16話 The Reliever - 4/5

みうちみうちとおもうこと

「朔夜君とケンカしたのかい?」
 父に呆れ顔で言われたとき正直殴りたくなった。ちょうど何十回目かの『新着メール問い合わせ』が空振りに終わったところだ。
 風呂上がりの父は、曇った眼鏡をシャツの裾で拭いている。
「僕だけなら構わないけどね。桜原(おうはら)が見るまでには解決してほしいな。彼は動揺が顔以外に出るから危ないんだよ」
「うっさいな、俺だって好きで長引かしてんじゃねぇよ」
 あと仲直りを促す理由がオッサンの心配なのが気に食わない。
 監督が離婚して以降、平日の部活では基本的に保護者が一人になった。今日はコーチの番で次は監督。二人とも都合がつかないときは平橋が来ているが、特に指導らしいことはされないのでその際は自主トレと同じメニューになる。
 侑志は携帯を持ったまま、ぼすんとソファにふんぞり返った。
「大体監督だって悪いんだからな。朔夜さんが修学旅行気乗りしないなんて言い出したの、監督と皓汰が家のこと何もできないせいなんだから」
「まさか侑ちゃん、朔夜ちゃんに直接そんなこと言ってないわよね」
 母が夕食の配膳をしながら話に入ってくる。恋人との関係について家族会議になるなんて地獄もいいところだ。侑志は片腕で顔を覆った。
「自分でやらせればいいじゃんとは言ったけど。それだけだよ」
「もー。完全にNGワードよそれ」
 母が口を尖らせる。『NGワード』ってもう死語じゃない? という疑問はまず置いておいて、元女子の言い分は聞いておきたい。侑志はクッションを抱いて自分の発言を抑えつけた。
「朔夜ちゃんは、小さい頃からずっとお父様や弟さんのお世話をしてきたんでしょう? 自分が家を支えてるっていう自負はあるはずよ。それを簡単に『いなくても大丈夫でしょ』みたいな言い方されたら、気分よくないと思うな」
「そんなこと言ったってさ」
 侑志はクッションに口許をうずめた。父は考える素振りをしていたが、やがてぱちんと指を鳴らす。
「そうだ。そんなに桜原たちが心配なら、朔夜君が旅行に行っている間だけ侑志が二人を預かればいいんじゃないかな?」
「いや何言ってんのか分かんねぇ」
「あっ桜原? 僕だけど」
「うわもう電話すんのはっや……」
 通話時間は三分もなかった。携帯電話をしまった父は満面の笑みだ。
「いいって。よかったね」
 侑志は全くよくない。父にクッションを投げつけて自室に駆け込んだ。すぐ朔夜に電話して当たり前のように無視され、代わりに皓汰に事の顛末を話す。
「ホントごめん、親父が勝手に」
『いーよいーよ。俺も親父と二人とか気まずくてやだなーって思ってたから。それより朔夜はまだ電話出ない?』
 皓汰は苦笑しているようだった。侑志は空いた手で頭をかく。
「着拒にされてないってのがせめてもの救いだけど。相当怒ってんだろうな」
 メールも電話もなしのつぶて。こういうとき、下級生でなければもっと教室にも通えるのにと歯がゆくなる。
『俺もちょっと話してみたけど取り付く島もないね。一体何言ったの?』
 問い方に棘があった。侑志は一応謝ってから、両親とのやりとりも含め正直に打ち明ける。皓汰は黙って聞いていた。ややあって、うん、と頷く声がする。
『朔夜が気分を害した理由は解った。そのうえで侑志のが正しいよ。自分で言うのもなんだけど、俺と親父が身の回りのことさえできないのが悪い』
「でも、正しい方が勝ちってわけでもないだろ」
 ベッドに寝転がり天井を睨む。いつ見ても白い天井。
 学習したねと皓汰はころころ笑ったが、すぐに冷めた調子に戻った。
『朔夜はこの家の支配者でいたいだけだよ。自分がいないと回らないなんて、母親の役割に依存して見てる幻想でしょ。早めに目が覚めた方が本人のためなんじゃない』
「お前、いつもながら厳しいな……」
