13話 My Buddy,My Blood - 3/7

柏木夢子の娘

「皓汰。またここにいたの」
 襖を開けて声をかけると、弟は本から目を上げた。もう日暮れ時なのにまた電気を点けていない。和室では大抵すりガラス越しの自然光で読書している。
「どしたの。ご飯の支度手伝う?」
 皓汰が分厚い本を脇に置く。夏目金之助。朔夜の知らない作家。
 祖父が亡くなった後も書斎はそのままになっている。二世帯で暮らす予定で建てた家は、今でも故人を住まわせる余裕があった。
 朔夜は弟のそばに腰を下ろした。夏の畳はいつも不思議な匂いがする。朔夜のかぎ慣れない香りだ。
「皓汰はいいよね、本が好きで。おじいちゃんに似てて」
「じいちゃんに似てても野球できないよ」
 笑った皓汰の前髪を、古い扇風機の風が微かに揺らした。
 祖父は運動が大の苦手だったらしい。キャッチボールが二往復と成立しないと父が言っていた。よそのガラスを割り息子に付き添われて謝りに行ったというのは、本を読んだ皓汰が教えてくれた。
「何か用があったんじゃないの?」
 皓汰の手がまた本を手にする。今度は櫻井朔の著作だった。朔夜は名前に一字もらったものの、祖父の作品にはほとんど目を通していない。
「皓汰は、新田コーチのことどう思う?」
 祖父から意識を逸らしたくて別の名を出した。漠然とした質問に、どうって、と皓汰が首を傾げる。
「コーチとしてならまともな人だと思う。どういう理由でどこを直したらいいとか、理屈で説明してくれるから分かりやすかった。監督は脇とか肘とかしか言わないから」
「コーチとしてなら、って」
「朔夜。チクらないから言いたいこと言いなよ。誰かの意見に乗っかって悪口言おうとするとか、手口が女子っぽすぎ」
 皓汰は座ったままカーテンを閉めた。部屋の中が一気に暗くなる。
 他の部屋は時代に合わせて少しずつ変えているけれど、ここだけは築二十年以上の重みをそのまま背負っている。薄気味が悪くて、朔夜はすぐに蛍光灯を点けた。
「悪口っていうか。私たちの人生より長く父さんをほっといた人が、いまさら出てきて理解者面してるの、なんか、あれじゃん」
「ムカつくんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ悪口でいいじゃん。俺、他人の悪口言うなとか一言も言ってないし」
 皓汰と話していると、ときどき鏡に向かってしゃべっているような気になる。自分の醜さに居心地が悪くなる。
「朔夜、こないだは父さんの相棒が見つかったってはしゃいでたのにね」
 皓汰はもう本から顔も上げなかった。朔夜は口唇を噛んで日に焼けた薄緑を睨む。
 話だけの存在なら、朔夜だって素直に父の幸運を喜んでいられた。けれど今の野球部は父と朔夜が築き上げたものだ。侑志の父の時代はもう終わっている。
「皓汰も気付いたよね。あの人、おじいちゃんが書いた『片言の少年』だって」
 朔夜が吐き捨てると、皓汰は視線をまたこちらに向けた。
 手に持っているのは『日輪』だ。赤裸々すぎるほど家族について綴った中に、赤の他人を主題にしたものが交ざっていると知ったとき、朔夜は祖父の本を読むのをやめた。
 祖父がかわいがったもう一人の息子。文学に興味を持たなかった息子の代わりに、幾度となく本を贈った少年。
 父の相棒と同一人物だなんて考えたこともなかった。
「おじいちゃんにたくさんお世話になったくせに、父さんが一番つらかったとき、全然支えてくれなかったんだよ。ムカつくじゃん」
