神成さんと、そのあとで。 - 7/7

尾上世莉架を見送る彼

 神成はその日、横浜中華街に出かけていた。
 神奈川県警にいる警察学校時代の同期から、久々の誘いがあったのだ。
 学校といってもほとんど軍隊のような生活の中、こぼれ落ちることなく共に卒業出来たというだけで、彼らの間には血族じみた結束が生まれる――ようだった。
 神成が学んだのは、同じ釜の飯を食おうが、他人はどこまでも他人であるということだ。
 信頼に足る人間かは、物理的距離でも同一体験を経たかどうかでも判断出来ない。具体的事象の累積で初めて判断の可否に至り、好悪の判断はまた別の軸で行われる。
 今日会ったのは、職務上の信は置けるが、人間的に苦手な男だった。付き合いというやつで飲んだだけだ。
 神成は、己の感情を推量しながら、夕方の見慣れぬ街を歩く。
 前方に自動販売機があった。その傍で、少女が四つん這いになって地面を見回している。
 小銭でも落としたのかなと思いながら近づいていくと、茜色に照らされて泣きそうな顔をしているのは、知っている人間だった。
「……尾上さん」
「え? あれ、刑事さん?」
 尾上世莉架は顔を上げ、かつてと同じように目を丸くした。
 否。あの頃の『彼女』は、自発的に神成と目を合わせたことはほとんどなかったはずだ。そこにいるのは別の少女。
「どうしてここに? もしかして合同捜査、とかですか?」
「いや。私用だよ、ちょっと飲んでた」
 神成がスーツのポケットに両手を入れると、刑事さんって結構ヒマなお仕事なんですか、と苦笑された。不本意な誤解ではあるが敢えて訂正しなかった。
「もう日が暮れるからお釣りなら諦めた方がいい、二本までなら補填してあげるよ」
 自販機を指せば、少女は一瞬顔を明るくしたものの、すぐに首を激しく振る。
「違います、小銭落としたんじゃないです! 家の鍵、入ろうと思ったらなくて……。帰りはジュース買ったときしかカバン開けてないはずだから、多分ここで落としたんだと思うんですけど」
 尾上世莉架は座り込み、情けない声を上げながら空を仰いだ。
「もう一時間も探してるのにないんですよぉ! 交番にも駆け込んだけど、届いてないって言うしっ」
「鍵の業者を呼ぼうか? それか、一晩だけでもお世話になれる場所とかはないのかい」
 神成が頭をかくと、尾上は恨みがましい目を向けてくる。
「鍵だけなら、スペアはあります。百瀬さんが二個は持てって言ったから」
「そうなのか」
「……キーホルダー。友達と、三人でお揃いにしたやつ、つけてて。二人は怒ったりとかしないだろうけど、私が嫌なんです、失くしちゃうの」
 神成は黙って姿勢を正した。いつか、ある少年と交わした会話が、頭の中で繰り返される。
 ――なぁ、彼女がずっといじってるアレ、何なんだ?
 ――すみません、僕が昔あげたの気に入っちゃって。もう古いのに、何度言っても手放そうとしないんですよ。
 ――へぇ、大事にされてるんだな。
 ――物持ちはいい方ですよね。
 ――カエルの話じゃないよ……。
「じゃあ、ちゃんと見つけてあげないとな」
 神成はようやく笑って、懐からペンライトを取り出した。
 新しいのを買えばいい、ではなく、失くしたくないと少女は言った。少女は『尾上世莉架』ではないが尾上世莉架だった。
 神成に彼女の信も好悪も判断は出来ないが、あの決断を疑う材料がまた一つ減るだけでいい。
「下ばかり見てるから。……ほら、せっかく誰かが目の高さにしてくれたのに」
 近くの木を照らし出せば、あ! と少女が声を上げる。
 枝に、分かりやすく銀の輪が通してある。クマだかネコだか分からないキャラクターがぶら下がっている。
「こ、こんなとこに! すみません」
「交番は最寄りの? 一応、見つかったって声はかけておくよ。だから君は今度こそ帰りなさい」
 神成は努めて大人らしく言う。
 はい、と少女は笑顔でキーホルダーを胸に抱きしめた。
「ありがとうございました。さよなら、刑事さん」
「はい。さようなら」
 駆け去る少女を、神成は敬礼で見送った。
 さようなら。君が望むならもう二度と会うことのないように。
 神成は手を下ろし、渋谷へ戻る道を歩き始めた。
 長い長い影を連れて、親しみと欺瞞に満ちた街へ、この足で帰っていく。