「もうっ、いい加減にしなさいよ!」
ある日のクラーケンシュタイン城。
マークスの耳にルーナの大声が飛び込んできたのは、ちょうどカミラと廊下で、エリーゼの誕生祝いについて話し合っていたときだった。
ルーナは顔を髪と同じほどに赤くして怒っている。彼女が何かに腹を立てるのは珍しいことではなかったが、今日は特別に機嫌が悪そうだった。
「バカの一つ覚えみたいに、お茶どう? お茶どう? って、頭沸いてんじゃないのあんた!?」
「あっはは、お茶だけに?」
「はぁ!? なんなのよ、あたしが上手いこと言おうとして滑ったみたいな言い方やめてくれる!?」
相手は案の定、マークスの臣下の青年――ラズワルドであった。ルーナの相棒であるベルカにも、白い目で見られている。
「あなたは、私たちの邪魔をするのが生き甲斐なの……? それなら、こちらにも考えがあるわ」
「ま、待って待って! 僕は邪魔なんてしてないよ、むしろ休憩を挟むことによって仕事の効率化を図らない? っていう提案を……」
カミラはもの言いたげにマークスを見上げた後、聞こえよがしに嘆息して臣下の少女たちに歩み寄っていった。
「ルーナ、ベルカ。今日はもう下がっていいわ」
「はーい」
「わかった」
「あっああー……」
美しい蝶たちはラズワルドの手をすり抜けていく。それでもくじけた顔は一瞬。すぐにカミラに向き直る。
「こんにちは、カミラ様! 今日もお美しいですね」
「ありがとう、ラズワルド。その賛辞は、私の可愛い部下たちにちょっかいを出したお詫びかしら?」
カミラには、ああして笑顔で凄む癖がある。兄であるマークスでさえ内心怯むことがあるというのに、ラズワルドは笑み返したままだ。
「いやだなぁ、そんな計算で言ってるように見えます? それでなくたって、僕はカミラ様にいつも感謝してるのに」
「あら。私、あなたに特別何かしてあげた覚えはないけれど」
「ありますよ!」
取り付く島もないカミラと、何故あそこまで前のめりに会話できるのかマークスには理解できない。
「カミラ様はかわいい女の子が好きでいらっしゃるでしょ? だからカミラ様の周りにはかわいい女の子がいっぱい。お傍に行くと僕も幸せ。こういうの、ウィンウィンって言いません?」
「――母体数が増えてるのに成功した回数が増えてないって、それ結局勝率は下がってると思うけど」
レオンまで現れて、話はよりややこしい方に向かいつつあった。
マークスは腕組みをして、ラズワルドの様子を遠くから見ている。
「そんな難しい話はいいんですよレオン様、こういうのは実感の方が大事なんですから。それよりレオン様こそ彼女できました?」
「それよりって何だよ、僕は関係ないだろ!」
「ありますよー。マークス様もレオン様もここの王子様は女っけなくて、お父上を見習ったらどうです? 血が途絶えますよ!」
「余計な世話だよ!!」
流石に飛び火している弟がかわいそうになってきた。
マークスが一歩踏み出すと同時、レオンの臣下であるゼロがラズワルドの肩に腕を回す。
「な、なにゼロ? 近いよ?」
「なぁラズワルド、そんなにモテたいならイい方法があるぜ?」
「わぁーロクな予感がしない……」
ラズワルドにしては勘がいい。ゼロは器用な指で、ラズワルドの顎をくいと持ち上げる。
「イこうぜ、裏通り。これだけキレイな顔と肌だ、啼かせたがる男ならいくらでも見繕えるさ……」
「いりません、僕は女の子が好きなんです!!」
「強がるなよ、そんなコト言うのも初心なうちだけだぞ。押し寄せる快感に男も女も関係ないからな。お前は身体が柔らかいから痛みも少ないだろうし、きっと腹の上でも背骨がよくしなるだろうさ」
「僕が求めてるのはもっとピュアな感情であってそういう生々しいことじゃないの!!」
「――その辺にしておけ」
マークスは痛む頭を抱えてようやく、ラズワルドとゼロの間に割って入った。
ラズワルドは涙目で、マークスの後ろに隠れる。レオンがため息をついてこめかみを押さえた。
「しっかりしてよマークス兄さん。ゼロの方もちょっとやりすぎだと思うけど」
「ヤりすぎって、まだナニもシてないですよレオン様」
「黙れ。思うけど、だとしてもあまりラズワルドを放し飼いにしないでくれ」
