楽園追放 ―Children’s AnotherEden― - 8/8

第七章 卒業おめでとう

◆◆◆

 久野里の脚の怪我は、本人曰く『大したことじゃない』らしい。初期の止血はしてあって、圧迫するのには神成の腕の三角巾を借りた。
「すぐに、ここへ他の警官が来るはずだ。その前に見ておいてほしいものがある」
 神成は鼻をすすりながらポケコンを取り出した。持っていたのかと久野里が大袈裟に驚いているが、拓留も同意見だ。
「いいから。読んだらすぐ消せ、わかったな」
 示された画面に目を遣る前に、拓留は久野里の顔を見た。まぶたは半分閉じているし、頭もふらふら揺れている気がする。
「大丈夫ですか、久野里さん」
「だいじょうぶじゃない」
 外の空気が吸いたいと言うので、拓留は神成にポケコンを借り、久野里に肩を貸した。正面玄関より二階庭園の方が近いようだ。自分も片腕を痛めているから、背の高い久野里を負って歩くのも一苦労だったけれど、彼女は不器用な道中何の文句も言わなかった。
 金属の扉を開け放った先は、打ちさらしのコンクリート。いずれは豊かな緑が植えられるのだろうか。今はただ風が通っていくだけだ。
 壁に並んでもたれかかって、互いに肩を触れ合わせた。ほんの小さな温度。浅い呼吸の音。拓留はポケコンの縁をなぞる。
「これを読む前に、言っておきたいことがあって」
「何だよ。関白宣言か?」
「茶化さないで、ちゃんと聞いてください」
 か細く震えた冗談を突っぱねて、拓留は神成のポケコンを一度置いた。不自由な右手で、力の入っていない華奢な指を握る。キーボードの上を踊るように跳ね、いろいろなものを叩き崩してきた残酷で美しい手。
「格好つけやがってって、あれ、僕の台詞なんですけど。最後に肌を重ねて出ていくって、B級展開すぎて面白くないですよ」
 久野里は何も言わなかった。黙って、拓留の肩に鼻先をすりつけた。拓留は身を捻り、左手で、優秀なくせに馬鹿な頭を撫でてやる。
「あなたはそれで思い残すことなんかなかったのかもしれない。でも、僕はどうなるんですか? あのまま二度と会えなかったら……」
「そうなればいいと、思ってた」
 久野里の手が、拓留の襟元を弱々しく掴んだ。すぐに解かれて滑り落ちていく。
「私のことを、忘れられなくなればいいと思った。私なしでもお前は笑っていられると見せつけられるくらいなら、そんな世界を観測する主体なんてなくなってしまえばいいって」
「怖かった?」
 拓留の問いに、久野里は微かに俯いた。拓留は彼女の頭を胸に抱き寄せる。
「僕も怖かった。あなたが僕を必要としなくなることより、あなた自身が終わってしまうことの方が、ずっと」
 うん、と久野里は小さいけれど確かに言って、今度こそ強く拓留にしがみついた。
「先へ進もう」
「はい。一緒に見ましょう。神成さんから預かったもの」
 片手同士を繋いで、余った手で拓留はポケコンを星空にかざした。そうして二人で、そのメールを読んだ。

 

 神成岳志様
 お久しぶりです。覚えていますか?
 尾上世莉架です。高校生の頃はお世話になりました。
 申し訳ないと思ったけど、百瀬さんに連絡先を聞いてしまいました。他に誰を頼っていいのか分からなかったのです。
 この前(八月二十七日頃だったはずです)、家の前で猫が死んでいました。誰かに殺されて、置き去りにされたのだと思います。首輪に紙がはさまっていて、私の渋谷での罪を暴くとか、そんなようなことが書いてありました。恐くて捨ててしまったので、現物がなくてごめんなさい。
 前の私が、どんなひどいことをしたのか、はっきりと覚えてはいません。
 でも、知ってしまっています。事情まではっきり思い出したわけではないけれど、でも、知ってしまっています。
 覚えていないから許されるなんて、そんな軽い罪ではないことも分かっています。これまで守ってくださった方々にはとても感謝しているし、求められればいつでも裁かれる覚悟でいます。
 それでも、ひとつだけわがままを言わせてください。
 私は、もう宮代さんを巻き込みたくはないのです。あの人が私にとってどんな人だったのかも忘れてしまったけれど、ニュースで『無罪』の文字を見たとき、大声を出して泣きました。もういいんだって、嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
 あの人の大切なものが、私のせいでまためちゃくちゃになっていくなんて、そんなこと耐えられません。
 本当に身勝手なのは分かっています。私はいくらでも償います。
 だから宮代さんを守ってあげてください。お願いします。どうか連絡をください。

