16話 The Reliever - 2/5

修学旅行?

新田(にった)君、修学旅行中の部活どうする?」
 十一月の頭、琉千花(るちか)が手帳を抱えて侑志の席までやってきた。
 朔夜と付き合うことになって一ヶ月半、そろそろ琉千花との関係も穏当になってきて……というのはともかく。
「修学旅行?」
「うん。あと一週間ぐらいでしょ? 何か決まってたら教えてほしいんだ。私、準備とか朔夜さんより時間かかるし」
 琉千花は小さな両手を顔の前で合わせる。侑志は何も言えず頭をかいた。
 一体何の話をしているのか。修学旅行? 一週間?
「え、朔夜さんとか、たぁ君から何も聞いてないの?」
 琉千花は目を丸くして手帳をこちらに向けた。見開きのカレンダー、十一月十三日の水曜日から十六日の土曜まで矢印を引いて、『二年生修学旅行』と書いてある。
「お兄ちゃんなんか、お姉ちゃんたちのお土産リストで行く前からぐったりして……じゃなくて。たぁ君の伝え忘れかなぁ。中間の後すぐ生徒会の選挙だったもんね」
 八名川(やながわ)は例の一件後、何度か警察署に呼ばれているようだ。常の彼ならあり得ない伝達ミスだが、これだけいろいろ重なるとさすがに気が回らないのだろう。
 琉千花はフルーツ柄の手帳を引っ込めて首を傾げた。
「監督さんにどうしますかって訊いたら、『無理しないで休みでもいい』って言われたの。でも一年生(わたしたち)の代表は新田君だし、新田君のやり方に従おうと思って」
「え、えー。ちょっと待って」
 侑志はわたわたと皓汰を探す。こういうときに限って教室にいない。
 胸ポケットから生徒手帳を取り出し前後の予定を確認。面白いほど真っ白だ。
「あとで2A行って、にゃーさんたちに例年どうだったか聞いてくる。それから、みんなの意見も聞きたいんで」
「どこかの昼休みで一年ミーティングね。了解。私がメール回しとくよ」
 琉千花は指でオーケーサインをつくった。朔夜の真似だ。すっかり手際がよくなって頼もしい。
 琉千花を見送ってから、侑志は頬杖をついた。
 八名川がそれどころでなかったのはともかく、朔夜はどうして何も言ってくれないのだろうか。毎日のように一緒に帰っているのに――いや、帰りは一緒でも電話の時間は明らかに減った。学年が違うと忙しさの具合が読めなくて、こちらからはかけづらいのだ。
 侑志は携帯を取り出して、発信履歴の画面を開いた。もう頭に入っている十一桁をぼうと眺める。
 もっと気軽にかけてみようかな。
 嫌なら断ってくれればいいんだし。
 せっかく電話代定額になる番号に登録したし。
 でも、寂しいなんて言ったら鬱陶しいかな。
 チャイムの音に思考を突き放される。次の授業の教師が入ってくる。部活や恋のことだけ考えていられるほど、高校生活は甘くない。

「言ってなかったんだっけ?」
 修学旅行の話をするなり、朔夜は眉を寄せて首をぐらぐら動かした。
 朔夜は平気で一年の下駄箱に顔を出す。当初こそ好奇の視線を集めていたが、こう毎日となれば今や振り返る生徒の方がまれだ。落ち着かないのは侑志ぐらいのものである。
 靴を履き終えると、侑志は先に立って右手でガラス戸を開けた。
「俺が聞き逃してただけかもしれませんけど。多分初耳です」
「にゃーまで言ってなかったのかー。ごめん、完全にこっちの手落ちだな」
 朔夜は左手で口を押さえながら外へ出る。噛み殺す気のない大きなあくび。
「眠そうっすね。何かあったんですか?」
「いや、それ。修学旅行。明後日、友達と買い物行くから、今のうちに何が足りないか確認してる」
 そっすか、と侑志は顔を伏せた。
 明後日は開校記念日で授業は休み。ちょうど部活もないからデートに誘おうと思っていたのに、二人きりで出かける機会には未だ恵まれない。
 今日も裏門から出ていく。それを合図に侑志はそっと左手を伸ばす。
「朔夜さん、なんかあんまり楽しみじゃなさそうですね」
「旅行は楽しみなんだけどさぁ。三泊四日だよ? 帰ってきたら家の中どうなってるか想像したくない」
 難しい顔で腕組みをする朔夜。侑志は宙に浮いてしまった手を回収した。
「そんなにひどいんですか? 監督と皓汰」
「二人とも基本片付けない。放っとくと食事もしないし。作り置きするにしても冷蔵庫で腐ってたらショックだし。どう対策しようかって、最近はそのことで頭がいっぱい」
「へぇ」
 ついリアクションがおざなりになる。一月空けるというのでもなし、二人とも子供ではないのだから自分でどうにかするだろうに。
 どうにか話題を合わせようとして、身近で最も生活力のない男を思い出した。その対処を的確にしている女性のことも。
「そうだ。朔夜さん、前にうち来たいって言ってそのままになってたじゃないすか。今日なら母親休みで家にいるんですけど」
「ホントに? じゃあ寄っても大丈夫?」
「ちょっと電話してみますね」
「ありがと」
 朔夜は頬を染めてはにかんだ。侑志は頷いて、内心で大きくため息をつく。
 ああ、今日は俺じゃない人の話ばっかりだ。俺は毎日朔夜さんのことばっか考えてるのに。

