不知不会の二者面談

 牧瀬紅莉栖は、雑居ビルの二階のソファで、だらだらと脚を伸ばしていた。
 『未来ガジェット研究所』と借主が呼んでいる――法人のそれとは大いに関係があるが、ここで示すのは個人のサークルみたいなもの――部屋で、深夜のカップラーメンなどという悪魔的に魅力のある食べ物を、先刻マイフォークで食べてしまったばかりで。ものすごく暇を持て余している。
「どうせだらけているのなら、ホテルに戻ればいいではないか」
 岡部倫太郎がドクぺを飲みながら呆れ顔で言った。自分こそこんな時間まで紅莉栖に付き合うことなどないのに、律儀なことだ。紅莉栖は右腕を緩慢に上げて、テレビを指差す。
「消して。『再来』のニュース、耳障りで」
 岡部は眉をひそめ、光線銃型の馬鹿げたリモコンでテレビの電源を落としてくれた。
 『ニュージェネレーションの狂気』。紅莉栖が日本に戻る前年に渋谷で起こったという、連続猟奇殺人事件。六年が経ち、今年起こった一連の事件の通称は『ニュージェネレーションの狂気の再来』。
 紅莉栖は今回も間に合わなかった。参加したかったのではないけれど。後輩が関わっていると聞いて、冬コミマ――ではなく、『年末帰省』の予定を前倒しして日本入りしていたというのに。もう、紅莉栖の出る幕などどこにもなかった。
 五年の間にスマートフォンに機種変更した電話も鳴らない。紅莉栖が二分おきに確認したって、それはもう絶望的なまでに動かしがたい事実。
「電話を待っているのか?」
「ええ。……でも来るか分からないし。あと三十分して何も起こらなければ、諦めてホテルに帰るわ」
 岡部は何も言わず傍にいてくれるけれど、紅莉栖が彼を付き合わせていることは明白なのだ。岡部にも明日の生活がある。あまり無理をさせてやるわけにいかなかった。
 紅莉栖がいい加減二分に一回のチェックを諦めたとき、ちょうど電話が鳴動した。慌てて立ち上がり、カーテンで仕切られた研究スペースに駆け込む。
「もしもし?」
『あ、夜分遅くに大変申し訳ありません。わたくし――』
「ああ、いいですいいです」
 生真面目そうな男の声を遮り、紅莉栖は苦笑する。手近にあったパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「私たちは、久野里澪の保護者。それ以上の括りは邪魔にしかならないでしょうから。名乗らなくて構いませんよ」
『ええ、ではその――「間抜けな警官」と。そう言えば、あなたには伝わりますかね。「博士」』
 おどけた言い草に、紅莉栖は思わず笑ってしまった。
 割と前の電話の内容を聞いていたのだろう。結構根に持つのねと思う反面、自分で言ってしまえる余裕は嫌いではない。
「まぁ、『博士』というのも恐縮ですけど。候補がなければ便宜上、それでお願いしても? 『おまわりさん』」
 ええ、はい、と困ったように答える声は、澪に聞いていた年齢にしては少し歳枯れて聞こえて。それも、普段から大声で忙しく立ち働いているせいなのかもと考えれば、不快ではなかった。
 それはともかく。紅莉栖はパイプ椅子の上で脚を組む。
「大変でしたね、今回の事件。あなたも澪も、怪我や何かは?」
『いえ、自分は何も。ただ久野里さんは、フィジカルに問題はないはずですが――メンタルまでは、こちらに易々と見せてはくれないので。気は、配っておくようにしようと思います。お気遣い感謝します』
 どこまでも誠実な口調。この性格で久野里澪の相手をするのは骨が折れただろうにと肩をすくめながら、紅莉栖は明るい色の髪をかき上げた。
「こちらこそ。澪に気付かれないように仕込むのは、これが精一杯で。ご連絡いただけないかと思っていましたから。お電話もらえて安心しました」
 はは、と電話の向こうの彼は、ようやく笑い声を上げた。そうなると意外と幼く聞こえる。
『一応、自分の車の変化は、多少であっても気付くように訓練してありますので。座席に挟まったメモぐらいなら、すぐには』
 しかし冗談めかした口調は、そこでまた申し訳なさそうな響きに戻る。
『ただ、彼女に知られずに、これがあなたの番号だと突き止めるのには少々手こずりまして……結果としてご連絡がこのような時間になってしまって申し訳ありません。「博士」』
 ふむん、と紅莉栖は口許に手をやる。紅莉栖が澪と共に、(彼の不在時に)車に同乗したとき、置いていったのは十一桁の数字が書かれたメモだけだったはずだ。軽率にそこにかけず、独自の情報網で『目聡い久野里澪から隠れて』、公にしていないはずの、日本でしか使っていない携帯電話に辿り着いた。しかも『博士』と呼ぶのなら、恐らく個人情報を特定したうえで。澪が言うほどの『dumb cop』ではないのかもしれない。
