忌み枝を抱く

 建て替えた桜原(おうはら)家に初めての春が訪れた。見下ろす桜も心なし初々しい。父が生まれた記念に植えられたものだから、本当は皓汰よりずっと年上なのだけれど。
 間取りを完璧に再現した二階の和室は、瑞々しいい草の香りに満ちている。うららかな陽に引きずられ、皓汰(こうた)はキーボードに指を置いたまま舟を漕ぐ。
 襖を開ける音にはっと顔を上げると、早くも半袖の椎弥(しいや)がにやにやと入口にもたれかかっていた。
「進まない? タバコでも買ってこようか、センセー」
「おまえ。禁煙するっつってんじゃん」
「ごめんって。拗ねる顔が好きで、つい」
 相手にするだけ時間の無駄だった。皓汰は着流しの袖をまくって、画面を埋める余計な文字列を消していく。意味を持たない入力は三ページ分にも及んでいた。
 椎弥は立ったまま、ぱんと乾いた音を立て大きな紙を広げる。
「聞いた? ここらもパートナーシップ制度、導入されたってさ」
 地域ニュースか。椎弥は左寄りの全国紙と古巣びいきのスポーツ新聞の他に、区が発行している広報誌にも必ず目を通している。
 皓汰は黙って画面を睨んだ。
 書いたはいいがこの表現、我ながら鼻につく。もう少し素直にできないものか。
「興味なしかよ!」
 椎弥が丸めた『たかばだより』を投げつけてくる。恐ろしく正確に皓汰の側頭部に当たる。こんなことに元プロ投手のコントロールを使わないでほしい。
「興味はない。関心はあるけど」
 皓汰は紙のボールを広げ直し、お愛想で該当の記事に目を通した。酒を飲みすぎた翌日のクソみたいに臭くて中身のない文字たちが、それらしく囲っただけのセルの中でふわふわと漂っている。
「訂正。関心にも値しない」
 皓汰は紙きれを脇に放った。
 恵まれている自覚はある。皓汰が特に咎め立てされず椎弥と同居できているのは、この土地も家も先祖から受け継いだ桜原家の資産だからだ。部屋を借りることすらままならないと泣いた知人たちを、何も言えなかった己の無力を、皓汰は忘れたことがない。
 そうしてないものとされてきた関係だ。見えないのだからいないと言われ続けた存在だ。具体的な数をもって社会に認識されるようになれば、皓汰も椎弥も大声で指を差されるほどの珍獣ではなくなるのかもしれない。
 だとしても。
「現状『パートナーシップ』は『婚姻』の劣化版ですらない。体のいい詭弁だ。俺は嫌いだよ」
 椎弥に関して、皓汰が法に頼りたいことは一つだけだ。その一つをはぐらかされたまま、口当たりのいい飴で切願を封じられようとしている。
 飢餓を訴える人に向けて、飴一粒で『食わないよりはマシだろう』と。
 皓汰はこれを前進と、善意とは喜べない。
 間に合わない、間に合わないと喉をかきむしりたくなる。
 猛烈に指を動かす。叩き込む単語は想定よりも荒く尖った。
 椎弥が静かに歩み寄ってきて、大きな手で広報誌を拾い上げる。
「だとしても、助かる人も喜ぶ人もいるだろ。詭弁は言いすぎだ」
 皓汰は手を止め中指でエンターキーを撫でた。
 そうだ。解っている。無意味ではない。無価値ではない。ただ、皓汰にとっての吉報では断じてないと言うだけで。
 ――『譲歩』、と打ち込んでみる。自分の文章には一向馴染まなくてバックスペースを二度叩いた。
 与える側の傲慢と蔑視、受ける側の限界と忍耐。すり合わせて生まれた現段階での妥協点のひとつだ。その場から動かないよりは、一周回って戻ってくる方がいくらか有意義だという程度の。
 皓汰はくつろげていた襟を正し、眉を寄せて自分の吐き出した言葉に向き直る。
