第六章 太陽と手を携えて - 5/6

SIDE:Ike

 

決戦

 

「大将! キリがないよ」
「奴さんらも後がねぇからな……キューソなんたらってやつだぜ」
 ワユとボーレがそれぞれぼやいた。傷を負って前線から退いてきたのだ。アイクはぎりと奥歯を噛み締める。
 王都メリオル。クリミア兵の奪還目標にして、デイン兵の最終防衛線。
 この戦において、神剣ラグネルは唯一アシュナードに対抗出来る切り札であった。アイク以外には扱えない。となれば、アシュナードを引きずり出すまで、クリミア軍はアイクを失う訳にはいかない。当然安全なところへ、という流れになる。
 理屈は分かる。アイクも説得を受け、一度は了承した。
 それでも血が許さない。
 一人安全な場所で何をしているのかと。前へ出て戦えと、共に血を流せと身体が叫ぶ。
 だがアイクが今にも飛び出そうとしているのに気付いたのか、二人が慌てて抑えに来た。
「わーわー! 待て待て、今のはナシだ! おれたちだけで全然何とかなってる!!」
「そうそうそうそう! 大将は決戦に備えてどっかり構えててくれていいから!! さぁボーレ戻ろう戻ろう」
「そ、そうだな早く戻……ってまだ治してもらってねぇよ!!」
 ボーレとワユがくだらないやり取りをしている。そんないつもの光景を見ていたら、昂っていた気分が削がれた。
 アイクは嘆息して、親指で後ろを示す。
「俺が悪かった。だから、ミストたちのところへ行け。ちゃんと大人しくしている」
「そ、そうか」
「うん、大将、もうちょっと我慢してね。すぐにどっかんて爆発させてあげるからさ」
 ボーレはまだ心配そうに、ワユは気軽に手を振って去っていく。
 自身を落ち着かせるため、アイクはもう一度深く長い息を吐いた。
 アイクは幾多の戦場で、最前線で剣を振るい続けた。己を過大評価するつもりはないが、抜けた穴は大きいだろうということぐらいは考える。埋め合わせに、セネリオはいつもより前に出ている。後方で人を癒すばかりだったキルロイでさえ、光の魔道書と共に敵に立ち向かうことを選んだ。勝手に飛び出して、その想いを無下にすることは出来ない。
 わずかな時間だけ俯いて目を閉じると、意地の悪い声が後頭部に降ってきた。
「よぉアイク坊や。意外といい子にしてるじゃねぇか。猫女に『待て』でも躾けられたか?」
「……シノン」
 顔を上げると、シノンがにやにやしながら立っていた。空の矢筒を背負っているところを見るに、補給に来たらしい。後ろからヨファがひょいと顔を出す。
「同時に切らしちゃったんだ。セネリオに、二人も抜けるならついでに魔道書も持ってきてって言われちゃった」
「それもただ持って来いじゃなく、持てるだけ持って来いってな。ったく、人遣いの荒いガキ――」
 シノンが途中で軽口を切った。アイクが止めたのでもティアマトに見咎められたのでもない。
 それどころでは、なくなったのだ。
 アイクにも聞こえてくる。不穏な羽音。マーシャたちの天馬とも、ジルたちの飛竜とも違う。
 重く、強く、風を切る音。雲を押しのけるように何かが飛んでくる。騎乗するには規格外に大きい黒竜を操り、その男が姿を現す。
「あれが……」
 クリミアを蹂躙し、エリンシアから全てを奪った男。
 母を追いやり、父を追い詰め、間接的に二人を殺した仇。
「デイン国王、アシュナード……」
 黒竜の翼に、空が覆い尽くされるような錯覚さえ覚えた。
 見上げるには首が痛くなるほど高い噴水を越えて、アシュナードはクリミア軍の前にその身を晒す。
「よせ」
 ヨファが矢を番えようとしたのを、シノンが短く制した。弓なら届くが、剣ではいくらアシュナードの手にしたものが大きいといっても、ここまでは届かないだろう。それでもシノンは止めた。
 必中必殺を信条とするシノンである。これが分の悪すぎる賭けだと分かっているのだ。当たらない。殺せない。そればかりか――。
 アイクはヨファの肩を、ぽんと叩いた。
 皆はよくやってくれた。思惑はどうあれ、アシュナードは自らここまで降りてきた。
 ここからは、アイクの仕事だ。
 しかしアイクよりも先に、アシュナードの面前に進み出た者がある。
「アシュナード……」
 敵の黒竜とは対照的な、祖母の遺した純白の天馬に跨るは。
