楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 7/8

第六章 このてのひらのいろ

◇◇◇

 AH東京総合病院。夜間にここにいるのも初めてではないが、もう最後になるだろうなと澪は特に感慨もないのに正面玄関を見上げた。すぐに興味を失くし、裏に回って建築中の新棟を目指す。
 シャワーのときまとめなかった髪は、量が多いのもあって、タオルだけでは上手く乾かなかった。黒いロングジャケットの背中が不愉快に濡れる。前を開けて、少しでも風の通しをよくしようとした。
 灰色のショートブーツ、編み上げの紐が揺れている。薄いタイツに包まれた脚は、繊維の奥の肌色が透けて見えている。明度の低い赤のミニスカート、秋物と謳っていたのでそろそろシーズンだろう。白のハイネックの上から、胸に手を当てる――本当は誰の為に着たかったのか、ずっと知っていた。彼がこの姿を目にしたとき、最後に驚いてくれたらいいと願う。
 あんなことがあったのに、新棟には警備が誰一人いなかった。見咎められることなく二階へ上がる。廊下では、コガが半身を開いて立っていた。
「戻ってきたのか。久野里澪」
「ああ。お前があの場で神成さんを殺さなかった理由……死体袋の数が合わないからと宮代には言ったが、ずっとどこかで引っかかっていた」
 澪は静かに口を開き、自分が発声できることを確かめながら目前の男を指差す。
「一番の理由は、宮代拓留に対して『コガハヤト』の正当性を証明できる人間が、神成岳志しかいなかったからだな?」
 男が眉をひそめる。澪は己の推論の正しさを確信し、一歩前に出る。
 間合いはおよそ六メートル半。
「そもそも、お前は一体誰だ?」
「俺は、渋谷署刑事課のコガだ」
「そんな人間はいない。神成岳志の後輩のコガハヤトは、もう警察組織には所属していない。所属できない」
「何を根拠にそんなことを」
「お前がそこで『コガハヤト』を名乗れていること自体が根拠だ」
 澪はポケットに手を入れ、小さな長方形を取り出して振った。血のついた手帳。神成岳志の持ち物。
「神成さんはとっくに気付いていたよ」
 男の口許がわずかに引きつる。澪はこれ見よがしにページをめくる。
「『コガハヤト。当時の階級は巡査。二年前に海外での研修中、テロ組織に拉致された。数日のうちに現地の警察に救出され、あらためて警察官としての矜持に目覚める』……陳腐なシナリオだ。安い映画監督が飛びつきそうだな」
 手を止め、澪は静かにその男を観察した。手帳に挟まっていた写真とほぼ同じ顔。
「よく似せたが、顔は乗っ取れても存在は手に余ったか。殺す前に、もう少し本人から講習を受けておくべきだったな。テロ屋さん」
「偽物と本物が入れ替わった? そんなことを本気で考えているなら、そっちこそパラノイアだぞ」
 男が皮肉げな笑みを浮かべる。浮かんでいるだけで、何の感情も乗っていない。澪も余計なエネルギーは割かず、ただ手帳を繰っていく。
「神成さんは、初めてお前に会ったとき、印象が違うが何年も会わなければそんなものかと思ったらしい。そこまではお前もよくやった。だが、過ぎた演技ってのはどうにも臭うもんだ」
 きっかけは偶然。神成は高校時代の思い出話を『コガ』に振り、途中で『これは別の後輩の話だった』と気が付いた。しかし目の前の青年は、ごく自然に話を続けた。それが一番目の綻び。
「お前が辟易していた『神成先輩』の思い出話は、全て本当にあったことだそうだ。しかし、コガハヤトが主体となるエピソードはどれひとつなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。一度や二度なら勘違いもありえる、だが三度以上……まして自分が殴られたかどうかもあやふやだなんて、随分間の抜けた話だろう? なぁ名無し。たとえばコガハヤトが高校時代に喫煙していたなんて事実は全くない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)んだよ」
 男は笑った。ようやく笑った。
「やはりあのとき、二人共撃ち殺しておくべきだった」
「なに、今からでも遅くないさ」
 澪も笑った。鼓動が高鳴っているのが分かった。そうだ。そう。思い出してきた。危うく忘れるところだった。
 久野里澪は(・・・・・)元々そういう人間だったのだ(・・・・・・・・・・・・・)
「さぁ、殺し合おうぜクソ野郎!」
 背中からベレッタM92Fを抜き放つ。クレア・コールマンが持っていたのと同じ、九ミリ口径の自動拳銃。いつか自分を床に跪かせた凶器。メタリックボディが乏しい光を貪欲に照り返す。美しい、とても美しい狂気。
 きっと月が綺麗すぎるのがいけない。