「俺は古い人間だからね。しみったれた家長制度にどうにかしておまえを組み込めればそれでいい。世間様とお手々つないでやっていく気はないよ」
「じゃあもうおれが石投げられててもキレんなよ」
「身内が個人攻撃されて反撃するのは別でしょ」
「別じゃない。都合のいいときだけ私人にはなれないんだよ。自分を切り売りして飯食ってる、おれらみたいな人間は」
 皓汰は片腕でキーボードを跳ね飛ばし椎弥を睨めつけた。文鳥の描かれた襖のそばに、椎弥はまっすぐ立っている。
「何を怖がってんだよ、櫻井(さくらい)センセー。あんたはいつもどおり自分の責任を果たせ。逃げずに書ききれよ。あんたの言葉を待ってる人間に不実なことだけはするな」
 言葉の険しさとは裏腹に、瞳のカナリヤ色は細かく震えていた。皓汰は揺れる黄緑を悄然と見上げる。
 顔も名も知らぬ者たちからの、数多の期待と理想を背負ってきた人間が言うのだ。皓汰の才が芽吹く前から支えてきた読者が叱責したのだ。どうして無下にできよう。
 皓汰は細く長く嘆息して裾を崩した。立てた片膝ごと机に寄りかかり、口唇を薄く開く。
「椎弥」
「なに」
 呼びかけて響く幸運をきみはくれたのだから。
 離れない選択を死ぬ気でし続けてくれるのだから。
 皓汰は目を閉じて、法も世間も彼方に捨てた唯一の願いを口にした。
「死んだら全部やるから」
 祖父さんのくれた土地も。親父のくれた家も。櫻井皓(おれ)の作品も。積み上がった本も、箪笥に眠る和服も、玄関先の古い桜の木も全部。
「何も手元に残さなくてもいい。ただ一回だけ受け取って、きみのものにしてほしい」
 かなり情熱的な告白のつもりだったのだけれど、ウケはよくなかったようだ。
「ホント無責任だな。こーたは」
 椎弥はゆっくりと瞬きをして、大仰に両腕を広げた。星の一つも抱え込めそうな手だった。
「たとえ二人ともおっ死んでも、この家は必ず後に残すよ。あんましおれをナメてくれんな」
 皓汰は短く頷き、キーボードをそっと元に戻した。
 そもそも椎弥は、一人と落ち着く気のなかった皓汰をすっかり篭絡した男だ。根回しの手腕は今更疑うべくもない。
「ありがとう。『兄さん』」
 素直な心で伝えた言葉は、椎弥の笑みを一瞬で翳らせた。
「その冗談はやめろ。……嫌いだって言ったろ」
 本気で怒っているなと思う。皓汰は彼に見えないよう微笑む。
 これでいい。たまに罰せられないと恩恵との釣り合いが取れない。
 現在、椎弥の姓は生まれたときのものではない。皓汰の父と養子縁組をして法的に『桜原』に変えた。
 手続きをする前も、椎弥は条例への期待をしていた。将来的に同性婚制度が施行される可能性にも言及していた。待てなかったのは皓汰だ。こと人の死に関して『いつか』ほど無力な希望はない。
 一秒後に皓汰の鼓動が止まっても、一年後の椎弥には笑顔が戻るように。生前に何も返せない代わり、死後に幸福が遺るように。
 それが皓汰から彼に渡せる精一杯の、つまりきっと、愛なのだ。
 化粧硝子を横に滑らせると、春の華やかな風が部屋を走り抜ける。皓汰は眼下に咲く桜に向けて、届かない指を伸ばす。
「ねぇ椎弥。毎年秋に桜の枝切るじゃん。覚えてたらそれ俺の棺に入れて」
「やだよベーコンじゃねーんだから。ちゃんと死ぬほど花抱えさしてやるって」
「もう死んでるのに?」
 皓汰は喉を鳴らして笑う。椎弥も付き合って笑ってくれる。
 椎弥が先に逝ったときのことは冗談でも話したことがない。
 つまるところ、一番大きな呪いはそこに眠っているのだろう。