こんな月の綺麗な夜には

『姉さん姉さん、私幸せになりますね』
 花のように笑う妹の、左薬指を妬んだって、どうにもならない。
 そう、よかったわねと言ってやるので精一杯。
 他にどうしてやればよかったのだろう。
 フローラはひとり、星空の下を歩く。
 足元はおぼつかない。こんな無様を誰にも見せたくなくて、星界の城の中をただ彷徨っていた。
 月は明るくフローラを照らしている。見ないでよ、と喚き散らすほど愚かにはなれなくて、悔し紛れに冷気を放つ。六角の結晶が大気に舞う。
「あら、綺麗だこと」
 背後から声がする。フローラの頬に押し付けられたのは刃物ではなく、硝子だった。
 普通の者ならばきっと冷たくて飛び上がっただろうが、フローラにとっては熱にすら感じられるぬるさだ。
「カミラ様。こんなところでお酒をお召しになってはなりませんわ」
「まだ飲んでないわ。あなただって、酔っ払ったみたいに歩いてる」
 カミラは小さく笑い、酒瓶を引っ込める。そこでようやくフローラは、身体ごとその暗夜王女に向き合うことが出来た。
 第一王女カミラ。男を悩殺する妖艶な肉体に、知性と残忍さを匂わせる瞳。
 だがその実彼女がとても一途で、慈悲深いこともフローラは知っている。カミラの直接の臣ではないが、そのきょうだいに長く仕えてきた。だから彼女がフローラを見かけて追いかけてきたことも、グラスを二つ持っている理由も、察することが出来るくらいには、カミラのことを理解しているつもりだ。
「ねぇ、付き合ってくれない? 私たち互いにさして興味もないことは解っているけど、今日はあなたと一緒に飲みたいのよ」
「私は使用人ですので、そのようなお誘いはお受けしかねます」
「つれないことを言わないで。私はあなたの直接の主人じゃないし、一人の女として顔見知りと飲み交わすぐらい、大目に見てちょうだいな」
 カミラは少し困ったように笑った。彼女が笑うときは、いつもどこかそんな陰がある。この頃は特に。
 だからフローラも、最初の一回は形式的に断っただけ。邪険にする気などなかった。肩をすくめて苦笑する。
「でしたら、私も一人の女として、一方的にご馳走になる訳には参りませんね。何かつまむものをお持ちします」
「そう? だったらテラスで待ってるわ」
 一旦カミラを見送り、ジョーカーとフェリシアに見つからないように、秘蔵の燻製を持ち出す。
 あの二人の目を盗むことなど、フローラには造作もないことだ。
 そもそも、きっと、今の二人は。フローラが何をしようと、知ったことではないのだろう。
「お待たせいたしました」
 燻製は切り分けてクラッカーに載せ、塩気だけではすぐに飽きが来てしまうので、別の皿にはココアパウダーたっぷりのチョコレート。カミラの好きなウイスキーの銘柄にはよく合うはずだ。
 実際トレーの上のものを目にしただけで、カミラは頬を緩ませた。
「やっぱりあなたって、三人の中では一等気が利くわ」
「恐れ入ります」
 フローラが一礼すると、今日はそういうのいいのよとカミラは手を振った。
 置かれたグラスにフローラの作った氷。琥珀色の液体が注がれて、二人で複雑な細工の施された硝子を手にする。
「乾杯」
 何に、とは互いに言わなかった。言う必要がないくらい、二人はそれを感じている。
 カミラのきょうだいは、カミラ以外のきょうだいを選び。フローラの妹は、近しい男性を伴侶に選んだ。
 二人は二人とも、きょうだいと想い人を同時に失ったのだ。
 それと告げられる言葉もないまま、表立って嘆くことすら自らに許せず、こうして酒を飲んでいる。傷を舐め合うことすら出来ないのは、高すぎる自尊心だけが理由ではなく、きっと二人とも自分で思うより臆病なのだろう。
「あなたはいつまで、あの子に仕えるの?」
 カミラが氷を鳴らしながら、静かに問うた。責めているのでも、遠ざけようとしているのでもない。
 今のフローラには、かえって酷な優しささえ滲んでいた。
 フローラは両手でグラスを握り締める。凍りかけたウイスキーがか細い音を立てた。
「この戦が落ち着きましたら、お暇をいただきたく思います。あの方のお傍には妹とジョーカーがおりますので、私は族長の娘としての本分を全うしようかと」
「そう。あなたのお身内には、お父様が……いえ、私たちも多大な迷惑をかけたわね」
「カミラ様に責はございませんわ」
 その父が氷の部族を苦しめたことについては、否定しない。そんな口先の誤魔化しなど、聡明なカミラはすぐに看破してしまうのだから。
 フローラが黙ってしまうと、カミラは緩く波打つ藤色の髪をかき上げた。美しい指先が、露に濡れて官能的に月光を反射していた。
