花衣を君に - 6/7

◆mein Leben und Ihre Liebe ―揮発する血液―◆

「……何で今そんなこと言うんだよ」
 レオンは片腕で目許を覆いながら顔を背けた。
 こんな、一番みっともない姿をさらしているときに、大切だなんて言われても。情けなくて、どう返していいのかてんでわからない。
「知りません、先に変なとき変なこと言ったのレオンさんなんですから……知りません」
 腕の隙間から盗み見たサクラは、子供のように首を振っていた。
 レオンは己の肉体を冷静に見つめる。傷は塞いでもらったが、流れた血は消えず衣服を、肌を汚している。何故こんなときに悟るのだろう。聡明な彼女にその幼さを持ち出させたのは、他でもない自分だと。
「僕はあなたに、悲しい顔をさせてばかりだね。本当にしてほしいのは、そんな顔じゃないのに」
 笑ってほしい。喜んでほしい。安心してほしい。ただそれだけの願いを、どうして遠回しにしか伝えられないのか。
 この怪我を招いたのだとて、レオン自身の卑小と傲慢だ。魔道兵のくせに前に出すぎた。鎧を着ているからといって、少し巧く立ち回れるからといって、己を過信した。私情の為に判断を誤った。
 死を見たかったから。生きていると思いたかったから。正解が分からずに、霧でも掴むような想いでいるのはもううんざりだったから。『何か』の実感を得たくて、熱量の高い方へ惹き寄せられていった。そして物陰から虚を衝かれた。あと一秒、オーディンが叫ぶのが遅ければ、今頃レオンの内臓は正しい位置になかったかもしれない。『闇色の王子』が聞いて呆れる。
 サクラは、そのあどけない顔貌に不似合いなほど張り詰めた表情で、オーディンに呼びかけた。
「オーディンさん。それほど厳しい状況なら、すぐ前線に復帰してください。レオンさんなら大丈夫です」
「は、はい。よろしくお願いします。……レオン様のこと、ホントに、お願いします」
 ずっとそばについてくれていたオーディンは、サクラに何度も頭を下げてから、前線へ駆け戻っていく。レオンは自らの呼吸器の無事を確かめながら、深く息を吐く。
 なんてひどい様だろう。王子としても、兵としても、男としても。
「サクラ王女」
 血塗れの指先を持ち上げ、サクラの頬に触れた。一瞬で滑り落ちて、赤い跡だけが美しい肌に残る。蒼褪めた彼女の顔を汚す。
「レオンさん! まだ動いちゃ――」
「あのさ。……僕のこと、見えている?」
「あ、当たり前じゃないですか!」
 サクラはレオンの手を拾い上げ、握り締めた。そんな死に際の茶番がしたいのではないのだけれど。
「僕の匂い、している?」
「血の匂いしかしません!」
「そう」
 レオンはサクラの指を逃れて、微笑んだ。
「これも僕の匂いなんだよ」
 こんなときに、こんな表情を望まれていないことなど解っている。だが『そんな話』を始めたのは彼女の方で、レオンは『意味なんかない』という思い違いを今このとき訂正しなければ、きっと永遠に機会を見失う。
「返り血じゃない。全部僕の血だ。魔道兵が相手の血を浴びるなんて、滅多にあることじゃない。僕はこの液体を身の内に通わせて生きてきたし、死ぬときも恐らくこれを流しているだろう。香水でも消せない、僕だけの匂いだ。でも」
