第六章 太陽と手を携えて - 2/6

SIDE:Ike

 

仇敵

 

「なぁ、アイク。その――手に巻いている布を交換しないか?」
 決戦の日の夜明け前、レテはアイクの天幕を訪れてそんな提案をした。風変わりな申し出ではあったが、別段断る理由もない。
「妙なことを言い出したもんだな」
 そう言いながら、悪い気はしなかった。彼女の一部であったものを身に着けて戦いに臨むというのも、心強くていい。早速、さっき仕度したばかりの装備を一部解く。
「多分あんたの鼻には相当臭うぞ。まめに替えてはいるが、やっぱり汗が染み付くからな」
「私もお前と同じようなものだろう。たまに洗ってはいるが、替えがないだけ私のものの方が臭うかもしれないぞ」
 どこか気後れしている風にレテは言った。やはり女なんだなとアイクは素直にそう思う。
「あんたの匂いなら、俺は別に構わないが」
 アイクがこれも素直に言うと、レテは急に赤面した。相変わらず怒るポイントが分からない。
 交換するときに指先が触れた。小さな体温が少し嬉しかった。レテの手はいつも潤っていて柔らかい。肉球にあたる部位だからなのだろうか。
 二人は慣れた手つきでそれぞれ自分の腕に布を巻いていった。が、アイクにはレテのしていた布はいくらか短かった。あんなに長そうに見えたのに。レテの腕ってやっぱり細いんだなと、改めて感じる。戦うときにはあんなにたくましく見える前脚が。
 アイクがじっと自分の腕を握っていると、レテが真面目な声で言った。
「ありがとう。これで私も、まだお前のために戦える」
 まただ。朝空に似た紫の瞳は、瞬きもせずにアイクの心を惹きつける。
「よく分からんが……」
 問い返したいことはたくさんある。けれどアイクは、まず戸惑いを隠したくて手の甲に鼻を寄せた。
「レテの匂いがするから、俺も安心する」
「ばかもの」
 本当に、どうしてレテはアイクが自分の気持ちを伝えると、真っ赤になって怒るのだろう?
「……用件は、それだけだ。じゃあな」
 レテは言い捨てて天幕を出ようとする。その前にアイクは、なぁと短く声をかけた。振り向いたレテは少し不満そうに口唇を尖らせていた。
 アイクは今度こそ怒られないよう、どこまでも誠実に胸の内をさらけ出す。
「今日も、漆黒の騎士と出逢うまでは隣にいてくれ。その方が落ち着く。それに――」
「それに?」
 レテは素っ気ない。だが、アイクはあくまでも素直な想いを述べるだけだ。レテがそれをどう受け取ろうと、アイクに偽りは何ひとつないのだから。
「俺の帰る場所は、ひとつじゃないって思い出せる」
 ――やはりこの台詞は重すぎたろうか。レテは化身して逃げ去ってしまった。
 アイクが首を傾げていると、同じように不思議顔のミストが入ってきた。
「お兄ちゃん、今すごい勢いで何か飛び出してったみたいだけど……?」
「気にするな」
 案外ミストが来るから遠慮して席を外したのかもしれない。気にしなくていいのに、とアイクは頭をかく。
「ただレテが出て行っただけだ」
「えっ、レテさ……」
 どういう訳か、ミストまで顔を真っ赤に染めた。訝るアイクに、ミストは炎の出そうな頬を押さえて首を振る。
「ごめっ、ごめんね!? わたし、二人がそこまでの仲だって知らなくて……」
「は?」
 アイクは一等間抜けな声を出した。本気で意味が分からなかったのだ。
 そして耳年増の妹が何を言ったのか察し、柄にもなく顔を腕で隠した。
「違う。レテは用があるって訪ねてきて、ほんのちょっとここにいてすぐに帰ったんだ」
「よ、用って?」
 恐る恐る問うミスト。アイクは何とか平静を取り戻し、事の次第を説明した。
 ミストの顔色は徐々に褪め、元気なときよりいくらか青いほどで止まった。
「……レテさんも、一緒に戦いたかったんだね」
 呟く声は、アイクに聞かせるためというよりも独言のようだった。しかし続く言葉は力強い。
「わたしも、一緒に戦う。お兄ちゃんを、ひとりにはしない」
「何を言ってるんだ」
 アイクは妹の細い肩を揺すった。今回の敵はいつもの敵とは違う。寝呆けていてもらっては困るのだ。
「あいつの強さは他のデイン兵とは段違いだ。それにあいつの鎧には、俺の持っている剣しか効かな――」
「分かってるよ」
 ミストは兄の手をぐっと掴んだ。真っ直ぐな瞳で、揺るがず告げる。
「わたしの剣じゃ、お兄ちゃんの邪魔にしかならないことぐらい分かってる。でも遠くから杖で癒すことぐらいなら出来るよ。わたしだって、お父さんの娘だよ。お兄ちゃんだけ戦わせて、ただ待ってるなんて出来ない」
「ミスト……」
 戦争というのは皮肉なものだ。短期間に驚くほど人を変えていく。
 自分もミストも一年前とは同じではなくなってしまった。良きにしろ、悪しきにしろ。
 アイクは嘆息して、ミストの額にこつんと自分の額をぶつけた。
「絶対に無理はしないな?」
「うん」
「やばいと思ったら退けるな?」
「それ、お兄ちゃんも約束してよ」
「分かった。約束する」
 アイクが答えると、ミストは久しぶりに笑ったようだった。
「じゃあわたし、仕度するから戻るね」
「ああ。また後でな」
 ミストを見送りに外に出る。
 たなびく雲が紫に染まっている。レテの色だ、とアイクは思った。
 勝利を連れてくる黎明の色だ。
 

