13話 My Buddy,My Blood - 7/7

別れにも満たないさよなら

 帰りのバスの席も、侑志にとってはひどいものだった。ひとつ隣にずれただけ。監督の真後ろだ。
「新田。ねみぃ。肩貸せ」
「いいけど。痛くないの」
 オッサンのいちゃつきを行きに続いて見せつけられている。何の拷問だろうか。
「ほんと、仲いいね」
 隣の桜原は皓汰から朔夜になった。笑みに含んだ吐息がこちらまで届きそうで、侑志はつい顔を背ける。
「監督も、永田と同じ怪我してたんすね。知りませんでした」
「長北先生のおかげで今はほとんど後遺症ないよ。ここんとこちょっとハメ外しすぎしたんだと思う」
 朔夜は露骨な話題逸らしに付き合ってくれた。盗み見た横顔は伏せられていて表情は読めない。
 試合の後、永田は肩の手術をする旨を皆の前で告げた。肩甲骨周りの損傷を縫合するそうだ。馬淵学院戦が終わった後、監督や平橋の意見も交えて親と話し合ったと言っていた。
『今年の新人戦、僕は見送ることになっちゃうと思います。でも、この夏が思った以上に悔しかったんで。来年や、再来年の夏に、同じ想いをしたくないです』
 富島は傍らで黙って聞いていた。侑志たちが永田の意思に異を唱えられるはずもない。秋はエースナンバーを永田が持ったまま、岡本と侑志で投げていくことになった。
SLAP(スラップ)損傷なんて、初期処置ちゃんとしとけば長引かないのにさ。もっと早く決断しとけばよかったんだよ」
 嘲る口調は朔夜の本心とは思えなかった。
 また強引にでも話題を変えてしまいたいのに、侑志はもう手持ちの札がない。朔夜は井沢の件について何も知らないはずだから、転校なくなってよかったですよね! と口走ろうものなら経緯を説明することになってしまう。
 井沢と相模が急に仲良くなった理由にいたっては、侑志だって知らないままだ。
 沈黙のせいで、必然的に保護者たちの会話が聞こえてくる。
「新田センパイ、今日奥さんにも来てもらえばよかったじゃないですか」
「なに平橋、美映子さんに会いたかったの。会わせないよ」
「新田さん、昔から映斗にだけ当たり強いっすよね」
「平橋、現役のとき藤谷を『名前が一字一緒だし運命ですよね!』とかって口説いてたじゃねえか。それだろ」
「相手にされてなかったし僕は根に持ってないよ。人格的にも嫌厭するほどのこともないけど。安全意識の低さがときどき癇に障るだけ」
「ひええ、私怨より厳しい……」
 これはこれでいたたまれない。平橋含め誰も否定しないということは事実だったのだろうか。
 朔夜が苦笑して右の肘置き――侑志との境に頬杖をつく。
「侑志のお母さん、確かに綺麗だよね。顔だけじゃなくて、振る舞い方とか」
「本人が聞いたら喜びます」
 侑志は無難に答えた。母親がよその男からどう思われているか真面目に考えたくない。
 朔夜は深く頷いた。何かを噛みしめるように。
「うん。やっぱり、違うんだなって思った。いろんなことが」
 侑志は返事に窮して左手をさまよわせた。
 あの日、侑志の家に朔夜が来た日、やはり何かあったのだろうか。母は朔夜をしきりに気にするし、監督はどこか侑志によそよそしい。
 何か訊いた方がいいのかな。
 迷いながらも問いは浮かばず、左手は力なく膝の横に落ちる。そこにあたたかい何かが触れた。朔夜の右手が侑志の左手を握っていた。後ろの席からも死角になるような位置で、そっと侑志の指の背を撫でた。
 理由を尋ねる言葉も、朔夜の清艶な笑みの前にかすんで消えてしまう。
 ひどくずるくて悪いことをしている気分だった。なのに振り払うことも指摘することもできない。この人はきっと俺の気持ちに気付いているんだろうと思った。
 だとしてどうしたらいい。素直に想いを告げるには糸は絡まりすぎてしまった。
 少しの揺れで外れていきそうな手を繋いで、日常に戻るバスにただじっと揺られていた。

「ありがとね。遠征試合で疲れてるのに、遠回りしてくれて」
 朔夜が笑いかけると、坂野輝旭は黙って首を振った。
 控えめな微笑み。話があるから公園まで来てほしいという誘いにも、いつもならもっと大騒ぎするはずだった。わかったと短く答えた坂野は別人のように大人しかった。
 きっと彼なりに朔夜の変化を察してくれているのだ。一番熱く見ていてくれた人だから。
「朔夜さんこそ、疲れたでしょう。オレ何か飲み物買ってくるよ」
 坂野は朔夜をベンチに座らせ遠ざかろうとする。その右手首をそっとつかんだ。自分の利き手にされたら誰であろうと許さない狼藉を、敢えて働いて彼の顔を見上げた。
「坂野。私、父さんとの賭けに勝ったんだ。叶えるの手伝ってくれる?」
「もちろん」
 坂野は内容も聞かず左の手首も差し出した。朔夜は右手の指をそっと添わせる。
「私が勝ったら、部員と付き合ってもいいか訊いたの」
 ぐっと強張った手首の腱。それでも坂野は笑っていた。うん、と頷いて促してくれた。
 父は、そんなこと最初から俺に許可を取る筋じゃないと条件を退けた。朔夜が本当に赦されたいのは別のことだと知っていたはずだ。
 侑志はきっと母親と同じような子といる方が幸せだろうから。あの日侑志の家にいた、お母さんみたいに華やかな子と並ぶ方が綺麗に生きられるだろうから。
 私はどうしても誰かの人生を狂わせてしまうみたいだから。
「坂野は今も、私のこと好き?」
 巻き込むのなら、後先も私と心中してくれる人がいい。
「オレは君を好きでなくなったことなんて、一度もないよ。朔夜さん」
 坂野は跪いて朔夜を見上げる。二度断ったときよりもつらそうな顔をしていて、朔夜にはその理由が解らなかった。
 両腕を差し出して坂野の首を抱く。父と弟以外の異性にここまで接近したのは初めてだった。鼓動は変わらず熱も上がらない。
 めぐらせた視線の先に狙った相手がいた。口唇をわななかせる新田侑志と目が合いひとつ息をつく。駆け去る姿を見送る前に目を閉じる。自分は逃れられないほど柏木夢子の娘で、愚かしいほど桜原太陽の娘だと悟った。
 葉擦れの音も春とは違う。
 片割れの見つけ方を知らない血を自覚するだけで、輝いていた世界は容易く朔夜を裏切った。