「ちゃんと戻ってきてくれたじゃない。今だって父さんなりにつらいんじゃないの」
「今は私たちがいるんだよ!?」
 左手で『日輪』をはたき落とした。分厚い表紙に関節が痛んだ。
 どうでもいい。どうせ価値がない、こんな手なんて。朔夜は右手で腹部を押さえてうずくまった。
 父さんが独りになったとき、私たちはまだいなかった。私たちの母親は、父さんの家族になってはくれなかった。おじいちゃんが書き残すほど気を許してた人だって、いざというとき父さんを助けてはくれなかったんだ。
 あの人は父さんが苦しんでる間に、父さんの好きだった女の人と結婚して、野球が好きな左利きの男の子のお父さんになって、もしかしたら『朔夜』まで奪られるところだったかもしれない。そんなの。
「侑志は、ずるい」
「飛躍しすぎ。侑志のお父さんの話だったでしょ」
 皓汰は呆れた声で近寄ってきて、左手の具合を確かめてくれた。
 皓汰はいつもそう。弟なのにいきなり兄のように朔夜を甘やかす。半身のように朔夜の痛みを分かつ。恋人のように朔夜の背を撫でる。
「侑志は悪くない。悪くなくても腹が立つっていう朔夜の気持ちも悪いわけじゃないよ。だから我慢できなくなったら俺に言ってほしい。侑志には当たらないでやって」
 その皓汰にとってさえ、新田侑志はこうしてかばいたい例外なのだ。
 新田侑志とその父親がいる限り、朔夜は皓汰と父を占有できない。
 朔夜は皓汰の身体を押して立ち上がった。
「ご飯。できてるから先に食べて」
「朔夜は?」
「ちょっと走ってくる。食器、終わったら流しに置いといてよ」
 背を向けても皓汰はそれ以上何も言わなかった。
 解っている。最初から、皓汰も、父も、朔夜だけのものではなかった。
 それでももう少し、せめてあと一年だけでいい、錯覚していたかったのに。

 朔夜はろくな支度もしないで飛び出したことを後悔した。平橋に両親の話を聞いた夜と同じ失敗だ。小銭入れならポケットにあるし、またどこかで飲み物を買えばいいか。
 淀む赤に向けて走り出す。元々にじんでいた汗が肌を舐めていく。
 普段からランニング中は考え事ばかりしている。今日の特売品。冷蔵庫の中身。明日の献立。天気と洗濯物。日用品の残量。野球のことはさほど考えない。他の時間にさんざん考えている。
 今頭にあるのは母のことだった。
 幼い頃はずっと、母が相手をしてくれないのは仕事のせいだと思っていた。じきに思い違いだと分かった。皓汰のことだけはときどき構っていたから。どうしておかーさんはサクがきらいなの、と泣いたときも、ごめんなと抱きしめてくれたのは父だった。
 朔夜の知る限り、両親は同じ部屋で暮らしたことがない。家庭内別居というものだったのだと思う。会話も極力避けているように見えた。どうしてあの人と結婚したの、という問いに、父はつらそうに口を閉ざした。
 女として生きるための知識も、母は朔夜に授けてくれなかった。ブラジャーの選び方も生理用品の使い方も、赤の他人である月村(つきむら)雪枝(ゆきえ)に教わった。中学のときのことだ。朔夜があまりに何も知らないから、見かねて面倒を見てくれた。
 母にしてもらったのは浴衣の着付けぐらい。それさえ離婚が決まった後だった。
『あなた、好きな人はいるの?』
 普通の母親のような台詞を朔夜は無視した。好きでもない男と結婚した女に答える義理はないと思った。
 思っていた。
「朔夜さん。どうしたんすか」
 新田侑志が目の前に立っている。いつもの道。スクールバックを右肩に提げ、心配そうに左手を差し伸べてくる。
「顔真っ青っすよ。そんな体調で走ったらダメじゃないですか」