 

 戦いは苛烈を極めた。
 デイン軍は、クリミア防衛の要とも言える双璧のうち、片方のピネル砦を既に失っている。撤退や投降はなされない。デイン兵にとってそれは『死』と同義である。背水の陣でもまだぬるい。彼らは狂ったようにただ前へ、前へ、一人でも多くのクリミア兵を凶刃のさびにしようと得物を振り回す。既に理性のない『なりそこない』と呼ばれるラグズの狂戦士も同様である。
「行ってください、アイク!」
 その窮地で、そう叫んだのはセネリオだった。行く手を阻む敵兵を疾風が切り裂く。
「すまん、セネリオ。無事で帰る!!」
 アイクはそう答えて駆け出した。化身していないレテが、その後ろをつかず離れず走ってくる。
「レテさん、あのときの借り!」
 ヨファが弦を引き絞り、レテのことを狙っていた魔術兵を屠る。その隙を突こうとしたデイン兵を別の矢が射抜く。
「――ったく。一人倒して気ィ抜くなって、いつも言ってんだろうが」
「シノン」
 レテが安堵した声で言うので、アイクも一瞬振り返る。シノンは苦虫を噛み潰したような表情で顎をしゃくる。アイクは頷いて、レテの手を取り走り出す。
 雷が道を作る。炎が道を拓く。剣が敵を斬る。斧が敵を倒す。槍が敵を薙ぐ。
「アイク!!」
 そして、猫が叫ぶ。レテは化身してアイクの足元をすくうように滑り込んだ。
「度々足にしてすまんが、頼む!」
 気にするなという風に鳴き、レテは先へ先へと目標を捜す。モゥディに乗ったミストが少し遅れてついてくる。
 幾多の敵を払いのけながら辿りついたドアの前には、見覚えのない一人の男が立っていた。四駿クラスとまではいかないまでも、只者ではないことは気配で分かる。
「漆黒の騎士はこの奥だな?」
 アイクはレテから降りてそう尋ねた。ミストもモゥディから降りる。
 名も知らぬ男は、左様、と重々しく答える。
「だが、私とてデイン将校の端くれ。騎士殿の前に、私を倒さねばならぬこと……お忘れなきよう!」
「出張るな、三下ァッ!!」
 そう叫んで男に踊りかかったのはアイクではなかった。
 化身前のライだ。上段の飛び膝蹴りは槍の柄で防がれたが、続く回し蹴りが兜を直撃し、男は平衡感覚を失って数歩脇に退く。
「行け! アイク、ミスト!!」
 ライは叫びながら化身した。レテも猫の姿のまま頷いて、先を促す。
「三下とは聞き捨てならぬ、獣牙の戦士よ!!」
 男の意識が完全に逸れたのを確認して、アイクはミストの手を引き扉の向こうに足を踏み入れた。
 視覚よりも先に嗅覚が危険を感じ取った。真新しい血のにおい。振り向く漆黒の騎士の足元には、見覚えのある娘が倒れていた。
「まさか……殺したのか?」
 イナという竜鱗族の娘だった。前にイレースがデイン王都で撃破したが、ナーシルの手引きで行方をくらませていたのだ。それが何故、こんなところで?
「手元が狂った」
 漆黒の騎士はアイクたちを向いて大剣――エタルドを構え直した。
「まだ息はあるようだな」
「渡してもらおう」
 アイクもその対となる剣――ラグネルを正眼に構えた。
「欲しければ、力づくで奪い取ることだ。その前に」
 漆黒の騎士が前に出て、エタルドを一閃する。ものすごい剣圧だった。アイクはともかく、体重のないミストは吹き飛ばされてしまう。
「ミストッ!!」
 まずい。距離が開きすぎている。今からでは走っても止めきれない。漆黒の騎士はその重量のある音とまるで噛み合わない速さでミストに迫る。
 ミストは体勢を立て直し、剣の柄に手をやった。だがいつも帯びているあの細い剣では、戦っても結果は見えている。
「震えているのか、ガウェインの娘。……興醒めだ。命惜しくばその柄から手を離せ」
