16話 The Reliever - 5/5

過去が造る君の未来

「皓汰、テイクバックのとき左肘下がりすぎなんじゃねぇの?」
「肘がっつーか、桜原って全体的に猫背だからじゃん?」
「それもだが、重心移動が下手なんだろう。上半身の動きだけで下半身も引っ張ろうとするから崩れるんだ」
「みんな手厳しいなぁ」
 放課後のフォーム改善はなかなか成果があった。富島の持ってきたハンディカメラで素振りを撮影し、視聴覚室でプロ選手たちのフォームと比較。その点を踏まえ、すっぽ抜けないよう十全に対策をしたうえでトレーニング室の鏡の前で振る。乗り気でなかった皓汰や永田も、始まってしまえば熱心に取り組んでいた。
 二十歳までには、というからには、皓汰もまだ『今』を惜しんでくれているのだろう。深春の言うように時を待って治す熱病ならば、侑志はそのときまで皓汰の苦痛を和らげ続ける薬でありたい。
「俺、コンビニの肉まん食べるの初めてかも」
「マジ? 朔夜さんの方針?」
「んーん。なんか、どのタイミングで『にくまんもください』って言えばいいのかわかんない」
「じゃあ欲しいとき言えよ。買ってやる」
 参った。これはもう朔夜に口出しできないほどの過保護だ。

「あ、監督。お疲れさまです」
 台所に立っていた侑志は、振り返り頭を下げた。今日の午後練は父(コーチ)だけだったから、監督に会うのは朝ぶりだ。
「ただいま」
 お決まりの『おう』ではなく真っ当な挨拶を返して、監督はテーブルに財布と煙草の箱を置く。
「何か作ってんのか?」
「米といでるだけです。朝セットしそびれちゃって。今から早炊きしますね」
 冷たさで痺れる指をもう一回しして、侑志は黒い釜を傾けとぎ汁を逃がす。監督が所在なさげに訊いてくる。
「皓汰は?」
「風呂です。洗ってお湯張ったんで監督も後でどうぞ」
「いろいろ面倒かけるな」
「いえ、全然。こんな何日分も作り置きしてった朔夜さんの方がすごいですよ」
 侑志は炊飯器に釜を移し、液晶の矢印が『おいそぎ』を指すまでメニューボタンを押した。家のとはメーカーが違うが、操作は似たようなものだ。
 鈍い音を立て始める炊飯器。侑志は文字の半分すりきれた『予約』ボタンをなぞる。
「買い出しだけでも手伝えればよかったのに、こういうときに限って……でもないな、肝心なときにいつもケンカしてるから。情けないです。本当」
 侑志を避けていたくせに、食事も三人分用意してくれたし、寝具も綺麗なものを整えてくれた。だから侑志は、メモの欄外に書かれた指示まで忠実にこなす。
『練習着と他の洗濯物は分けて。泥がついてたら手で予洗い。洗剤は洗面台の下。』
『冷蔵庫の食材使ったら要報告。調味料は使い切らなければ不要。』
『湯船を使いたかったら、フィルターまで外して洗う。』
『お米はいつも四合。表示ぴったりに水を入れるとやわらかい。父さんは硬めが好み。4のラインより気持ち少なめで。』
 こんな小さな字では、皓汰も監督も読み飛ばすだろう。見たところできちんとやるかどうか。朔夜は侑志より身に染みて知っていたはずだ。
 だからこれらは全部、侑志が受け取るべき言葉なのだ。
「侑志」
 慣れない呼ばれ方にどきりとした。監督が面と向かって、侑志の下の名前を呼んだのはきっと初めてだ。外では父とまとめて『新田』だから。
 監督は顎をしゃくって奥の部屋を示す。
「してくか? 挨拶」
「誰にですか?」
「朔夜と皓汰のじいさん。俺の部屋に仏壇がある」
 どうしてそんなパーソナルなスペースに仏壇を置くのかは不思議だったが、とりあえず黙って頷いた。義理を通したというより、あの和室と本たちの持ち主に興味があった。
「ついて来い」
 引き戸をくぐった瞬間、むっと襲いくる煙草のにおいにむせそうになった。鼻と口を押さえて風の流れに従う。色褪せたお菓子の缶だとか、くすんだガラスのサイドボードだとか、物が多くてまともに進めやしない。空っぽの客間とは正反対だ。
「親父。ただいま」
 監督が仏壇の扉を開ける。こういうものに話しかける人だとは思わなかった。
 ここ座れ、と監督が仏壇の正面の座布団を指す。侑志はぽっかり片付いた一帯に正座し、作法は分からないながら小さく頭を下げた。
 伏せてあった写真立てを、監督の左手がそっと起こす。澄み渡った青空の下、縁側に座った痩せた男性。四十過ぎくらいか。庭側の撮影者とは近しくないのだろうか、どこか緊張しているように見える。後ろに撫でつけたごましおの髪、似合わない口ひげ、着流しの和装。カラー写真なのがおかしいぐらいの時代錯誤。
 初めて見た人だが分かる。白目がちな切れ長の瞳、顎に向けてすっと細くなる輪郭。桜原家の長だった人だ。
「新田も大概あんたのファンだったが、血かね。倅もあんたの本が好きみたいだ」
 それは侑志に向けた台詞ではなかったから、表立って聞き返すことがためらわれた。監督が侑志の視線に気付いて小さく左肩を上げる。
「まだ聞いてなかったのか。櫻井(さくらい)(はじめ)は俺の親父、桜原朔だよ」
 ぱきん、と頭の中で細い音が鳴った。
 ぱきん、ぱきん。光を弾きながら、貯め込んだ欠片が繋がっていく。
 侑志はあらためて写真の男性を見た。
 監督に、朔夜に、皓汰に血を繋いでくれた人。あの本だらけの部屋を、竜宮城のような楽園を遺した人。侑志の迷いに標の言葉をくれた人。
 監督がマッチでろうそくに点火した。唯一の光源が辺りをぼんやりと照らす。監督は線香を一本取って火を移す。揺らめく色は縦に振ると消え、落ち着いた赤だけが残った。侑志はその線香を持たされ、言われるまま香炉に挿した。
 確か、こんなことがずっとずっと前にもあった。あれはきっと母の祖母、曾祖母の仏前。
 両手を合わせてじっと目を閉じる。
 もうすぐ子供の時期は終わって、自分たちは大人に向かっていかなければいけない。その前に知らなければ。両親のこと。両親の両親のこと。その成してきた偉業を。犯してきた過ちを。
 連綿と続いてきた景色を、これからに進ませるために。
「ここにいたの」
 皓汰の声に目を開ける。皓汰は部屋の入口で、居間の光を背負うように立っていた。
 監督がまっさらな線香を手にする。
「お前もやるか」
「いい。手を合わせるより部屋の本、一冊でも多く読みたい」
 皓汰の答えは滑らかで、たった今思いついた言い訳とは思えなかった。心に決めて続けてきた供養なのだろう。
「二人とも、ご飯食べないの」
「お前と侑志で先に食え。俺は一服してから行く」
 皓汰と監督の会話を頭上に、侑志はもう一度位牌へ手を合わせる。
 今までとこれから。感謝と決意を伝えるために。
「行こうか。皓汰」
 立ち上がって笑いかけると、皓汰は首を傾げながら頷いた。

