最終話 Near Evergreen - 1/6

ニア・エヴァ―グリーン

 まず父がいる。朔夜(さくや)にとっては外せない前提だ。
 父を中心に据えてみると、もれなくこの家と土地がついてくる。朔夜は長子だが長男は皓汰(こうた)だ。相続するなら皓汰が適任に思われた。
 ここで朔夜の思考はいつもつまずいてしまう。
 皓汰のものになった家に自分の居場所はあるのだろうか。今までどおり三人ならともかく、皓汰が奥さんをもらったら? 小姑が歓迎されないことぐらい、人生経験の浅い朔夜にだって分かる。
 としたら、自分も誰かの……このままいけば侑志(ゆうし)の、『奥さん』になる? これも名案とは言いがたい。新田(にった)美映子(みえこ)は朔夜の理想ではあるが、現実とするには眩しすぎる。あの完璧な(少なくとも朔夜にはそう見える)主婦の目があるなら、ままごとの延長線上のような今の家事ではとてもやっていけない。もし彼女が何も言わなくとも、侑志はあの母の水準で育てられたのだ。胸ときめく甘い生活など端から想像の埒外である。
 今日も同じ行き止まりにぶち当たったことを痛感し、朔夜は大きく息を吐いた。
 左手で回すシャープペンシル。進路希望調査票はまばゆいまでに白い。

「あれ? 朔夜、まだ進路希望出してないの?」
 忌まわしい紙は部室に持ってきたところで白いままだ。
 岡本(おかもと)の素直な驚きを責める気も起きない。期末考査も終わった年の瀬、九月に提出するはずのものが手元にあったら普通は『まだ』と言うだろう。
「マジで何も浮かばなくて困ってんだって……。じゃなきゃ一年いないとき狙ってこんなとこ来ねーよ」
「ごめんねこんなとこで」
 岡本は厚手のアンダーウェアから申し訳なさそうな顔を出した。
 一年は来年度の文理選択説明会で遅刻。紳士の三年とウブな一年がいなければ、二年同士は異性だろうと気安く着替える。朔夜もさっきここでジャージ姿になった。
「進学か就職かも決まってねぇのか?」
 支度を終えたらしい怜二(れいじ)が向かいに腰を下ろした。深緑のアンダーにそのままジャージを羽織っている。この時季すっかりフットサル部と化すこの部で、真面目に『野球部でござい』という格好をしている部員は数えるほどもいない。
 朔夜はシャープペンシルを回す手を速める。
「就職は最終的にはしたいけど、普通科高卒の女子がいきなり何の仕事就くんだってなったら、やっぱりもう少し勉強しなきゃいけないんじゃないかとかさあ」
「微妙に先が見えてるだけに動けないって、お前ホント難儀な性格してるな」
 怜二は誰かが置いていった『首都圏大学案内』と書かれた冊子を手にした。角が折ってあったり、付箋が何枚か貼ってあったりする。
「その紙で一生決まるわけじゃねえんだしさ。とりあえず好きな大学でも書いてみて、来年ちゃんと考え直すってのもアリじゃねえの?」
「好きな大学なんかないよ~……つか大学って何するところなの?」
「学問だよ」
 死ぬほどド正論だ。朔夜は頭を抱える。
 学問、学問か。皓汰みたいに放っておいても本を読む人間ならともかく、高校の勉強にもついていくのがやっと、というかついていけていない自分が、このうえ高い学費を払って何を学ぶというのだろうか。このところ残業を増やしている父を見ながら、入ってから考えればいいやとはとても言えない。
「朔夜さん、大学では野球やらないの? 女子チームも高校より多いと思うけど」
 坂野(さかの)が怜二の横に座る。相当気を遣って言葉を選んでくれているのが伝わるが、その点に関して朔夜の答えは決まっている。
「興味ない。タカコーから離れたところにある野球は全部他人事だから」
「だよね」
 坂野は苦笑した。随分マシにはなったけれど、まだ互いに自然な態度とは言いがたい。やはり大学を選ぶことより、この場所を全員の居心地のいい場所にすることの方が急務なように思えてしまう。
 そうだ、未来なんかより今の方が絶対に大事だ。
 担任にはとても通用しそうにない理屈だが。
「したらもう新田の嫁でいいじゃんな」
 三石(みついし)が本気だか冗談だか分からないトーンで言った。もう検討済みだとは口にできず返事を濁す。
「つか、三石こそ何て書いたん? 私に負けず劣らず大学行ける成績じゃないのに」
「オレ、専門で出した。音楽の」
「は?」
 聞けば、文化祭でのライブが思った以上に楽しかったので本格的にやってみようと思ったらしい。
 朔夜は恐る恐る他の面子にも尋ねる。
「岡本は?」
「工学部。ロボコン好きだから、ロボット作れるところがいいなーって」
「レイジは?」
「薬学部。自宅通学圏内で」
「坂野は?」
「えっと、早慶上智の経済学部」