 

◆◆◆

 AH東京総合病院の新棟は、拓留が思っていたより完成に近いようだった。ブルーシートに覆われた入り口を抜ければ、リノリウムの床は月の色を反射して仄白く光っている。
「どうかしましたか、宮代さん」
 まだインテリアの類が設置されていない空っぽのロビーで、その男は人当たりよく、不自然なほど自然に笑っていた。久野里の同僚だとかいう青年だ。
「訊きたいことがあります。ワカギさん」
 拓留は彼の正面に立ち、真っ直ぐに相対した。距離は五メートルといったところ。
「神成さんが撃たれたとき、あなたは現場にいたんですよね」
「はい。ちょうどお茶を持っていったところで……動揺して何もお役に立てなくて、すみません」
 いかにも申し訳なさそうに目を伏せるワカギ。拓留はリアクションせず質問を続ける。
「あなたはどうして、二人があの部屋にいると分かったんですか」
「ボクは澪ちゃんが主任から鍵を受け取るところ、見ていましたからね」
「だったら、もう片方のカウンセリングルームには足を踏み入れていない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)し、現場となった部屋の窓にも触れていません(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ね?」
 ワカギの眉が跳ね上がった。拓留は一歩踏み出して、語気を強める。
「コガさんと久野里さんが現場の隣の部屋で話していたとき、僕は何かがおかしいと思ったんです。窓だ。カーテンを挟んだまま閉まってた。まるで誰かが慌ててやったみたいに」
「コガさんが閉めたのでは? 日中は工事の音も大きかったですし」
 目の前の男はあからさまに不機嫌になっていた。拓留の予感が確信に近づく。
「あのとき、部屋には久野里さんが先に入った。窓は開いていなかったそうです。けれど神成さんが撃たれた部屋は、最初から窓が全開になっていた」
「何が言いたいんです?」
「あなたは、久野里さんが鍵を受け取るところを、本当に『見て』いたんですか?」
 久野里は、『カウンセリングルームのどちらか好きな方』と指示され、片方の鍵を手に神成と部屋を出た。ワカギがもしそれを、『見て』いたのではなく『聞いて』いたのなら。
「同じ場所から出たんじゃ気付かれずに先回りはできませんよね。向かう部屋を特定しきれずに、とりあえず両方の窓を開けていて。外れた方を、狙撃の直前に焦って閉めたのだとしたら……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。そんな言いがかりをつけられても」
「言いがかりですかね。弾道っていうのはガラス一枚隔てるだけで大分狂うそうじゃないですか。コガが久野里さんの言うとおり、神成さんを殺さないよう注意して撃ったんなら、窓が閉まってちゃ困るはずなんです。六十メートル近くも離れた建物からの狙撃だ、その幅が五センチじゃあまりに心許ないでしょう。誰か、病院の関係者が、危険防止のロックを解除したとしか考えられない」
