廻るペルソナ

「神成くん、枝豆そんなに好きなんスか?」
「はい?」
「さっきからずっと食ってるから」
「え、ああその……いえ、別に」
 諏訪護の呆れたような声に、もぞもぞと答えながら神成岳志は口の中の枝豆を飲み下した。
 安っぽい居酒屋の開放席で、神成と諏訪は差し向かいに座っている。掘りごたつが狭くて、彼と足が当たったら嫌だなと失礼なことを考える神成だった。
 二〇〇九年九月、残暑も厳しいある夜のこと。
 警視庁捜査一課の神成は、上司である警部補・判安二に『暑気払いに飲みに行こう』と声をかけられた。あの判安二に、だ。配属されたばかりの神成にとって、花形・一課の刑事など今でも眩しい存在だった。中でも、一見『冴えない』が、その手腕でいくつもの事件を解決してきた判には、一番と言っていいほど憧れて、懐いていた。彼に目をかけてもらえるほど光栄なことはない。神成は一も二もなく、尻尾を振ってついていった。
 が、着いてみたら先客がいて、ああこっちッスよと手を振っていた。それが判の後輩刑事、同じく一課の巡査部長・諏訪護。判は早々に、顔なじみを見つけたとかで別の卓に行って談笑を始めてしまい、神成は諏訪と共に席に残された。それで駆けつけのビールを一杯注文した後、お通しの枝豆を酒が来る前に食べ始めている。
「独りで宅飲みだと、こういうゴミが出るつまみって、なかなか食べないじゃないですか。だからなんかふと、無性に食べたくなるときがあるっていうか」
「ふぅん。そんなもんスかねぇ」
 諏訪がつまらなそうに言い、自分の枝豆の皿を神成の方に寄せてきた。
「自分、そんなに枝豆好きじゃないんで。よかったら食います? そのペースじゃジョッキ来る前になくなるんじゃないッスか?」
「あの、いえ、ま、間に合ってます。お気持ちだけ」
 神成はしどろもどろで答えた。
 本当は枝豆など別にどうでもいい。嫌いではないが。食べていれば無言をごまかせると幼稚にも思っただけ――要するに神成は諏訪があまり得意ではないのだ。
「じゃあ普段何で酒飲んでるんスか?」
「さ、さきいかとか? サラミ?」
「いや、自分に訊かれてもキミのおつまみ事情は知ったこっちゃないッスけど」
 神成くんって面白いッスね、と諏訪は人懐っこく見える笑顔を浮かべる。
 これが。この顔が、神成は苦手だった。判は『軽そうに見えるが頭はなかなか切れる』と彼を好意的に評しているが、神成はこの笑顔に『他人の底を測るような得体の知れなさ』を感じて、どうにもいたたまれなくなる。そんなことを口にしたら判に失望されそうで、決して声には出さなかったけれど。
「それにしても、『神と成る』で『シンジョー』って珍しい苗字ッスよね?」
「ああ、そうですね。親族ぐらいしか会ったことはないです……」
「でしょ? フツーはシンジョーったら野球のアレとか……」
「ええ、はい……僕の漢字だと、『かんなり』って読まれることの方が多くて。ルーツは子供の頃に宿題で探ったような気もするんですけど、忘れちゃいました」
 このどうでもいい話はいつまで続くのだろう。
 神成が空のさやを握り締めて考えていたとき、ちょうど中ジョッキが二つ運ばれてきた。神成たちが来る前に頼んでいたのか、鶏の唐揚げとフライドポテトの盛り合わせ、大根サラダも一緒に置かれる。
 諏訪は大袈裟に首を振りながら、片方のジョッキに手を伸ばす。
「もー二人が遅かったんで自分喉カラカラッスよー。先輩戻ってこないけどいいッスよね? もういいんスよね?」
「いいん、ですかね」
「いッスいッス、今決めました。かわいい後輩ほったらかしにする先輩が悪いってことで。はいじゃあかんぱーい!」
「……おつかれ、さまです」
 音高くジョッキを鳴らすこの男を神成が苦手とするのは、個人としての相性もあるのだろう。ただそこに、判を『先輩』と軽く呼べる立場への嫉妬が、全く混じっていないと言えば嘘で。自分の浅ましさを強く意識させられるから、神成は余計に諏訪と話す時間がつらいのだ。
 諏訪はジョッキの半分ほどまで一気に飲み干し、鼻の下についた泡を自分の指の背で拭っている。