「にゃーは?」
「まだ具体的には決めてないけど。生物工学できるとこ」
「裏切り者!」
 朔夜はわっと机に突っ伏した。
 調査票を提出してあるということはそういうことなのだと解ってはいても、予想以上に現実的なチームメイトに焦りを禁じ得ない。
「あのさぁ、あんま同期の意見聞きすぎない方がいいぜ」
 八名川(やながわ)が眉を寄せながら白い服を羽織った。主将だからと必ず野球部らしい姿でいるが、秋に短くした髪はもう随分伸びている。
「どうせ神崎(かんざき)さんにもヘコまされた後でしょうが。依存先少ないと視野狭くなるよ」
 さすが同級はよく見ている。朔夜は右手で頭をかきむしった。
 物心つく前からの親友・神崎めぐみは、調査票を国立と名門私立で埋めた。そのくせ『原画やってみたいしアニメーション学院もいいなぁ~』と本気でのたまう。成績も意欲も、めぐみの選択肢を増やしはしても減らすことはないようだ。
「でも父さんアテになんないし、弟に進路の相談するなんて論外じゃん」
 高葉ヶ丘(たかばがおか)に入れてもらったのはともかくとして。
 八名川はすらっとした指で器用にボタンを留めていく。
「コーチと平橋(ひらはし)先生は?」
「私、映ちゃんのことあんまり信用してないしな。コーチに将来決められるぐらいなら死んだ方がマシ」
「言いよるなぁ」
 八名川が乾いた声で笑った。
 侑志の母親にも少し相談してみたけれど、彼女もやりたいことに従って進路を決めた人だった。他の大人は家業を継いだ人ばかりだ。ちなみに神崎金属からは『卒業しても進路が決まっていなかったら来なさい』と、事実上のお断りを食らっている。
 他に誰が、と携帯の電話帳を眺める。
「あ」
「心当たり?」
「でも、どうしよう。忙しいだろうし」
「そゆとこ朔夜チャンの悪い癖だよね。キミの相手できないほど忙しいかどうかは、向こうが決めることだよ。ダメ元でも訊いてみ」
 八名川に気圧されてメールを打った。
 もう長いこと連絡していない。元気だろうか。

「ごめんなさいね。付き合わせちゃって」
「いえ。だいじょぶっす」
 朔夜は答えながら気が気でなかった。月村(つきむら)雪枝(ゆきえ)の背を見失わないよう、白を基調とした店内をそろそろと歩く。
「このカフェ、前から来たかったの。でも(りゅう)を連れてこられるところではないでしょう」
 案内された席に落ち着くと、雪枝はゆったりとした手つきで朔夜にメニュー表を差し出した。優しいクリーム色の紙に綺麗な書体でおしゃれな店名が書いてある。朔夜は紺色のスカートをテーブルの下で握りしめ、左手でメニューを受け取った。
 飲み物を選ぶふりをして店内を観察する。
 そこかしこから垂れ下がる淡い緑の蔦、華奢なつくりの机や椅子、動物をかたどったシュガーポットにピンクのバラを活けた丸い花瓶……。いつも男子連中と来るファミレスと大違いなのはもちろん、自分一人やめぐみと二人なら絶対に入れない。
 雪枝は少女趣味全開の空間とも自然に調和しているけれど、朔夜はセーラー服が唯一の免罪符だ。いっそ森貞の方が森のクマさん然として似合っているのでは、と失礼なことを考える。
「ジャスミンティーとりんごのタルトにしようかしら。朔ちゃんは?」
「おっ、おなじので」
 結局ちっとも目を通さないままメニューを閉じた。雪枝は苦笑して店員を呼び、緊張した様子もなく注文を伝える。やっぱりお姉さんだなぁ、と朔夜はぼんやり雪枝の横顔を見つめた。
 朔夜の周りの女性はみな親ほども年が離れているから、一学年、実年齢で二つしか変わらないのは雪枝ぐらいだ。
「あんまり恐縮しないで。私も息抜きしたかったんだもの」
「あ、いえ、その、でもやっぱりすみません」
 朔夜はせわしなく髪を耳にかける。衛生的に飲食店ではやらないように気をつけているのだが、雪枝の前だと止められない。
 雪枝は朔夜にいろいろなこと――思春期の女子として生きるのに必要な知識諸々を授けてくれた大恩人ではあるけれど、それだけにどう接していいか分からない。本当は今のうちに、『カノジョとしての心構え』だとか聞いておきたいことは山ほどあるのに。
「ジャスミンティーでございます」
 雪枝と朔夜の間にガラスポットが置かれる。
 う、と後ずさってしまった。
 茶がなみなみ入ったポットの中にイソギンチャクのような草。まるでホルマリン漬けだ。とてもではないが飲む気がしない。
「こちら柚子茶になります。ごゆっくりどうぞ」
 先のポットに比べると健全な見た目をしたガラスのカップを置いて、店員は去っていった。首を傾げる朔夜に雪枝が両手を合わせる。
「ごめんね。朔ちゃん、こういうのは苦手かなって思ったから。こっちの方がいい?」