 この国最後の王族、エリンシア・リデル・クリミア。
「どうした!? 下がれ、エリンシア!!」
「久しぶりだな、クリミア王女よ」
 二人共、アイクのことは眼中にないようである。
 アシュナードは、背筋の寒くなるような薄ら笑いを浮かべた。
「その姿、見違えたぞ。あのとき……クリミア国王夫妻を我が手にかけたとき、我を見上げて震えていた小娘とは、とても思えぬな」
「おまえを……おまえを倒すために……戻りました」
 エリンシアは宝剣を強く握る。震えているじゃないかと、言いたかった。
 その剣を、あんたは一度も血で塗らしたことはないじゃないかと、叫びたかった。
 しかし出来ない。その琥珀の瞳は、アイクが見たこともないほど烈しく燃えている。
「もう、おまえから逃げはしない。これ以上、我がクリミアを好きにはさせません!」
「それは勇ましいことだ。だが、我の相手は……そなたではない」
 だとしても、意志だけでは駄目なのだ。エリンシアの身体は容易く弾き飛ばされてしまったのに、また一人命知らずが前に出る。
 ジル・フィザット――デインとクリミア、両軍をつぶさに見てきた少女。
「アシュナード王。聞かねばならないことが、あります」
「うるさい羽虫め。 我が進路を妨げるではないわ」
 もうやめてくれと、アイクは呼びかけたかった。誰も死ぬなと言ったじゃないか、何故俺に任せてくれない、何故危ない真似をするんだと。
 けれど、別の自分は既に知っていた。アイクがアシュナードの命を絶ち、その言葉が永遠に失われる前に声を上げなければ、彼女たちは本当の意味でこの悲劇を乗り越えることは出来ないのだと。
「私の父は、王のせいで……死んだ。 デインの民になろうと、懸命に努力されたのに……王は、ただ一度も、それを評価して下さらなかった」
「恨み言か? 後にせよ」
 言い捨てて騎首を巡らすアシュナードを、ジルが遮る。
 アイクは潮時を見失う。
「お願いです! 答えて下さい。 父は……シハラム将軍は……何故、死ななければならなかったんです!?」
 曖昧にしてはならない。この疑問は解決されなければ、ジルのこれからの人生に、消えない影を落とす。
 そう思って、待っていた。
 それなのに。
「誰だ、それは?  我がデインの将か?」
 この、ふざけた――ふざけているという認識がないことこそふざけた――答えは何だ?
「くだらぬ……とっとと目の前から失せよ」
 嘆息混じりの暴言に頭がかっとなった。だがラグネルを手に斬りかかろうとするよりも、ジルの叫びの方が早く、強く、熱かった。
「アシュナード!  アシュナード!!  アシュナードっ!!  私は……決してお前を許さないっ!  許さないからなっ!!」
「よせ、ジルッ!!」
 アイクは止めたが、最早ジルには届かない。同胞すらも屠ってきた槍は、アイクが手を伸ばすには遠すぎて。
 ジルはクリミア人ではない。傭兵団員でもない。けれど仲間だった。ミストとレテの友達だった。こんなことで、喪いたくはないのに。
 やめてくれ――そう怒鳴りそうになったアイクの代わりに、誰かが、言った。
「ちょっと、待ってもらおうか」
「なんだ、貴様は……?」
 ハールだった。ジルの父の部下、ジル自身の上司。
 ベグニオンを捨て、デインに生き、恩師の娘を守る為にクリミアにまでもついた、隻眼の竜騎士。
「あんたが名も覚えていないような……軍の末端にいた男だ」
 ハールは武器を構えずに、愛騎で二人の間に浮いていた。両手をだらりと下げ、背にジルをかばっている。
「クリミア軍に寝返った 我が軍の雑兵か? 興味はない。散れ」
 アシュナードは虫でも払うように腕を振った。
 ハールは笑った。あろうことか、笑ったのだ。
「もちろん……早々に退散するさ」
 勿論、親愛の情などではなく。
 ――可笑しくなるほどの、殺意でもって。
「あんたの首、もらえたらなあっ!!」
 東方より伝わったという居合いにも似ていた。ハールは一瞬で武器を取り、最短距離で振り上げながら突進する。四駿すら単騎で討ち取った男の全力、反撃すら出来ずに死んでいておかしくはなかった。
 それでも。一撃を受け地面に叩きつけられたのは、ハールの方であった。
「ハールさん! ハールさんッ!!」