「神成くんってさぁ……」
 いきなり切り出され、答えようにも神成の口の中は今ビールで満たされている。飲み込もうとした瞬間、諏訪は思わぬ剛速球を叩き込んできた。
「童貞?」
 デッドボールもいいところである。神成は盛大にむせ、未だ就活生に間違われる安いスーツをビールで濡らした。
「あーあー大丈夫ー?」
 諏訪がさも心配そうな声を出しておしぼりを差し出してくる。
 あんたのせいだろという言葉をぎりぎり飲み込み、どうもと吐き捨てて神成はおしぼりを引っ手繰った。服も大事だがとりあえず畳を叩いて水気を吸い出していく。
「なん、ですか。藪から棒に」
 まだビールが喉に引っかかっているようで、うがいじみた声になってしまった。いやいや、と諏訪は軽く手を振ってみせる。
「男の友情ったら酒とエロでしょ。幸いここには既に片方あるし、自分どうやらキミに嫌われてるみたいなんで。ここらで溝でも埋めとこうかなーっと」
 だからあんたのそういうところが嫌いなんだよ、と神成は内心で毒づいた。
 自分のスーツはそこそこに、神成に向き直る。繁華街を歩けば『学生さんですか~』と勧誘される童顔を真っ赤にして答える。
「そうです、って言ってほしいのかもしれませんけど。生憎僕は非童貞です」
「うっわ」
「意外、って顔するのやめてもらえますか。心外なんで」
 神成がこんなに諏訪に食ってかかったのは初めてのことだった。というか会話らしい会話をしたことがまずなかった。
 諏訪は下世話な顔で問いを進める。
「相手はカノジョ? ソープ?」
「……彼女、でした。学生時代の。今は独りですけど。それ以上の詮索は受け付けません」
「そっかそっか。顔に似合わずやることやってんスね」
 相手が先輩でもなければ、神成は舌打ちをしていただろう。そこまではしないが不快感を隠せず、神成はビールを荒々しく呷る。
「そういう諏訪さんは、どうなんですか。僕に一方的に恥をかかすのはフェアじゃないでしょう」
「あー、そッスね。そりゃあそうだ。自分はずっと付き合ってる彼女がいるんで、『意外と』フーゾクには手を出してないッス」
 警官がお前何言ってんだ、と思いつつもやはり批難は視線に留める神成。諏訪はにやにやしながら、手振りで近づくように示す。神成はジョッキを握り締めたまま、警戒しながら耳を寄せる。諏訪が両手で口許を隠しながら、ぼそぼそと信じられない言葉を口にする。
『もうね、具合がサイコーで。毎日体力続く限り中出しっていうか』
 あんまりひどい台詞に、神成は恥じらいではない朱に顔を染めて、ジョッキを卓に叩きつける。
 店中の視線が集まっているようだったが、どうでもよかった。今度こそ、口に出してこの男を罵らなければ気が済まない。
「――責任、ちゃんと取るんでしょうね」
「オマエ何言ってんの」
 諏訪は一転静かな声で言い、その背を隣席との仕切りに預けた。
 警察官というよりは犯罪者のような鋭さで、神成を見つめている。それは酔っ払いの急変と呼ぶには、あまりに重く暗い冷徹さで。神成は息をすることすら出来ず、喉を詰まらせる。
「オレは。そうしたかった。誰よりも」
 短く断片的な言葉たち。それらは激しいというより、きつすぎてむしろ憐れすら感じる響き。
 確かに全く恐ろしくないといえば強がりになるだろうけれど、神成は少し安堵もしていたし、そんな自分に驚きもした。諏訪護という男の一端に、ようやくかすかだが、触れることが出来たのかもしれないと。
 そう考えると素直に、謝罪の言葉が口から出た。
「すみません。出過ぎたことを、言いました」
「あー、こっちこそ年甲斐もなくムキになって申し訳なかったッス。いや本当、煽ったの自分だし、大した事情じゃないから」
 はは、と笑ってフライドポテトに手を伸ばす諏訪。
 きっと、彼にとってそれは『大した事情』だったに違いない。そうでなければ、捜査のときにしか取らないあの笑顔の仮面を、プライベートの時間に外すはずがないのだ。年甲斐なくと言うが、諏訪と神成の歳はいくらも変わらないだろう。けれど我が子をその手に抱けない痛みがいかほどなのか、神成には想像することすら出来ない。
