エピローグに代えて 早瀬怜二編
思えば十七年、抜かされてばかりの人生だった。
オレのような人種の裏というか表というか――には、必ずこういう奴がいる。何をやらせても器用にできて、それほど努力している風でもないのに軽々と他人の頭を越えていく奴。
オレにとってはあいつが、八名川
小学生の頃、為一は本当に泣き虫だった。
俺に置いていかれたと言っては泣き、転んだら痛いと泣き、犬に吠えられたら恐いと泣いた。
人見知りも激しくて、オレが間に入って友達にしてやった奴もいっぱいいる。大人がいないとき発作を起こしたことも一回や二回じゃなかった。じきにオレは吸入器の使い方まで覚えてしまった。
レイくん、レイくん、と舌ったらずに呼びながら、後をついて来る。
オレにとって八名川為一はそういう、子分みたいな、小動物みたいな奴だった。
身体の弱いあいつはいつも、物欲しそうな顔でオレたちの野球ごっこを見てた。だから中学でオレにくっついて『野球部入る』って言い出したのも別に、不審な流れだとは思わなかった。
そして「一年生には一通りやらせてみる」が信条の監督(体育教師)は、九つのポジションを一ヶ月かけて一日ずつ教えてくれた。その間に、好き嫌いだの向き不向きだのに気付く。それが入部して最初の仕事。
為一はどちらも見つけられなかった。
全てのポジションの要領をすぐにつかみ、バッテリー以外に嫌な場所はなく、特別に好きな場所もなかった。どこも天才的に上手くはない。だが様にはなっている。体力と技術の不足を、為一は生来の勘のよさで補えた。しかも奴に欠けているものは、練習すれば自ずとついて来るものばかり。
『オールラウンダー』。監督は為一をそう呼び、手塩にかけて育てた。いずれレギュラーになるのは目に見えていた。
為一はいつの間にか、部活中も、教室でも、人に囲まれるようになっていた。評価はいつもオレより上で、気付いたらオレが為一のおまけだった。
いつかの帰り道、為一は急に「あ」と声を上げた。
そして頭のところで水平に手を振って笑った。
「オレ、レイくん抜かしちったかも」
悪意はなかったのだ。
いくら他人を追い抜かしても、決して高慢にならなかった為一には。オレの妬みにも気付かず、無邪気に話しかけてきた為一には。
それでも、へらへらと笑いながらその言葉を発したことが許せなかった。
オレがつかみかかったので、そのまま取っ組み合いの喧嘩になった。
「いいじゃんかレイくん何でも持ってるくせに、勉強できて浮気しないお母さんがいて相手してくれるお父さんがいて優しいお姉さんがいてるっちがいて猫がいて、何でも持ってるくせに背ぐらいオレが勝ったっていいじゃないか」
為一は叫んでいた。ああこいつでもオレを妬むのかと思ったのと、泣き喚くのを久々に見たので何だか殴る気をなくしたのをよく覚えている。
路上であんまり大騒ぎをしたものだから通報されて、警官から全力で逃げて申し合わせてもいないのに、ガキの頃よく遊んだ公園でまた会った。二人で大笑いしてから何事もなかったかのように家に帰った。
オレたちはそれぞれ15と3を背負って中学最後の夏を終えた。
「レイジ、高校でも野球やんの?」
「分かんね。でもとりあえず名門はやめる。目標が入部とかスタンドとか悲しすぎる」
「確かになー。で、具体的にどっか決めてんの」
「何でそんなことお前に言わなきゃいけねーんだよ」
「知りたいんだもん。あーでも、オレが先に言わないと、また真似したみたいになったらヤだな」
「じゃあ同時に言うか」
「よし! いくよ、せーのっ」
「「高葉ヶ丘!」」
為一の、喜ぼうかツッコもうか迷ってるみたいな半笑いが忘れられない。
「近いしな」「私服オッケーだし」「進学校だし」「その割にお手頃レベルだし」「ヤンキーはいないし」「グランド狭いし」「校舎キレイだし」「冷暖房ついてるし」「野球部小さそうだし」「軟式だし」
結局オレたちがここに来たのは、まるっきりの負け犬根性からだったって訳だ。
そして負け犬のオレも念願の一桁背番号を手にした。達成感はなかった。
ドラマのエキストラと同じだ。あの場所を空けておく訳にはいかないから、誰かを立たせておかないといけない。たまたまいたのがオレだったから、オレにお鉢が回ってきただけ。
そうと知っていて人手不足の学校を選んだくせに、いざとなるとシケたプライドが顔を出す。
