命を呼ぶ水

 酒を『命の水』とはよく言ったものである。世界には多種多様な人間が存在するというのに、似た表現は挙げきれないほどある。
 依存性の高さと一時の高揚感。傍目からは生命力を取り戻したような輝きに見えることもあるのだろう。あるいは己すら騙しうる悪魔の水。
「こんばんは、百瀬さん」
 七月十日の晩、神成が信用調査会社フリージアに顔を見せると、百瀬克子はいつもどおりうっすらと笑みを浮かべて振り返った。
「いらっしゃい。今年は素面なのね」
「ええ、まあ。飲んで騒ぐような歳でもないですし」
 眉を下げて頭をかく。何を言わなくても、今日が何の日で例年どうだったかは筒抜けのようだ。
 未決の処理に追われているうちに新しい事件が起きて果てがない。そんな日常の一部だ。人を集めて感謝の意を述べたり、命に擬態した毒を呷って自己憐憫に浸るほどの特別ではない。
 この感傷だって口にしなくても百瀬は解っている。
「もうすぐなんです」
 そしてきっと彼女にしか解らない。情けなく前髪を握り潰す行為の本当に意味するところは。
「俺はまだ何も為せていない」
 百瀬はただ椅子を勧めた。神成は項垂れてソファに身を沈める。
 かつてのフリージアはまるで新聞社だった。やがて忘れられる事件のために、いずれ終わらない事件のために、指示と怒号が毎日飽くことなく飛んでいた。彼はその中を自在に泳ぎ回り、気に入った場所に腰を据え、また好きに出ていった。
 神成は淀みに足を取られて息をすることもままならない。この凪いでしまった湖沼の底で。
「超えろとか為せとか、そんな熱血な人でもなかったでしょう」
 テーブルに皿と湯呑が置かれる。歓待と受け取るほど自惚れてもいないが、ここを訪れることも予測されていなかったと思うほど百瀬を舐めてもいない。
 ぼんやりとしか中の見えない水まんじゅうを眺めて、力なく笑った。
「今思い出すと、結構青臭いことも言ってたように感じるんですけどね。……届かないって癇癪を起こしてる俺の方がずっとガキです。託されたわけでも、任されたわけでもないのに」
「そうね」
 自嘲したのは本音で、そうあっさりと他人に肯定されては面白くないのもやはり子供の駄々だ。神成は手探りで前髪を直した。
 百瀬の腕が伸びる。テーブルに一枚きりの皿の上、一個きりしか出されていなかった水菓子を、竹を模したプラスチックで刺す。そのまま大口を開けて自分で食べてしまった。口唇に引いた紅は少しも損なわれずに弧の形になる。
「痩せた人は内臓冷やさない方がいいのよ。特に大人になったらね」
「そうですね。覚えておきます」
 神成は自分の十センチ前に置かれた空の皿を見下ろし、肩をすくめた。
 横に置かれた緑茶だけは一応いただいておこう。
 これもきっと高揚感に似た問題の先送りなのだ。量を間違えれば鎮痛と依存は容易に結びつき、簡単にはほどけない。
 いつになったら自分はこの温もりじみたぬかるみから抜けられるだろう。
 冷えたままの喉は、ありふれた形容詞すらまだ吐き出せはしない。