 

 送信日時は八月三〇日。当日中に神成の返信があって、次のメールは八月末日。

 

 ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。
 私がこんなことを言える立場でないことは分かっているけれど、あの人が自分の全てを許せる日は、きっと来ないのだろうと思います。
 だから、彼の『親友』の代わりに、彼自身の代わりに、彼を心から許して、共に歩んでくれる人が現れることを、遠い空の下で願っています。
 どうか何事も起こりませんように。
 あの人が笑って生きていってくれますように。

 ×× 世莉架(旧姓・尾上)

 

「……世莉架」
 落としそうになったポケコンを、久野里が受け止めてくれた。彼女が微笑んで差し出す画面へ、拓留は跪く。幾粒も幾粒も雫が降った。
「あり、がとう」
 また君が、守ってくれたのか。事件の始まるずっと前から。まだ君は、僕を見守ってくれていたのか。
「ありがとう。君のおかげで、会えたよ」
 君が一生の伴侶を得たように。僕がどんなに馬鹿で、罪深くても、共に歩んでくれるひとを、見つけられたよ。だから。大丈夫だから。
 僕らは別々に、笑い合って生きて行こう。
 そして。
「もう、さよならなんて、言わないで」
 拓留は、この五年間自分を想い続けてくれたひとの手を取り、目を細めた。
「僕と一緒に、生きてください。澪さん」
「名前を――」
 彼女は遠慮がちに拓留の手を握り返しながら、小さく笑う。
「私も名前を、呼んでも、いいか」
 頷く。拓留、と、彼女が呟く。はい、と拓留が答える。繰り返す口唇はやがて近づいて。
「拓留。一緒に、生きたい」
「ありがとう。澪さん」
 この胸の痛みは、贖罪でも断罪でもない。甘い禁忌を口に含んで、罪を抱いて生きていく。箱庭の子供たちは、運命の枠に収まることを完全に捨て去った。
 即ち、産まれ落ちた楽園からの追放。
「いやぁ、なかなか感動的な見世物だった。よかったよ二人共」
 場違いな間の抜けた声と、乾いた拍手。拓留と久野里は素早く身を離し、同時に互いをかばおうとした為に一回ぶつかった。
「息ぴったりじゃないか。早速見せつけてくれるね」
 和久井修一が立っていた。拓留たちを弄んだ、委員会のギガロマニアックス。
「今更何をしに来た……!」
「ご挨拶だなぁ、宮代くん。僕はオシゴトに来たんであって、式のスピーチに来たんじゃないよ」
 和久井が指を鳴らすと、両手両足を拘束されたワカギが現れた。意識は全くないようだ。
「ほら、キミ、とどめを刺さなかったろう? 不用心だよなぁ、もう少しで後ろから殺されるところだったんだよ。あ、捕まえておいたのは僕からのご祝儀ってことでよろしく。現金は老後を考えて節制してるんだ」
「よし、死ね」