「掃除の後に閉め忘れたんじゃないですか? それにボクは訊きましたよ、『窓を閉めましょうか』って。刑事さんはそれを断って自分で……」
「神成さんが動かなければ、きっと何か気を引くようなことを言って、窓辺に呼び寄せたんでしょうね。まぁ、たらればの話はいいですよ。証拠もあることですし」
 拓留はポケコンを掲げ、画面をワカギの側に向けた。久野里の置いていったものだ。彼女のやり方を真似れば、拓留でも何とか情報を抜き取れた。
「二部屋の清掃記録を見ました。事件の一時間前が最後。そしてどちらの部屋も、事件発生の十五分前、安全システムにアクセスされた形跡がある。窓のセンサーを無効化できるのは、院内のネットワークに接続されたコンピューターだけだ。はっきりしている事実は二つ。現場の窓は清掃後に改めて開けられた、制御室はカウンセリングルームのすぐそば。……あなたは、久野里さんたちにお茶を持っていく前、どこで何をしていたんですか?」
 かつて憧れた主人公ごっこ。そんな幼稚な自分を心底呪った時期もあった。もう、なりふり構ってはいられない。滑稽な探偵でも、英雄気取りの道化でも、何でも演じきってみせる。宮代拓留は、残虐な悲劇を何としてでもぶち壊しにする。
眼前の青年は、舌打ちをして片手で髪を崩した。
「っどくせぇなぁ……」
 声のトーンが急に変わった。その男は眼鏡を投げ捨て、口唇の端を邪悪に歪める。
「あのさぁ。なんか勘違いしてるみたいだから言っとくけど、新米の雇われはあいつの方。ニュージェネも本当はオレがやるはずだったんだ。四年も前から、ずっとオマエらを監視してたのはオレの方なんだぜ?」
 拓留は息を止め、半歩後ずさった。
 読み誤った。踏み込んではいけなかったのは(・・・・・・・・・・・・・・)こいつの方(・・・・・)――!
 一瞬で距離が詰まる。胴を脚で払われ身体が宙に浮く。無人の受付台に背中から突っ込む。痛みに咳き込みながら、拓留はつい笑みを浮かべていた。
 だったら、当たり(・・・)だ。僕がヤバい方を引いたのなら。
「上の指示とはいえ、やってらンねェよな。オマエをいじればあのいけ好かねぇ妄想野郎が飛んでくるってんならさァ、もう直接ブッ壊しちまった方が早くねぇ?」
 下卑た笑い声で覚る。
一件目の『またおまえか』は神経質なほどの手口、恐らくコガの犯行。二件目の『草生える』は短絡的でむらっ気があった。こいつだ。こいつが先走ったのだ。結果、余計な手掛かりが残り、コガは計画を修正しようと焦るあまり、神成岳志の狙撃で判断ミスをした。
「って、みろよ……」
 拓留はゆらりと立ち上がった。
 もう『あの子』はいない。追い詰められて、泣きたくなっても、狂いたくなっても、励まして背を押してくれる『親友』は、世界の内にも外にも、どこにもいない。
 だけど。だから。
「壊してみろよ。僕を育てた佐久間恒にできなかったことを、お前ごときができるっていうんなら……やってみせろよぉッ!!」
 だからこそ拓留は一人で、独りで、戦って生き残らなければならない。
 武器はない。勝算もない。味方もいない。ぶつかり合う身体に込められたのは、愚かなまでに真っ直ぐなだけの意志。

 