 まだ足りぬとでも言うように、凶刃は泣き叫ぶジルの背を襲う。騎手もろとも落ちていく飛竜。
 アシュナードは更に剣を振り上げて、
「やめろ!!」
 ついに、アイクも我慢がならなくなった。
 ラグネルの美しい刀身で、グルグラントと呼ばれる悪意の塊を弾き返す。
「ガウェインの息子か」
 ようやく、アシュナードの興味がアイクに向いた。
 そうだ、それでいい。アイクは背中に冷や汗を感じながら、胸中で呟く。
 こんなモノの相手は誰にもさせたくない。こんな、息を吸うように他人を踏みにじる男の相手は。
 アシュナードは深々と息をついた。
「その構え……よく覚えておるぞ。父親の剣技を継いだか。実に良いぞ……」
「狂王アシュナード! この剣で、お前を倒し……戦いを終わらせる」
 腹の底から怒鳴ったつもりが、存外に冷静な声が出る。汗が引いていく。宣言したことで肚が括れたのかもしれない。
 ラグネルの柄は、漆黒の騎士と対峙したとき以上に手に馴染む。負ける気はしない。いや、絶対に勝つ。
 アイクの気迫を、アシュナードは悠然と受け止めた。しかし、それは強者の驕りではなく。もっと性質の悪い、いっそ覚悟にも似た信条からくる余裕だった。
「お前が我を、力を以って制するというならば……望むところだ。それこそが我の理想とする、世界の在り方というものだからな」
「……なんだと?」
 その意味を咀嚼する間すらない。アイクの身体は前触れなく宙に浮いていた。一瞬も遅れず今まで立っていた地面が割れる。喉が苦しい訳を覚る。間抜けに頭を割られる前に、化身したレテがアイクの襟をくわえて跳んだのだ。
「レテ! すま……んっ!!」
 ぶんと首を振って放り投げられた。花壇を踏み荒らしながら着地する。
 優しくしてくれとは言えない。不意の一撃をかわせただけで僥倖である。
「総員、退がりなさい!! 死にたくなければ近づくんじゃない!!」
 皆の避難はセネリオに任せておけばよさそうだ。アイクはアシュナードに意識を集中させる。
 だが当のアシュナードは、また他に目移りしているようであった。
「獣、牙、族、か」
 歪めた口唇の奥に鋭い歯が覗く。見開いた目に愉悦の火がゆらめく。
「貴様の相手は俺だっ、そいつに手を出すな!!」
 移り気を責めて聞く相手ではない。
 レテは人のいない広い方へアシュナードを誘う。アシュナードも癇癪を起こさずついていく。アイクは必死に追いかけるしかない。
 さっきのハールたちはどうだった。あれほどの手練が赤子同然だ。ジルだとて決して弱い戦士ではないのに。
 今回ばかりは、レテなら大丈夫だとはとても言えない。
 獣牙の脚と、飛竜の翼。走っても人の身では遠い。眼前の地面を砕かれレテが足を止める。
 どうかそのまま逃げ続けてくれとアイクは祈った。
 間違っても、妙な気は起こさないでくれ。
 間違っても。反撃に、出ようとなど、しないで――
「あ……」
 レテは跳躍した。かわす為でなく、前方に向かって。勇敢にも。愚直にも。躍りかかった。飛竜の上で棹立ちになるレテ。一般の竜騎兵ならばこれで終わりだ。この間合いで先んじることなど出来ない。
 だがアシュナードに一般も普通もない。退屈そうにその歪な剣を薙いだだけで、レテはゴミのように軽く吹き飛ばされた。
「レテ!!」
 馬も翼も、今ほど欲しいと思ったことはない。
 遠すぎる。少女の姿に戻って、冷たい石畳に横たわるレテに届くものは、もう声すらない。
 彼女の腹から、冗談みたいな量の赤が灰色の上に染み出していく。
「それが全力ではあるまい、獣牙族? その体内に宿る、強大な力を眠らせたまま、死んでゆくことは許さぬぞ。もっと怒れ! もっと憎め! もっと猛り狂ってみせるのだ!!」
 アシュナードの哄笑に、アイクはどこかで大切な何かが切れていくのを感じた。
 正義も、大儀も、捨てていい。オマエをこの手で殺せるのなら。
 殺意に呑まれて堕ちてしまうとしても。構わない。絶対に、その生命活動を完全に止める。
 アイクはゆらりと歩み出た。足下の感覚がない――雲の上を歩いているみたいだ。
 殺してやる。殺してやる。殺してやる。
 アシュナードが飛竜を反転させ、こちらに向かってくる。
 ちょうどいい、とアイクはラグネルを正眼に構えた。殺しに行く手間が省けた。
