池袋乙女ロード殺人事件 - 3/6

 現場は先に見たときよりもすっきりしていた。流石に発見場所周辺はロープが張られ、見張りの制服警官が立っているが、物々しさは大分薄れている。人通りの多い場所だ、いたずらに市民の不安を煽らないための配慮なのだろう。
 それにしても、おかしな死体が発見された割に、マスコミが全くいないというのも不自然ではあったが。
 ――何だかキナくせぇな、このヤマは。
 判は若い二人に聞こえないよう心の内だけで言い、ぼさぼさの頭をかいた。
 改めて現場を見回してみるが、新しい発見はない。もう鑑識が回収して、その写真もさっき一通り見た。それでも判が現場に戻るのは、古めかしいと諏訪辺りは笑うだろうが、その空気の中でしか、気付かない何かがあるからだ。
 小さな滝のような階段のある池。カスケードという洒落た名称は、実は三人のうち誰も知らなかった。ビル群のくぼみに作られた、あまりに小規模な木立。葉擦れの音が耳に心地いい。人が死んだり、殺されたりなんて考えられないくらいに。
 判は樹々を眺めながら呟いた。
「なぁ諏訪。ここ、元は拘置所だったって知ってるか?」
「はぁ、スガモプリズン、スか。戦犯を収容してた」
 諏訪は情けない声で答えた。判は顔を動かさず、視線だけで諏訪を見る。
「ほぉ、よく知ってるじゃねぇの。大卒ちゃん」
「学歴関係ないッスよ。自分は都市伝説で『出る』っての聞いただけなんで」
「なんだそれ、感心して損した」
「で、それが何か?」
「例の薬品な。DDT」
「ああその、プロレスみたいな農薬ッスか?」
「ここでGHQがシラミ防止に撒いてたそうだ。布団や、『戦犯』の頭にも直接」
「うえ、ぞっとしない。ケツ穴に私物突っ込むのも、看守ごっこのつもりだったんスかね?」
 そんなやりとりをしていたら、唐突に電子音が鳴った。無線のあのノイズではなく、携帯電話のもの。神成が慌ててポケットから取り出している。
 諏訪は眉をつり上げ、いかにも先輩らしく神成に向けて口を開く。
「神成くんね、そういうのは――」
「いい、諏訪」
 判は諏訪を手で制し、顎をしゃくって神成に、電話に出るよう促した。神成は心底申し訳なさそうに頭を下げ、こちらに背を向けて小声で通話を始める。
「何なんスか先輩、今捜査中ッスよ!?」
 諏訪が怒るのももっともだった。しかし、声を抑えろ、と判は手の平で示す。
「いいんだ。ありゃさっき俺が指示した」
「は?」
 先輩に向かって『は』もないものだとは思うのだが、とにかく諏訪は怒鳴ることを諦めたようだった。口唇を尖らせて首を傾げている。神成は通話を終えると、こちらに向き直って、もう一度馬鹿丁寧に礼をした。
「申し訳ありません、お話中に」
「いや、雑談だ。それより何だって?」
 判はスーツのポケットに手を突っ込んだ。神成は求めてもいないのに休めの姿勢で、少し視線を泳がせる。だがすぐに、意を決したように真っ直ぐな目に戻った。
「被害者は、二年ほど前に件のカードを手に入れたようです。いわゆる『引き当てた』のではなく『譲ってもらった様子だった』と複数の店員から証言を得ています。店を介したやりとりではなく、個人的なものだったらしく、記録には残っていないそうです」
「ちょ、っと待って神成くん。キミ、誰と電話してたんスか?」
 諏訪が引きつった笑顔で問う。神成は遠慮がちに判の顔色を窺った後、結局諏訪に視線を戻した。
「ブクロ署の……今、識鑑で職場関係を洗っている人です。顔見知りなので」
「キミ常識って言葉知ってる?」
「まぁ諏訪、あんまりいじめてやるな。俺が頼んだんだから」
 いじめてないッスよ、と諏訪が抗議してくるが、無視した。
 諏訪は正しい。下っ端に、序列や手順をすっとばした方法を指示している判が悪い。しかし現状、神成という手札は使わなければ損だ。切り方を誤れば破滅するジョーカーだが、彼の築き上げてきた人脈――もっと率直に言えばコネは、この捜査では大いに役に立つだろう。
 判自身は犯人さえ捕まればどうでもいいが、諏訪や神成にとっては、ここで活躍出来れば今後出世するうえで、またそうでなくとも『刑事として生きていく』うえで貴重な経験になる。
 せっかくの機会を、常識や慣例などで潰すのは勿体ないにも程がある、というのが判の本音だった。
「神成、続きは? それで終わりか?」
「あ、いえ。まだあります」
 神成は躊躇いがちに口を開いた。
「被害者はそのカードをとても大切にしており、触れようとしただけでもひどく怒ったそうです。いつも肌身離さず持っていたと―― 一ヶ月ほど前までは」
「神成くん、それ」