「侑志こそ。こんな時間に、なにしてんの」
「図書当番で学校行ってたんです。ていうか、そんなんいいからとりあえずどっか座りましょう」
 侑志の手がためらいがちに朔夜の背を支える。何度も並んだベンチに誘導しようとする。朔夜の顔を青いと言った彼の頬は赤かった。
 綺麗な横顔だった。見ていて痛いほどだった。母の警告が今になって頭蓋骨を殴りつけ、不愉快な残響が止まらない。
『気を付けなさいね。あなたは男をめちゃくちゃにするのよ。好きになった人も、そうでない人も』
 ――だってあなたはわたしの娘なんだもの。
「侑志。お祭りの日、私の浴衣褒めてくれなかったよね」
 侑志のワイシャツの第三ボタンを布地ごと握る。律義なやつ。長期休業中の登校まで学生服なんか着て。
 侑志が口ごもりながら目を逸らす。朔夜は吐息を余計に含んで囁きかける。
「やっぱり綺麗じゃなかった?」
「違います。先に坂野さんがすごく褒めてたし、俺、それ以外の言葉浮かばなくて、それだけで、その」
 卑下をすぐに否定してくれて。
 不躾な手を振り払わずにいてくれて。
 自分だけの言葉を探してくれて。
 まっすぐ目を見て伝えようとしてくれて。
「すごく綺麗でした。朔夜さん」
 知っていた。本当は気付いていた。褒めてもらえなかった理由も。琉千花が泣いていた理由も。侑志が隠そうとしている気持ちも、いつからか。
 不意に、昏くて甘い優越感が胸から兆し、脳髄を刺す。
 それは期待であり確信だった。今、伸び上がってキスをすれば、きっと彼の人生をめちゃくちゃにできる。一人の男の人生を簡単にこの手で壊せる。
 ――だって私は母さんの、柏木(かしわぎ)夢子(ゆめこ)の娘なんだもの。
「侑志」
 口を塞ぐ代わりに言葉を紡いだ。
「侑志のうちで休ませてって言ったら、迷惑?」
 自分がどんな顔をしているかも全部解っていた。
 まさか、と返す少年の笑みがあまりに澄んでいたから、解ってしまった。

 侑志の家は新築マンションだった。エレベーターのボタンは十五まであった。周りの住宅はまだ下町の風情が残っていて、そびえ立つこの箱だけが浮いている。
 七階の共用廊下を歩く。学校の屋上よりも高いところに住んでいるなんて変な感じだ。ぼんやりと自分の家を探したけれど見つからない。
 見慣れた景色ってのは、ああいうのをきっかけに消えていくんだなと、建設中に父がぼつりと言ったことが、感傷的な色を増して思い出された。
 侑志は『新田』の表札を提げたドアの前で立ち止まり、インターホンを押す。
「ただいま。ちょっと急病人預かってるから手伝ってほしいんだけど」
 ぶっきらぼうな口調。急病人という響きがおかしかった。男にとってはそういう分類になるのか。
 すぐに鍵が開いて、侑志の母親が出てきた。
 岩茂八王子の試合のときは遠目で分からなかったけれど、アーモンド型の目も黒檀みたいな髪の色も侑志そっくりだ。
「朔夜ちゃんよね。どうぞ、上がって」
 やわらかい手つきで抱えるように招き入れられた。ふわりといい香りがした。香水? 化粧品? 整髪料? どれも朔夜にとっては縁遠くて特定できない。桜原家では石鹸や柔軟剤でさえ無香料だ。
「うわ、柚葉(ゆずは)来てんの」
 侑志の嫌そうな声で我に返る。
 ユズハ。あのとき、侑志の母親と一緒にいた女の子だろうか。
「まいいや。朔夜さん任せていい? 監督に電話してくる」
 父に電話。考えもしなかった。年下のくせに、侑志はときどき大人みたいに気が回る。
「お父様、今日お仕事は?」