 ところが業腹なことに、アシュナードの標的はまたしてもアイクではなかったらしい。
「つまらぬ水を差すな下郎。ようやく興の乗る相手を見つけたかもしれぬというのに……それとも貴様、この我があの程度の傷を憂えて負けるとでも?」
 断末魔を上げたのは、デイン軍の神官であった。予想外の事態にアイクは目を丸くする。
 傷? アシュナードが? 何故……いや、原因など一つしかない。
 レテだ。最期に一矢報いたのだ。
 神剣などなくとも彼女には爪がある。牙がある。
 レテは足掻いた。命を賭して皆からアシュナードを引き離し、アイクが戦いやすい場所を確保してくれた。
 だというのに、自分は何をやっているのか――アイクは口唇を噛み締めた。
 これではメダリオンを手にして、負の気に支配された者と同じではないか。
 正義の為に。大儀の為に。そんな言葉がむずがゆいのなら、祖国と仲間の為に。
 そうでなければ意味がない。女神に祝福されし黄金の剣を、振るう資格すらない。
 だから、止める。
 アイクは走り出した。
「やめろ」
 止めるのだ。それが敵兵でも。死肉でも。
 人を貶めるという行いは、どんなときでも赦されるものではない。
「やめろと――言ってるだろォッ!!」
 段差を蹴った。ほんの一瞬だがアシュナードを眼下に見る。即座に斬り下ろす。グルグラントが腹を狙う。アイクは身を捻る。ラグネルが喰い下がり黒い鎧に引っかき傷を残す。
「ほぅ」
 アシュナードが感嘆の息を漏らす。アイクは両足で着地する。確かな感触だった。踏みしめても何の不安もない。この大地は、自分を育んでくれたクリミアのものだ。
「神官を殺したこと、後悔させてやる。これから先、俺のつける傷を癒す者はもう誰も、いないぞ」
 アシュナードの目には強さしか映っていない。優しさも温もりもない。
 玉座。隣国。並みの竜鱗族より巨大な竜。風になびく豪奢な衣装。動物の毛で縁取った深紅の外套。デインに受け継がれてきた宝剣。女神に祝福された鎧。何もかもを手に入れたようでいて、アシュナードはこんなにも空虚だ。
 そいつが当たり前のように天にいることがアイクには許せない。そこにいるべきなのは、満たされて光を放つ太陽なのだから。
 アイクは神剣の切っ先を、真っ直ぐにアシュナードへ向けた。
「天は貴様のものじゃない。すぐにそこから……引きずり下ろす」
「よくぞ吼えた、小僧!」
 アシュナードは大笑し、左手に手綱を、右手に剣を、握り直した。
「ならばお前を倒すまで目移りは控えてやろう。せいぜい我を楽しませよ、神剣使い」
「ほざけ、狂王!!」
 音を超えるがごとき速さの突進を、アイクは逆手に構えたラグネルで受けた。わずかに後退こそしたが、上手く力を逃がせた。脇に流す。間髪入れず次波が来る。
 ――アシュナードの思想を、解るかといえば、解りたくもない。
 けれど強い者と戦いたいという欲求はアイクにもあったし、強い者が生き残るというのも、傭兵という職を通じて嫌というほど学んだ。
 グレイル傭兵団でなければ、アイクとてああ育っていたかもしれないと。誰にも言わないが、思わなくもない。
 だが、エルナの温もりがあって、グレイルの厳しさがあって、ティアマトの優しさがあって、ここまできた。
 ミストと悲しみを分け合った。エリンシアの痛みに触れた。シノンの憎しみが刺さった。ジルの叫びを聞いた。セネリオの涙を見た。ライの怒りを受けた。
 そして、レテの熱に焦がれた。
 全てが今のアイクの強さをつくっている。独りでは、アイクはここまで強くなれなかった。
 だからアイクは、アシュナードの強さを認める訳にはいかない。
 誰かを切り捨てて手に入れる強さなど、紛い物だと。
「こんな……ものじゃ……」
 頬が熱い。切れているのかもしれない。どうでもいい。両手が無事にこの剣を握れさえすれば、戦える。
「お前が無造作に踏みつけていった人達の痛みを、俺は忘れない……。全ての痛みを、穢れたその身に叩き込むまで、俺は絶対に引かない!!」
 アシュナードは冷めた目でアイクを見下ろしていた。損傷は、最初にアイクがつけたかすり傷だけだ。
「ふん。何を言い出すかと思えば。ここにあるのは我とお前、二つの強者がぶつかり合うという真実だけ。路傍の塵のことなど持ち出すに値せん」
「その塵とやらの想い、軽く見るな!」
