8話 Left-field - 6/6

「あっちぃ……」
 侑志は自分と同じほど汗をかいたスポーツドリンクを一気にあおった。舌の上を甘みが、次いでほのかな苦味が滑り落ち、急な温度差に喉が縮む。
 暦は進み、抽選会も終わった。大会へ向けて野球部の空気も高まりつつある。
「ついてないよな、イワハチの隣なんてさ」
「んー」
 桜原はいちごオレの五〇〇ミリパックを開け、ご丁寧にストローを差す。
「岩茂八王子が勝ってくるとは限らないんだし、ウチだって初戦勝たなきゃ次どころじゃないじゃん。次の次なんか気にしてたってしょうがないよ」
「まぁ、なぁ」
 ペットボトルの結露が垂れて、アスファルトに染みを作る。ハンドタオルでボトルの表面を拭いていると、桜原が舌打ちして背後のガラスを振り返った。
「遅い!」
「あの人まだ悩んでんの?」
 コンビニに寄りたいと言ったのは朔夜なのに、まだ買う物が決まらないらしい。
「意外と長考型なんだな。もっとすっぱりざっくり決める人かと思ってた」
「優柔不断なんだよ、すぐ人に訊くしさぁ。魚肉ソーセージのメーカーとか、聞いても分かんないっつうの」
「え、そんな相談魔なら何で俺ら外に出されたの」
「都合の悪いものでも買ってんじゃないの。カミソリとかさ。夏場、あいつ露骨に風呂長いもんね」
「はぁ……」
 侑志はリアクションに困る。姉が隠そうとしていることを、わざわざ他人に言うこともないと思うのだが。
「つーか桜原、このクソ暑いのによくそんなん飲めるな」
「おいしいよ?」
 桜原はストローをくわえながら言った。渇いた喉に甘ったるい液体が絡んでくるところを想像するだけで、侑志は気持ち悪くなる。
「そっか、新田ってイチゴ嫌いなんだっけ。もったいないなぁ」
 人生の半分を損しているよ、と桜原は涼しいでピンク色の液体を吸い上げる。侑志はせめて自分の喉だけでも救ってやりたくて、スポーツドリンクを流し込んだ。
「――よぉ、うまそうなの飲んでんじゃん。一口くれよ」
 聞き慣れない声。侑志は水分補給を中断し、そちらを見る。
 運動部か不良、あるいは両方だと思われる短く刈った髪に、裾を入れていないワイシャツ、黒のズボン。普通の男子高校生二人組。
 普通でないのは桜原の反応だった。全身を強張らせ、瞬きも止めている。半開きの口唇は震えるばかり。喉仏だけが唾を飲み込んで上下する。
 話しかけてきた少年が手からいちごミルクを抜き取っても、桜原は無抵抗だった。少年がストローを捨てパックに口をつけるのを、見逃すまいとでもするように凝視している。
「あっま!」
 少年が手を開く。紙パックは重力に従い落ちる。少年は口唇を歪め、アスファルトに転がった直方体を片足で思いきり踏みつけた。陽炎の立ちそうな黒色の上に、ほの赤い液体がじわりと拡がっていく。
「わっりい、甘すぎてビックリしちまった。コータは優しいからこんなことで怒んねー、よなぁ?」
「あ……」
 桜原は擦れた声で呟いて下を向いた。この陽気からは考えられないほど蒼褪めている。
 少年は笑みを消し、桜原の顎を乱暴につかんだ。
「あ、じゃねぇよ。挨拶ぐらいできんだろうがよ、おい?」
 侑志ははっと我に返り、少年の腕を払う。
「いきなり何なんだよ、あんた!」
「あぁ?」
 少年は低い声で侑志を睨み上げる。百七十五センチ前後、特に筋肉質というわけでもなく、体格は侑志の方がいい。にもかかわらず、少年の目は侑志を怯ませるのに充分な凄みを持っていた。
「なんだよ。ヒーロー君、ビビッてんじゃん」
 もう片方の少年が言う。こちらも上背は侑志より低いが、がっしりしていて力もありそうだ。桜原は戦力にならないし、まともにやり合ったら返り討ちだろう。
