何がほしいの
試験の終わった翌々日、
まさかの変則ダブルヘッダー。先発投手はまさかの、背番号10新田
それにしても、初回第一球ど真ん中――とんでもない球だった。
試合開始を告げる号砲のような、重く、低く、それでいて烈しい音。固まったまま動けなかった。相手打者も、当人である侑志さえも。
自分の才能だと考えるほど驕ってはいない。いい音を響かせたのは富島の技術だ。
富島は試合前も頼もしかった。自信がないとぼやく侑志に、白球を手渡すときの手つきと表情。
「
侑志はこのとき、マウンドに向かう前に必ず富島と調整する
六回裏、
二塁ベースからベンチへ戻る侑志の足取りは軽い。
「あれ、富島下がんの?」
富島がキャッチャーメットではなくキャップを被っている。ということは侑志の出番も終わって、朔夜と森貞が試合をコントロールしていくのだろう。
水を飲んで一息つこうとした侑志に、富島が何かを差し出してきた。
「お前はまだ頑張れよ」
侑志のグラブではなかった。そもそも投手のグラブではない。より大きく重く深い、これは――。
「マウンド私。お前レフト。よろしく」
朔夜が侑志の手から打撃用メットを奪い取り、弟が侑志の頭に帽子を載せる。侑志は慣れない手ごたえに呆然とする。
外野用のグラブ。
「新田君」
永田が侑志の袖を引いてきた。引きつった顔で、左手にやはり見慣れないグラブがある。
「どこお前」
「ファーストだって」
「ミットは」
「初心者は深くて使いにくいだろうからこっちにしろって、八名川さんが」
状況を理解できない侑志に、その八名川が笑顔を向けてくる。
「はいフィールディンググローブ。使うっしょ?」
高葉ヶ丘高校にシートの変更。
ピッチャー 新田→桜原(朔)
キャッチャー 富島→森貞
ファースト 八名川→永田
レフト
つまり八名川と早瀬は、ベンチに退くことになるわけで。
侑志はベンチの奥を見た。早瀬兄がどっかり座っている。侑志と目が合うと思いきりよそを向いた。
うわ、早瀬さん、絶対怒ってる。
何で事前の一言もなく、と監督に目で抗議したが、早く行けという動作をされただけだった。永田と心細い視線を交わし合い、しぶしぶ守備位置に就く。
初めて立つ左翼は想像以上に広かった。後ろにきちんと壁のある分、外野を越す=
先のイニングまで守っていたマウンドには朔夜。背中の13のがひどく小さい。こんなに遠くて大丈夫なのか?
「新田!」
センターから三石が声をかけてきた。使い込んだグラブを大きく振りながら笑っている。
「オレがカバーすっから、だいじょぶ」
侑志は頷いて、借り物のグラブの感触を確かめる。立った以上は無事に務め終えなければ。
試合再開後、朔夜はいきなり走者を許した。というより、朔夜からの送球を永田がこぼしたのだ。その間に打者走者は二塁に到達。
普段の永田ならフィールディングに問題はない。『一塁手』でなければ処理できたはずだ。
気を付けなければ、次は我が身かもしれない。
侑志が気を引き締め直した直後、また永田がバント処理に手間取って無死一・三塁のピンチを招いてしまった。侑志は次の手を必死に予想する。
スクイズあるか? 犠打の後だからしないか? でも永田の守備見てれば一塁線狙ってくるかも。
「新田!」
打球音と誰かの声で我に返る。正面にフライ。侑志は落下点に走り込み片手を添えてしっかり捕球した。
よかった、エラーしなかった。
息をついたのも束の間。
「バックホーム!」
森貞の怒鳴り声。走者が本塁に走っている。侑志はさっと蒼褪めた。
タッチアップ! 今から投げて間に合うか? 一塁走者も走っている。どうする。どこに投げたらいい?