「あの、柚子の方で。ありがとう、ございます」
 朔夜は飲む前から頬を熱くして、柚子茶のカップを引き寄せた。相模は雪枝のこういうところをお節介だと嫌うけれど、朔夜は雪枝がこうだから好きだ。
 柚子茶というのは、父が砂糖の探索を諦めて作るママレード紅茶に似ていた。慣れたものを思い出すと気持ちも落ち着いた。
 雪枝に、呼び出した要旨をあらためて伝えていく。
 進路希望調査票が埋まらないこと。
 そもそも、やりたいことが見つからないこと。
 雪枝は届いたタルトに手も付けずじっと聞き入っていた。
「やりたいことが分からないなら、やりたくないことを考えてみるのもひとつの手じゃないかしら。三年のこんな時期に言うのもなんだけれど、私もなりたいものなんてないもの」
 ガラスのティーカップに溶けてしまいそうに細い指で、雪枝はジャスミンティーを飲んでいる。朔夜の視線に応えるように目を上げる。
「私は身体が強くないでしょう? 竜光(りゅうこう)のように勉強ができるわけでもない。けれど、ずっと誰かに頼りきって生きると開き直りたくはないの」
 雪枝は取得した資格や受験したテストについて教えてくれた。簿記、パソコン検定、漢検、TOEIC、等々。
「道具があっても使いこなせるかは分からないわ。もしかしたらやっぱり親や、国や、将来的には竜光のお世話になって生きていくのかもしれない。でも、そうでない可能性を残せるのなら、やれるだけのことはやろうと思っているの」
 朔ちゃんも、まだ決められないことを伝えるだけでも、担任の先生は安心なさるんじゃないかしら――雪枝のアドバイスはあたたかったが、味はしなかった。
 生きるために何かしらの職を確保しようとしている雪枝は、朔夜からすれば充分どこかへ指向している。
「侑志君には相談した?」
 朔夜が納得していないのを察したか、雪枝はカップを置いて両手を組んだ。朔夜は首を横に振る。
 侑志に話すなんて考えたこともない。
「年下ですよ?」
「竜も私の一つ下よ」
 雪枝は笑うけれど、やはり同学年と一年生では前提が違う。朔夜は黙るためにタルトを食べ始めた。カリっと焦げた砂糖が少し苦い。
 新田侑志のことは、好きだ。優しいしよく気がつく。だが寄りかかるには細すぎるし、むしろ自分を頼ってほしいと思う。とてもとてもかわいい、大切な後輩。
 雪枝の手はまだフォークを持たなかった。植物の沈んだカップから二杯目のお茶を注ぐ。
「朔ちゃんは、侑志君とデートしたことはある? 部活とも学校とも関係ない、非日常のお出かけ」
「お出かけ……は、ないですね。学校の帰りに、どちらかの家に寄ったりはありますけど」
 朔夜はタルト台を割るのを中断し考え込む。
 その『家デート』も完全に二人きりになったことはない。皓汰だったり親だったり、別の部屋だが誰かしら在宅している。恋人同士の甘い時間というより家族ぐるみの交流だ。まぁ、隙を見て口付けを交わすようなこともないではないけれど――朔夜はフォークを連続で突き立ててタルトを粉砕する。
 すぐ赤くなるくせにそういう手つきだけやけに慣れてる。ばか。しんじらんない。すけべ。
 朔夜が坂野と遠回りをしている間にあの女の子と何度もそういうことをしたのかと想像すると、自業自得のくせに胸がぎゅうぎゅう痛くなる。
 最後までしたの? なんて下衆な疑問、口にもできないのにずっと心から消せずにいる。
「朔ちゃん? 大丈夫?」
「ユキさん、は、リューさんとどんなとこ、行ったりしたん、ですか?」
 洟をすすって問い返す。雪枝は困った顔で、そうね、と自分のタルトを二つに切った。
「水族館とか、美術館とか、私の好きなところばかりね。竜は本当に趣味がないの。私が喜ぶ場所を探してくるのが趣味みたいに」
 今までの朔夜なら聞き流していただろう。惚気に潜む翳に気付けたのは、自分も心当たりがあるからだ。
 侑志は朔夜を自分の母親と会わせてくれる。朔夜の家に来て、朔夜の家族の相手をしてくれる。朔夜が何気なくしている仕事を、そっと見つけ出して評価してくれる。朔夜が望む言葉をまっすぐにくれる。
 朔夜さん。好きです。好きです。
 あんまりたくさんくれるから、この降り積もっていく気持ちに報いてあげられているのか、不意に不安になる。
「あの。誘ったら、喜んでくれますかね。……デート」
 右手がまたスカートを握っていた。長い間着るのが苦手だったけれど、侑志のおかげで少しは好きになれた服。
「私はそう思うわ。朔ちゃんは素敵な子だもの」
 雪枝は大きく頷いて、朔夜がぐちゃぐちゃにしたタルトと自分のタルトをさりげなく入れ替えた。
 朔夜はぐっと顎を引く。
 ああ、やっぱりユキさんのそういうとこ好き。