 アシュナードの一撃は確かに、重い。だから何だというのだ。漆黒の騎士だって重かった。重いだけならガトリーにも出来る。内心で軽口を叩くほど、アイクにとってアシュナードは脅威ではなくなっていた。
 グルグラントの厄介なところは、波打つ側面と大きな返しがついた切っ先だ。エタルドとラグネルのように滑り合わないし、突き入れられれば肉体は致命的までに破壊される。競り合うだけでも武器破壊刃(ソードブレイカー)として機能する。
 アイクは戦法を変え、なるべく外へ刃を弾いた。体格差から、吹き飛ばせないのは承知の上だ。少しずつ重心をずらす。空という戦場をより不安定にしていく。
 一閃。もう一閃。揺さぶられる度に、アシュナードは無意識に、バランスを取る方に比重を置いていく。即ち、アイクへの警戒が疎かになる。
 無論、アイクの策にすんなりはまってくれるほど容易い相手ではない。弾き損ねた刃は容赦なくアイクの総身を襲った。肩当てが落ちる。胸当てが外れる。服が破れる。派手に血が舞う。
 痛みはなかった。感じる前にあたたかな光が灯る。肉体組織が再生していく。ミストが。エリンシアが。キルロイが。全ての支援兵がアイクの為に祈っている。欠けていく恐れは心のどこにもない。
 内側に喰らいつこうとする剣筋を飛び退いてかわし、アイクは片足を軸にアシュナードの外腕にステップする。力任せにアイクの首を狙う刃。アイクは身体を沈め懐に入る。アシュナードの戻りも速い。こじ開けられない。胴は狙えない。ならばとラグネルでグルグラントの刀身を捉える。アシュナードの身体がわずかに泳ぐ。再三の揺さぶりの成果。払った剣先は、破壊までは至らないまでも鎧の表面を確かに抉り取った。
 一瞬の視線の交錯。
 アシュナードの瞳に初めて浮かんだ、本気の驚愕。
 無防備な刹那。
 終わりだ。
「ア、シュ、ナードォォオオオオッ!!」
 アイクは叫びながら、深く踏み込んだ。膝が砕けるくらいに強く。
 何の抵抗もなかった。女神に祝福されたはずの鎧は、同じく女神に祝福された剣を、呆気ないほどすんなりと受け入れた。それでも殺したと思えたのは、肉体の手応えは確かに伝わってきたからだ。
 善も悪も強さも弱さもない。ただ一個体の生命の重みが、今まで殺めてきた者と同じようにこの手にある。大陸全土を危機に陥れた狂王の末路は。何の変哲もない、男の死でしかなかった。
 飛竜が背を主の血で濡らしながら、焦点の合わない目でアイクを見つめる。アイクは竜の金色の目を見つめ返す。
「悪い夢は、終わりだ――」
 黒竜が、巨大なあぎとをゆっくりと開く。
「いいや。まだだ」
 アイクははっとしてラグネルを引いた。引こうとした。動かない。
 今のは竜の声ではない。竜は口など利かない。アシュナードがまだ、生きている。手の平が潰れるのも厭わず、ラグネルの刀身を握り締めている。
 アイクは詰めを、誤ったのだ。
「まだ……お前の力、見尽くしておらぬ」
 この期に及んでもまだ笑うというのか。アイクは小さく首を振った。
 強がりだと突っぱねたい。けれど、何故だか断言出来る。
 この男は、負け惜しみなど言わない。まだだと言ったら、本当に。まだ終わっていないのだ。
「……何をする気だ?」
「今こそ、これを使う時ぞ……」
 決して引かせてはならない切り札が、アシュナードの手の中にあった。
 さまざまな情景が一瞬でアイクの頭の中をよぎる。
 母の顔。ミストの歌。神殿の壁。父の傷。
 あれは、エルランのメダリオン。邪神を封印せし蒼き呪い。
 炎の紋章ファイアーエムブレム―――。
 大地が悲鳴を上げる。冷たい光が辺りを包む。アシュナードが苦悶の声を上げていた。肉体が不穏な音を立てて生まれ変わる。否。死んで、死んで尚滅びることをやめる。
 血は乾き、筋という筋が皮膚を浮き上がらせる。落ち窪んだ目だけが爛々と光る。
 頭が狂うだとか、正気を失うだとか、そんな生易しい話ではない。
 この青銅のメダリオンは。
 バケモノを。イキモノではない絶望を、作り出す。
 蒼炎に焼かれながら、アイクは叫んだ。
「逃げろっ! 逃げるんだ、みん――!!」
 言い切ることが出来なかった。
 世界が反転する。
 クリミアの空は。あんな風に、紅く、黒く、汚らわしかったろうか。