◇◇◇

 久野里澪は何の訓練もされていない素人だ。己を屈服させようとする力に抗い続けた、些細な反逆児に過ぎない。喧嘩ならまだしも、戦闘をしたところで結果など見えている。
 飛び道具を持ち出すのなら、必殺でなくてはならない。銃の扱いにも慣れないが、薬室の一発と弾倉の十五発のうち、致命範囲にいくらか叩き込めれば上等なはずだった。
 あくまで理屈の上では。
『撃てるのか』
 コガは英語で短く吐き、澪に肉薄する。引き金を絞る暇もない。気付いたときベレッタの銃口は、澪を冷たく睨んでいた。
 着火しなかった銃弾がひとつ床を転がる。続いて弾倉が降る。銃の下部とスライドも。
 澪もようやく事態を理解する。コガは左手で銃身を掴み、澪の腕をくぐるようにして右手で銃把を握ったのだ。そして思いきり銃を反転させた。澪の指は勢いに負け、まんまと得物を奪われた。ここまでの動作、わずか二秒にも満たない。
『これじゃあ撃てないな!』
 澪は笑いながら全力で腕を振り抜く。コガは既に間合いの外に飛び退いている。
『何故そう死に急ぐ。自殺願望があるにしろ、上等な死に方というものがあるだろうに』
『上等な、死なんて、あるか――』
 憐れむような口調が癇に障った。言い回しが鼻についた。久しぶりに口にする英語は反吐が出るほど舌に馴染んで澪をハイにする。
『どんな死も殺しも全部ただの終わりだ! 天国も地獄も来世もない、あってたまるか! 終わるんだよ、等しく……何もかも!』
 軽率に挑んではいけないと解っているのに衝動が勝った。ただ相手を殴り倒したくて飛びかかった。
 何でもよかった。どうでもよかった。
『お前が死にさえすれば……!』
 ――すれば、私は他のことなんて、もうどうだっていいんだ。
 男の顎を突き上げようとした拳が叩き落とされる。眼孔を狙った指が弾かれる。股座を狙って右脚を振り上げる。膝を殴られて骨全体に固い痛みが走る。腰を捻り右肘を浮遊肋骨に叩き込もうとする。掴まれた右腕を諦め左の掌底でこめかみを目指す。シャツの襟を掴まれ壁に叩きつけられる。男の喉笛を噛み千切ろうとした歯がワイシャツの襟を擦る。爪先も届かない苛立ちに激しく叫ぶ。
 声帯の振動は意思の伝達を捨てていた。言語の体を成さない咆哮が空気をつんざく。生存本能ですらない純粋な害意だけが、世界を占める存在という存在を拒み猛る。
 ここにはいたくない。留まりたくない。自らに関わる全てを終わらせてしまいたい。
 滅んでしまえ。何もかも。何もかも。何もかも。……何もかも!
『まだ生きたいかと問うた答えがそれか。狂犬というのは噂どおりだな』
 唐突な破裂音がした。あつい、と頭に言葉が戻る。右脚が熱い。リボルバーの銃口を仰いで澪の膝は崩れた。大腿部の外側の肉がえぐれていた。二十年以上かけて育ってきたものが、壊れるときは一瞬だとは。
 意識がふっと遠くなっていく。
『タフな犬なら、躾ければ武器ぐらいにはなる。俺のようにな』
 コガは身をかがめ、澪のタイツを引き裂いた。痛みよりも不快な感覚が身体中を駆ける。
 その男は、自らが傷つけた女を助けようとしていた。偽善的な手つきが触れていくのは、澪が別の男に初めて許したばかりの薄い皮膚。
 かすむ視界に、先程落ちていった、ばらばらの銃が映る。手の届く範囲にある。
 澪は静かに金属の塊を握り締め、その男の頭部目がけて振り上げた。

 