「私も、この戦争が終わったら、王家から籍を外すつもりなの」
「え?」
 フローラは思わず聞き返す。カミラの薬指に金属のきらめきはない。彼女は多くの男に望まれながら、誰の求婚も承諾していないはずだった。それなのに、暗夜の王家を出るという。
「私は、マークスお兄様も、レオンも、エリーゼも、とても大切で愛している。でもダメだわ。あの夢のような年月は終わったのだもの。あの子が巣立っていこうというのに、私だけ抜け殻にすがりついている訳にいかないでしょう」
 それは即ち、つがいになってしまったきょうだいたちの傍にいることは耐えられないという、敗北宣言。カミラの気位の限界。
「私は最初から王女であることなんて、どうでもよかったのよ。あの子の傍にいるのに、王族という立場はとても有利だっただけ。もう、理由もないのに続けていく気力がないの」
 カミラは弱々しく自嘲した。戦場で勇猛に切り込んでいく暗夜王女ではない、本当に一人きりの女がそこにはいた。
 だからフローラも酒のせいにして、ささやかな宴を催す条件だった『ただの女』として――ようやく口を開く。
「私も、あの子と違って好きで使用人をしていた訳ではありません。私は見返りが欲しかったし、たとえあの方ご自身に何の罪もないとしても……一族の命を握られている状態で、純粋な忠義だけを捧げられるほど、綺麗な心を持ってはおりませんでした」
 何も知らず笑いかける主人が、殺したいほど憎い瞬間もあった。安らかな寝顔の脇に立ち、その喉笛を掻っ切る夢を抱いたこともあった。
 けれどフェリシアがドジをして、ジョーカーが口汚く罵ったかと思えば一転フォローをそつなくこなし、主人が一連の騒ぎを日常として穏やかに受け入れている、その光景が本当に愛しかったから。自分一人の屈辱ぐらい、抑えておこうと思っていた。
 いつもありがとうと、主人となった者が声をかけてくれるだけで、暗い感情も少しは和らぐような気がしていたから。姉さん姉さんとフェリシアがはしゃいで、ジョーカーがうるせぇと怒鳴るのでさえ、フローラには安らぎだったから。
「結局、私たち誰より自分がかわいいのよね。思うようにならなかったから傍で見ているのが嫌だなんて、まるで子供の言い分」
 カミラが、四角く切られたチョコレートの一片に手を伸ばす。王室御用達の菓子屋が作った一品だ。市井に降れば、こんな高級品にも手を出しづらくなると笑った。マークスはどんな状況になっても、きっとカミラに不自由をさせないだろうと思ったが、フローラは敢えて黙っていた。
 代わりに、自分もその焦げ茶の欠片を摘み上げる。
「暴れ回る、分別のない駄々っ子よりは幾分ましですわ。ただの子供なら、いずれ大人になりましょうから」
 粉の苦味の後に、砂糖の甘さが蕩ける。舌に残る未練を、熱を孕んだ酒で流し込んだ。
「ええ、そうね。――大人に、なりましょうね。お酒を飲んだって、それが逃げにならない程には、大人になりたいわ」
 そう呟くカミラのグラスが空いていたので、フローラは瓶から琥珀色の液体を注ぎ足してやった。なくなりかけていた氷も作り直す。カミラは、ありがとうと笑ってグラスを手に取った。
「私、あなたのそういうところ、好きよ。あの二人は悪い子ではないのだけれど、視野が少し狭いのよね。あなたも思いつめるタイプだけど……抜けが一番少ないのは、いつだってあなただったわ。フローラ」
「ありがとうございます、カミラ様。でも私が一番てきぱき動けていたのは、きっと有能だからではありませんわ。あの二人ほど、感情的になれないせいだと思います」
「あら。それって何か、悪いこと?」
 私は好きって、言ってるじゃない。カミラはフローラの瞳を見据えて、形のいい口唇をはっきりと動かした。
 アルコールに濡れた艶かしい赤みに、フローラは苦笑するしかない。
「カミラ様が殿方でしたら、私このまま肌を許しているかもしれませんね」
「心外ね。お酒の力で女の子を手篭めにする程、つまらない男にはならないつもりよ、私」
 カミラは笑い返して喉を潤す。フローラは肩をすくめる。
「私でしたらつまらない男になるでしょうから、きっとカミラ様をお誘いしてこっぴどく断られていたことかと」
「そう? 私はあなたがその気なら別にいいわ」
「ご冗談を」
 どうせ、そんなもしもがあったって。私たちはきっと、身体を重ねながら別の面影を見ている。
「いい夜ね」
「ええ。本当に」
「お酒が進んじゃうわ。こんな月の綺麗な夜には」
「ええ、本当に――おいしいお酒」
 カミラは王女として生まれ、王女として生きられず。
 フローラは使用人として育ち、作法も要らない生まれ里に帰る。
 恐らくはもう、交差しない人生の中で。たった一夜、束の間同じ、夢を見た。