 

 ――水の音が聞こえる。
 一粒、二粒、雫が落ちていく音だ。

 随分寒いな、とアイクは身を縮めた。
 見渡せば周囲は真っ暗だ。薄く水の張った暗闇の中を、アイクは歩いている。
 右手には当たり前のようにラグネルを提げている。
 それよりここはどこだろう。何をしているところなのだろう。
 わからない。わからない、から、とりあえず進んでみよう。

 どこかで水が滴っている。

 いくら歩いても果てがないように思えた。
 水音以外は何も聞こえないし、どこにも辿り着かない。
 そういえば、誰にも出会わない。
「なぁ、誰か――」
 言いかけたとき、何かにつまづいた。
 何だろう。割と大きなものだ。
 膝を曲げてまじまじ見ると、それはぼんやりと光り出した。
 最初に見えたのは青だった。自分の髪の色によく似ていた。
 果たしてそれは髪だった。青く長い髪の女だった。

 見覚えが、ある、ような。

 思わず飛び退いたとき、何かに足がぶつかった。
 今度はもっと大きい。考えなくても分かる。
 ずっと憧れて、追いかけ続けた背中。
「あ……」
 喉が引きつる。息が出来ない。
 じわじわと明かりが灯っていく。否応なしに視界が広がる。

 栗色の肩までの髪。真っ直ぐな黒髪。朱色の三つ編み。
 新緑と深緑と若草色。飴色。蜂蜜色。深紅。紫。

 走った。逃げようとしたのではない、はずだ。確かめたかった。
 どうなってしまったのか知りたかった。

 桃色。藤色。水色。空色。……。
 白い鎧の女。

 みんなみんな倒れていた。動かなかった。
 どうして自分だけ動いているのだろう。
 どうして自分だけ武器を持っているのだろう。
 こんな状況で、ラグネルだけを大事に握り締めているのだろう?

 光が強くなる。アイクは悲鳴すら上げられずに硬直する。
 一面赤い。水だと思っていたものは、全部血だった。
 ここに転がっている者たちの血だった。
『お前が殺したのだ』
 アシュナードの声がする。
 姿は見えないが、耳元で囁きかけられている。
『お前が殺した。一人ずつ一人ずつ。それはそれは楽しそうに』
「ち、がう……」
『左手を見ろ』
 言われて、初めて何かを持っていることに気付いた。
 メダリオンだ。アシュナードが持っていたはずのメダリオンは、アイクの手の中で妖艶な蒼炎を纏っている。
『悦んで殺した。ガウェイン以上に』
「そんな、はずは……これは、お前が持って……」
 寒い。歯の根が合わない。剣を捨てて身を丸めたい。指が動かない。
『ならばその剣は何故濡れているのだ?』
 はっと下を向く。ラグネルの黄金の刀身を、真っ赤な雫が滑り落ちていった。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 見たくないのに見てしまった。
 見つからないことにどこか安心していたのに。
 さっきからずっと、不規則に聞こえていた水の音は。
『その娘の血ではないのか?』
 誰よりも、守りたかった、橙から垂れた、音だった。

「ハッ――」
 泣き叫びたかったのに出てきたのはかすれた笑い声。
 親父と一緒だ。いや、親父よりひどい。
 大層なことを言って、他人を背負うなんて粋がって、この体たらくだ。
 何一つ守れなかった。大事な家族も、小さな約束でさえ。
 ズタズタに切り裂いた。めちゃくちゃに屠った。
 これ以上俺に、何が出来る。