◆◆◆

 拓留は元々、運動があまり得意ではない。症候群にかかる前からそうだった。ずっと『   』と一緒にいたから、殴り合いの喧嘩も野蛮な遊びも慣れていなかった。
 あの事件が終わって、常人よりも慣れたものがあるとしたら。
 殺意。自らを害そうとする者から、形なき刃を向けられること。
 また顔に拳が当たった。無様に床に転がった。腹に蹴りが来る前に、ふらつきながら立ち上がる。
 吹き飛ばされた回数はとっくに数えるのをやめた。口の中はずっと鉄の味だ。歯の一本や二本折れているかもしれないが、この痛みではよく分からない。
 だとして、どうだというのだ。たまった血を吐いて捨てる。
「そんな、程度かよ」
 落ちた眼鏡を拾ってかけ直す。
「こんなチンピラまがいのことで、僕をまた妄想に追い込めるとでも思ってるのか!」
 安い挑発だと解っていた。乗ってくれるのだから文句はどうでも構わない。
 ワカギは暴力慣れしているが、動きは素人だ。工夫次第で渡り合える。幸い、工事中の建物にはいろいろなものが転がっていた。カラーコーンを手にして足下に投げつける。存外に脆いプラスチックでバランスを崩させる。積んであったタイルを盾に、雑な打撃を受け流す。後ろ手に掴んだシートを思いきり振り抜き、拓留は飛び退いて敵から距離を取った。
「ちょこまかと鬱陶しいなァ……」
 ワカギはふらと、トイレと思しき小部屋に消えていく。戻ってきたその手には、細い鉄パイプ。
「さっさと、あのクソアマを殺しておくんだった」
 血走った眼は、拓留に焦点が合ってはいない。手の平に金属の筒を叩きつける度、不穏な音が未完成の廊下に響く。
「さっさとひん剥いて、ブチ犯して、バラして、テメェんちの玄関先に飾っておくんだった。久野里澪……あの生意気なクソ女!」
「おま、え」
 不意に持ち出された別の名前に、拓留の視界が揺れた。下劣な遠吠えが鼓動をどんどんおかしくする。
「ハ、なんだよ。心配しなくてもちゃんと穴は残しといてやるよ。童貞でも犯りやすいように手足はしっかり落としてさァ――」
「黙れェエッ!」
 拓留はワカギに走り寄り、右の拳を突き出した。
 大振りになった(・・・・・・・)。眼前の男が笑う。
 狙いどおり(・・・・・)
 拓留は一瞬息をつき、襲い来るワカギを見定める。右腕を狙った鉄パイプ。外すなよと胸中で呟く。前腕に衝撃。骨の軋む痛みに耐えながら、拓留は左手を振り上げワカギの耳を勢いよく張った。潰れた悲鳴。間髪入れず顎に掌底を叩き込む。
 拓留は肩を揺らしてワカギを振り払う。右腕は痺れているが折れてはいない。
「僕はもう子供じゃない。二度と、激情に任せて人を殺したりしない。どれほど憎くても、自分が死にそうでも……もう誰も殺さない」
 拓留は以前、この手で人を殺した。殺すつもりで殺した。父と呼んでいたあの男は、どうしようもない外道であったがそれでも人であった。
 悶え苦しむワカギに背を向け、歩き出す。真っ直ぐ進めているかも疑わしい。それでも拓留は笑みを浮かべて、身体を少しずつ引きずっていく。別の人間の気配がする方へ。
「ねぇ、久野里さん。今一人殺さなかったところで、僕の手は血の色ですけど――」
 あなたのそれは、『罪』であろうと『認識ある過失』のはずなんだ。あなたは子供たちが死なないと信じていたからこそ、あの結果を受け入れることがつらかったはずなんだ。
 だから。
「僕にとっては、あなたはまだ……」
 むせた拍子に赤い塊が出た。自覚している以上に殴られていたようだ。
 それがなんだ。だからなんだ。行くしかない。止めるしかない。
 拓留はふらつく足を必死で前に運び続けた。

 

