山添うきから見た彼
『俺――僕は、えっと、おまわりさんだ』
うきと初めて会ったとき、神成岳志はそう言って遠慮がちに微笑んだ。
うきの知る限り、神成が『僕』という一人称を使ったのはその一度きりだ。
目線を合わせてくれた。警察官だと言った。連れ去られて初めて、頼ってもいいかもしれない大人を見つけたと思った。
けれど彼はよく分からない電話機?(スマートフォン、と今は覚えた)で、よく分からないことを質問してきて、目の前の怖い大人たち(今はそうでもない、と、思う、多分)とよく分からない話をして、さっさと帰ってしまった。
ひどい、と思った。
後から冷静に考えれば、理解は出来る。あのとき彼は、うきが数年を共にした患者たちを救う為に、随分頑張ってくれたのだと。けれどあのときのうきは、放っておかれたと感じたのだ。
事件が進んで秋葉原に一時避難することになったときも、彼は直前で運転席を久野里澪に明け渡した。
段取りを整えたら、一人で納得してどこかへ行ってしまう人。
他人への思いやりを、途中から、自分の一生懸命で消してしまう人。
包み隠さず言うならば。優しいけどちょっと無責任な人、と、うきは感じる。
「うっ、うう~……」
うきは半泣きで周囲を見回した。きらびやかな服のジャングルで、絶賛遭難中である。
症候群からの快復後、うきはだんだん背が伸び始めた。能力を失って、幼さを望まれることもなくなったから。
服のサイズが合わなくなった。だが姉や友人のお下がりをもらって、困りはしなかったし、何より嬉しかった。
うきは元々かわいい服が好きなのだ。碧朋の中等部の制服も、そうと知らずに憧れて、贈られてからは(思い出も手伝って)毎日大事に着ていたぐらい。
しかし先日、姉たる南沢泉理は、うきを千尋の谷に突き落とした。
『あなたは、そろそろ自分でお洋服を買うスキルを鍛えないと。一緒に出掛けて選んであげるのも楽しいけど、私が楽しいだけじゃ将来苦労させてしまうものね』
そうため息をついて、泉理は何と福沢諭吉(!)をうきの手に握らせた。
この中で、服・下着・靴・鞄などを、最低一点購入、数の上限はなし。
服飾と関係ないものは買わない、自分以外の人間のものも買わない。
とにかく『この範囲』で必要なものか、欲しいものを買うこと。
泉理の設定したルールは以上。
使いきれない、と、日本で一番豪華な札を財布に入れたとき、うきは震えた。
そして週末、とりあえず目についたファッションビルに入って、あまりに厳しい現実を思い知ったのだった。
使い切るどころか、かわいいなぁと値札を見た服の多くは、自分の小遣いを足してもやっと一着!
そこまででなくとも、別のものは何も買えなくなってしまう額ばかり。
もうビルも三件目だけれど、価格はどこも似たようなものだった。
「だって姉さん、いつも行ってる古着屋さんはダメだって言うんだもの……」
うきは愛用のリュックの紐を握り締めた。
あそこなら、これだけ持っていれば、素敵な服がたくさんたくさん買えるのに。同じ洋服という物質で、ただ新品だというだけで、こんなに値段が変わるものなのか。
経済の仕組みは複雑すぎて、今のうきには上手く理解出来ない。
「うきくんか? どうしたんだ」
突然男性に声をかけらせ、うきは身を跳ねさせる。振り返ると、見知らぬ……ではなく、見慣れぬ姿の知った男が立っていた。前を開けた紺のジャケット、Vネックの白いTシャツに細身のジーンズ。こんなラフな服装を見るのは初めてだが、確かに神成岳志だ。
どうしてこんなところに、とうきが問う前に、神成は肩に提げた鞄を軽く持ち上げた。
「鞄壊れちゃってさ。気に入ってるブランドがこのビルに入ってるから、新調した」
そうですか、とうきは呟く。だがこれだけではあまりにも、と慌てて言葉を継いだ。
「あの。お休みの日も、渋谷ですか?」
「えっと、定期……」
少し頬を赤らめながら、神成はもごもごと答える。そうなんですか、とまたうきは同じような相槌を打ってしまった。
定期券の範囲で買い物なんて、意外と地味な節約をするんだなぁと思った。節約は尊敬する姉の得意なことであり、うきの好きなことでもある。
「うきくんも買い物かい」
神成は少し腰を落として、自分の膝を掴んだ。目を合わせてくれている。長身の彼には中腰はつらいだろうに。
泉理や有村、香月のことを、彼は『名前+さん』で呼ぶ。男子でないのに『くん』付けで呼ばれるのはうきだけだ。要するに、彼はうきのことを性別で分化する必要もないくらい子供だと思っているのだろう。
けれど、うきはそれを不快だと感じなかった。神成のまなざしにはいつも、侮蔑や見下しがない。
素直にいきさつを説明すると、神成は苦笑して頬をかいた。
「それはまた、スパルタだな。君の姉さんも」
「どうすればいいのか……わたし、このままだと、何も買えずに帰らなきゃいけないです」
うきは俯いた。物理的には小銭よりも軽いはずの紙幣が、リュックの中でぐんと重さを増したように思えた。
神成はさらに膝を曲げ、ほとんどしゃがんでいる格好でうきの顔を覗き込んでくる。
「うきくんがこわいのは、何も買わなかったらお姉さんに叱られるかもしれないこと?」
うきはすぐに首を横に振った。泉理はきっと怒らない。そう、と困ったように笑って、『じゃあやっぱり、今度一緒に買いに行きましょうか』とうきを抱きしめてくれるだろう。
責めずに優しく許してくれる。何故かその予想が胸を握り潰すように痛い。
「そうか」
神成は何か納得したように、一人で大きく頷いた。
「君はお姉さんに認めてほしいのかもな。ちゃんと出来たって、胸を張って帰りたいのかも」
「……あ」
すとんと、腑に落ちる。
そう。無理して服が欲しいのではない。でも買わずに帰ることが出来ない。
泉理が、自慢の姉が、一瞬でも失望する様を、うきは見たくないのだ。
神成が立ち上がる。
「うん。安心した。他人の為に自分を捨ててしまっているのかと思っていたけど、君はちゃんと、自分の意地を持ってるんだな」
「意地、っていうんでしょうか、これって」
今度はうきが彼の視線を追いかけていた。神成は意外そうに丸めた瞳を、すぐに細める。
「意地じゃいかついなら、プライドとか誇りとか、好きに言い替えていいよ。文化的生物であるのなら、一定量持っているべきものだ。それがないと服にも軽く見られる」
何を言っているのかよく分からなかった。何となく褒められた、励まされたことだけは分かった。
神成はなおも何か言おうとしていたが、電子音に遮られる。失礼と言って取り出したのは、やはり折り畳み式の携帯電話だった。受けた神成の顔はどんどん険しくなっていく。電話を閉じると、硬い声で言った。
「ごめん、うきくん。俺はここで」
「あ、は、はい。お気をつけて……」
「ああ、ありがとう」
神成は慌ただしく背を向け、二歩進んだところで急に振り返る。
「そうだ、渋谷区は多分、道を歩いた方が好みの店に当たると思うよ。無理して上の方の、大人っぽい場所を見るよりもさ」
じゃあ、と今度こそ神成は、走るようにいなくなってしまった。うきはぽかんと立ち尽くす。
確かに助言はもらえたし、感謝はしているけれど。ただ。
「やっぱりちょっと……」
首を傾げながら、うきはとりあえずファッションビルを出ることに決めたのだった。