 発端を作ったのが向こうとはいえ、不用意に傷を抉ったらしいことが、今更になって深刻な自己嫌悪を呼び起こす。当の諏訪は二本目のフライドポテトをつまみ、苦笑しながら神成の半開きの口に突っ込んできた。神成は危うく窒息しそうになる。
「なんっ」
「神成くんさぁ。ときどき一人称が『僕』になる癖、直した方がいいッスよ。敵視した相手にしかそれやらないのも丸分かりなんで」
「うっ」
 自覚がなかった。そんな気取った一人称は似合わないと思っていたのに。知らず知らず自分を大きく見せようとでもしていたのだろうか。
「そーいうことしてるうちは、あの人の隣まで登れないッスよ~?」
 歌うような口調に怒鳴って返せず、神成はとにかく思い切りポテトを噛み千切った。おーこわい、と諏訪が身体を引っ込める。
 口許はやっぱり神成の好かないあの笑みだった。
「ま、なんていうかね。……キミはまだ、キミの身の丈に合った働き方をしてた方がいい。この渋谷で、『仮に異常な人死にが起きたとしても、絶対に関わるべきじゃない』。神成岳志くん」
 神成は眉をひそめた。諏訪の挑発に乗った、というのとは少し違う。
 ただ『殺人事件』は『まだ早い』と言われただけならば、ここまで引っかかりもしないのだろうが。彼は『異常な人死に』に、『関わるべきじゃない』と言った。このニュアンスは挑発でも説教でもなく、そう、もっと適切な言葉を探すならば。
 ――警告、のようで。
「うわっと、電話電話。ちょっと失礼」
 諏訪が懐から出した携帯電話を手に立ち去っても、神成はただとっ散らかった卓を睨みつけていた。一度緩みかけたあの男への警戒心が、また鎌首をもたげてくる。
 あいつを、本当に、信用して、いいのか。
「神成くーん、悪いんスけど帰りが遅いって彼女がカンカンで……お先失礼さしてもらうッスわ」
「えっ、ああ、はい」
 はっとして振り向く。諏訪が戻ってきていた。諏訪は肩で電話を保持しながら、器用に財布を取り出す。いかにも刑事という技だ。
「すぐ帰るから……あー待って小さい札がない。神成くん、キミの分もこれで払っちゃっていいんで後ヨロシク。……わかってるわかってる、はいはい愛してるって」
 諏訪は恥ずかしい台詞を臆面もなく言い、卓の上に一万円札を置いた。そして神成に軽くウインクなどして、電話しながら鞄を引っ掴んで店を出て行った。
 どっと疲れて、神成は卓に突っ伏す。緊張から解放されて気が抜けたのもあるが、『彼女に急かされて万札を置いていく』などという、今の神成には成しえない芸当をさらっとやってのけられたので、結構心にダメージがあったのだ。
 ちくしょうと口の中で呟いて、失くさないうち万札を伝票に挟んでおく。そのときはらりと何かが落ち、神成は慌てて掘りごたつに頭を突っ込んで、それを拾い上げた。
 千切った手帳か何かの一部のようだ。罫線の入った紙片には、殴り書きでこう記されていた。
『神に成るなんて妬ましくって取って代わりたいね』
「なぁにやってんだ、神成?」
 急に渋い声がして、弾かれたように顔を上げた神成は卓の天板に後頭部を強打した。畳の上で激痛にのた打ち回る。
 大きな手が、おいおいと背中を叩いてくる。
「若いのは結構だが、お前さっきからハッスルしすぎだぞ」
「判、さ」
 神成は涙目で、本来一緒に飲むはずだった刑事を見上げた。判は呆れ顔で神成を見下ろしている。
 別にハッスルしているつもりは毛頭ないが、『さっきから』と言うからにはずっと見ていたのだろう。距離的にも、周りの声量的にも、会話の内容が聞こえていたとは思えないが。
「なんだ、諏訪の奴ほとんど食わずに帰ったのか」
「……怒ったカノジョさんが待ってるんだそうですよ」
 神成はむくれながら唐揚げを手でつまみ、口の中に放り込んだ。咀嚼するがしんなりしてしまって美味しくない。あの男の奢りだと思うと更にまずくなるので、後でちゃんと自分の飲み代を払うつもりだ。
 判はさっきまで諏訪のいた場所に、どかりと腰を下ろす。
「あいつ、お前にやけに突っかかるから。一席設けてやったのに、結局逃げ帰っちまったなぁ」