「……ろして、くれ……」
 血だまりに膝をついた。瞳から溢れるものに最早意味などない。
 誰でもいい。誰でもいいから。
 殺してくれ。
 早く俺を、殺してくれ。

「がっ……!!」
 ――それでも、いきなり左頬を襲った痛みは予想外だった。
 思わず視線を上げる。
 膝蹴りを喰らわしたままの姿勢で、彼女は言った。
「無様だな」
 その通りだ。言葉もない。将軍だなんだと持ち上げられてこの様だ。
 向ける顔もないはずなのに。
 アイクはまた、彼女の夜明け色の瞳から目が離せない。
「お前は、誰かを殺した覚えはあるのか?」
 彼女は両手を腰に当てて尊大に問う。
 アイクは首を振った。胸倉を掴まれた。
「人には言葉があるだろう! 自分の口で言え!」
「……ろして、ない」
 息が詰まる。襟首を絞られているせいだけではない。
 アイクが何と言おうと、事実ラグネルは血に濡れ、皆は倒れ伏しているのだ。
 言い逃れなど出来はしないのに。
「お前は、誰を殺したんだ?」
「それは……」
 誰も彼もを。大切に想っていた全てを。
 この手で壊した。
「聞こえない。周りを見てから、もう一度言え」
 見たくないけれど、首を巡らせた。自分の犯した罪と向き合う為に。

 覚悟していた地獄はなかった。
 ミストは。セネリオは。ティアマトは。
 傭兵団の面々は、二本の足でしっかりと立ち、アイクを見ていた。
 真っ直ぐな、揺るぎない目で。
「答えろ。お前は、誰を殺した?」
「殺してない……」
 見知った顔が、次々とアイクを向く。
 恨みも呪いもない。彼らは信じている。
 アイクのことを、信じている。
 アイクが彼らのことを信じてきたのと、同じように。
 いつの間にか、血の海は澄み切った透明な水になっていた。
 ラグネルを手放せなかった理由を思い出す。
 これは、誰かを殺したいからではなく。
「お前は皆を、どうしたい?」
「……り、たい……」
 戦いはまだ、終わっていないから。
 誰も失いたくないから。
 その為に、この手の剣を振るうのだ。
 あんたの尊い両の瞳に、もう一度誓おう。
「俺は、みんなを守り抜きたい!!」
 アイクは立ち上がり、叫んだ。
 
 左手のメダリオンが砕け散り、閃光が闇を切り払う。
 視界の片隅で母が笑い、力強い手が息子の背を押した。
 還ってきた。
 アイクは今度こそ悪夢を終わらせる為に、帰って来たのだ。

 

