13話 My Buddy,My Blood - 6/7

今日も、明日も、十年後も

 桜原太陽は、出逢ったときから危ういやつだった。着火したら最後、眩く瞬いてそれきり消えてしまいそうな、花火のようなやつだった。
 総志は暗室で彼に出逢った。柏木夢子が気まぐれに撮った写真の中。
 鋭い目をした少年だった。一人きりの野球部員で、壁に向かって投げているらしい。敵視すべき相手を持たない闘志はこんなにも透明で美しいのかと思った。
『A組の桜原君ですって。目立つ子だからすぐに分かると思うわよ』
 柏木に聞いたとおり行った教室に彼はおらず、探し回った校舎裏でふてぶてしく煙草を吸っていた。
 総志は自分の立ち位置を初見ではっきりさせたい質だ。彼が何か言う前に、歩み寄って煙草を奪った。向こうが怒りかけたタイミングで紫煙を吸って、殊更ゆっくりと吐く。
『随分軽いの吸ってるね』
 少年はだらしなくしゃがみ込んだまま、目を丸くして総志を見上げていた。悪評の割にはあどけない顔だった。
 肝心の挑発に対する反応はどうかと思えば、突然けたけた笑い出した。教育番組のカラフルなキャラクターみたいに、屈託のない声で。
『なんだ、そっか、それ軽いんだな。親父に伝えとくわ』
 その一回で総志の立ち位置が決まった。
 ――僕はこいつには多分一生、勝てない。
 予感は正しかった。総志は興味のなかった野球にすっかり詳しくなってしまったし、頭数を揃えてチームを作ってみたくなった。そのための具体的な方策を決めるのは総志の役目だった。面倒は山積みだったし、桜原の起こしたごたごたに巻き込まれて大人たちに叱られもした。
『でも、やってよかったろ?』
 桜原がそう笑えば、そんなことは全部許せた。上に立てなくても顎で使われても、彼の我がままを聞いてやることだけで総志の頬も緩んだ。
 総志が桜原に対して裏切りだと思っていたことを、桜原はさして気にしていたわけでもないらしい。裏切られたと桜原が感じていた瞬間は、総志が真実彼の未来を考え決断を下したときだった。
『なんだよ、棄権って』
 うるさいほどに晴れた三年の夏。
 最初で最後の大会で、桜原は総志に詰め寄った。
『誰が決めたんだよ。そんなこと』
『僕だ。小笠原先生と話し合ってもう主審に申し出た』
『まだ負けてねぇだろうが! 俺はまだ』
『投げられるって? 僕につかみかかる力も残っていないやつが何を言っているの?』
 こうまでなって総志は桜原の敵意を綺麗だと思った。顕示の濁りがない純粋な欲求は、鋭く脆く胸を刺し抉った。
 だからこそ、告げる役を果たすのは他ならぬ自分でなければならないと思ったのだ。
『僕とおまえの三年間はね。もう、終わってしまったんだよ。桜原』
 叫びながら殴りかかってきたあのとき、おまえには僕がどう見えていたんだろう。
「俺は、ただ最後まで終わらせたかっただけじゃねぇか。なんで止められなきゃならねえんだ」
「桜原。同じ想いをさせないために、一緒に永田君を説得したんじゃないか。これ以上は長北もお子さんたちも気の毒だよ」
 総志は桜原に帽子を被せた。ベンチに置いていった高葉ヶ丘の野球帽。当時考えたデザインのままだ。
 桜原は左手で庇の位置をぎこちなく直す。
「クソッタレ。てめえはいつもそうだ。肝心なときに役目を放り出しやがって」
「そうだね。役立たずの僕を恨んでくれ。本当はずっとそうしてほしかった」
「気持ち悪ィな。なんだよそれ」
「おまえがすぐに僕を赦すからだろ。ひとつぐらい憎んでくれないと繋がっていられないじゃないか」
 ボールを拭いて桜原に差し出す。
 マウンドからホームまで十八・四四メートル。いつも遠いなと思っていた。ゼロになればいいのにと願いながら受けては返した。
「もう終わらなくてもいい。おまえが望むなら、今日も、明日も、十年後も、二十年後も、僕はおまえの球を捕るよ」
 だから今、君は僕の返すボールを受け取ってくれるだろうか。
 桜原の腕はきちんと上がった。指先が軟球のディンプルに吸い付く。
「早く座れよ。打撃投手(バッピ)にだって壁は要る」
「そうだね」
 総志はボールを手放し背を向けた。
 戻ろう。あの永遠のように遠く真空のように近い十八・四四メートルに。
 井沢徹平はあの夏の終わりを覆しそうな打撃で塁に出た。相模雅伸は犠打に全てを託し三年間を済ませた。桜原朔夜は本来認められない打席に立ち、二塁打で後輩をホームに還した。
 桜原は教え子たちにしきりに声をかけた。
 きっと彼らにとっては別人のように。
 総志たちにとっては往年のように。
 彼の父が願った太陽のように、球場の中心を照らした。
 今の灯火である永田慶太郎が厳かに試合を閉じるまで、ずっと。
「新田」
 呼びかけの続きはいつまで経ってもない。
 桜原はただ穏やかに微笑んでいた。
 総志は笑い返しながら、砂まじりの涙を指で拭った。