「え?」
 神成は唐揚げを飲み下し、先程自分が吐いたビールに染まったおしぼりで指先を拭う。
「あの、いや、気を遣っていただかなくてもいいです。俺の方が……諏訪さんに突っかかってた自覚、あるんで」
「うん? お前の愛想笑いなんて、あいつには突っかかってたうちに入らんだろ」
 判はフライドポテトをショベルカーのように掴むと、何本もまとめて口に突っ込んだ。
「諏訪はな、神成、多分お前を一番脅威に感じてる。ただの優等生かと思えば地頭がいいから、うかうかしてたら立場がなくなるって前にこぼしてたしな」
「まさか」
 買いかぶりすぎでしょうと、神成は笑うしかなかった。本当は笑えない。さっき見つけたメモを無意識に握り潰した。こんな暑い日なのに、首の裏を冷えた汗が伝う。
 判は気付かないのか、そのふりなのか、無造作に伝票を手にする。
「しかし豪気に置いてったなぁ、あいつ。この金でもう一軒行くか?」
「判さん明日仕事じゃないんですか?」
 そう言いつつも神成は口直しがしたかったし、判とも話し足りないし、何よりもうこれ以上ここにいたくなかった。それで、判のなじみのママがいるという店まで供をすることになった。勘定済ましとくから先に出ろとせっつかれ、結局財布を出すことなく外に行く。九月頭の夜風は、真夏の熱帯夜ほどではないがまだぬるい。
 顔を歪ませ、握りしめたままの切れ端を、もう一度慎重に開く。
 そこには普通の癖のない字で、『今度ダーツバーでも行こうか』と書いてあるだけだった。眉をひそめて目をこする。何度瞬きしても、メモの内容は当たり障りのない内容のまま。
 ――でも、確かにあのとき。
 神成は違う文章だけでなく、諏訪のあの、刺すような眼光を受け取ったはずなのだ。
「神成ー、行くぞー」
「あっ、はい!」
 呼ばれて、急いでついていく。ほどなく始まる『関わるべきじゃない』『異常な人死に』のことなど、神成はまだ何も知らなかった。
 二〇〇九年、十一月末。
 神成岳志は、ベッドサイドの明かりだけが点る自宅アパートで、座り込んだままじっと壁を見つめていた。着たままの喪服からはまだ焼香のにおいがした。
 渋谷地震と呼ばれる大震災があった日、神成はたまたま渋谷の中心地から離れていた。けれど同僚はたくさん死んだ。即死だった者も、避難誘導中に倒壊に巻き込まれた者も。最早誰の死を悲しんでいいのか分からないが、自然災害ならばまだ『不幸な事故だった』で理性を納得させることも出来たのだろう。
 理性でも、感情でも到底納得出来なかったのが。ただ一人、『地震の前に』『人の手で殺された』、判安二のこと。
「『判安二』。AH総合病院屋上にて遺体で発見、死亡推定時刻は、十一月六日十八時以降……。死因は射殺……計二発、線条痕から凶器は『判安二』が日頃携帯していたニューナンブM60と断定」
 ぶつぶつと、何度も確認した情報を繰り返す。もう何も見なくとも言えた。
 警察という組織の中で、身分不相応に威嚇して、恥も外聞もなく土下座して、泣き落としも『取引』も、自身になしうる全てを用いて神成がようやく集めたピースたち。
『鉛玉ブチ込まれて、なんでってほど判ちゃん安らかな顔してたよ』
 鑑識課に言われた言葉を思い出す。初めて聞いたときは拒絶したいあまり嘔吐したが、今はもう吐くものも胃の中にない。
「防御創なし、背面と正面から一発ずつ……」
 だるそうに振る舞う刑事だったが、その実隙はなかった。ないはずの隙をつくなら、きっと素人ではない。
 警察の記録では、判はその日銃を持ち出していなかったそうだ。だとしたら、その場で奪ったのではなく、勝手に持って来られる人間が犯人。表情の件も考慮すれば……もしかして、『騙されていたなら仕方ない』と、判が思いうる相手。
 神成は左の親指の爪をぎりと噛んだ。血が出たが痛みはなかった。
「渋谷駅の射殺体、身元不明、ホームレスの男性。死亡時刻の推定は困難だが、血痕から見て地震後に死亡していたものと思われる……。背後から二発被弾した痕跡あり……凶器はシリンダーに一発を残した状態で付近にて発見された『判安二』の拳銃と思われ、銃把に残された指紋は本人ではなく――『諏訪護』のもの」