「……待たせたな」
 背中にレテを感じながら、呟く。
 生きていてくれてよかった。もう、あんたを絶対に失わない。

 とっさに受け止めたアシュナードの一撃は、先刻までとは桁違いだった。おまけに、アイクの方は気を失う直前に随分な怪我をしたらしい。脈打つのが自分でも分かるほど出血している。
 それでも頭はすっきりしていた。いろいろと考えるのはもうやめた。
「この期に及んで、何の為とかはどうでもいい。その切っ先を二度と誰にも向けられぬよう、俺が貴様を必ず倒す」
 戦意が、闘志が、力が、無限に湧き出る。
 倒せない相手などあるものか。この身は神騎将ガウェインの――否、グレイル傭兵団初代団長の息子。どこの王族が相手だろうが、負けはしない。雇い主の希望は絶対に叶えるのが、最高の傭兵というものだ。
 アイクは一度グルグラントを払い、ラグネルを構え直した。 
「これで終わりだ、アシュナード!!」
「面白い、今度こそ幕を引いてやるぞ、聖剣使い!!」
 アシュナードの騎竜が羽ばたく。常識外れな高さまで昇っていく。
 どこまで行こうと、奴は必ず地表近くまで戻ってくる。ならば迎え撃つまで。
 身体が軽い。けれど不必要に軽すぎはしない。不思議な感覚。化け物に乗ったバケモノと戦うのに、生身でも全く恐くない。アイクは地を蹴り、獣牙族のようにしなやかに加速した。急停止した場所にアシュナードが激しく降りてくる。流石にラグネルでは受け切れないので、石の破片を弾くに留める。
 お互い、本気の猛攻はそれからだった。
 ラグネルはグルグラントの歪んだ刀身を更に抉るように、グルグラントはラグネルの直刃を削るように噛みつき合う。
 うち鳴らす音は高く遠く。こすれる音はすすり泣くように。
 一撃必殺を好むアシュナード。大上段から何度も斬り下ろす。
 手数で確実に削るつもりのアイク。下から、横から、払い薙ぐ。
 アイクが踏み込めばアシュナードも迫る。アシュナードが突けばアイクは懐を狙う。
 譲らない。金属の音は間隔を狭め、ほとんど連なって鳴り響く。
 それは悲鳴のようにどこまでも高まり――。
「案外に楽しめた。そろそろ引導を渡してやろう」
 先に間合いを外そうとしたのはアシュナードだった。猛る黒竜の手綱を引く。
「させるかッ!!」
 アイクは竜の羽に飛びついた。そのまま背に乗り上げるつもりが、がくりと身体が下がる。腕に力が入らない。
 騎竜が嫌がり身を振るう。足下の感覚がなくなった。
 上昇していく。
「無様な方を選ぶなら止めはせん!」
 アシュナードが右手の剣を振り上げた。
 このままだと死ぬ。飛び降りても多分死ぬ。けれど終わりだとは露程も思わなかった。
「アイク様ッ!!」
 ――この国の王女は、とても勇敢だから。
 アイクは黒竜から両手を離した。あたたかな白が身体を受け止める。エリンシアがアイクの足元に天馬を滑り込ませたのだ。
 だが近すぎた。このままではエリンシアごと斬られる。アシュナードの一撃を防ぐべく、アイクはラグネルを横にして頭上に掲げる。
 メダリオンで覚醒した化け物の全力を、こんな真正面から防ぎ切れるか――!?
 覚悟した刃先は落ちては来ない。
 獣の咆哮が響いて。橙の閃光が斜めに迅って。
 アシュナードの腕を、宙で止めた。
「レテ……」
 狂王の籠手に噛み付いた猫の瞳に、この暗黒を切り拓く――黎明の色。
「こ、の、獣ッ!!」
 アシュナードはレテを振り払うのに躍起になっている。アイクは小さく息を吸った。
 彼女が防いでくれたから、アイクはもう防がなくていい。
 残った力を、燃える魂を、確かな存在を、全てこの一撃に注ぐことが出来る。
 跳躍した。世界も国も仲間も家族も頭になかった。
 もっと原始的な感覚で。ただ本能の命じるままに。
 目の裏を朝焼けに染めながら。
 既にヒトでないものの首を、落とした。
 アシュナードの首は、血の一滴も出さずに飛んだ。無様に転がり瓦礫に当たって止まる。
 アイクは受身も取れずに身体を傾けた。
 落ちながら、ラグネルを天に向ける。赤黒い雲が割れた。光が降った。
 途端にアシュナードの身体も首も、砂のように崩れて消えた。
(夜が――明けた――)
 朝はとうに過ぎたはずなのに、そう思った。
 落ちる。レテとは離れたところに来てしまった。
 痛いつもりはなかったが、足が思うように動かない。ラグネルを杖に一歩踏み出す。
「レテ」
 終わったんだ。もう終わった。だから起きてくれ。今行く。今行くから。
 打った右脚を引きずりながら、アイクはレテに近づいていく。
「レテ」
 俺は、あんたに言わなきゃならんことが山程あるような気がする。
 すぐには出てこないが、ありがとうとか、なんか、そんなのじゃなくて、もっと違うやつが。
「レテ」
 肺が変な音を立てた。肋骨でも折ったのだろうか。
 今はどうでもいい。聞いてほしいことがあるんだ。
 とてもとても大事なことなんだ。どうしても伝えたいことなんだ。
「レテ……!!」
 だから、目を、開けてくれ。
 アイクはレテの傍らで、両膝をついた。レテの顔は怖いほど真っ白で、頬に入った朱の模様と、牙を折ったのか、口許から流れる真っ赤な血だけがいやに鮮やかだった。
 アイクの最悪の想像を打ち消しながら、レテがゆっくりと瞼を上げる。
 綺麗な紫の瞳が陽光を反射していた。初めて会ったときはアイクを冷たく見下ろしていた瞳が、あたたかくアイクを見上げていた。
 レテの右手がぎこちなく動く。大儀そうだったが、指が開く。
 そして彼女は、血塗れの口唇で微笑んだ。
「おかえり」
 はっと、気付く。さっきから懸命に探していた言葉を、彼女が教えてくれた。
 力をなくし落ちようとする手を、アイクは両手で握り締める。目を閉じて、彼女の小さな爪に世界一やわらかく口付けた。
「ああ。ただいま」
 帰ってきた。
 この国に。家族の許に。
 そして、彼女の隣に。