 諏訪が一歩神成に詰め寄る。先刻までの説教のトーンではなかったので、判も黙って成り行きを見守る。
「どういうことッスか。一ヶ月ほど前から、被害者の挙動に変化が?」
「と、いう話ですが。急にそのカードを手放したいと言い出して、周囲を困惑させたらしいです」
「理由はなんて?」
「はっきりとは……元々熱心な『スパークウォーズ』ファンだったそうなので、同僚たちは何かの気の迷いだと思い、きっと後悔するからと思い留まらせたらしいんですが。本人は、ただ……『怖い』、と」
 神成は諏訪の剣幕にたじろいでいる様子で答えた。まぁ言われたことをよく覚えているとは思うが、情報を活用するまでには至っていない。
 そちらは諏訪が引き受けてくれるようだ。捜査中にしか見せない硬い横顔で、呟く。
「それを譲った相手と何らかのトラブルがあった、もしくは、ダーススパイダー及び『スパークウォーズ』を想起させる状況で、恐ろしい体験をした?」
「はぁ」
 曖昧に言う神成の顔には『どんな状況だよそれ』とはっきり書いてあった。彼は時々心中が丸出しになる癖を何とかした方がいいと、判は苦笑する。基本的には世渡り上手だと思うのに。
 諏訪にもまだそういうところがあるから、若さゆえのかわいげなのかもしれないが……刑事としてはあまり褒められたことではない。
「それで奴さん、その怖いカードをどうしたって? 大人しく持ってたのか?」
 判が口を挟むと、神成はいよいよ困った顔をした。
「同僚たちの証言では『捨てた』と言っていたと。事実確認は取れていません」
「自分、その映画好きなんで何となく覚えてるんスけど。確か例のカードは、数年前に新作エピソードが日本で初上映されたとき、特定の劇場でのみもらえる応募券を使用した抽選で送られたもので、いわゆる非売品のはずなんス。本当にマルガイの彼が捨ててたとして、別の一枚を用意するなんて相当なことッスよ」
 諏訪は荒々しく頭をかいた。好きな映画にまつわるものをこんな風に使われて、彼なりに気が立っているのかもしれない。真似ているつもりはないのだろうが、神成も向かいで毛先のはねた髪をかき回している。
「だとしたら、当選者の名簿さえ手に入れば、ある程度目星が――」
「理屈としては正しいがな、神成。流石に現実的じゃねえぞ」
 判はうちわで二人をあおいだ。少し熱くなりすぎているように見えたので。
「希少性が高いってことは、それだけ抱え込む奴が多いってことにもなるが、横に流れることも増えるってこった。ネットオークションやカードショップの取引記録を洗うのも一苦労だろうし、まして機械を通さない個人のやりとりの裏まで取ろうとしたら、そりゃもう大幅な人員拡張が必要だろうな?」
「そう、ですね」
 神成は素直に引き下がった。元々察しのいい青年だ、判たちにそれだけの権限がないことも、現時点でカード一枚にそこまでの説得力がないことにも気付いたのだろう。
 それはそれとして、と諏訪は腕を組む。
「そろそろ地取り行かないと。いい加減ホント、怒られるッスよ」
「それもそうだ」
 判は肩をすくめた。事件に関係すると思われる場所で、聞き込みを行う必要がある。現場主義の判でも、これ以上この場で重ねられる推論がないことぐらいは承知していた。
 さてと、と肩を回す。
「ホトケさんの家庭訪問だ」

 本来判たちが命じられたのは、現場周辺の聞き込みである。現場を中心に、半径いくら以内の全ての建物を対象とした――ああ、とても地道で刑事らしい仕事で大変結構だが、判はどうせなら根気強さを別のことに注ぎたかった。
 やってきたのは東長崎の、二階建てアパート前。管理人によると、賃料月四万を切っているワンルーム。長崎といっても確かに東京都豊島区。池袋からは西武池袋線で二駅。うっかりすると長崎県と混同されて、会話が噛み合わない。
 うちわで自分を扇ぐ判の横で、諏訪はしかめ面をして立っている。神成は今、かんかんと音を立てて、金属製の錆びた外階段から降りてきた。遠慮がちに小さく、指でOKサインを作ってみせる。判は満足して頷いた。
「どれぐらい稼げた?」
「三十分が限度です」
「充分だ、でかしたぞ神成」
 そう。今回も神成の顔の広さを利用させてもらったのだ。諏訪は笑みを引きつらせて神成に尋ねている。
「神成くんさ。キミの立場で、どんな手品使ったらそんな融通利かせられるんスか?」
 神成はばつが悪そうに目を逸らし、先ほど作ったままのOKサインを裏返し――そういう隠喩にして、脇の下にこそっと隠した。
「今そこで指揮を執っているツカヤさんという方、強面なんですがすごい甘党でして。女性に大人気の三時間待ちお菓子、代わりに並んで買ってくるって言ったら、入れてくれるって」