『朔夜さん。
 夕飯、今日もおいしかったです。ごちそうさまでした。
 アジの南蛮漬けがさっぱりして特にうまかったです。
 うちで出てくるのはいつも甘すぎるから。』

 振り子時計の音も二日目ともなると随分慣れた。心なし自分の匂いが移った布団に包まれて、侑志は天井をぼんやり眺める。
 明日には朔夜の作り置きが切れる。『何か買って』とメモには書いてあったけれど、せっかくの金曜で翌日は休みだ。皓汰たちが嫌でなければ、学校の帰りに買い物をして何か作ってみよう――ああ、その前に傷みそうな食材がないか冷蔵庫を確かめないと。
 上体を起こしたとき、ゆうし、と細い声が聞こえた。入口まで行って襖を開ける。皓汰が枕を抱えて立っていた。
「眠れない?」
 彼の母親が決まって口にしたという言葉を真似てみる。皓汰はおどけた口振りで返した。
「おかげさまで」
 目を合わせる度胸もないくせに。
 侑志は苦笑して道を譲る。皓汰は畳の縁をわざとたどって部屋の隅に行き、両膝をついた。
「あのさ。侑志って、もう朔夜とセックスした?」
「してないよ。しないことにした」
 からかいまじりに刺す声音に、侑志は精一杯誠実に返した。
 じわりと部屋が明るくなる。皓汰の点けた行燈風のランプが、和紙越しにオレンジの光をにじませている。侑志は積んであった座布団を一枚取って皓汰に渡した。
「いろいろ考えて、今は二人でするのは野球だけでいいと思ったんだ。俺はプレーヤーとしてのあの人を誰よりも尊敬してる。影響出るかもしれないことは極力避けたい」
「それ、朔夜にも言ったの?」
「言ったよ。朔夜さんも同意してくれた」
「ホント、バカみたいだね。二人は。バカみたいに真面目」
 皓汰は持ってきた枕を座布団に置き、自分は剥き出しの畳に体育座りをした。
「坂野さんのときは、朔夜と並ぶのが侑志だったらいいのにって思ったけどさ。実際侑志になってみると、やっぱ嫌だったよ。侑志でも」
「そか。ごめんな」
 侑志は布団の上にあぐらをかく。腕を伸ばしても少しだけ届かない距離。皓汰が首を傾けると、出逢った頃より長い髪が斜めに流れた。
「もう、試合で勝っても朔夜が嬉しさを託す相手は俺じゃない。だったら俺が野球続ける意味なんかないのにね。こういうの何て言うんだろ、惰性かな」
「未練だろ」
 侑志の言葉に反応せず、皓汰はゆっくり目を閉じた。両膝の上にだらりと置いた両腕が、壁に奇妙なシルエットを作る。枯れかけた巨木のよう。
「侑志のことを妬んでるんだと思ってた。でも朔夜がいなくて、こうやって侑志といろんなこと話して、ご飯の支度して、食べて、片付けて、家族みたいに過ごして、そういうの、すごい楽しくて、俺、朔夜に」
 短く、短く、区切って紡がれた皓汰の言葉が止まった。巨木の影が大きく歪む。絞り出された声は割れて震えていた。
「朔夜に、返したくない。侑志のこと。帰って来なくていいのにって、思い始めてる。もう俺、わかんないよ。自分がどうしたいのか。誰になりたいのか」
 侑志は身を乗り出し、頼りない肩に手をかけた。皓汰が視線を上げる。たった今起きてきたような顔なのに、目許は濡れて光っていた。どうしていつも表情に出すのが下手なのだろう。こっちの方が泣きたくなってしまう。
 皓汰の手が侑志の頬に触れる。
「ねえ。もし、もしも俺が、朔夜より俺を選んでって言ったら、侑志――」