 侑志は枕を顔に押し付ける。きょうだいのない侑志だが、年下の身内がこんなにばっさりと自分を分析していたらと思うとぞっとする。
『手心加えてやってられるほど甘くないよ。きょうだいなんて』
 将来楽しみだねオニイチャン、と悪魔の囁きを残して電話は切れた。
 侑志は電話を握りしめて息を吐いた。
 将来も直近も嫌な予感しかしない。

 約一週間後、『いってらっしゃい』のメールに返事もないまま、朔夜は沖縄に飛び立っていった。ここまで長引くとは思っていなかったから正直堪える。それだけ朔夜には譲れない一点だったのだろうか。
 普通に学校に行き、一度帰宅してからスクールバッグとリュックサックを左右それぞれの肩に提げて桜原家に向かった。
「どうも。上がって」
 出迎えてくれたのは皓汰だ。監督はまだ仕事らしい。
 皓汰はグレーのスウェットのフードをぴょこぴょこ揺らしながら前を行く。
「客間使ってくれる?」
 通されたのは八畳の和室だった。日陰のせいか、祖父の部屋だという二階の和室より畳が青い。
「客間に布団あるってことは、よく人が泊まりに来るのか?」
「昔はそうだったらしいね。今はそういう人も来ないよ」
「親戚は?」
「さぁ。一切縁切ってるみたいなこと言ってたけど」
 親父遅いかもだしご飯食べる? と訊かれて、断る理由もないので頷いた。
 冷蔵庫の中にはタッパーがたくさん入っていた。アルファベットと日付を振った紙がセロテープで貼ってある。皓汰はメモ片手に冷蔵庫を漁る。
「えっと、Aのタッパーはレンジでオッケーだけど、Bは深めのお皿にあけてラップして……めんどくさ。そのままでいいかな」
「やるから。皿の場所だけ教えて」
 食べている間に監督が帰ってきた。
 上下黒のスウェット。家にいた皓汰はともかく、この人は仕事から帰ってきたのではないのか? そんな職質待ったなしの格好が通勤スタイル?
「おう。侑志お前寿司好きか」
 素面のようだが、今日びフィクションの酔っ払いしか持っていないような寿司折を手にしている。困惑する侑志の正面で皓汰が鋭い声を出す。
「朔夜、ご飯炊いてくって言ってたじゃん」
 監督が凍りつく。完全に忘れていた顔だ。
 侑志は手を伸ばし、炊飯器の保温ボタンをオフにした。
「炊いてある米はラップにくるんで凍らしときましょう。そしたら明日とかレンチンするだけなんで」
「そんなことできんのか」
「すごい。生活の知恵だね」
 これは確かに心配になるなと思った。

 風呂をもらってから、皓汰の部屋で一緒に宿題をやったり、二階の和室で読書に勤しんだりした。そのうちに、早く寝ろと監督に声をかけられて、本当に修学旅行のような風情だ。
 皓汰と別れて客間で横になる。目を閉じていても一向に眠れなかった。古い振り子時計の音が気になってしまう。
 目を開けて、寝転んだまま薄闇を見渡した。
 馴染みのないものばかりだ。年季物のたんすが二竿に空の衣文掛け、ちゃぶ台は端に立てかけてある。神棚というのも新田家には――少なくとも侑志の住む家にはない。
 廊下側の襖から急に明かりが漏れてきた。密やかな歩みは多分皓汰だ。監督ならもっと無遠慮に歩きそうだから。
 トイレにでも行ったのだろうと侑志は眠る努力を再開したが、しばらくしても足音が戻ってくる気配はない。
 結局起き出して後を追った。皓汰はナツメ電球をひとつ点して、ダイニングの椅子に座っていた。
「どしたの。眠れない?」
 やわらかな苦笑は保護者のようで、侑志はつい黙って頷いた。皓汰の正面に腰掛ける。
 テーブルにはミルクの入ったマグカップ。飲む? と訊かれて首を振る。
「母親がね、たまに作ってくれたんだ」
 皓汰は目を伏せ、指先でカップの縁をそっとたどった。
「小さい頃から、俺はあんまり寝つきがよくなくてさ。朔夜と親父を起こさないように布団から抜け出してくると、母さんはよくここに座ってた。いつも風呂上がりの匂いをさせててね。ふんわりした気持ちになるんだ」