◇◇◇

 空のグリップエンドが男の後頭部に迫る。当たってくれれば幸運だが上手くはいくまい。
 男の手が無造作に澪の手首を掴んで、反対の手が澪のみぞおちを突いて、暗転する。そう感じていた。そのはずだった。
「久野里さん!」
 ――澪の予想が当たったのは銃底が届かなかったところまで。男の身体は突進してきた影によって、澪の眼前から退けられていた。
「こいつは僕が止めます、逃げてください!」
 低い姿勢で両手を広げた宮代拓留は、どう見ても満身創痍だ。どこでそんな怪我をしてきたか知らないが、コガには二人がかりでも敵いそうにない。
「格好、つけやがって」
 澪は力なく笑って、宮代に手を伸ばした。肩に手を置くつもりが届かず、背中にもたれかかってしまう。
 コガの英語が冷淡に響く。
『ミヤシロタクルか。加減を知らない素人が増えるのは面倒だな』
『やはり宮代は生け捕り指示か。生餌じゃなけりゃ、魚も見抜いて逃げちまうもんな』
 英語で呟き返してから、もうこれはやめようと思った。
 激情を垂れ流すのはやめだ。ちゃんと精査して、整った台詞で、彼の生きてきた言葉で空気を震わせたい。
 日本語はやわらかく澪の喉を潤した。
「宮代。お前こそ逃げろ」
「そんな状態で何を意地張ってるんです!?」
「意地じゃない。……私には同じことなんだよ。お前が終わった世界を生きるのも、ここで死ぬのも。だから」
 指先でコガの落とした銃の部品を手繰り寄せる。組み上げて完璧な凶器に戻していく。
 そうだよ。いくらまともぶったって、私は他人と同じように生きてはいけないんだ。誰かを想ってみたって、結局こういう風にしかやっていけないんだ。
 幸いと言っちゃなんだが、私はもう人を殺しているから。自分を受け入れてくれた子たちを、目の前で死なせてしまっているから。今更、何も変わりはしないんだ。
「さよならだ。宮代」
 最後に名前を呼びたかったなんて、そんな我が侭すらも通せなかった。
 宮代を後ろから突き飛ばす。ベレッタの照門(リアサイト)照星(フロントサイト)・コガの額が一直線に並ぶ。三八口径のリボルバーも澪を捉えている。撃鉄を起こす気遣いもなく、澪はダブルアクションの引き金に指をかけた――。
 乾いた銃声が一発。世界が制止したような錯覚。コガの口唇が何かを発しようとして、高速の物体を胸部に食らい大きく痙攣した。銃口はまだこちらを向いていたが、頭部に更に二発叩き込まれてようやく落ちた。
 宮代が澪の背後を振り向き、かすれた声で呟く。
「神成さん……」
 神成岳志は術後の患者衣に、スーツのジャケットを肩だけで羽織っていた。右手は首から吊られており、左手には四発を放ったばかりの拳銃。
 神成は片足を引きずるようにコガに歩み寄り、完全に絶命していることを確かめたのか、その場に座り込んだ。
「二人揃って、本当に俺を殺す気か」
「すみません」
 宮代は謝りながら、澪の手を掴んで銃を下ろさせる。実は、薬室に弾が送り込まれていない……要するに何も起こらなかったということに今気付いたのだけれど、黙って従った。
 宮代も何も言わない。小さく息を吸っては、言い淀んで口を閉ざす。その度に澪の肩を抱く手に力がこもった。
「っ、た……」
 発せられた声はあまりに細く、最初は誰のものかも分からないほどだった。
「終わった。やっと……終われる」
 神成は背を丸めて涙を流していた。澪も宮代も、かける言葉がない。ただ身を寄せ合って目を閉じる。
 警官は、先輩を含む多くの同志を喪い、後輩と思った男を殺めて仇討ちを果たした。
 少年は、妹を奪われ友人を壊され、父だった男と無二の親友だった少女を手にかけた。
 少女は、年下の友人たちを死なせ、殺したいと願った者たちと共に血を流した。
 十二年は。六年は、それぞれにとって、あまりに長かったのだ。
 神成の嗚咽に、いつしか澪のしゃくりあげる声も混じっていた。宮代も澪に胸を貸しながら、ずっと震えていた。
 終わった。やっと、終われた。
 死の匂いの残る病院の廊下で、三人はそれぞれ別の魂を想って泣いた。