13話 My Buddy,My Blood - 2/7

櫻井朔

 波乱の副主将就任の二日後、侑志は野球部員ではなく図書委員として登校した。
 侑志はカウンターに堂々と英語の教科書を広げている。隣の深春(みはる)も、ぶつぶつ言いながら何かのテキストを解いている。大方の利用者は机と空調目当てなので、手続きを頼まれることはない。
「これ俺いる意味ありますかね?」
「ある。あとちょっとであたし予備校だから」
 カウンターに生徒が常駐する必要があるのか、という意味だったのだが。
 侑志は説明を諦めて、ノートに英単語を繰り返し書いていく。一語につき十回指示。いくらやっても頭に入ってくる気がしない。
「ところでミハル先輩、漱石の『こゝろ』って読んだことあります?」
「あるよ。二年になったら授業でやるしね」
「授業で? えぐすぎませんか。俺あれ読んでから何日もへこんでるんすけど」
「少年こそ感受性豊かすぎない? どんだけ感情移入してんの」
 深春の指摘でつい手に力が入った。シャープペンシルの芯が折れて、なけなしのやる気も途切れる。
 侑志は芯を片付けついでに突っ伏した。
「身近で似たような、つってもあそこまで悲惨じゃないんですけど、でも本人らは相当きつかったろうなって話聞いたばっかで。誰が悪いとか何がいけないとか、考えれば考えるほど頭痛くなっちまって」
「リアルであんな人たちいるの? それこそえっぐいわぁ」
 深春の口調には同情と無関心が同時に含まれていた。侑志も詳細を聞かせるつもりはない。だらしない姿勢のまま深春に顔を向ける。
「なんかもうどんな小説読んでても心がつらいだけなんで、他のジャンルでオススメないすかね? 気の晴れるやつ」
「それ本で解決できるレベル?」
 深刻なトーンで言われてしまった。そうだなぁ、と図書委員長は左手で自分の下口唇を揉む。
「エッセイとかどう? 日常についてさらっと書いてあるようなやつ」
「主婦雑誌とかに載ってるゆるい子育て日記みたいな?」
「偏見すごいわね。おカタめの男性作家のやつもあるよ。ちょっとおいで」
 立ち上がった深春についていく。閲覧席からこちらを窺っている三石には気付かないふりをして、カウンターとは対角にある最奥の書棚までやってきた。
 追いやられたような場所だ。上に『寄贈』というプレートがかかっている。
「ここにあるのは全部、タカコーの卒業生とかその身内とかの著書。有名な本もあれば、在学中しか出逢うチャンスがないような本もある。一期一会って感じでいいでしょ? あたし、読む本に迷ったらこの棚のを読むんだ」
 誇らしげに胸を張る深春。追いやられているなんて思った自分が恥ずかしくなった。この棚に収められているのは先輩たちの歩んだ人生、少なくともその一部なのだ。
「たとえば、この人とか。青春真っただ中、漱石にガツーンとやられちゃった先輩でね。今の少年の力になってくれるかもしんないよ」
 深春の手が迷いなく一冊の本を取り出す。
 こちらに向けられた表紙には『櫻井朔随筆集 日輪』とある。
「さくらい、さく?」
「はじめ。櫻井(さくらい)(はじめ)。大作を書く人ではなかったんだけど、とにかくたくさん書いて書いて、書き尽くすみたいにして亡くなったの。『日輪(にちりん)』は、晩年病床で厳選した作品集で、多分商業出版じゃないんだよね。ほとんど出回ってないと思う」
 侑志は黙って息を呑んだ。渡された本が頁数以上に重く感じる。誰かが人生の終わりに選んだ、世の中に知られていない一冊。
 立ち尽くす侑志の腕を、深春が無遠慮に叩く。
「無理に構えなくていいんだよ。この部屋にはいっぱい人生の先輩がいるんだから、合う人見つけて教わればいいの。気長に探していきなよ」
「はい。ありがとうございます、ミハル先輩」
 侑志は、慣例でも一般常識でもなく自分の意思で目の前の人を先輩と呼び、深々と頭を下げた。うん、と深春は快活に笑う。
「じゃ、あたし予備校行ってくんね。あとはよろしく」
 そのうちに図書委員長でなくなる人を、部屋のガラス戸まで見送った。ああいう人になりたいな、と柄にもなく思う。
 カウンターに戻ってハードカバーの本を開いた。序文にざっと目を通すと、各篇は繋がっているわけではないらしい。試しに、目次で気になった『片恋』を読んでみることにした。
『懇意にしているA君が、先生次の号は片恋を特集したいのでお願いしますと言う。私みたような思索にばかり傾いている男は、さぞ美化された初恋の痛みを抱えているものと推したらしい。猶悪いことに、私は恋ですら空想上の出来事として、女性の実際に投げかけてみることをまるでしない、仕様のない晩生であった。』
『私がかろうじて知ったつもりの女といえば細だけである。親の薦めたひとだった。』