「僕を犬みたいに言わないでくださいよレオン様!」
「すまない。今度からリードをつけておく」
「マークス様まで!!」
ラズワルドを片手で制しながら、マークスは周囲を見る。
カミラはいつの間にか離脱していた。相変わらず興味のない者には冷たい。
「そういえば、オーディンはどうした?」
訳のわからない言動で、更に収拾のつかない事態を招くはずのゼロの相棒が、今日はいなかった。
ピエリがいないのは一応令嬢として家の都合があったからだが、オーディンにはそういったしがらみはないはずなのに。
さぁ、とレオンも首を傾げる。
「確かラズワルドがどうとか言っていた気がするけど」
「え、僕ですか?」
「ああ。それに僕がエリーゼの件で兄さんのところへ向かうってことは、伝えてあったはずなんだが。一体どこに行ったんだ?」
四人して広い廊下を見渡す。遠くにオーディンの姿を認めたのは、多分全員同時だったろう。
オーディンは平素の遊びがない差し迫った顔で、右手を目一杯前に伸ばした。直後、ラズワルドがマークスの視界から姿を消す。まるでオーディンの呪術にかかったかのようなタイミングで、ラズワルドはいきなり膝から崩れ落ちた。
「ラズワルド!?」
とっさのことで受け止めきれず、マークスは座り込むようにして、ラズワルドの身体が床に叩きつけられるのを防いだ。
ラズワルドは目を閉じて息を荒げていた。何度か呼びかけたが返事はない。喉が不規則に上下するだけだ。
「ああもう、言わんこっちゃない!」
言いながら、オーディンはラズワルドの脇に膝をつく。持っているのは薬瓶だろうか。ラズワルドの額に手を当てて、熱を確かめているらしい。
「昨日の晩から少しおかしかったんです、踊りの練習してるときに変な息の上がり方してて……だから今日は部屋で休んでおけって言っ、え、えーとつまりですね、俺は醜悪なる病魔に侵されし代え難き同胞の儚き身を憂い、繊細なる踊り手に安穏たる純白の床に伏して甘美なる微睡みへ堕せと囁くも」
「落ち着け、オーディン」
マークスは、ぶつぶつと呟くオーディンに呼びかけた。
「無駄な修辞が多くて逆に分からん」
「素に戻っちゃったんならわざわざ言い直さなくていいよ」
レオンも腰を曲げて、ラズワルドの手首を掴んだ。脈を診ているのだろう。マークスは冷静な弟の顔を見つめた。
「どうだ?」
「さぁね。僕は呪うのが専門で、治す方は少しかじったぐらいさ。今すぐどうこうというのではなさそうだけど、一応専門家に聞いた方がいいだろう」
レオンは淡々と言い、立ち上がる。さっと法衣の裾を払って部下たちの顔を見た。
「ゼロ、フェリシアとフローラに氷を用意させろ」
「わかりました」
「オーディンは侍医を呼んで来い。その薬は僕が預かる」
「は、はいっ」
二人が去るのを待たず、レオンはマークスを振り返る。
「兄さんはラズワルドを部屋に運んでやってくれ。その間に、熱冷ましぐらいは調合してみせるからさ」
頼もしい弟の笑顔を見ながら、マークスは少し躊躇したが、覚悟を決めてラズワルドを抱き上げた。
実は迷ったのはラズワルドを運ぶことではなく。
「的確な指示だった、レオン。礼を言う」
「いや、僕は大したことはしてないよ。礼には及ばない」
「そんなことはない、私は随分助かったぞ。……それで、その、言いづらいことだが。法衣が裏返しだ」
「何で今言うんだよ!!」
レオンは真っ赤になって怒鳴った。得意顔の後だったので余計に恥ずかしいのだろう。
やはり言うタイミングを間違えたなと思いながら、マークスは可及的速やかにラズワルドを彼の部屋に戻しに行ったのだった。
「あ……れ」
ラズワルドが目を覚ましたのは、昼が終わり宵が訪れるほどの時刻であった。
祭りでもするならば、一番始めるに相応しい頃合だ。
「気がついたか」
マークスはベッドサイドの椅子から声をかけた。流石にずっといられるほど暇ではなかったが、ちょうど交代したときに起きてくれてよかった。
ラズワルドは焦点の合わない目でぐるりと部屋を見回した後、はぁと息をつく。
「なぁんだ、僕、倒れたんですか」
「ああ。そしてそれを私が運ぶのも二回目だ」
「そうでした」