「オニーサンはキミの将来が激しく心配ッスよ!?」
 神成の胸倉を掴んで揺さぶっている諏訪を無視して、判は階段をのぼり始めた。なにせ三十分しかないのだから有効に使わないと。
 被害者の部屋の前に立っている、体格のいい四十代に届こうかという男性に、小さく会釈。向こうも軽く首を動かした。確かにあの風貌で、若い女性たちの列には並びにくいだろう。その点神成ならば、居心地が悪そうにしていても、今流行っているらしい『甘党男子』とやらか、彼女の為に頑張っている学生にしか見えない。上手い取引をしたものだ。優等生のような顔をして、案外ちゃっかりしている。
 部屋の中は、独身男性のそれ相応に散らかっていた。判は物の場所を動かさないよう留意しながら、慎重に周囲を見回す。諏訪と神成もすぐ入って来た。めいめい気になるらしい箇所を見ている。
「壁紙の焼け方……どうも大判のポスターを剥がした跡っぽいッスね。コレクション棚にも不自然な空白が見受けられるし、もしかして同作品の関連物を衝動的に処分したのかも」
「本棚が一角だけ異様ですね……。他は全部漫画やライトノベルなのに、ここにだけブレインウォッシュについての解説本とか、カルト教団の元信者の手記なんかが並んでる」
 若い二人は横ばかり気にしているので、判は下を気にすることにした。畳から無理に張り替えたようなフローリングに、目立った傷や汚れはない。この分では血液反応も出なかったろう、薬品の方は知らないが。とにかく、殺害現場がここである可能性は低い。
 ややあって、諏訪がかすかに顔色を変えた。片手を軽く挙げて、にっこりと笑ってみせる。
「外の刑事さんも気になるんで。自分、先に外に出てます」
 そう言って部屋を横切り、出て行ってしまった。ゴミ箱を熱心に漁っていた神成は気付いていないらしい。判はドアを見遣りながら、ぽつりと呟く。
「諏訪のやつ、今、袖口に何か滑り込ませたな」
「えっ?」
 神成が間抜けな声を上げて振り向く。他人の挙動にはいつも気をつけろと、警察学校で習わなかったのだろうか。集中すると周囲を忘れる癖があるのは、刑事として褒められた資質ではない。特に神成は、諏訪に対する興味が薄すぎる。判は本人のいないうち、大袈裟に肩をすくめた。
「神成。お前、それだけ要領よくて、何で諏訪にだけは同じようにしないんだ?」
「そう、見えますか。……いえ、そうなんでしょうね」
 神成は沈んだ声で言い、ゴミ箱から手を離した。
「自分でも解りません。だけど俺は、多分――諏訪さんがこわいんだと思います」
「恐い?」
「はい、怖いんじゃないかと、思います。すぐ怒られるとか、そういうのだったらもっと厳しい人はいくらでもいて。そうじゃなくて、在り方が、まるで掴めないのが、こう」
「気味が悪い?」
「……そういう言い方をしてもいいのか分かりませんが。俺は一応、理解の出来ない相手も、理解しようと努めてきているつもりです。ただ諏訪さんの場合、その『試みること』すら躊躇するようなものが、奥にある気がして」
「難しく考えすぎだろう」
「かもしれませんね。諏訪さんも、こんな風に思われてきっといい迷惑でしょう」
 神成は静かに立ち上がった。もう調べたいことはないようだった。判の方でも物的に新しい発見はない。
「お前さん、敵を作らないのは得意でも、味方を増やすのはちと不得手なのかもな」
 観察の結果だけを口にする。神成は親とはぐれた小学生のように顔を歪めた。出るか、と促し、悄然と頷いた青年を連れてドアを開ける。
 また甘党の刑事に挨拶をして、部屋から離れる。階段を下りていくと、ちょうど諏訪が誰かとの通話を終えて、携帯電話をしまおうとしているところだった。同じ行動で神成を叱った手前か、ばつが悪そうに笑っている。
「すんません。こっちも、『個人的な』繋がりがありそうなとこ見つけたんで、ちょっと確認の電話を」
「繋がり?」
「はい。マルガイの彼が、『ダーススパイダーのカードをくれた人間』と、もしかしたら会ってたかもしれない場所を聞いたスんよ」
「住所は」
「大塚駅前の喫茶店ッス」
 淀みなく答える諏訪に、おおつか、と神成が顔を曇らせる。
「そこまで行くと、同じ豊島区とはいえもう巣鴨警察署のお膝下じゃあ……」
「あーそこのとこはいい。な、諏訪?」
 判が肩を叩くと、諏訪は力なく笑った。
「俺たちは客として茶の一つも飲みに行くだけだから、でしょ。いい加減先輩の屁理屈にも慣れてきたッス」
「分かってるならいいんだよ」
 というわけで、『休憩時間』だ。陽は傾き始めているが、まだ充分に動ける。