 侑志の母が、朔夜の目を見て問いかけてくる。女同士なのにどきりとした。ついしどろもどろになってしまう。
「残業で十時回るとかって、あの、自分で帰れるんで」
「じゃあうちのお父さんが帰ってきたら、車で送ってもらうといいわ。こっちで座ってましょう。ね?」
 ほのかに甘くて涼やかな声。母の聞き取りづらい低音とは全く違う。
 聞き惚れているうちに、侑志はさっさと奥に行ってしまった。侑志の母は肩をすくめる。そういう振る舞いが少しも嫌味ではなかった。
「ごめんなさいね。あれでも気を遣ってるつもりなの」
 知ってますと答えるのも間抜けなようで、朔夜は曖昧に答えて俯いた。
 付き添われてリビングに踏み入ると、派手な出で立ちの女子が立派な木のテーブルで侑志と話していた。朔夜と目が合い小さく頭を下げたが、それきり会話に戻る。
「ママも今回の彼氏はかなり本気みたいなんだ。今日もし上手くいったらあたしに会わせたいんだって」
「え、じゃあ柚葉の新しいお父さんになるかもってこと?」
「そうそう」
 女子高生の声はひどく耳に障った。刺々しくて頭に響く。
 侑志の母は朔夜をソファに座らせた。ガラスのローテーブルが目の前にある。桜原家に置いたら皓汰と父が一日で傷だらけにしてしまいそうだ。
 テレビをつけてくれたから、侑志たちの話をまともに聞かなくてよくなった。ニュースは明日から始まる甲子園の話題でもちきり。朔夜たちの夏はもう終わったのに。
 違う。朔夜に夏が来たことはないし、次の年も来ない。
「朔夜ちゃん。ルイボスティーって飲める?」
 侑志の母が赤いお茶を持ってきた。紅茶に似て飲みやすかった。
「私も毎月重いけど、それ飲んでるとだいぶ違うのよ。あとで買い置きをひとつあげるわね」
 侑志の母は小声で笑った。朔夜はカップを持ったまま彼女をぼうっと見上げた。
 周りの男子たち、家族や野球部員は、朔夜に月のものが来ているという発想すらないだろう。来ない月もあるからときどき自分でも忘れてしまう。今回ぐらい苦しいのは年に一度あるかないか。
 それでも普通の母親は気付くのかと思った。他人の娘でさえ。
 侑志の母が隣に腰を下ろし、朔夜の膝に軽く手を置く。
「夢子はもう、独り立ちしたの?」
 朔夜は黙って頷いた。そう、と侑志の母も頷く。
「困ったことがあったらいつでも言ってね。お父様には頼みづらいこともあるでしょうから」
 母を夢子と呼ぶのに、父を桜原君とは呼ばない。その線引きがもどかしかった。
「じゃああたし、そろそろ帰ろっかな。ママもデート終わったみたいだし」
 出し抜けに女子高生が立ち上がる。下着みたいに短いホットパンツから、白い脚を惜しげもなくさらけ出している。真っ白なノースリーブも、膝より上の肌が見えるパンツも、それを隠す長い丈のカーディガンも、朔夜のたんすにはない。
 ジャージ姿が急にいたたまれなくなる。
「柚葉ちゃん、もう少し待ってたらうちのパパ帰ってくるわよ。遅いし車で帰りなさい」
 侑志の母が座ったまま声をかける。女子高生は朔夜をつまらなそうに一瞥してから、侑志の母に笑顔を向けた。
「ママと駅で待ち合わせてるから大丈夫です。侑志も送ってくれるし」
「こっちの駅までな」
 侑志は一方的な決めつけに異を唱えなかった。当たり前に立ち上がって当たり前にドアノブをつかむ。
「朔夜さんはゆっくりしてってください。皓汰もうち知ってるんで、うちの親父遅かったらあいつに電話した方がいいと思います」
 そういえば皓汰を放ったままだと考えながら、二人の後ろ姿を見送った。