 皓汰がぐっと首を反らした。持ち上がった顎の先で互いの口唇がぶつかる。乾いて剥がれかけた皮がノイズのようにこすれる。
 振り子時計の音が、リズムを変えずに響いている。
 ただそれだけだった。
「あ、れ」
 皓汰は顔を離し、瞬きを繰り返す。侑志は皓汰の後頭部に手を添え、額を軽くぶつけ合わせた。
「『思ってたのと違うな』って思っただろ」
「うん。なんていうか、その、何ともなくて、ビックリした」
 皓汰が下を向いていく。侑志も視線を畳に落とす。朔夜とは手触りの違う皓汰の髪を手ぐしで梳いて、同じ過ちに想いを遣る。
「俺もそうだった。柚葉とキスしたとき、こんなもんかって。思ったより呆気ないなって、他に何も感じなかった。でも朔夜さんとだと、信じられないぐらい幸せなんだ。生まれたときからこうしたかったんだって思い出すみたいに」
 名も、声も、顔も、髪も、匂いも、肌も、骨も、名字以外は全部違う。
 恋しい人の、愛しい人の、家族。弟。
 独りになりたがりで、絶望したがりで、そのくせ寂しがりの、俺の友達。
 侑志は目の前の人間の、桜原皓汰の身体をかき抱いた。朔夜にするのとは違う強さで。本当の気持ちを囁いた。朔夜にするのとは違う熱さで。
「俺は皓汰のこと好きだよ。皓汰も俺のこと本当に好きだと思う。だけど俺たちの『好き』は、キスが特別になるような好きとはきっと違う。お前が朔夜さんを想ってる『好き』も、別のものじゃないかって気がする」
 だからさ、と繋げた。
 うん、と促してくれたから、続けた。
 どこか『普通』ではないかもしれないけど。今の俺たちを誰かが見たら、指差して『おかしい』って言うのかもしれないけど、それでも。
「いいんだよ。お前は、朔夜さんに『ちゃんと見てて』って叫んでいいし、俺に『自分も構え』って怒鳴っていいんだ。違う『好き』を同時に求めていいんだよ」
「ぅ、し」
 皓汰の手は朔夜より荒々しく侑志の背骨にしがみついた。
 いつもどこか達観して、突き放した言い方ばかりする皓汰の、剥き出しの感情。痛みぐらいで受け止められるならいくらでも耐えよう。
「覚えてる。お前が『朔夜さんとは違う文脈で』俺が気になるって言ってくれたこと。誰より早く俺の友達になってくれたこと」
 忘れたりしないよ。
 あの春の日の教室で、窓から吹き込む風みたいに、『左利きが好きなんだ』って微笑んだ君を。
 だから、冬を越えられるぬくもりを俺も返したい。
「俺も、『朔夜さんとは違う文脈で』お前が一番大事だよ。皓汰」
 鎖骨を噛まれた。ぐっと震えを抑え込んだ皓汰は、やがて猫が鳴くような息を漏らした。この期に及んで泣くのをこらえようなんて女々しい。侑志はさっきから洟をすするのを我慢しているというのに。脇腹をくすぐったらお返しに同じ箇所をものすごい力で殴られた。
 じゃれあって布団に倒れ込む。二人してくつくつと笑いをこらえた。顔中涙でべたべたにして。
「なぁ皓汰。俺、考えたんだ。お前が二十歳過ぎてもここにいたくなるようなこと」
「どんな悪だくみ? 俺が好きそうなことかな」
「きっと気に入るよ。向こう十年か、下手したら二十年は退屈しないと思う」
 侑志のたくらみを聞いた皓汰は、悪くないねといたずらっぽい顔をした。
 一定の時計の音。自分の心音。皓汰の寝息。
 ランプを消した部屋の中で、携帯の液晶だけが淡く光っている。返事の来ないアドレスに、『会いたい』と四文字送って眠りについた。