 久野里が拳銃を抜こうとする。あーもうそういうの困るよー、と和久井が腕を振る。銃は弧を描いて飛んでいった。
「彼らも勘違いしてくれて参ってるんだけど、僕はもうキミたちに用がないんだ。知ってるかな? おととしから去年にかけて、委員会の一派が暴走して、種子島とか結構な騒ぎになったんだよ。僕は後始末でいい成績を挙げたんで、序列が思ったより戻ってね。それが面白くない連中もいたってことさ」
 軽い調子で続けざまに情報を投げつけられ、拓留は上手く反応ができなかった。序列とは、そんなボーナスのように下がったり上がったりしていいものなのだろうか。
 ま、と和久井は両手を大袈裟に叩いた。
「要するに。僕にはこれ以上続ける旨味がない。リタイアだよ。ゲームはキミの、いや、キミたちの粘り勝ちだ。今回はちゃんと死体も生きた犯人も残しておくから、刑事さんもそろそろ往生してくれたら助かるなぁ」
「なら、委員会は」
「うん。キミたちが何かしら不利益を生む行動をしない限り、こちらからは手出ししない。ただ」
 ひゅ、と鋭い音が鳴る。拓留の喉元に、リアルブートされたディソードの切っ先がある。
 和久井は笑みを浮かべ、巨大な刃をゆっくりと動かす。淫らなきらめきが宙を舐める。
「邪魔だと判断したら、我々はキミたちにどんなことでもする。その手を二度と繋げない状態にもできる。いつでもだ」
「やれるものなら、やってみろ」
 これはもうゲームではない。拓留は真っ直ぐに宣言する。
「お前たちの思いどおりにはさせない。最後の一秒まで、僕らの人生は僕らだけのものだ」
「いつか私たちは、お前たちの思い上がった『妄想』を殺しに行く。抗いではなく、自らの意志で挑みかかる。首を洗って待っていろ」
 久野里は決然と言い放ち、拓留の右手を握った。拓留も、今は上手く動かない指先で握り返す。互いの生命の熱がここにある。
「若者は元気で結構。せいぜい頑張ってごらん」
 和久井は無造作にワカギを蹴り、妄想の庭から追い出した。スーツのポケットに手を入れ、軽く首を傾ける。殴りたいほど晴れやかな笑顔だった。
「さ、話はこれで終わりだ。キミたち二人共、高校の卒業式は出てないだろう? 時季外れだけどまぁ、こういうのも悪くないんじゃないかな。鉄板鉄板。仰げば尊し、ってね」
 どこからともなく風が吹いた。広場の中央に立派な樹が生えていた。無数の片がざぁと舞い、視界を薄紅に染めていた。
 蒼天に満開の桜の花。この時間、この季節には見られるはずのない、あたたかくやわらかな景色。 
 それはまるでとてもありふれた、
『六年間、大変よくがんばりました。卒業おめでとう。宮代くん、久野里くん――』
 とてもありふれた文句と共に、和久井修一の姿はかき消えた。青空も花吹雪も、跡形なく霧散した。
 拓留が一度は『先生』と呼んだ男は、こうして桜の香と共にいなくなった。