三石が侑志からボールを奪い取って二塁に投げた。桜原が捕ったがもう遅い。三塁走者生還、依然無死一・二塁のオールセーフ。
――やっちまった。
侑志は呆然と左翼に立ち尽くしていた。
もう七回。しかしまだ、七回である。
「なー永田、ファーストどうよー」
更衣室は夏を目前に一段と狭く感じる。後ろを通り抜けざま、侑志は着替え中の永田に尋ねた。永田はアンダーシャツ(彼は暑くなっても長袖)から頭を抜きながら答える。
「どうもこうもないよ。八名川さんも朔夜さんもよくあんなサラッとやるよね」
「ファーストなんか、投手のフィールディングとそう変わんねぇだろ」
「ライトからレフト行っただけで凡ミスした新田君がそれ言う?」
「悪かった。この話やめよう」
どうにか逃げ切ったとはいえ危ない試合だった。あまり思い出したくない。
学校に戻ってから、侑志はレフト・永田はファーストの特訓を課せられた。どうやら一戦限りの思いつきではなく、継続的に複数のポジションをやらせるのが監督の方針らしい。事前に言ってくれたら心構えもできたのだが。
侑志は自分のロッカーに辿り着く。隣では
「スラパンの蒸し方マジありえねーよな。オレあせもできやすいんだよ」
「それは気の毒だけどこんなとこでケツかくな」
侑志はかゆみ止めの薬を井沢の服の上に置いた。桜原が私服の半袖シャツを羽織って眉をひそめる。
「新田って用意よすぎじゃない? 未来予知でもしてんの?」
「そんな大層なもんじゃねぇよ。中学んとき、どうしてもかきむしっちまうやつがいて――」
侑志が説明を兼ねた思い出話をしようとしたちょうどそのとき。
「うーす」
扉が開いて誰かが入ってきた。男子部員は全員ここにいる。監督が部室に顔を出すことはほぼない。消去法で言えば、いや、そんな回りくどい方法を使わずとも、視覚を素直に信じれば。
真っ先に侑志、直後に井沢と永田、それに何故か坂野が絶叫した。
「ちょ、ちょ、さ、朔夜さん? なんっ、まだ着替えっ、てゆか、な、う、あ」
「もうやだ女子こわいよー! オレもう男子の国に帰るよー!」
「井沢君泣かないで、あとお尻しまって!」
「さ、朔夜さんたら大胆なんだから! そんなにオレの肉体美が見たかっ」
「坂野きめぇ」
「坂野さんうるさいです」
「え、オレだけ姉弟コンボ攻撃?」
富島は悲鳴こそ上げなかったが、ばつが悪そうにポロシャツを被った。
他の上級生は平然としている。
「朔夜。ノックぐらいしろ、礼儀だ」
「一年坊まだウブだからなー」
淡白に言う
さーせん、と形ばかりの謝罪をして、朔夜は出て行くどころか中央の椅子に腰を下ろした。
「てめーら机の上に私物置くなっつってんだろがよぉ、捨てんぞ」
「待って~、そのヤンジャン兄貴のだから!」
「ごめんー、ちょっと置くだけのつもりだったんだよぅ」
三石と岡本が慌てて机の上を片付ける。こっそり桜原も加わっている。実は都合の悪いプリントをここに置き去りにしているのだ。
四つの机があらかた片付き三年生が出て行くと、朔夜は堂々と私物を広げ始めた。侑志は着替えのスピードを上げながら、こっそり朔夜の方を見る。あの数冊の本、大きさからして漫画だろうか? 全部カバーがかかっていて表紙は見えない。
「それ
八名川が朔夜の隣の机に手をついた。下は着替えてあるが、上は半袖のシャツをだらしなく羽織っているだけだ。朔夜は全く動じていない。
「だって今ぐらいしか読むヒマないし。めぐのやつ、顔合わすたびに感想聞いてくんだよ」
「つか今のオレ、こいつと服装かぶってんじゃん。やっば。着よ着よ」
八名川はげんなりした顔でボタンを留め始める。今の会話だけで、深く知らない方がいいことは理解できた。
桜原が侑志に耳打ちしてくる。
「朔夜はああいうの買わないけど、貸されれば普通に読むよ」
「そんな情報いらない」
侑志は即答した。八名川が朔夜の読んでいない巻を持ち上げて、あからさまに眉をひそめている。嫌なら見なければいいのに。
「こないだ腹黒教師じゃなかった? 今度は俺様社長かよ。どうでもいいけど、まさかコレ読みにきたわけじゃないっしょお?」
「まーさか。オメーの決めた当番表に従ってっだけだよ」
「あーそ。お勤めご苦労さんでございます、桜原社長。新田ちゃんご指名よ~。三番テーブル入って~」
「はぁ?」
不遜極まりない声を出しつつ、侑志は慌てて身支度を整えた。まさかその……アレな漫画にお付き合いしろというのか?