『おはようございます。
 今日はおにぎりを握ったので、
 梅干し三個と、
 昆布の佃煮を四分の一パックぐらいもらいました。
 海苔なくなったから帰りに同じの買います。』

『監督がカレーを食べたがって、皓汰と一緒に作りました。
 鶏肉の方が安かったからチキンカレーにしたけど、
 肉がパサパサしてました。
 もも肉ってやつのがよかったんでしょうか。
 二人が気にしないで食べてくれたのが救いです。』

『おはようございます。
 休みだから二人とも起きてきません。
 俺は昨日のカレーの残りをもらいました。
 最終日ですよね。
 気をつけて帰ってきてください。』
 
 最後の報告メールを送信して、侑志は天井を見上げた。
 桜原家の天井。木造建築の剥き出しの梁。三泊もしたら、他人の家なのに分不相応に見慣れてしまった。配置が全部左利き用の炊事場も自宅より立ちやすい。
 素足を前に踏み出す。整然と分類された食器棚を見渡す。左利き用の急須が手前に置いてあって、持ち手のあるカップは大概後ろを向いている。
 侑志がたった三日間どうにかこうにかこなしたことを、帰ってきた朔夜はまた毎日完璧に回していくのだ。手伝いたい。このまま住めたらいいのにと馬鹿なことを考える。
 ――そうじゃなくても、朔夜さんの助けになることは何でもしたい。
 ガラスに映る自分の顔を睨みつけていたら、携帯電話が震えた。外側の液晶に表示された名を見て慌てて開く。メールボタンを連打して本文を見た。

『おはよう。
 ずっと無視しててごめん。
 侑志ががんばってくれたおかげで、
 安心して修学旅行楽しめました。
 ありがとう。』

 他の女子とは違う、顔文字も絵文字もない簡素なメール。朔夜さんだぁ、と一週間ぶりの感動で鼻をこする。
 メールにはまだ続きがありそうだ。下ボタンを押してスクロールしていく。

『今日おみやげ買うけど、何か欲しいものある?
 何でもいいよ。「いらない」以外で。』

 指が自然と返信のコマンドを選んでいた。打ち込む文章も、考えずとも決まっている。

『笑って帰ってきてください。
 それ以外は』

 いけない。「いらない」は禁止だった。
 カーソルを少し前に戻して。

『笑って、頑張ったなって褒めてください。
 笑って、楽しかったよって言ってください。
 それが一番嬉しいです。』

 送信。優等生が過ぎただろうか? 本音だから仕方ない。
 長袖をまくる。朔夜が戻るまでもうひと働きだ。まずは水切りかご。携帯をジーンズのポケットに入れようとしたら、また着信があった。
 朔夜からの私用メールはいつも件名が空白だ。『Re:』を残したままとは、急ぎの用だろうか。緊張しながら新着メールを開ける。
 一目で全体が把握できるぐらい短い本文だったけれど、侑志は口許を押さえて何度も読み返した。冷蔵庫の前に座り込んで、何度も何度も。
 なくならずそこにあることを確かめた。

『やっと会えるね。
 侑志。
 好きだよ。』