この突き刺さる青の小さな破片ひとつでも

 九回裏はなかった。
 後攻の相手校が三回に二得点を挙げ、先攻の高葉ヶ丘(たかばがおか)は一回から九回まで〇点を連ねた。熱い攻防もなく奇跡的な逆転劇もなく、侑志(ゆうし)たちにとっての夏季大会は淡々と幕を閉じた。
 一年の夏の終わり、踏みしめた土はあんなに湿ってスパイクを汚したのに、今年は軽やかな音を立てて風に舞い上がるだけだった。
 学校に戻って、侑志は主将として最後の差配をした。
 泣いている後輩がいた。声をかけて背を撫でた。謝ってくる後輩がいた。かぶりを振って微笑みかけた。
 同輩は一人も泣いていなかった。
 それはそうだろうと心の内で平板に呟く。
 部室を出ると、木陰に井沢徹平(いざわてっぺい)が立っていた。随分身長も伸びて、二年前崩れ落ちた小さな体躯をはっきりとは思い出せないほどだ。
「新田。この後どっか行くのか? 八名川(やながわ)さんたちみたいに」
 そういえば、先代は試合後ファミレスでお疲れ会をして、二次会でカラオケまで行ったらしい。羨ましいくらいに暑苦しい学年だった。
 副主将――それもたった今終わった――と並び、侑志は網膜を焼く青を見上げる。
「バッテリーは帰るってさ。皓汰(こうた)も疲れたっつーから、俺もまっすぐ帰るよ」
「とことん付き合いわりーな、この代」
 井沢は苦笑した。分かりきった問いを反省するように。
 やっと解き放たれるのだ。重荷を下ろしフラットに戻る。欲するのは休養であって祭ではない。井沢だとて。
 侑志は校舎の壁に視線を転じる。木の影が不安定に揺れている。
 日はまだ高い。やり残したことなど今更ありはしないのに。
「井沢。この後どうする」
 意味をずらした質問を、井沢は正しく汲み取ったようだった。侑志に顔を向け感情のない声で即答する。
「勉強だろ。オレもお前も」
 侑志は頷こうとして、結局やめた。
 都立で東京ベスト八。校数の少ない軟式とはいえそれなりの快挙だ。
 勝ち進むごとにはしゃぐ後輩たちとは逆に、侑志たちは一歩ごとに、ここまでだなと身に染みて理解していった。
 そして、そのように負けた。予想通りの無力さで。想像の範疇の無様さで。自分たちはここまでの選手であると、ひとつひとつ答え合わせを済ませた。自己採点と同じ事実を受け入れた。
 前の夏も、その前の夏も、終わるときには先輩たちが嗚咽をこらえていた。弱いところを見せたことなどなかった人たちが。涙もろい自分はなおさら号泣するだろうと覚悟していた。
 影をたどる瞳は静かに乾いている。
 不完全燃焼とは違う。終わる前に燃え尽きていたから、燃えさしに水をかける必要がないだけのこと。
 悲嘆も後悔も、ずっと手前に下ろしてきた。
「なーんかさ」
 井沢が両手を組んで大きく伸びをする。彼の癖。きっとこれから見ることも減っていく。
「中学のときも夏は終わったのにな。全然違うや。今はもう何も残ってないって感じ」
「そうでもねぇだろ」
 侑志が口にした空虚を井沢は責めなかった。
 お互い、自己否定でのたうち回って一度は野球を突き放した身だ。
 だが今は『やめる』のではなく、『終える』ほかない。
 もしまたグラブを持つことがあるとしても、意義はもう変質してしまっている。切迫した気持ちで試合に臨む機会は死んだのだ。
 そう。死んだ。納得尽くで天寿を全うした。
 球児と呼ばれていた、自分たちというものは。
「まぁ、アレだな」
 井沢が日向に踏み出しながら踊るように振り向いた。無理にはしゃぐ仕種だけは過ぎた日と変わらずに、白い歯を見せて笑う。
「三年間おつかれさん。悪くなかったぜ」
 ああ、と侑志も笑い返す。なるべく自然であるようにと願って。
「ありがとな。付き合ってくれて」
 夢は必ず終わる。燃え、崩れ、砕けては色褪せて遠く逃げ去る。見ていたことすらいずれは忘れるのかもしれない。
 せめて覚えていたいと思った。
 この胸に突き刺さる青の、小さな破片ひとつでも。