友達、交番に詰めてたんだよな?」
「はい」
「パトロールはどれぐらいの間隔でしてた?」
 あ、とようやく神成も合点がいったようだった。諏訪が今度こそ泥棒されないうちに言う。
「遅すぎ、ッスね」
「そういうこった」
 判はうちわをゆるゆる動かしながら立ち上がった。
 被害者の足取りは二十二時半以降途絶えている。死んだのは遅くて翌一時頃。たとえ夜でも、この繁華街池袋で、そんな目立つ格好の死体が、あんな大通りの傍で発見されないはずがない。あの公園にずっと放置されていたとは考えられないのだ。
 加えてあそこは、殺害現場にしては美しすぎた。彼は明け方になって、何者かの手で発見現場に晒されたに違いない。それだって、誰にも見咎められずにやってのけたのだから、犯人は相当悪運が強い。
 あるいは第一発見者を疑う筋もあるが、それは既に他の刑事たちがやっているだろう。判の勘ではそちらは外れなので、やりたいだけやっておいてほしい。新しい情報が出るかもしれないのだし。
 それよりも、だ。
「犯行現場が他にあるとして、一体どこ……」
「それを探しに現場に戻るんだよ、俺たちゃ捜査員なんだからな?」
 神成の言葉を遮り、歩き出す。諏訪はとうに予見していたらしく、遅れずついてくる。神成がばたばたと椅子や机に蹴躓きながら追いついてきて、ようやく捜査開始だ。