 

「一晩で蹴り出すくせに入院扱いとは、あこぎな商売だな!」
「聞こえますよ……」
 ベッドに座った久野里に、拓留は何度目かも分からない注意をした。
 九月二十一日。午前十時ともなれば病室も明るい。
 拓留たちはあの後、駆けつけた警官たちによって運ばれ治療を受けた。拓留は右腕をはじめ、打撲と軽い裂傷が多数。歯はどうにか全部無事だった。
 久野里の銃創も、重大な血管は外されていたらしい。傷口の洗浄と点滴後、熱が出なかったので翌朝には退院となった。
「書類書き終わりました?」
「ああ。事務所に出してきてくれ」
「そうしてあげたいですけど、提出は本人か家族じゃないとダメなんですよ」
「委任状書く」
「ダメです。ほら、立つの手伝ってあげますから」
 借りた松葉杖を持ってきてやって、左腕を伸ばす。意図は分かっているだろうに、久野里は拓留の腕を引っ張って、ん、と不機嫌そうに口唇を尖らせる。
「しょ、しょうがないな……」
 意外と甘えんぼうなんだからなぁ、と拓留は彼女に顔を寄せる。が。
「久野里さん! 宮代くんはまだいるか?」
「そんな気はしてましたけどね!」
 前触れなくドアを開けた神成に、拓留は天井を仰いで遺憾の意を示した。神成は慌てた声で今更な謝罪をくれる。
「あっ! わる」
 い、と最後の音は悲鳴混じり。思わずドアノブを離したらしい。片手しか自由にならないため、閉まりかけた扉を押さえられず頭をぶつけたのだ。入院病棟のドアがそんなに重いのもよくない気がする。
「コントがしたいだけなら出てってくれ」
 憚りなくあくびする久野里。きっと全部解っていてやったのだろう。
 神成は咳払いをし、改めて部屋に入ってきた。今日はスーツ姿だが、ノータイで、ジャケットの右袖には腕が通っていない。
「とにかく、二人共大した怪我じゃなくてよかった。だが、結果的に犯人が確保できたとはいえ、二度とあんな無茶はしてくれるなよ」
「それより、あんたの処分はどうなった。被疑者死亡にしても四発叩き込んだのは……」
「あー」
 神成は左腕を左右に振り、久野里の台詞を遮った。
「いいか、久野里さん。あんたは丸腰だった(・・・・・・・・・)俺は相手に警告した(・・・・・・・・・)。あいつは銃を持って他人の生命を脅かそうとしていて、一刻の猶予もなかった」
「オーケイ、そっちの方が私も傷は浅い」
「宮代くんもいいな?」
「……分かりました」
 仕方ないので拓留も頷く。要は『正当防衛』が主張できる線で口裏を合わせろ、ということらしい。もっと大きな口裏合わせを頼んだ身としては何も言い返せない。
 図太い要求をするくせに、ちょっと決まり悪そうに頭をかく仕種など、相変わらずとも感じるけれど。
「俺は捜本に呼び出されてるからもう行くが、二人も出るところか」
「そうですけど、僕らも一緒に行った方がいいですか」
「いや、少し身体が落ち着いてからでいい。また連絡する」
 神成は歩み寄ってきて、拓留の手から二人分の書類を抜き取った。しげしげ見ていたのは請求書だ。ひとつ首を縦に振り、戻してくる。
「保険会社の金って、すぐに手元には来ないだろう? 返さなくていいから、これで払うといい」
 神成はスラックスの後ろポケットから剥き出しの札を出し、片手で器用に数えて、拓留の上着のポケットに突っ込んだ。結構な量の紙幣だ。
「ちょ、もらえませんよこんな……!」
「私はもらう」
「澪さん!」
「君たち、足して二で割ればちょうどいいのにな」
 苦笑して、神成は親指で廊下を指す。
「世話になった礼だ、受け取ってくれ。ま、どっちもちゃんと三割負担で助かったけど、流石にちょっと手持ちが危ういかな。宮代くん、ATMの場所って知ってるかい」
「あ、外来病棟に繋がる渡り廊下のところです。すみません、いろいろしてもらっちゃって」
「お互い様だろ。じゃあ、また」
 拓留はまだ言いたいことがあったのに、神成は一方的に用を済ませたら行ってしまった。
「あいつ、絶対ATMの場所知ってるぞ」
 久野里は眉をひそめて、拓留の上着を指差す。
「それ。一介の刑事が、捜査中に持ち歩いてる量か? 片手で財布の開け閉めができないから、下ろした金をそのままケツにブチ込んだんだ」
「尻ポケットにしまった、ですね」
 拓留は律儀に訂正して、渡り廊下を見遣った。神成が気付いて目配せしてくる。口の動きは『がんばれよ』と言っているように見えた。
「結局、ああいうとこ敵わないなとは思うんですけど」
「けど、しょうもないなとも思う」
「それなんですよね」
 気を取り直して、拓留は久野里に向き直る。
「そろそろ本当に行かないと。迎え頼んでるんですから」
「それよりお前、いい加減敬語やめろよ」
 久野里は松葉杖片手にすっと腰を上げた。アシストせずとも滑らかな動きだ。
 拓留はばつが悪いのを、ぶっきらぼうな口調でごまかす。いつもの彼女みたいに。
「じゃあ、澪?」
「誰が呼び捨てていいと言った」
「解禁条件が細かい」
 しかめ面を見合わせて、同時に笑ってしまった。
 荷物を持ってやり、一緒に病室を出た。戻ってくる予定はもうない。

 