『悋気は意識の範疇より外のことである。これ許りは如何ともし難い。悋気の方で弱気を叱って貰えると考える位が具合もよかろう。』
 自室の学習机で頁を繰る。過去に書かれた文章は、また狙いすましたように侑志の胸に刺さってくる。皓汰から借りた櫻井(さくらい)(はじめ)の著作は三冊目、ヘッドフォンからはお気に入りのクラシック。
 女同士の話、と母にリビングを追い出されたのが一時間前。侑志は自分の家で頑張って居場所を作っている。
「何聴いてんの」
「うわ」
 耳の周りの空気が突然変わって、侑志は小さく声を上げた。振り返ると朔夜がヘッドフォンを耳に当てている。
「こっちの話聞こえないようにこれ聴いてたの? お前ホント変なとこ律義な」
「ほっといてください」
 返されたヘッドフォンを机に置き、侑志は音楽を止めた。
「何の話してたんですか?」
 座ったまま問うと、朔夜は背もたれに手を添えて侑志を見下ろした。
「ユズハチャンはもうこの家には来ないー、みたいな話」
 露骨に声が冷たい。侑志は黙って肩を縮めた。
 母は今も辻本親子と友人関係を続けている。ただ線引きとして、柚葉だけのときは新田家に上げなくなった。
『侑ちゃんも、柚葉ちゃんとお友達に戻るなら、そこだけは守ってね』
 侑志は、あれから柚葉に連絡していなかった。本音を言えばいつかまた友人になれたらとは思うが、柚葉本人の気持ちより優先すべき願いではない。今の侑志が向き合わなければいけないのは、こうして目の前にいる人だ。
「ちょっと言ってみただけ。そんな顔すんなよ」
 朔夜は左手の側面で侑志の額に触れ、手の甲で前髪を押し上げた。風が抜ける心地よさに目を閉じながら、やさしいなと思う。今のは朔夜が傷つけたのではない。愚かしい自分があらためて痛んだだけだ。
「修学旅行の他に、進路のこと相談してた」
 侑志は耳を傾けつつ彼女の横顔に見惚れる。意志が固まったときの朔夜の瞳は、磨き抜かれた金属みたいだ。光沢に満ちて揺るぎない。
「二学期入ってすぐ、進路調査票の提出があってさ。私、何も書けないまま出しちゃったんだ。もー担任に怒られて三者面談。でも父さんも三年間白紙で通したらしくて、学校に連れてきたところで何ともなんなくて」
「それでうちのお袋、っすか?」
 侑志は眉をひそめた。将来が何も浮かばないという割に、朔夜の声はとても落ち着いている。
 うん、と朔夜は頬を緩めた。
「侑志のお母さんが、私がなりたい大人に一番近いと思うんだ。外にちゃんと仕事を持ってて、家の仕事もちゃんと全部こなしてて」
 息子として、普通なら照れたり謙遜したりするところなのだろう。けれど侑志は引っかかりを口にせずにはいられなかった。
「なんで家の仕事、これからも朔夜さんがやること前提なんですか?」
 当てこすりが少しもなかったと言えば嘘になる。それでも侑志はその決めつけに納得がいかなかった。
「修学旅行中のこともそうですけど。皓汰なり監督なり、困るのは本人たちなんだから自分でやらせればいいのに。いない間まで朔夜さんが面倒見るのは、なんていうか」
 朔夜の引きつる顔を見て止める選択もあったのかもしれない。だが残りの言葉は転がるように口をついた。
「過保護じゃ、ないですか?」
 朔夜は怒鳴りも睨みもしなかった。視線を外して押し殺すように呟く。
「侑志には分かんないかもね」
「は? どういう意味ですか」
「別に。説明しても意味ないと思うよ」
「意味ないかどうかなんて言ってくれなきゃそれこそ分かんなくないですか?」
「うるせえよ。放せ」
 朔夜は乱暴に侑志を振り払い部屋を出た。ドアの向こうから聞こえる、母への挨拶は当てつけのように愛想がいい。
「朔夜さん、家まで送――」
 追いかけたときには玄関ドアはもう閉まっていた。
 そっとしてあげた方がよさそうよ、と母に諭され立ち尽くす。
 こんな風になりたかったのではないのに。
 朔夜の頑なさを持て余し、侑志は一人口唇を噛んだ。