臣下になって間もなく、ラズワルドは訓練中に高熱を出して倒れた。暗夜の者ならば、ほぼ全員が幼い頃に罹患して、抗体が出来ているはずの病原菌が原因だった。マークスはそのとき改めて、ラズワルドが自分とは違う世界からの漂流者であることを思い知ったのだ。
今回はなんと言うことのない流行り風邪だそうだが。
「昨晩も、調子が悪いにも関わらず、踊りの練習をしていたそうだな」
「はい」
「オーディンが止めたのに?」
「そうですね」
マークスが詰問しても、ラズワルドは他人事のように薄ら笑っていた。ジークフリートに怯えて半泣きで逃げ惑ったりもするくせに、マークスが本気でその心に迫りたいときには、どんなに強い口調で責めても芯まで届かない。
「お前は何故そうまで踊ることに固執する。見られることを望んでもないくせに」
だが腹立ち紛れの一言は、いつもにこやかなラズワルドから笑みを奪った。仮面のような表情で、睨むというほどの強さすらなく、天井を見つめている。
「それは、僕が訊かれて一番困ることですね」
なら答えなくていい、とマークスは言ってやってもよかったのだろう。だが、知りたい気持ちが勝って、黙ってしまった。
ラズワルドはマークスを見ない。そしてきっと、暗夜王国すらも彼の目には入っていないのだ。
「初めて踊りの練習を見られたときも、マークス様は僕を叱りましたね」
「だがあれは私の誤解だった。すぐに禁止を解いただろう」
当時のマークスは、踊りなど軽薄だと怒った。ラズワルドは今と同じような顔で、そうですね、と言ったきり弁明をしなかった。
「あのときオーディンとルーナが、僕の踊りが有用だって伝えてくれたから、僕は踊ることを許されたんでしたよね」
その後で必死に訴えかけてきたのは、本人ではなく同郷らしい二人だった。
ラズワルドが踊ることにはどんな意味があるのか、自分たちがどれだけその踊りの上達を望んでいるか、彼の踊りによってもたらされる恩恵は何なのか、斬り伏せられる覚悟をもってマークスに説きに来た。
マークスは、二人の顔に免じるというかたちで、ラズワルドに踊ることを許した。
けれど、ありがとうございますと言ったラズワルドは、踊るなと言われたときと同じ表情をしていた。
「僕はその許可が本当に嬉しかったのか、今でも解らないんです。本当は、踊ってはいけない理由がほしかったのかもしれない」
「どういう意味だ」
無価値な相槌と知って促す。思ったとおり、ラズワルドは特別な反応を示さない。
ただ息を吸った間にマークスが声を発しただけ、という風に、独白は続く。
「もちろん踊りは好きですよ。でも、それが本当に僕の気持ちなのか、母を思い出せるから好きなのか、分からなくなるときもあるんです。踊る練習をサボることが、母を軽んじることになるんじゃないかと思い始めると、ベッドに寝ていられなくなって。でも『いけないから踊らない』のであれば、母を忘れた薄情者にならずに済むんじゃないかって……卑怯ですよね」
ラズワルドは真っ直ぐに手を伸ばした。どこか遠く。マークスの知らないどこか遠くを求めて。けれど何も掴めるはずもなく、右手は空を切って寝台に落ちる。
はは、とラズワルドは笑った。ひどく空虚で乾いた、何の感情も含まない笑い声。
「だから、いっそ踊れなくなってしまえば、どうして踊るのかなんて、考えなくて済むのかもしれないと……思うことが、あります。マークス様には、腑抜けだってまた怒られちゃいますね」
その手を握ってやるほど安い茶番はないと思った。だからマークスが返すのは、事実だけだ。
「……私は、お前の踊りが有用だから禁止を解いたのではない」
まるで懺悔でもしているようだな、と考えながら、両手を組んで床を睨んでいた。
「第三者から見ても、お前の踊りは他者に活力を与えるものだった。少なくともあの二人にとっては、私を説き伏せるだけの価値のあるものだったのだろう。それを見抜けず、ただ一方的に浮薄と断じた己の軽率さを恥じたから、許可を下ろした。それだけのことだ」
「そうですか」
また気のない返事。ことによるとラズワルドは今、まだ半分眠ったままで、言葉だけがこぼれてきているのではないのだろうか。
手の届かない母を想う心も、解らないではない。そのよすがだけでも手放したくない気持ちも。