◇◇◇

 手続きを終えた澪たちが正面玄関を出ると、一台の車が脇の駐車スペースからクラクションを鳴らした。青いコンパクトカー。運転席の女が窓ガラスを下げる。
「おはようございます、久野里さん」
 南沢泉理だった。後ろには山添うきと橘結人も乗っているらしく、おはよーございますと姉について挨拶してくる。澪は松葉杖のまま車に近づく。
「お前、免許持ってたのか」
「あると便利ですもの。維持費がもったいないからカーシェアリングですけど。後ろ狭いから助手席に……あ、向こう側のが乗りやすいわね」
 ちょっと待ってくださいねと気安い口調で言いながら、南沢は再び窓を閉じる。車体の角度を変えてくれたので、わざわざ回り込まなくともよくなった。
 宮代が先に立って助手席のドアを開ける。他人に何かをさせることには慣れている澪だが、真心でやってもらえるという状況はあまり得意ではない。黙ってシートに腰を下ろす。シートベルトも宮代が留めてくれた。
「あ、澪。杖そこにあると邪魔だろ、後ろに寝かせとく」
「……ん」
 澪は持て余した松葉杖を素直に預けた。バックミラー越しに、斜め後ろの結人が見えた。何か言いたげに口許を動かしていたのが正直気に入らない。
 上の姉はもっと無遠慮で、にやにやと流し目を送ってくる。
「澪、ねぇ」
「うるさい」
 当の宮代は、後部座席に乗り込んでいる最中で聞いていなかった。
「兄さん、真ん中、真ん中」
「どうしたんだよ、うき。はしゃいでるな」
「約束、守ってくれたのが嬉しいんだもの」
 山添、宮代、結人と横並び。見たところスペース的な余裕はなさそうだ。
「泉理、これ狭くないか? 僕もだけど、もう二人もいい大人じゃないか」
 と言いつつ、兄はまんざらでもない様子。私は平気、僕もと後部座席の意見が一致したところで、南沢が澪に水を向ける。
「で、どうしますか。久野里さん」
「何が? 帰るんだろ」
「ええ。帰る場所の話」
 南沢は小さく伸びをした。
「青葉医院での療養をご希望なら、看護師一人と見習いが一人、あなたの教え子が一人に召使いが一人つきます」
「おい召使いって僕のことか?」
「あとは三食出ます。それとも」
 宮代の抗議を無視し、南沢は朗らかな笑顔を澪に見せた。
「慣れたお部屋で、拓留だけがいてくれた方がいいかしら。家のことは大してできないけれど、優しさなら誰にも負けないはずだから」
「……本当に性格の悪い女だよ」
 澪は苦さを隠さない口調で言ったのに、あら久野里さんに褒められちゃったと本人は舌など出している。後ろの山添は、心からの善意という顔で片手を挙げてくる。
「だったら私も、通いでお世話させてください。姉さんほどは無理ですけど、ちょっとはお役に立てると思います」
「うき姉ちゃん、それ野暮かも」
 結人が両手で目を覆っていて、宮代も居心地が悪そうに膝をすり合わせていた。
「うきの手が必要になったら、ちゃんと呼ぶから」
「うん、いつでも!」
 山添が嬉しそうに頷いて、多分わかってないよねーと結人が首を振った。
 ぐだぐだの空気を、南沢の打った手が引き締める。
「で? 久野里さんのご意見は?」
「静かな方がいい。お前の家はうるさくてかなわん」
 澪は相手をするのが面倒になって目を閉じた。カーナビの操作音が聞こえてくる。
「うるさいっていうのは聞き捨てなりませんけど。本人が落ち着ける環境の方がいいわね、やっぱりそちらのお宅にしましょう。えっと、お住まいは」
 せっかく下ろしたまぶたを上げて、澪は殴るように自宅の住所を入力した。