 自分の声ですら聞きたくない名前だった。
 諏訪の携帯していた銃はS&Wの方だったと聞いている。判のニューナンブに彼の指紋が残っているのは明らかにおかしかった。これで諏訪護が全ての犯人で、生きてまだ逃走しているなどという凡庸なシナリオだったら、どんなにマシだっただろう。きっと神成だって、今頃もっとマシな面構えで、追う為の算段をしていたに違いない。
 けれど、諏訪護は。
「『諏訪護』――死因は出血性ショック死。無数の杭で張り付けにされており、発見時既に死亡。状況から見てこちらも地震後の犯行であると断定」
 諏訪は、死んでいた。物理的に自殺ではありえない死に方で。犯人と警察しか知らないはずの『本物』の杭で。まるで、『ニュージェネレーションの狂気』第三の事件をやり直したかのように。
「杭には一様に『諏訪護』の指紋のみが付着。拭き取ったり隠蔽工作をした形跡なし」
 ああ口の中が血の味だ。自分の肉が、血管が歯で傷ついていくのが分かる。
 『ニュージェネレーションの狂気』の真犯人は、その前日に『西條拓巳』に罪を暴かれ、謎のフレーズを叫んで自殺した『葉月志乃』だったはずだ。ならば彼女に諏訪は殺せない。諏訪を殺したのは別の誰かだ。
 そしてこの情報だけでは、神成が最も欲する結論が出ない。
 すなわち『判安二を殺したのは、本当は誰だったのか』?
 通常なら判の拳銃を持ち出した諏訪が犯人で済む話が、不可解な指紋の件や被疑者自身の不審死によって、もう捜査本部はお手上げの状態だ。更に地震の対応や察庁からの圧力で、『既にニュージェネレーションの狂気は解決した』という扱いにせざるを得なくなった。
 神成がもっと直情的ならば、断固噛み付いてクビになっていただろう。だが、そうですかと言えるほど、ものわかりがよくもなかった。だからずっと考えていた。葬儀が終わるこの日まで。
「諏訪護……あんた結局、何者だったんだ」
 言いながら、神成は思わず笑ってしまった。笑うのは久しぶりのことだった。楽しくなどもちろんないけれど。
「俺は神になんか成れないし、成らない。きっとあんたが死んだのは、そんな言葉遊びの非現実を本気にして、みっともなく嫉妬なんかしたせいなんだろう」
 俺は、成らない。誰も護れなかった男になんか、これ以上絶対に成らない。
 神成は立ち上がり、喪服のジャケットを脱いだ。黒いネクタイに指をかけ、ぐっとほどいていく。
「せいぜい地獄で吠えてろ。俺は、上に行く。あんたたちがいた場所まで、絶対に駆け上がってやる」
 神成が警官になったのは正義を全うする為で、判の為では決してない。だから、これからもその理想だけは曇りなく掲げ続ける。罪ある者を追い詰め、罪なき者を守る使命に身を捧げる。
 これまでと変わりなく、進んでいく道だ。変えることはない。だが。
「まだ、終わってないんだ」
 終わっていない。この事件はまだ終わっていないから。今は蓋をしておくとしても、いずれそれを開けられる立場に在る為に。全ての事件を等しく、解き明かしていこう。いつかこの事件をも、真の『解決済み』事件に並べる為に。
 シャツのボタンを外す手を中途で止め、神成はベッドに両手をついた。
「俺は、オマエには絶対に成らない。――諏訪護にも、オマエを殺した奴のようにも」
 強く強く胸に誓う。何年かかっても、あの渋谷で『そいつ』が尻尾を出したとき、必ず引っ掴んで法の光の下に引きずり出してやるのだと。強く。固く。だから。せめて、最後に。
「……判さん」
 一粒だけ――弱さを許してほしかった。自らでも他の誰でもなく、憧れ続けたあの人に。
 背中を叩かれたような錯覚に一つ息をつき、神成は冷静な表情で、喪服を脱ぎ捨てる作業を再開した。
 神成はまだ知らなかった。仮面の裏側を見定めようと躍起になって近づくほど、その人間もまた仮面越しにしか世界を見られなくなるという真実も。今の浮世で道化になるには、最早仮面さえも要らないという事実も。刻まれた涙が次の戯曲の舞台化粧になることも、彼は何一つ知らなかった。