 今度こそしっかりと腕を上げ、レオンはサクラの頬を拭おうとする。乾きかけた血の色はかすれて広がっただけで、清らかな肌から消せなかった。
「あなたこそ……いつもこうやって、誰かの血に触れている。誰かの匂いに祈りを捧げている。あなたがそうとしか生きようとしないことの方が、僕はよっぽど」
 きらいだよ、と言おうとして、直前で違うと気付いた。まだ上手く頭が働かないが、多分、自分が伝えたいのは別の気持ちだ。
「つらい、な」
 サクラが見開いた瞳から、透明な雫が一粒こぼれて。横に走った赤色を、一筋洗い流す。何度もしゃくりあげる喉からは言葉を発さず、彼女は目を閉じて、素肌ですらないレオンの手の平に頬を押し付けていた。
「二人共、戦場でのおしゃべりはそこまでだ」
「……マークス兄さん」
 壁の向こうから、神器ジークフリートを携えたマークスが現れる。このタイミングで声をかけてきたということは、会話が一段落するまで待っていてくれたのだろう。兄はそういう気の遣い方をする人だから。
「一生懸命口説いてるレオン様の邪魔は、僕らがさせないよ!」
「人のコイジを邪魔するやつは、ピエリにやられて死んじゃえなのー!!」
 出来れば兄の臣たちも、応援は黙ってしてもらえるとレオンは大変に助かる。精神的に。
 マークスは咳払いして、ただでも寄りがちな眉間のしわをさらに深くした。
「レオン、それにサクラ王女も。私は二人の間で何があったのかは知らん。無理に訊きもしない。だが聞こえているだろう、自身を想う者たちの声が」
 壁だらけの暗い城内で、仲間たちの姿も今は見えない。けれど届いている。
 ゼロの、全て計算尽くで敵を挑発する軽口が。オーディンの、余計な一節を加えた闇の呪言が。カザハナの、強い決意に満ちた宣言が。ツバキの、普段の口調とは違う鋭い掛け声が。暗夜の、白夜の、どちらでもないけれど確かに共に育ったきょうだいたちの、勇猛さが。
「忘れるな。私たちは王族だ。そして人間だ。己だけで戦っているのではない、己の為だけに幸福を目指すのでもない。空いた背を当たり前に守ってくれる者を常に慮り、そして」
「生き残れ、でしょう。それこそが僕らの責務だ」
 レオンはブリュンヒルデを拾い、起き上がった。身体はもう十全に動く。軍で一番の癒し手に処置してもらったのだから。多少の失血など誇りで補ってみせる。
「ああ。……生きていてくれなければ、我らはきょうだいの未来を祝福することすら出来ないからな。そうだろう? レオン」
 マークスは瞬きの間だけ微笑んで、あの声たちの中に帰っていく。
 レオンはたまっていた息をまた吐いて、改めてサクラを向いた。
「ねえ。やっぱりあなたは、あの香水をつけなくていいよ」
「え……?」
 サクラは目を丸くして固まっていた。レオンにとってはずっと連続していた話題でも、彼女にとっては急に思えたに違いない。だからこれはただの懺悔で、理解してもらえなくても構わない。
「嫌いだって、言ってしまったから、ですか?」
「いや。あなたには不要な匂いだから」