 侑志も過去の桜原家に想いを馳せる。
 パジャマ姿でドアを開ける少年。仄明かりのダイニングに座った女性。
「俺の顔見ると、『眠れないのね』ってホットミルク作ってくれたよ。何の話をするわけでもないのに、俺が飲み終わるまで必ずそこにいてくれた。朔夜は母さんのこと毛嫌いしてるけど、俺は結構好きだったんだ。そういう時間」
 侑志にも覚えがある。
 大人の時間を間借りしている不思議な高揚感、手のひらで包んだカップのぬくもり、何も入れていないのに甘い香りが立ち上るミルク。静かな静かな、夢の手前の休息。
 侑志はマグカップの側面に触れる。陶器の表面は冷たくなりかけていた。こういうことが、たまらなく苦しい。皓汰を思い出に置き去りにするようなことが。
「お前は、もっとそういうこと誰かに言っていいと思うよ。こんな偶然任せなんかじゃなくて」
「ううん。俺は聞いてくれたのが侑志でよかったと思ってるし、侑志だけでいいんだよ」
 皓汰の手が侑志の手の甲に重なる。他の男子とは交わさないコミュニケーションが、少しも不自然でない相手だった。
「じいちゃんが死んで、母さんもいなくなって、この家は完全に朔夜と親父のものだ。俺がいるにはちょっと、苦しい」
 水面で喘ぐように切実な口調。
 侑志は皓汰の手を握りしめる。
 皓汰は安易な慰めをすぐに看破してしまう。薄っぺらな台詞が駄目なら体温に託すしかない。
「ありがと。侑志」
 闇の奥でじっと手を握り合っていた。カップの中のミルクが完全に冷めきってしまうまで。

 目が覚めて、ここがどこだか認識するのに時間がかかった。桜原家の客間。一度意識が途切れたために、よその家の匂いをあらためて強く感じる。
 布団をたたみ、ワイシャツと標準服のスラックスに着替えてから客間を出た。洗面所で監督とすれ違い、おうと頷かれた。この人はその二文字を過信し過ぎではないだろうか? どうも万能の挨拶だと思っているような気がしてならない。
 連れ立ってダイニングに移動する。侑志は朔夜のメモを確認するが、朝食についての記載はない。
「監督、朝ごはんどうします?」
「んー、適当に食え。俺はタバコでいい」
 監督は椅子に座るなり煙草を手にした。侑志はさっとライターを奪い取る。
「そんなもん飯になるわけないじゃないですか」
「なる。ガキには分からんだろうけどな、ヤニ吸うと腹が空かなくなるんだ」
「その結果栄養が取れてないことぐらいガキでも分かりますよ!」
 拗ねた顔をされても全くかわいくない。それで陥落するのは侑志の父ぐらいのものだ――考えて虚しくなってきた。
「おあよ。なにさわいでんの」
 目の開き切っていない皓汰が腹をかきながら現れる。同じ質問をしたら答えも似たり寄ったりだった。
「昔の人は一日一食だったりしたんだよぉ。朝ぐらい食べなくても死なないって」
 おまえら、と怒鳴りそうになって直前で飲み込む。
 なるべく穏便に言おうとしたけれど怒気が含まれてしまったらしい。
「今日は、活動日で、朝練も、放課後練もあるって、解ってるから二人ともこうやって早起きしてきてるんですよね? 朝抜いて今日一日のカロリー足りると思ってるんですか?」
 監督も皓汰も見る間に小さくなって、食べます、と呟いた。
 朝からこんなに疲れると思わなかった。侑志は嘆息して冷凍庫を開ける。
 昨日しまったご飯をレンジで解凍して、寿司の分余った肉じゃがも小鍋に入れて再加熱。あとはなんだろう。卵は栄養がありそうだ。目玉焼きなら侑志でも作れる。フライパンを出して、油をしいたら卵を三個割り入れる。
「手慣れたもんだな。家でもやってんのか」
「朝は大体母いませんからね。『おかずあたためて食べて』とか『パパにベーコン焼いてあげて』とかはよく言われます」
 監督に答えながら朔夜にメールを打つ。
