都合のよい夢

 2017年7月。冷房の上手く効いてくれない警視庁の一室で、神成は汗を拭いつつ資料を書き写していた。
「うわ、神成くんまた勉強してんスか? 飽きないッスねー。事件のないときぐらい緩く過ごせばいいのに」
 コーヒー片手に声をかけてきた諏訪護巡査部長は32歳。神成より年上なのに、百瀬には『神成ちゃんより若々しい』と言われている。割合心外だ。
 捜査のセンスは高いのに出世欲の薄い、徹底した現場主義者。警察の仕事は花形の犯人逮捕だけではなく、その後の裁判を見越して証拠となり得る物品や情報を整理しなければならない……のだが。その点諏訪は旨いところだけ拾って投げるので、神成が尻拭いをしたことも一度や二度ではない。しかしその『旨いところ』が実に優秀な仕事ぶりであるから、あまり強くは出られないのが余計に悔しかったりもする。
「諏訪さん。俺、昇任試験が近いんですよ。お子さんの写真ならまた今度にしてもらっていいですか」
「なにおう!」
 また諏訪の悪癖には、『愛する妻子の写真をやたらと見せびらかしてくる』というものもあった。確かに綺麗な奥方――性的に興奮するという意味でなく顔の造形の話――で、かわいいお子様だというのは神成も認めるところであるが、立場が逆なら『欧米か』と頭をはたきたい。こうも度々では業務に差し障る。
 ……まぁ、母子の命に係わる難産だったと聞いてはいるから、神成もある程度その惚気に付き合ってはいるのだけれど。
「きょーは特別な用で話しかけたってーのにそーんなにウチの天使たちの写真が見たいんスかー!? そんなら5月の運動会ー!?」
「すみませんそれ前に見ました」
「だったら先月のランドで大はしゃぎの……」
「それも翌日拝見させていただきました!」
 神成は両手で机を叩いてその話題を終わらせる。既婚リア充アピールは他所でやってほしい。独身男は独身男なりに忙しいのだ。
「用件は簡潔にお願いします、もうすぐ終業ですよ」
「あれ、ホントだ。お願いの仕方が気に入らないッスけど、神成くんに付き合って退庁遅れんのもバカらしいスもんね」
 諏訪はうんうんと頷いている。神成は眉をひそめて黙っている。
 自分も彼に対して配慮が足りていないかもしれないが、彼も神成に対して一言多い。
「実は――」
「おい諏訪ぁ、神成に話通しとけっつったのに何遊んでんだ」
「あ、判先輩。お疲れッス。今言おうとしてたところでした」
 ドアを開けて顔を覗かせた男に、諏訪が小学生みたいな言い訳で軽く手を上げる。神成は畏れ多くて、ただ小さく頭を下げた。
 判安二警部補、満年齢で39歳。以前は『老け顔』と揶揄されたらしい顔貌は、初対面の頃から10年ほど経ってもほとんど変わらず、今ではかえって若く見えさえもする。そして一時は窓際に追いやられながらも、大事件を解決したことで一線に返り咲いたその実力は、神成の大いに憧れるところであった。だからこそ、彼と同じ歳までに警部補になることにこだわっているのだ。
 判は気さくに声をかけてくれる。
「神成、この後空いてるか」
「何かありましたか?」
「久々に飲みにでも行かねぇかと思ってな。どうだ?」
「はい、お供します」
 はきはきと質問に答えたら、露骨! と諏訪に批難されたが放っておく。
 少なくとも今の神成にとっては、明るい家族計画よりも過去問の売っていない試験の情報が重要であったし、判の話なら些細なことでも最優先だ。同期と頭を突き合わせていくら対策をしても、一流のセンスや哲学には決して届かない。『本物』にいろいろ詳しく聞ける、貴重な機会を逃すわけにはいかないのだ。
 諏訪はぷいと神成に背を向けた。初めて会ったときから子供じみたところがある。
「そんなに神成くんに嫌われてるなら、自分は帰って奥さんに慰めてもらうことにするッス。おつかれさまー」
「あれ、諏訪さん帰っちゃうんですか」
 神成は立ち上がり、諏訪の肩を失礼でない程度に掴んだ。振り向いた顔に微笑みかける。
「飲みの席だったら、いくらでもお写真拝見しますけど?」
 諏訪は心底からの嫌悪の表情を浮かべたが、すぐに人懐こい顔になる。
「そんなに見たいなら、行ってあげてもいいッスけど?」
「ぜひ。諏訪さんがいらっしゃらないと俺も寂しいですし」
 肩に置いた手に力を込める。今度は徐々に礼から外れながら。諏訪は朗らかに笑いながら神成の手の甲に爪を立ててくる。
「キミ、すっかり言うようになったッスよね。かわいくねえの」
「いつまでも坊やじゃないので、おかげさまで」
 数秒睨み合った後、真顔で互いに離れた。終業時間だ。じゃあ後で、と諏訪はすげなく言って部屋を出ていく。
 判が歩み寄ってきて肩をすくめた。
「相変わらず諏訪とは仲悪ぃなぁ」
「いえ? 仲良くさせていただいている方だと思いますよ」
 神成はしれっと答える。
 嘘ではない。プライベートの時間を削られることを嫌う諏訪護が、仕事上がりの飲みに(短時間でも)付き合うのは判と神成ぐらいだろう。神成も、有能で家族想いのあの先輩をそれなりに尊敬している。
 ただ、ときどきひどくいけ好かないだけだ。