「……確かに、わたしの剣じゃかすりもしないだろうけど」
 それでもミストは抜いた。勇敢にも、その直刃を抜いてしまったのだ。
「それでも、この一撃はわたしの、怒りだから……痛みだから……。だから、覚悟してッ!!」
 凛々しい宣言と共に突き出された刃は、漆黒の鎧の前に砕け散る。騎士はつまらなそうに首を振ったが――。
「お兄ちゃん、頑張って!!」
 ミストは最初から、攻撃が通用すると思って蛮勇に出たのではなかった。剣はフェイクだ。後ろ手に握りしめた、リブロー――遠隔回復の杖が本命。
 イナの身体が光り輝く。その光を吸収しながら、薄紅の竜が咆哮する。漆黒の騎士が振り向く間に、ミストは安全圏まで退避しアイクは高々と跳躍していた。
「貴様の相手は――俺だッ!!」
 渾身の力で振り下ろしたラグネルを、漆黒の騎士は右手のエタルド一本で受け止めた。本当なら剣か、最悪腕が使いものにならなくなる攻撃である。簡単に振り払われ、アイクは舌打ちしながら足裏で勢いを殺す。
 視界の端で、イナが再び崩れ落ちるのが見えたが、今はいい。致命傷でなかったのなら、杖で傷をふさぐだけでも充分な処置だろう。
 今は、眼前のこの男にだけ集中しなければ。
「小賢しい真似を……」
「小賢しくて結構。正々堂々をお望みなら、俺が相手だ」
「愚直も良し悪しだが……まぁいい。最初から獲物は貴様だ。ガウェインの息子よ」
 そう言って、何合刃をぶつけたことだろう。互いに大きな傷を負うこともなく、決定打を欠いたままの戦いは一見互角。しかしアイクには漆黒の騎士ほどの膂力も持久力もない。長期戦で見ればアイクの敗北は明らかだった。
「この程度か? 初めはマシになったかと思ったが……所詮付け焼刃だな」
「くっ!」
 悔しい。悔しいが、アイクには今、口で反論するだけの余裕もない。
 漆黒の騎士は嘆息しながら、エタルドを構え直した。
「終わりだ。その力不足、黄泉で父親に侘びるがよい」
 視界から漆黒の騎士が消える。どこへ行ったかと考える前に、身体が鳴いていた。
 ここだ、と。あいつは、鍛錬でレテがいたのと同じ、アイクの背後にある。
 だからそのまま考えず、今度こそ容赦なくラグネルを振った。
 硬い物に当たる感触。鎧を叩き砕く感触。肌を引き裂く感触。肉を斬り潰す感触。臓物を喰い破る感触。骨が軋む感触。
 重い物が落ちる音がした。遠心力に任せて振り向くと、そこには半身を血に染めた漆黒の騎士が倒れていた。
「ッ、強く、なったな……」
 褒めてやろう、と続いた言葉は、吐血混じり。アイクは息が上がって返事が出来ない。仮に話せたとしても、何も言いはしなかっただろう。
「アイク!!」
 鳴動と共に扉が蹴破られた。ライだ。化身の光を身にまといながら叫ぶ。
「逃げるぞ! この城、長くは持たない!!」
 がらがらと剥がれ落ちる天井に、アイクも問答の間がないことをすぐに悟った。
 だがひとつ気がかりがある。
「竜鱗族の娘が……」
 目をやったとき、既にイナの姿はなかった。アイクは首を傾げながらも、駆けつけてくれたレテの毛並に身体をうずめる。
「勝ったよ」
 レテは、分かっていると言う風に鳴いた。アイクはレテの首にしがみつく。懐かしい匂いがした。
「あんたのおかげで、勝てた」
 レテはもの問いたげに紫の目をぐりんとアイクに向けたが、すぐに前に向き直り、一鳴きして駆け出した。ミストを乗せたライがそれに続く。背後で瓦礫の降り注ぐ音がする。
 四人の脱出とほぼ同時に、ナドゥス城の入り口は閉ざされた。
 これでは助かろうはずもない。
 漆黒の騎士は死んだ。アイクは、否、アイクたちは、このとき確かに仇を討ったのだ。
 

 