『おはようございます。朝食にタマゴを三つもらいました。』
「ねー、なんかてつだうことある?」
「抱きつくな。座ってろ」
 皓汰の手を剥がしてフライパンにふたをした。
 父がマシな部類なのだと初めて知った。少なくとも新田総志(そうし)はコーヒーを自分で淹れるし、シリアルに牛乳だってかけられる。

 昨夜の寝不足もたたって、午前中の授業はほとんど記憶がなかった。気付いたら昼休みで、図書当番を思い出し慌てて駆けてきたところだ。
「しょーねーん、受付に死体が遺棄してあるとみんなが入りにくいでしょー」
 深春(みはる)に声をかけられるまで意識が半分飛んでいた。後期になって三年生はみな委員の役から外れたけれど、深春はしょっちゅう図書室に顔を出す。
「二年生いないと静かだよねー。ここがっていうか、学校全体がさ」
「ほんとそうですよね……」
 お互いカウンターに頬杖をついた。
 三年生はすっかり受験モードだし、一年生は我がもの顔にはまだ遠慮がある。青春の代名詞たる二年生を欠いた校内は、何もかもが控えめに見える。
 朝練の静けさはまた別種のものだった。皓汰と富島と永田――要するに井沢以外が『疲れるし前時代的な声出し・声かけは要らないのでは?』と言い出し、安全確認を含まない声かけを本当にボイコットしたのである。監督が口出ししないからといって好き放題だ。
 ゆるいゆるいと思っていた先輩たちが、いかに体育会系だったかを思い知った。朔夜は誰より声を張るし、他の五人もそれぞれ腹から応えている。そして何より、八名川主将と坂野副主将は礼と協調性を重んじ、逸脱する行いがあれば後輩でも同輩でも叱るのだ。竜光(りゅうこう)たちが引退してから、互いを律する姿勢はさらに顕著になった。
 対して、一年の露骨な効率偏重と個人主義。侑志は早くもあの反乱分子どもをまとめていく自信を失くした。
「それで、皓汰君は? 今お姉さんいないんでしょ。代わりのお姉さんを欲しがってたりしない?」
 深春のネジの外れた発言で我に返る。今は野球部次期主将ではなく図書委員だ。頭を振ってモードを切り替える。といっても世間話に戻るだけだが。
「別に変わりませんよ。つかみどころないっていうか」
 あながち嘘でもない。皓汰が不安定なように見えるのは修学旅行の前からだ。ここ数日に限定すれば特別な変化はない。
 侑志は二、三度座り直して、さりげなく見えるよう表情を整える。
「ところで、皓汰と関係ない他の知り合いの話なんですけど」
「はいはい」
「将来どうしたいって訊いて、二十歳までには死にたいって言われたらどう思います?」
「モラトリアムの終わりに敏感な文学かぶれの典型的な甘えだな~って思う」
 深春はあっさり即答した。しかもかなりピンポイントに。
 深春の指先が長い髪をくるくるともてあそぶ。
「やりたいことが見つかんないから、もう悩むのもめんどくさーい! ってだけでしょ。二十歳過ぎたら笑い話よ、そんなん。うちの兄貴が完璧そうだったもん」
「そんなもんすかね」
 侑志はカウンターにべったりと伏す。
 皓汰もそうだが深春も身内に容赦がない。小さい頃はきょうだいがほしいと願ったものだが、現物を目の当たりにすると一人でよかったのかもと思う。
 深春は小さく声を上げて笑うと、すぐに穏やかな口調になった。
「ま、でも一時の熱病でも寝込んでる当人は苦しいもんじゃない? だから、適当にあしらわないではあげてよね」
 侑志は視線だけで深春を見上げた。
 この人はきっと皓汰のことだと気付いている。騒がないために気付かないふりをしてくれている。真偽はともかく侑志はそう思っていたかった。
 両手をついて腰を上げる。
「あの、ちょっと」
「うん。お姉さんが今日だけ替わったげよう。特別だぞ」
「あざす」
 廊下を走るのも今日は見逃してもらえた。
 教室に急がないと。
 あいつはきっと、昼飯も食わずに机で寝ているだろうから。