「おやじ、だって。侑志ってばお父さんのこと外ではそう呼ぶんだぁ」
 侑志の母は片手を口に添えて少女のような口調で言う。その間も、もう片方の手は優しく朔夜に触れていた。
 間を置かず鍵の音がする。忘れ物かと思えばコーチが顔を見せた。
「ただいま。あれ、朔夜君?」
「……どうも」
 鉢合わせる前に帰るつもりだったのにタイミングを逸してしまった。
 侑志の母が立ち上がる。
「お外で具合悪くなっちゃったんですって。桜原君お仕事で遅いみたいだから、車で送ってあげて」
「あ、いいです、近くなんで。すみません」
 口早に答え顔を伏せる。まるで侑志みたいな言い草だ。
「桜原家って三丁目の方だよね。歩くには遠いだろう、元気ならともかく」
 新田コーチは慣れた手つきでネクタイを外していく。無職だと言っていたはずなのに、普通の父親は仕事以外にスーツを着る用事があるのだろうか。朔夜の父は仕事でも年に一度や二度しか袖を通さない。
 つい断る口調が頑なになった。
「いいです。涼ませてもらったんで、帰れます」
「わかった、君の前には三つ選択肢がある。ひとつめ、数分間クーラーの効いた車に乗って帰る。ふたつめ、十分ほどおじさんと並んで歩いて帰る」
 コーチの指の出し方が変だった。まず親指を立てて、人差し指を伸ばし、最後に中指。
「みっつめ。君を一人で帰らせたかどで僕が桜原に殺される。どれがいい?」
 日本人同士で日本語なのに話が通じている気がしない。
 朔夜はしぶしぶ、ひとつめでと答えた。了解とコーチが微笑む。
「僕は先に降りて冷やしてくるよ。蒸し風呂だろうからね」
「今日車じゃなかったの?」
 キッチンカウンターの向こうから侑志の母の声がする。コーチは子供っぽく口を尖らせる。
「ハリアーなんか見せたらまた嫌味を言われる。僕のお気に入りなのに」
「お父様、国産車お嫌いだものね」
 侑志の祖父の話らしい。二人とも明るい口調ではなかった。侑志は祖父の話をするときいつも照れくさそうなのに。
 コーチがネクタイとジャケットを置いて出て行き、少ししてから朔夜と侑志の母も駐車場に降りた。
 お気に入りだとコーチが拗ねた自家用車は、フォルムも、色合いも、傷ひとつない光沢も、父の乗り回すおんぼろとは比較にならなかった。
「またいらしてね」
 侑志の母は、知らない名前の茶葉を紙袋に入れて持たせてくれた。連絡先と思しきメモも。
 腹部の鈍痛が増した。
 彼女が朔夜によくしてくれる理由は、両親ではないのかもしれない。豊かなものが持たざるものに見せるもの。あるいは父に寄せたのもそれなのか。
 車の中は冷たい風が巡っていた。しみひとつない座席を汚さないか心配しながら、朔夜はコーチの斜め後ろに腰を下ろす。助手席の裏。
「君は僕に怒っているんだろうね」
 進み出した車もコーチの声も静かだった。朔夜の答えを待たず続ける。
「人として当然の感情だ。その方が僕もすっきりする」
「じゃあお言葉に甘えます」
 やっといつもの自分らしい声が出た。らしさ。そんなもの朔夜は繕ってばかりだ。
「威勢がいいね。嬉しいよ」
 バックミラー越しに見たコーチは笑っていた。憎まれて嬉しいなんて気持ち悪い。
 見知った景色が見慣れない速さで流れていく。
「朔夜君は、別の誰かが持っているすべてが羨ましいと思うことはあるかい。その誰かに生まれたかったって」
 コーチが密やかに呟いた。二人しかいない車内で、他の人間に聞かれまいとしているみたいに。
「コーチはあるんですか」
 馬鹿正直に答えてやる必要もない。朔夜は質問で返した。コーチの答えは早く、また明瞭だった。