 車がようやくゲートをくぐり、公道へ出る。後ろの三人が盛り上がり始めたのを視線で確かめて、澪はひとつの疑問を口にした。
「……伊藤は?」
「よかったって。それだけ」
 聞こえなければ構わない気でいたのだが、南沢は即答した。こぼれ出た言葉の不足を補うように、もっとゆっくりしたテンポで続ける。
「それだけを、何度も繰り返していました。……拓留のこと、ずっと心配してくれて。本当に、ずっと、それだけは変わらなくて」
 澪は相槌も打たずに窓の外を見遣った。
 伊藤真二は、症候群ではあったが能力者ではなかった。宮代拓留と関わらなければ、何も知らず無垢なまま青空の下で笑えていたのだろう。
 しかし伊藤は、そのうえで宮代の無事を『よかった』と言った。
「泣いていたのを知ったら、拓留はまた気に病むだろうから、自分のことを訊かれたら『何もなかった』って答えるだけでいいって。私の方こそ、泣かずにいるのが大変だったんですよ」
「似たような奴ばっかり集まるな。あいつの周りは」
 ちらと宮代に視線を向ければ、あなたもでしょと南沢は心外なことを言う。
「あんなに嫌ってた私たちの為に、何年もずっと尽力してくれてありがとうございました。あ、『症候群者(わたしたち)』じゃなくて『拓留(あのこ)』の為だったかしらね」
 澪は俯いて歯噛みした。足がこうでなければ、ドアを叩きつけて歩いて帰ってやるのに。南沢は一拍笑った後、不意に真面目な顔になってハンドルを握り直した。
 三連休明けの火曜の朝。病院の周りは送迎なのかタクシーが多く行き交う。南沢は危なげもなく、澪の住む渋谷区の片隅に借りものの車を運ぶ。
「人の縁って、不思議ね。嫌で嫌で、捨ててしまいたいと思うようなつらい過去も、確かに今の笑顔へ繋がってる」
 澪の真後ろでは山添が普通の娘同然に笑っていた。いつかの澪は善意の欠片もなく、自分の都合で彼女を外に連れ出した。もし本人の希望を尊重していたら、今頃どうなっていたことか。
 結人も。実姉と義父と義兄を一気に奪われ、自身や家族の慣れ親しんだ姿まで失った頃は、自身の呼吸だけで手一杯だった。兄を救うという目標がなければ、新たな姉たちの存在がなければ、この笑顔は永遠に取り戻せなかったかもしれない。
 宮代拓留の表情も落ち着いていた。もう諦めたのでも、殉ずるのでもない温度。
 何もかも、全てを経たから、ここにある。
「起こってよかったと感じる出来事ばかりではないし、全部を大事なものとは言い難いけれど……無駄ではなかったと思うだけで、随分救われる気がするわ」
 親友の名と姿を借り続けた女は、飾らない横顔で純粋な言葉を紡いだ。
 澪は服越しに肩の傷を抱き締める。
 年下の友人。生きていれば今は、あの頃の澪より年上のはずだ。忘れたい、書き換えたいと逃げ出した過去の中でさえ、あの子はあんなに嬉しそうに笑いかけてくれていた。
『ね、またどこかに遊びに連れてってね』
「……ああ」
 ベス。お前はもうどこへでも行けるよ。私がどこへでも連れて行ってやる。会えるのはまだ先になるだろうけど、そのときはまたバスや電車を乗り継いで、クッキーを食べながら旅にだって出よう。ポップコーンとコーラを抱えて、でっかいスクリーンでバカバカしいカートゥーンをたくさん観よう。二人共知らないままだった恋の話だって、今ならちょっとぐらい聞かせてやれると思うから。
 犯した罪は消えない。無実の人間などいない。生まれたときから、あるいは生まれる前から。人はみな過ち、傷つき、背負っていく。そうとしか生きられず、またそれが生きるということなのだ。
 ありがとう、と声に出さずに言ってみた。うん、とあの少女が微笑んでくれた気がした。