 周囲の決めた気の乗らない縁談だったが、一緒にいるうち片時も目を離せなくなった、思えばそれが片恋と呼べるのかもしれない、という旨の話だった。内容も文章も特徴があるようには思われない。
 侑志は重くなってきたまぶたを手の甲でこする。次の頁で終わりのようだ。一応この章だけは読んでしまおう。
 紙をめくって、手が止まった。
『書き已む前にA君に概ねを話した。幸福じゃありませんかと笑っていた。そんなものかねと私も頷いた。』
『私は労せずこのひとを手に入れた。手に入れてすらいないのかも知れない。このひとの方でも望んで住む家ではなかった。暴雨をも恐れずこのひとを手に入れたいという男を、またこのひとの望んで添いたいという男を認めたとき、私は平生のごとく彼女と話し合える自信がない。暗惨たる空想ばかりが募った。私はついに「黒い長い髪で縛られた時の心持」を知ってしまった。』
『「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」』
 恋は罪悪ですよ、解っていますか――。
 開ききったまぶたが強張っていく。頭の中で響く『先生』の声はきっと聞いたことがあるのに、誰の声に置き換えているのか自分でも分からない。
 ただ視界がぐらぐらした。何かが追いかけてきて、いつまでもこの言葉を突き付けてくるのではないかと、くだらない妄想が頭を占めた。
「新田」
 いきなり呼ばれてはっと顔を上げる。三石だ。カウンターに張り付いて侑志を見上げている。
「その本、おもしろい?」
「え、はい、まぁ」
 返答が曖昧になった。殴られたが面白いかというと微妙である。ふぅん、と三石もよく分からない返事をした。
「一年ときさぁ。にゃーが協力してくれて、オレも深春先輩のオススメ本借りたんだよな。にゃーは頭いいから、おもしろかったーって言ってたけど、オレ、読めなくて」
 三石の指が『日輪』の背をついと引く。侑志は本を手渡した。頁をぱらぱらとめくり、やっぱわかんねぇわと三石は泣きそうに笑った。
「深春先輩って図書館で働きたいんだって。でもオレ、好きな人の好きなこと、感動すること、全然わかんねぇの。先輩が皓汰に夢中なのも、そりゃそーだよなってスゲー思っちゃうし」
 それでも三石は本を返すとき、こちらの正面になるようそっと差し出した。黙ってカウンターに投げ落とす生徒も多くいるのに、本と著者に敬意を払った。侑志も両手でしっかり受け取る。
 閲覧用の机には広げられたままの教科書とノート。
 図書室でやれば先輩に会えるかもね、と岡本にアドバイスされ、去年は九月まで手を付けなかった宿題を夏のうちにやっているらしい。
「好きな人のために、嫌いなことを頑張れる人はカッコいいと思います。ミツさんはすごいですよ」
 混じりけのない笑顔になれなかったのは、琉千花の顔がよぎったせいだ。
 彼女は侑志のそばにいたくて野球部に入ったと言った。八名川が言うには野球が嫌いなはずなのに。
 ありがたいとは思わなかった。嬉しさとも違った。今も琉千花のことを考えると胃がもたれる。一方で、俺はあの子の何に怒っているのかとずっと考えている。
「すごい失礼ですけど、ミツさんってミハル先輩のどこが好きなんですか?」
 冷やかしではなく聞きたかった。三石は迷いなく即答する。
「怒るとこ」
「すみません、ちょっと分かんないです」
 実はちょっとどころではなく分からない。怒った顔が好きなのだろうか。
 んー、と三石は自分の金髪を引っ張る。
「オレね、これだから怖がられんだよ。知らないヒトにさ。でも深春先輩は普通に怒ってくれたんだ。廊下走ってるときに、走んないの! って。それがすごいカッコよくて」
 三石は耳まで赤く染めてカウンターに突っ伏した。耐えられなくなったのかと思えばだらしなく笑っている。
「先輩図書室向かうとこで、背中見ながらめちゃくちゃどきどきして。笑ってるとこ見たら心臓ぎゅーってして。恋だーって思った」
 朔夜さんのことを想うときの俺も、同じ顔をしているんだろうか。
 侑志はカウンターの下で自分の脚に爪を立てた。
「ミツさんって、ミハル先輩のためなら嵐の中でも飛び込めそうですね」
 作り笑いに歪めた顔も、記憶の中の深春を見つめる三石には覚られずに済んだ。
「たりめーじゃん。また怒られてもぜってぇ守るから」
 嘘でも誇張でもなく三石ならそうするのだろう。侑志とは違って。
 ああ、そうか。俺は『暴雨をも恐れずこのひとを手に入れたいという男』じゃない。だからまっすぐ好きだと言えたあの子の勇気に、嫉妬したんだ。
 ――嫌いだからより、なおひどいじゃないか。
 腹が減ったので帰るという三石を見送り、侑志は読書を再開した。今やるべきことも忘れて、櫻井朔という人の思想にすがろうとした。
『恋は罪悪。()うして罪悪であるからには(いづ)れ糺されねばなるまい。』