「僕にとっては桜原太陽がそうだった。桜原を囲むすべてのものが妬ましかった。自分が桜原に向ける信頼さえも欲しがった。身勝手で不道理な話だね」
 朔夜に聞かせようとする前から何度も自覚し続けたのかもしれない。こんなに何もかも持っているくせに。
 朔夜はさらさらの座面を右手で撫でた。
「父さんなんかの、何がそんなに羨ましかったんですか」
 全部とかぼんやりしたの以外で、と念を押しながら問う。
 そうだな、とコーチが笑ったのが息遣いで分かった。
「お父さんがはじめさんのような人だというだけでも僕は桜原太陽になりたかったし、しがみついてでもやりたいことも、長年の気安い友人たちも、骨をうずめることに疑問を抱かない郷里も僕にはなかった。いや、現在形でないというべきだな」
 朔夜は眉を寄せ自分の左手を見下ろす。
 父のことが大好きで、娘として誇りに思うとずっと公言してきた。だが朔夜がさっきこぼした『父さんなんか』は謙遜ではなかった。現役のとき野球部を守り抜いたことはともかく、今の席を用意してくれたのは平橋であって独力ではない。仕事も私生活も、父は平均より下の水準の幸福に甘んじている。本音では朔夜もそう感じていた。
 角を左と言いそびれ、車は直進し話もまた今までの方向へ進む。
「何よりも桜原は善良だった。不平等の前にあっても凛と正しかった。最も僕と遠い点はそこなんだ」
「自分の奥さんも幸せにできなかったのに?」
 朔夜は思わず笑ってしまった。この人を傷つけるために、大事な父親を貶めることを言った。自分が醜くておかしくて耐えられなかった。
 コーチが左にハンドルを切る。
「柏木さんを幸せにできるのは柏木さんだけだよ。幸福というのは詰まるところ主観だ。彼女は今やっと、その権利を自身に認めようとしているんだと思う。僕も美映子(みえこ)さんもその助けにはなれなかった。彼女を幸せへ続く道まで歩かせたのは、桜原の献身以外ではなかったはずだよ」
 また左折した。迷いのない口調と手つき。この人は道を知らないのでも忘れたのでもない。
「すみません。そこ、もう一度左です」
「ありがとう。二十年ぶりだから迷ってしまったね」
 弱音を吐けない父は、この人の嘘に何度も救われたのだろう。
 届かないと思った。
 新田家の誰かが連絡してくれたのか、家の前には父が立っていた。コーチは朔夜を下ろした後、ドア越しに短い挨拶を残して帰っていった。
「平気か」
 父が差し出した缶コーヒーから結露が滴り、アスファルトにしみができる。
 冷たいカフェイン。朔夜は侑志の母にもらった茶葉を強く抱きしめる。コーチの言ったことが、大嫌いなはずの母の気持ちが、少しだけ解った気がした。
 無知で無垢な優しさは、かけ離れているほど胸を深く抉る。
「父さん」
 朔夜は父に向き合った。笑顔に見えるように注意深く。
「勝負しない? 父さんたちが勝ったら神宮付き合ってあげる。一塁側で」
 父とは何度も球場でプロ野球を観た。広島まで行くのはさすがに難しいから、いつも近辺の球場のビジター三塁側。父の好きなスワローズの応援席に座ったことは一度もない。
「お前が勝ったら?」
 父がいつもの淡々とした調子で尋ねる。朔夜は一歩前に出て、耳許で自身の希望を囁き、また下がった。
 父は驚きも怒りもせず力なく笑う。
「そんなところまで、夢子に似なくたっていいだろうに」
 一瞬の抱擁の意味を朔夜は訊けなかった。感じたままの意味だと肯定されるのが怖かった。
 生ぬるい風に防球ネットが揺れる。用具だらけの庭を見て、変な家だなと初めて思った。