朔夜はにやりと笑って、藁半紙の粗末な冊子を振って見せた。
「楽しい楽しい活動日誌が回ってきたぞー。オジサンが手取り足取り教えてあげようなぁ」
「あ……ども」
そういえば、一年生もつけろという話が出ていた。指導役が朔夜というのは初耳だが。
ともあれ、曲がりなりにも『華の女子高生』がエロオヤジ風に言うのは勘弁してほしい。坂野も食いついてきてしまった。
「朔夜さん! 新田ばっかりズルいっ、オレだってテトリス」
「うるせぇバカ野。早く帰れ」
「バカ野だって」
「バカ野エロ
「早く帰ってくださいバカ野さん。目障りなんで」
「お先に失礼します、バカ野センパイ。行こう慶ちゃん」
「お、おつかさまですバ……坂野さん!」
「ぎゃーす!」
「みんなしてー! サカちゃんが可哀想だよぉ」
嵐が過ぎ去ると、部室は桜原姉弟と侑志だけになった。
朔夜に命じられて席に着く。四つある机のうち、入り口から見て右上の机で桜原弟が宿題をして、侑志は左下の机で日誌を書き、朔夜は侑志の右隣に座っている。
朔夜の左手は余計な動線を描かない。侑志の左肘は人のいない方に曲がっている。右利きの桜原は向こう側。侑志は彼女がわざわざ位置を指定した理由に気付き、浮つきそうな口唇をぐっと引き結ぶ。
「さって、終わり。帰んぞー」
朔夜が立ち上がったのを合図に、片付けて鍵を閉めた。
朔夜がリズミカルに階段をのぼっていくのを、侑志はゆったりとしたテンポで追っていく。
朔夜の上がり方は、小学校の頃女子がよくやっていた遊びに似ていた。三段、一度止まって、次が六段進む。
ぐ・り・こ。ち・よ・こ・れ・い・と。
「前から思ってたけど、新田はガツガツしてないね」
朔夜の後ろ姿からは真意が読めず、侑志は、はぁと言葉を濁す。
「どういうことですか」
「いろいろ。エース狙ってるわけでもなさそうだし、四番狙ってるわけでもなさそうだし。レフトも」
三階に着いた朔夜が振り向く。顔の下半分と上半分で表情がちぐはぐだった。慈悲深さをにじませた微笑みと、嘲弄するような視線。
「何が欲しいの?」
侑志は言葉を失くし、踊り場に立ち尽くしたまま朔夜を見上げていた。
朔夜の閉じた口唇が、音なき問いを投げかける。
どれが欲しいの? どれもほしいの? あのときみたいに傷つくのを怖がってるだけで、もしかして。
「本当は、欲張りなんじゃないの?」
その台詞は果たして現実に彼女が口にしたものだったのか。
侑志の手から日誌が落ちる。朔夜は笑みを消して侑志を見ている。今になって真価を値踏みするように。
「おー、何やってんだ君たちー」
侑志ははっとして頭を上げた。四階から平橋が下りてくる。
「映ちゃん、カギカギ」
朔夜は好機とばかり平橋に鍵を押し付ける。侑志はその間にどうにか日誌を拾った。平橋が近寄ってきて侑志の肩を叩く。
「ははは、ロミジュリごっこ?」
この笑顔、教師でなければ殴り倒していたかもしれない。侑志は仏頂面で藁半紙の束を突き出した。
「おーう、日誌ね。あいあい、あいよー」
平橋は雑な手つきでページをめくり、今日の活動報告欄にポケットから出した印鑑を押した。
「おーし、お疲れーぃ。気をつけて帰れよー」
口笛を吹きながら去っていく。何故この時季にユーミンの『卒業写真』なのか、もはや選曲まで癇に障る。ああいう大人にはなりたくない。
「うし、帰るか。コータ待たしてっし」
朔夜が駆け下りてくる。もう奇妙な雰囲気の名残はない。
あの空気から救ってくれたという一点だけ、侑志は平橋に感謝した。