 それでも、一方的に絡まれてそれを受け流せるほど侑志は大人ではない。無言で相手を見下ろす。侑志の武器は背丈、下手に口を開くより黙っている方が圧になる。大柄な方の少年がぴくりと眉を動かし、一歩前に出る。
椿(つばき)ッ!」
 朔夜が怒鳴りながら駆けてきた。少年と侑志たちの間に割り込み、背後に弟をかばう。細い方の少年――どうやらこちらが『椿』らしい――は、朔夜越しに桜原を見ながら、冷ややかに言った。
「おめェ、まだ姉ちゃんに守ってもらってんの。いいご身分だね」
「ラブコールは椿にだけかよ。つれねーんじゃねぇの、姉ちゃん。どう、ちったぁ色っぽくなったぁ?」
 無骨な指がプリーツスカートをまくろうとする。朔夜は短い悲鳴を上げて裾を押さえた。椿たちはそれを指差して、げたげた笑っている。
「聞いたかよ、石巻(いしまき)? やっ、だってよ。かわいい声出しちゃってさぁ」
「夜一人で練習したワケ? もしかしてもう使用済みだったり~ィ?」
「マジかよ、ゲテモノ好きにもほどがあんだろぉー!」
 朔夜は顔を真っ赤にして俯いている。侑志は、理性で考えるより先に次の行動に移っていた。
「てめェら、いい加減にしろよ」
 手近にいた石巻の胸倉をつかみ、抑えた声で言う。石巻の瞳に一瞬怯えの影が走る。
「新田。やめろ」
 朔夜が下を向いたまま、無感情な声で制止した。石巻がにたりと笑う。侑志は聞こえよがしに舌打ちして手を離した。
「今度は番犬まで飼ってやがんのか。おめェらにしちゃ上出来だよ、クソ兄弟」
 椿は無表情で言った。朔夜は首を動かさず、視線だけで斜めに椿を見る。
「何の用だ」
「何の用だ、はねーだろ。高葉ヶ丘さんよ」
 椿はゆっくりと右手を上げ、右の親指で自分の胸を差した。
「直々に挨拶に来てやったんだぜ。塩川(しおかわ)のエース様がな」
 塩川高校といえば、高葉ヶ丘の初戦の相手だ。
 ふん、と朔夜は鼻を鳴らした。
「てめェ程度でエースかよ。シオコーも終わってんな」
「言ってろ。どうせてめェは試合に出ねぇ。残ってんのはクズだけだ」
 椿は朔夜の挑発を冷静に受け流し、手招きをした。桜原が糸で引かれたように椿の方へ歩み寄っていく。
「おいコータ、おめェ試合に出るんだろうな? あのゴミみてぇなチームでレギュラー取れねぇなんてこたねえだろ」
 椿の手は無造作に桜原の頬を叩いている。桜原はされるがままだ。
「おい、何とか言」
 椿は急に台詞を中断させ、斜め上を睨んだ。右腕をつかんでいる侑志を。
 塩川の『エース様』たる椿の右腕。
 仮に。そう、もし仮に。『不幸にも』塩川のエースが『転倒』し、どこかに『不都合』が生じたとして。
 高葉ヶ丘は、その責を負わされるだろうか?
「コー・タ?」
 椿は幼子を諭すような声音で、区切りをつけて語尾を上げた。
 桜原は侑志の袖を引き、小刻みに首を振る。侑志は一本ずつゆっくりと、殊更にゆっくりと指を開いた。
 椿は満足気に笑う。
「今度こそ吠え面かかせてやるよ。首洗って待ってろ、桜原」
 朔夜を指差した後、椿は石巻を連れて歩み去って行った。
「皓汰。帰ろ、ね?」
 朔夜は弟の肩を抱き、やわらかい声で囁く。桜原は姉の手を振り払った。
 目の焦点が合っていない。呼吸が不自然に荒い。
「お、俺――」
 桜原はワイシャツの胸の辺りを強く握って、突然走り出した。椿たちの去った方とも家とも違う方角だった。
 朔夜は拒まれたときの姿勢のまま、黙って弟の後ろ姿を見ていた。
「今の奴ら、何なんですか?」
 侑志は苛立ちを隠さずに尋ねる。口振りからして知り合いのようだが、オトモダチとは到底思えない。
「椿直也(なおや)
 朔夜は今度も石巻の存在を無視した。無視、というより、彼女は一点しか見ていなかったのだ。
「皓汰の、天敵だ」
 千切れ雲が太陽を覆い隠す。
 夏の陽射に輝いていたアスファルトも、今は陰鬱な色に沈んでいた。