「もう気分はいいのか?」
 後ろからレテに問いかけられ、アイクはバンダナを揺らして振り向いた。
 あれからもう数時間経っている。アイクはミストや傭兵団の面々と短い会話を交わした後、疲れたと言って寝込んでいたのだ。
 今は高台に立って、崩れたナドゥス城を見下ろしている。あれが奴の墓標になったかと思うと、胸がすくというよりは感慨深い。
「身体はまだ少し疲れてる。でも気分はいい。今日からは夜もしっかり眠れそうだ」
 アイクがそう答えると、レテは駆け寄ってきた。壊れ物を扱うようにそっと、この口許に触れる。
「お前、笑ってる、のか?」
 紫の瞳いっぱいにアイクを映して、小首を傾げた。まるで無垢な仔猫のような丸い瞳。
「もう、ちゃんと笑える……のか」
 そんな目で、無防備に微笑まないでほしい。
 小さく震える彼女を誰にも見せたくなくて、アイクは外套で包むようにレテの肩を抱いた。
「同じことをティアマトにも言われた。全部レテのおかげだな」
 この温もりに帰ってこられてよかった。この温もりを守れてよかった。抱きしめる手に力がこもる。
 愛しい。愛しい。耳の先から足の先まで。迸る想いの名を、恋と呼ぶほかアイクは知らない。
「なぁ、レテ――」
 顔を覗き込むと、レテはひゅっと息を呑み込んで固まった。
 アイクの意図するところが、言わずとも伝わったらしい。
 いくら強行突破が得意のアイクでも、こればかりは強引に決行する訳にはいかない。
「嫌か?」
 レテは硬直したまま動かない。聞こえているのかどうかすら疑わしい。アイクが柄にもないことを言ったので、状況を処理するのにいっぱいいっぱいなのかもしれない。
 そうなると焦れるのがアイクの悪い癖である。細い顎に無骨な指をかけ、くいと持ち上げる。ティアマト辺りが知ったら、一体どこで覚えたのと叱咤するくらい滑らかな手つき。ちなみにシノンが連れ込んだ女(毎回違う)と開けっぴろげにしていたのを、たまたま見かけて覚えた(使うのは始めてだ)。
「嫌じゃないなら、許してほしい……」
 しかし、いっぱしの男の言うような殺し文句は猿真似ではなく、アイクの胸の内から溢れる本音であった。
「あ……! ちょっと、待っ……」
 レテは消え入りそうな声で身じろぎし、そして、アイクの身体を両手で押した。
 ぽんと何かが外れた気がした。アイクは思わず数歩後ずさってレテから離れる。
 拒まれた。
 アイクとて、レテが自分を好いているという確信のもと行動した訳ではない。拒否される可能性も充分考慮に入れていた。けれどそれはきっと殴られたり蹴られたり怒鳴られたりして、どこか道化じみた痛みをもって完結するはずだった。
 こんな風に、本気のトーンで拒まれると、アイクは、もう。
 レテは泣きそうな顔をして駆け去ってしまった。その背中をアイクは追えなかった。
 立ち尽くしていると、誰かがやってきてアイクより数歩前のところで立ち止まった。顔を上げる。
 ライだ。アイクが打ちひしがれているのは見て分かるはずなのに、心なし愉快そうだった。
「フラれたな?」
 どこかで見ていたか聞いていたのだろう。本当にラグズというのはこういうとき油断ならない。
「からかいに来たのか?」
 アイクが険のある声で問うと、そうともとライは悪びれもせずに答えた。
 手の平で何か弄んでいる。それが何にしろ、アイクの不機嫌を治す薬にはならない。眉をひそめて問う。
「前々から気になっていた。お前とレテは、どういう関係なんだ」
「関係?」
 ライは今度こそ笑って肩をすくめた。
「上司と部下、もしくは深ァい友人」
 ゆっくりと何かに口付ける。その正体に気付いたとき、アイクははっと目を見開いた。
 レテの髪飾りだ。彼女が事あるごとに外して眺めていた翡翠の玉。アイクを拒み、レテが握りしめた宝物。
「……訊き方を変える。お前は、レテのことをどう思ってる?」
「オレが? レテを?」
 ライは髪飾りを高く放り投げ、顔の前でぱしんと受け止めた。
「好きだよ。オレの方がレテを知ってる。少なくともお前よりは」
 口角は上がっていたが、その目に遊びの色はない。
 アイクもまっすぐにライの目を見返す。レテと同じ色の右目がアイクの心を刺す。
「それは、宣戦布告と取っていいんだな」
「そうだな。――宣戦布告、ってやつだな」
 日暮れの空が一瞬、紫に染まる。
 太陽が消えていく。アイクたちの胸には、新しい痛みが生まれようとしていた。