 

「よくなったら、ぜひうちにもいらしてくださいね。有村と香月が、除け者にされたって怒っているの。たくさん文句を言われそうだから覚悟しておいて」
「姉さんの予想、私たちの予想とはちょっと違うかも。ね、ユウ」
「うき姉ちゃんは、二人共泣いちゃって言葉が出ないんじゃないかって言うんだ。僕は、有村さんも香月さんも泣きながら拓留兄ちゃんをグーで叩くと思う」
「予想がついてるなら、先になだめといてくれよ……」
 澪のアパートの前につくと、宮代のきょうだいたちはそれぞれ勝手なことを言って、シェアカーの料金がもったいないからと去っていった。
 戻った部屋は当然出て行ったときのまま。片付けないと引っかけるな、と宮代が物を拾って通路をつくり、澪はその後について松葉杖で歩いていった。
 ベッドに腰かける。宮代が、ずっと閉めっぱなしだった窓を開け放つ。陽光と風が心地よく室内をさらう。澪は目を細めて、彼の後ろ姿を見ていた。
 ああ、ちゃんとそこにいると、当たり前のことに鼻の奥が痛む。
「拓留」
 きょうだいたちがいる間は、口にできなかった名を呼んでみる。
 なに、とやわらかく彼が振り向く。
「……婚姻制度には、全く興味がないが」
 澪は身を捻って片手を伸ばした。宮代が歩み寄ってくる。膝を曲げた彼の頬にそっと触れる。
「久野里姓を捨てることには、少し興味がある。親のものだから、あまり好きじゃない」
「僕は、宮代姓をあなたに分けるのは嫌だな。いろいろ余計なものが付きすぎてる」
 宮代の、拓留の左手も澪の頬に添えられる。もうしわがれていない、健康な男性の手。
「夫婦別姓からの流れで、今、第三の姓を名乗れるパートナーシップの話も出てるけど」
「施行が何年後かも分からん話をされてもな」
「そもそも通らないかもしれないし、僕らが生きてる間には無理かもしれない」
 だとしても。拓留、澪と、呼び合うことはできる。それ自体、親から与えられた識別記号に過ぎないとしても。血が、遺伝子が、書類がどうであったとしても。
 この個体は独立して存在し、自らの意志で伴侶を選んだ。
「うん。法とかはやっぱり難しいかもしれない。でも」
 拓留が両手で、澪の頭に何かを被せた。その辺に脱ぎ捨ててあった白衣だった。澪の顔にかかる箇所を片手で押さえ、肩をすくめて笑う。
「誓いだけなら、今すぐだってできる」
「お前、人のこと言えるか。……映画の観すぎなんだよ」
 澪も涙を浮かべて微笑み返し、目を閉じた。
 ごわついたヴェールと淡い口付け。署名も指輪も証人もない。いずれ去る楽園ならば、誰に認めらずともいい。二人は既に、病めるときも悲しみのときも助け合い共に生きた。
「これからも、どこへ行っても」
「この命の限り」
 綺麗な想いではなくても。ただの我欲でも。
 最後にたったひとつ、この意地だけはどこまでも張り通してみせよう。
 澪は滅びへ向かうセカイに告げる。新しく生まれゆく世界へ誓う。
「拓留。これからも、ずっとそばにいる」
 このひとの手を。
 いつまでも、どこまでも離さない。

「どこへ行こうか。これから」
「とりあえず家賃の安いところ」
「寂しい旅立ちだなぁ……」
「そりゃあそうだろう。私たちが最後に目指す場所は――」
「公平な正義のないところ?」
「誰も、二人を知らないところだ」

 

『突然ですが、わたくしケイさんは、このたび正式に渋谷を卒業することになりました。
 いつか似た声の誰かがこの役を引き継ぐときも、
 私はここで、あなたがたへ呼びかけ続けたことを、きっといつまでも忘れないでしょう。

 それでは、この曲でお別れです。
 原題は「In Other Words」ですが、こちらのタイトルの方が馴染み深いですね。
 数ある名カバーの中から、今の私の気分にぴったりのものを。
 お聴きください。パティ・ペイジで「Fly Me to the Moon」』

 

 

 

 かくして一対の男女が楽園を去った。
 暗惨たる行く末に希望などないのかもしれない。
 安住を得ることなど決してないのかもしれない。

 それでも彼らはもう無垢なる子供ではないが故に。
 道と呼ぶにも心許ない処を粛々と歩み続けるのだろう。

 悔いのない一日を。

 己が言葉こそ胸に刻み背に負う十字である。