 いつもの虎ノ門や新橋ではなく、渋谷に行くことになった。
 そちらには判の知己の百瀬克子がいる。今日は百瀬おすすめの店で4人で飲むらしい。
 そういうことなら断ればよかったな、と神成は少し後悔。そういう仲ではないというけれど、判と百瀬がお互いを憎からず思っているであろうことは、神成も感じていたから。先輩の照れ隠しに最後まで付き合うより、諏訪の抜けるタイミング――30分か1時間かそこら――で自分も辞した方がよさそうだ。
「神成ももう三十路か。早ぇなぁ」
「あの素直で純真な青年はどこいっちゃったんスかね。最近じゃほとんど、ふてぶてしいオッサンに片足突っ込んでまスもんね。あっ両足?」
「諏訪さんも、『絵に描いたような好青年』からすっかり『メディアで話題のイクメン』に様変わりしちまいましたね」
「神成くーん、もしかして『薄っぺらな20代』から『薄っぺらな30代』になっただけって言ってるんスかねー?」
「いいえ? 邪推のしすぎじゃないですか」
「ははは、やんのか。やるんスか?」
「おーい電車の中で揉めんな、お前ら」
 ホームに降り立って、あれ、と神成は思った。すぐには違和感の正体が分からなかった。
 見回して気付く。神成たちが乗ったのは半蔵門線のはずだった。けれどここは、井の頭線のホームだ。
「自分、トイレ行ってきてもいいッスか」
「おう。気を付けろよ」
 『井の頭線のトイレ』。ただ便所に行くのに何を『気を付けろ』と言うのだろう。
 ――わかってる。知ってるんだ、本当は。
 神成は乾いた笑い声を上げながら、自分の前髪を握り潰した。
 夢は、覚めてからそのおかしさに気付くものだろうに。中にいるうちから矛盾を探し当ててしまうなんて、本当に間が悪い。
 ありえない。『ここ』は自分のいるべき『渋谷』ではないと、判ってしまった。
 もっと笑い合ってからでもよかっただろうに。
 どんなに酔っても構わなかっただろうに。
 馬鹿な諍いだって、気の済むまで起こして許されただろうに。
 その直前で、出来なかった。
 神成はホームに降りてから一歩も動いていないはずが、いつの間にか眼前には機械仕掛けの小さなゲート。『先輩たち』はICカードで――判は切符派だったような気もするのに――改札を出ていく。雨に濡れた仔猫でも見つけた気分で視線を落とす。
 畢竟自分は夢さえ堪能出来ない、つまらない男なのだ。そこを抜けて、『渋谷』の街並みを確かめる勇気が、どうしても出ない。
「神成、どうした?」
「早くしないと置いてくッスよー」
 二人の声が遠くて。ああそれが正しいことなのだと、染み入るように悟る。
「はい。置いていってください」
 神成は笑った。精一杯笑った。
「お二人より、もっと大人に……ずっと年上の、本当のオッサンやじいさんになったら、きっと追いつきます」
 二人もうっすらと微笑み、迷いなく神成に背を向けて、見知らない『渋谷』の雑踏に消えてゆく。
 神成も来た道を戻っていく。きっと『あの警視庁』には繋がっていない道を。
「手紙、書かないとな」
 人が減り、いつしか一人、光に満ち溢れた『どこでもない場所』で呟く。

 なぁ、君もたまには幸福な夢を見るだろうか。
 俺も今日、泣きたいような夢を見たよ。