だがマークスには、彼を理解しきってやることは出来ない。授かった名も姿も捨てて、遠い異界で病に伏せる心細さなど、マークスはきっと一生解ってやれないだろう。マークスが知っているのは『ラズワルド』で、彼を愛した母が呼んだその証でさえ、口にすることが出来ないのだから。
だから、『彼』を解ろうとする傲慢な自分を捨てることにした。『ラズワルド』の主君のマークスであることも一度置いて、ただ『彼』というものに向けて、少しずつ言葉を紡ぐ。
「率直に言うぞ。観客は、本当に踊り手が踊りを愛しているかなど、誰も気に留めないものだ。ただ楽しいと思えば笑い、嬉しいと思えば手を叩く。至極単純だろう。踊り手がその歓声をどう受け止めるかも、また知ったことではないのだから」
彼の指先が、かすかに動いた。もの言いたげに口唇が震えた。仮面ではない温度を、マークスは確かにそこに見た。
だからしっかり顔を見つめる。目を逸らさずに視線を注ぐ。自分はここにいるぞと主張する。過去がどうあれ、お前は今ここにいるのだと、繋ぎ留める。
「ラズワルドよ。私たちという観客は、今現在、お前という踊り手を好いている。お前が誰の息子かも、何のために踊るのかも関係ない。それでは、お前は踊れないのか。我々は、お前が踊る理由には値しないのか」
お前が足を踏む度に、その身が優美に流れる度に、我らは喜びを叫ぼう。
きっと拍手喝采で包んでやる。お前が恥じようとも、嫌がろうとも。この心が動くのだから、仕方ない。
「……いいえ」
彼はマークスを見上げて、かすかに微笑んだ。目尻に滲んだ涙は、果たして『ラズワルド』のものだったのか。
「思えば母も、誰かのために踊ることが好きでした。僕も、僕自身が、誰かの喜びのために踊っていいんですね。母の息子だからではなく、例えば今は――『ラズワルド』という、一個の人間として」
「そうだ。私の部下は、『ラズワルド』だ。似た踊り手のことなど、私は知らん」
出来る限り尊大に腕組みをすると、そうですよねと彼は笑った。それは確かに、マークスのよく知る『ラズワルド』の笑顔だった。
「何だか、熱に浮かされてしゃべりすぎちゃったみたいです。すみません」
「そうだな、少しおしゃべりが過ぎた。……喉が渇いただろう。水を持ってくる」
マークスが苦笑して、腰を浮かしかけたときだった。ものすごい勢いでドアが開いて、何事かと振り返る。
「病みて弱りし魂に清廉なる癒しの液体……レオン様渾身の熱冷まし薬を携え、漆黒のオーディン参上!!」
「あんたねぇ、お見舞いならもう少し静かに出来ないわけ?」
オーディンとルーナだった。片方は鼻声でもう一方も目が赤いのだから、きっとずっとそこにいたのだろう。
ルーナはずかずかと寝台に歩み寄り、先ほどのマークスより尊大に腰に手を当てる。
「ちょっと、本当に頭沸いてたなら言いなさいよ。そうしたら、ほら……こうやって、薬とかフルーツとか、持ってきてあげるくらい、してやってもいいんだから」
「うん、ありがとう、ルーナはかわいいね」
「はぁ!? そこは『優しいね』でしょ、普通!!」
「ルーナも声デカいぞ」
オーディンが素のトーンで指摘すると、ルーナは真っ赤になって黙った。
ベッドサイドに、オートミールとフルーツ盛り合わせ、薬包が並んでいく。
「内なる獣からの渇望はあるかー?」
「うん、食欲はあるよ。その葡萄おいしそうだね」
「よし、芳醇なる果実を包む紫紺の衣は我が手で剥ぎ取ろう」
「剥いてくれるんだ、ありがとー」
普通に会話が成り立っているのがすごい。
あの二人に任せておけば、後は大丈夫だろう。マークスは嘆息して、部屋を出ようとした。
「あ、マークス様!」
ラズワルドの声に振り返る。彼は熱のせいか頬を染めながら、こう笑った。
「やっぱり、踊りの練習は治ってからにします。最高のパフォーマンスじゃないと、お客さんもきっと満足してくれないし」
「――ああ。そうしろ」
肩をすくめ、マークスは立ち去る。
気の利いた言葉ひとつかけられない王子に、それでも彼は『踊る』と言ってくれたから。
観客としてそれを、信じよう。笑顔の舞いを、待ち続けよう。
マークスは歩きながら、音がしないように、空の拍手をした。
いつか目も眩むようなステージに立つ彼を想い、鳴らない手を叩いた。