オレが本当に自分の器を痛感させられたのは、新田侑志が入部してきてからだった。
ピッチングは凡庸だったが、フィールディングはかなり巧い。ノックで何度かついたファーストも同様で、いつも下克上を起こす側の為一でさえ、自分の立場を危ぶんでいたぐらいだ。
だが監督が新田をレフトに置いたとき、オレは他人をどうこう言っている場合ではないと気が付いた。
追い落とされそうになっているのは為一じゃない。
新田の最大の強みはバッティング。軟球はあまり強く叩くと潰れて飛ばないし、かといって弱く叩けば抵抗が大きすぎてやはり飛ばない。奴は力を入れるタイミングや緩めるタイミングを、コンマ以下を更に細分化したぐらい絶妙に――フレーム単位で、感じ取っているようだった。それも無意識に。
力強く、かつ精緻なスプレーヒッター、新田。
小技の巧いユーティリティプレイヤー、為一。
打撃も守備もお粗末なオレ。
誰が抜けるべきかなんて考えるまでもない。
いくら素振りをしても、牛乳を飲んでも、俺は新田を越えられない。
世の中には『何でも持ってる』奴と『何もない』奴がいる。所詮オレは、抜かされ続ける人生なのだ。
新田はオレの卑屈な僻み根性を見抜いた。そして同情した。憐れんだ。為一以上に、悪意なく。
――いや、恨み言を聞かせたかった訳じゃない。
できることならオレは自分を殴りたい。
生きているだけで妬まれる、あの不憫で善良な、要領のよい二人の代わりに。
「レーイジ・レイジ、レーイジ・レイジ」
「ヒトの名前を『徹子の部屋』みてぇに呼ぶんじゃねぇ」
ある休み時間、はるばるA組から朔夜がやって来た。気持ち悪いほど超ごきげん(番組を間違えてんじゃねぇかと思うぐらい)だった。
「見てこれ。すごくね?」
オレの目の前に突き出されたのは、生物の資料集。
「【相利共生】。AがBを外敵から防ぐなどの利益をもたらすとき、BもまたAの食料の確保を行うなど利害関係の一致した共生。例えばイソギンチャクとクマノミなど……」
「それくらい知ってるよ」
「またある生物が発散する物質が、他の生物に影響を与えることを【他感作用かっこアレロパシーかっことじ】といい、片側の生物の生育が阻害される場合は、【片外作用】という」
そこまで読むと、朔夜は資料集を閉じてにたりと笑った。
男の低俗さと女の卑劣さを足して二で割ったような、嫌な笑い方だった。
「新田はさぁ、ずるいよね。他人のテリトリーずかずか侵入しといて『ごめんなさい悪気はないんです、邪魔ならどきます』って顔すんじゃん。そのくせ『どうせ俺の方が上ですもんね』って思ってんの、見え見え」
「何が言いてぇんだよ!」
オレが机を叩くと朔夜は例の笑い方をやめた。とはいえオレが怒った程度でビビるような女でもない。
「レフトを守るだけなら新田でもできるよ。でもレフトになれるのは、レイジしかいないと私は思ってる」
意味分かる? と朔夜はやわらかく笑い直した。
「育ててやって。あいつはあの場所で絶対レイジを助けるから。新田といればレイジも絶対、伸びるから。守ってやって。あいつのこと」
――ちくしょうめ。
朔夜はオレよりずっと巧いのに、オレよりずっと不条理な場所にいる。坂野に飛ばす野次みたいに、できないんならそこを替われとオレに怒鳴っていいはずだ。
だけどこいつはそうしない。
後輩を潰さずに育ててくれと頭を下げる。
朔夜が他人を素直に認められるのは、自分の場所を確かに認めているからだ。
こいつは自分の最前線でずっと戦ってる。
たとえそこがマウンドでなくとも。
そうだ。主役になんか、なれなくたっていい。
あんな広い辺境を空けてはおけない。必要だから、誰かがいる。
抜かされても、敵わなくてもいい。オレは『誰か』でいよう。与えられたとき、与えられたことをやりきる力をつけよう。
何もかもを手に入れることはできないが。
その一瞬にかける想いだけは、誰にも負けたくない。
【相利共生】。
オレはこの話を新田にしなかったけれど、あいつは自分で気付いたようだった。
オレたちは影響し合いながら先へ行くんだ。
あいつの道は果ての見えないほど遠いだろう。
けれどオレは抜かれる訳でも、置いていかれる訳でもない。明日のオレは今日のオレより前に進める。昨日のオレを追い抜かせる(陳腐だが)。
他人に抜かされる人生は終わりだ。
あの隅っこから見渡すグラウンドを、オレ以上に好きな奴なんていないんだから。