 紅莉栖は暗い床に目を落とした。
「もう終わったんですよね、『再来』は」
『ええ。終わらせることに、なりそうです』
 含みのある言い方を深追いする気はない。紅莉栖の関心事は元々それではないから。
「澪はお役に、立てましたか?」
『はい』
 彼はきっぱりと言い切った。けれど、やはり続く言葉がどこか頼りなく。
『ただ、我々が久野里さんの役に立てたかどうかは、さっぱり分かりません。あんまり知りすぎたことで、彼女はかえって心にひどい傷を負ったのではないかと。あれだけ頼っておきながらどの面を下げてという話ですが、悔やむこともあります』
「『おまわりさん』」
 だから紅莉栖も、冷淡な声で言い放つのだ。
「私たち科学者は、幾度もの失敗をします。禁断のものを生み出し『作らなければよかった』と自責することもあります。けれど、『知らなければよかった』だなんて、ありえない。――そんな侮辱、あの子の前では決して口にしないで」
 心底反省したように謝罪した警官に、彼女たちのプライドはどこまで伝わったのか。解らないながら、紅莉栖は話し方を元に戻した。
「あの子がやりたくて、知りたくて知ったことならいいんです。あなた方にご迷惑がかかっていないなら。もしくは、あの子の身に危険が及んでないのなら」
『迷惑は……正直割と。危険も、止める前に突っ込んでしまう子なので。ただ出来る限り、目の届く範囲には、自分もいるようにしていますし、彼女にもいてくれるようにしてもらっています。あなたから見て俺の対応は、不充分でしょうか。そうなら、具体的にご指摘いただければ直していきます』
「いいえ、そこまでしていただけているのなら、それ以上はあの子の我が侭で自己責任ですから。ありがとうございます」
 彼は何かを言いたそうに息を吸って、口の中で舌を持て余すような音を立てる。
 紅莉栖にも訊きたいことは解っていた。立場からも知識からも、彼の望む答えを与えてやれないことも。きっと彼も解っていた。だから互いに何も言えなかった。
 同じ少女の、同じ横顔を。厳しい眼差しを、同時に思い浮かべながら。
「事件は、終わったことになるのかもしれないけれど」
 切り出したのは紅莉栖が先。終わらせるのも、始めた方の役目。
「それに、私にそんなことを言う権利がないことも解っているけど。あの子があなた方を必要とする限り。―久野里澪のこと、よろしくお願いします」
『はい』
 彼はやわらかい声で答えた。今回、最も個人的に聞こえる言い方で。
『彼女は認めないとは思いますが、俺たちは一応、まだチームのつもりなので。彼女が俺たちを見捨てても、面倒は最後まで、必ず見させてもらいます』
 それが何だか楽しそうで、どこか挑戦的だったから。ああやっぱり、澪は日本に戻ってきてよかったんだわと紅莉栖は笑った。
「ありがとうございます。『おまわりさん』」
『ええ。あなたも、彼女が暴走しそうなときは止めてやってください。俺の言うことは無視するけど、あなたの言うことでしたら、きっと素直に聞いてくれるでしょうから。「博士」』
 それじゃあと、どちらからともなく言って、通話を切る。秋葉原と渋谷の電波はもう繋がっていない。
「誰と電話を?」
 いつの間にか、仕切りの近くに岡部が立っていた。もう帰るつもりなのか、いつもの白衣は脱いで片手に提げている。紅莉栖は苦笑して電話機を振る。
「知らない人」
「その割に楽しそうだったな」
「なに、嫉妬?」
 にやにやと言えば、ぐぬぬと岡部は歯噛みした。
 もしかして図星なのかもしれないが、どちらかといえば心配しているのだろう。紅莉栖がおかしなことに巻き込まれるのは初めてではないから。伝え方を誤れば紅莉栖が強情になると思って、出方をうかがっているのかもしれない。
 紅莉栖は苦笑して、目を伏せる。
「知らない人よ。もう用はなくなったから。かけることもないし、きっと二度と、かかってもこない。顔も見ることもないでしょう」
 見も知らぬあなた。かわいいあの子をよろしく。
 たとえそれが愛でなくとも。恋でなくとも。
 情という言葉がそこにあるなら、信じますから。
「帰りましょう、岡部。寒いんだもの、ラボ(ここ)
 空の右手を差し出す。岡部がしかめ面で握り返し、立ち上がらせてくる。
 人の心のかたちなんて、複雑すぎて単一の要素では定義出来ないけれど。
 あなたが大切だって、その気持ちだけ真実なら、一緒にいることなんて、思うほどこわくないから。
 その手のぬくもりを知ることだって本当は難しくなんてなかった。
「来られるときに、またいつでも来い」
 もう来られない人間のいることなんて知る由もなく。
 二人は、また来るために慣れた空間を出ていく。