 レオンの醜さを彼女が身に着ける必要はない。美しい戦巫女は、己の香りだけで咲いていればいい。汚すことも、手折ることも許されはしないから。
「レオンさん」
 何かを断ち切るように短く、潔く、サクラはレオンを呼んだ。小さな口唇は大袈裟でなく、しかし明瞭に動いて。
「私、そんなに、弱い、ですか?」
 花色の瞳はレオンを静かに捉え、皮肉でも冗談でもないと訴えている。先程まで泣いていた少女とは思えないほど、強い視線。けれど激しさも厳しさもない。それは例えるならば。
 暗闇で生き続けたレオンが、畏れ、憧れてきた、光のよう。
「そんな簡単な質問を、僕にしていいのかい」
 レオンは苦笑して背を向けた。
 そうだ。レオンはサクラの狡猾と怯懦を身に纏った。だが彼女も、レオンの弱さと愚かさを癒してくれた。守りたいと、言ってくれた。そんなひとを一方的に守ろうとすることこそが驕りだと、何度突き付けられれば自分は学ぶのか。
 レオンは断言する。サクラよりも自身に聞かせる為に。もう二度と忘れてしまわぬように。
「あなたは強いよ。あなたが自分で思っているよりも、もっとずっとね」
 さて、そろそろ本当におしゃべりは終いにしなければ。傍らに置いてあった鎧を身に着けていく。サクラも、もう止めなかった。黙って装備を手伝ってくれる。レオンを救ってくれた、その小さな手で。
「ありがとう。僕はもう大丈夫だ、あなたも持ち場に戻って」
「はい。……今度こそ、ご無理はなさらないでください」
「そうだね。努力する」
 あなたが僕を叱ってくれたことも、忘れず胸に刻もうと思う。
 レオンは仄明るく光る床を踏み締め、別の部屋に進み出た。歩くほどに濃くなる鉄の匂い。金属のきらめきと、赤い液体がもたらす忌むべき刺激。あたたかな気持ちも今は封じて、ただ前へ。
 突如姿を見せた透魔兵にも、今度は驚かなかった。否、待っていたと、冷静に息を吸う。魔道書の頁が、魔力の昂りで激しくめくれていく。迫る刃――だが遅い。レオンは己の詠唱の長さを完璧に把握している。今からどれほど加速しようと、この間合いなら確実に仕留められる。
 尋常の魔道書ならいざ知らず。暗夜王国第二王子、レオンが手にするこれこそは歴史に誇るべき神器。その名は。
「貫け。ブリュンヒルデ」
 既に死んだはずの存在を葬るは夢幻の枝葉。霧散するのは架空の命。崩れゆく切っ先は、レオンの鼻先から二十インチ以上離れていた。腕の一振りでその残影を払いながら、レオンは涼やかに目を細める。
「僕は何であれ、理を侮るものが嫌いでね。死者の分際で生者の真似事なんて、片腹痛いよ」
 言い捨て、レオンは悠然と流血の最中に舞い戻る。火花散る戦場で冷酷に笑う。
「死ぬことさえ出来ないのならこの手で消してやる。――さぁ、喜んで塵になるがいい」
 呪いの香りを全身に、呪いの言葉を舌に纏わせ、レオンは今日も罪を犯す。赦されない咎を、そうと知ってなお負い続ける。
 血などいくらでも流そう。その代わり、あなたにはいろんな僕の匂いを覚えていてもらわないと。この血生臭いレオンという王子の、『そうでない香り』を識別出来るのは、きっとあなた一人になるだろうから。

 

 

「お気遣いありがとうございました、リョウマ王子」
 レオンは深々と頭を下げた。純然たる嫌味はすっかり伝わっているものと思う。
 星界にある城の中でも、白夜の者の自室は草のマット敷き――『タタミバリ』になっているようだった。レオンは『セイザ』なる姿勢で座りながら、リョウマと向き合っている。おかげで否が応にも武装を解かねばならなかったが、かけた迷惑の分を考えれば安い手間だ。
「これをお返ししなければと思って。以前頂戴した白夜の香水です。少し使用してしまいましたが、残りは充分にあります。ご不要でしたらこちらで処分しておきましょうか」
「まず理由を聞こう。レオン王子」
 リョウマは否とも是とも言わなかった。この泰然とした態度が、兄や父の持つ緊張感とも違う居心地の悪さを抱かせる。だが今は負けているわけにいかない。レオンは真正面から、白夜王国第一王子と視線を合わせた。
「あなたから理由なく物をいただくわけにはいきません。僕は外交の一環として彼女に贈り物をしたのでは、ありませんので」
「そうか」
 リョウマは短く答えただけだった。微かに笑ったような気がするのは、レオンの勘違いだろうか。
「っていうか、最初からそんなこと気付いていたんでしょ。兄さんは」
 第二王子タクミが、眉をひそめて頭をかいた。たまたま居合わせたとかで、足を崩して――『アグラ』というらしいが、レオンには『ザゼン』との区別がつかない――兄君のそばで話を聞いていたのだ。
「だったらサクラに全部自分でやらせればいいのに。結局過保護なんだよ」
「そう言うな、タクミ」
 リョウマは今度こそ確かに微笑んで、弟に視線を向けた。
「出来るときに出来ることをしてみたとて、別に構うものでもあるまい。俺たちがサクラの兄をしていられる時間も、永遠ではないだろう」
「話が飛躍しすぎじゃない?」
「さぁな。レオン王子はどう思う?」
 ここで水を向ける辺り、リョウマは剣だけでなく口での応酬もなかなかに達者である。レオンは曖昧に言葉を濁しながら、隠し持っている小箱が何かのはずみでこぼれ落ちないように祈った。もう指輪も用意してしまったなどと、とても言えたものではない。形勢は不利、立て直す為に一時撤退の一択だ。
 レオンはわざと仰々しく腰を上げた。足の先が痺れているのを、意地だけで隠しながら。
「では、サクラ王女にもお話したいことがあるので、僕はこれで」
「しっかりな」
「やめてください」
「え、本気で僕たちの義弟になる気?」
「……その話、本人に了承を取ってからでいいかな」
 この兄弟は追撃も辞さないのだから嫌になる。兄の方は恐らく自覚的に、弟の方は完全に無自覚に。
 挨拶もそこそこにリョウマの部屋を出た。足早に石造りの廊下を行く。明日頃にはもっと決定的な戦場に身を置いているかもしれない。だからこそ、陽光に目を眇めながらも確実に前へと進んでいく。
「レオン王子!」
 少し行ったところで呼び止められ、振り返る。タクミが不安げな表情で追いかけてきていた。
「まだ何か?」
 このところ友好を築いてきた相手に対して素っ気ない言い様だと理解はしていたが、レオンは本件に関してこれ以上第三者に首を突っ込んでほしくはない。それがもう一人のサクラの兄君であっても。
 しかしタクミの問いは、レオンの予想と若干論点が違っていた。
「あのさ。そもそも、サクラはレオン王子のことが好きなの?」
「は?」
 思わず間抜けな声が出た。完全な不意打ちだった。直前の戦いで、脇腹を負傷したのと同じぐらいの。タクミは取り繕うように片手を横に振る。
「あ、いや、好意的に見てるだろうってのは、傍からでも分かるけど。それはその、結婚したいっていう類の、好きなのかってこと」
 レオンは必死に記憶を遡る。彼女の発言を思い出す。
 だって僕が大切だって、守りたいって……いや待て、それって、『僕だから』とか『僕だけ』とか一言も言ってないぞ。『暗夜の王子が死ぬと将来の平和に支障をきたすから』とか……いやいや、ちょっと待ってくれ。
「……あんたもしかして、確かめてもいないのに真面目に求婚する気だった?」
 タクミの冷たい声が心を刺し抉る。レオンは胸を押さえながら、よろよろと歩みを再開した。
「それも今から訊いてくるよ……」
 なんかごめん、という台詞は、出来れば口に出さないでほしかった。

 

 

 サクラは、泉のそばに造られた木立のところで待っていた。暗夜の痩せた樹々ではなく、白夜の瑞々しい林の方。陽射の苦手なレオンの為に、彼女が指定してくれた。緑が鮮やかに歌う下で、サクラは静かに佇んでいた。歩み寄るレオンに気付いて、そっと顔を上げる。
「あ、レオンさん。来てくださったんですね」
「あ、ああ。うん」
「……どうかなさったんですか?」
 こうやって無防備に目を覗き込まれるのも、今はとても複雑な心持だ。サクラは必死に何かを訴えてくる。
「レオンさんへの香水、今度はちゃんと自分で選んだんですよ。そ、その、確かにツバキさんたちにちょっと相談はしましたけど、意見を仰いだだけで、最終決定は私がしたと言いますか……だから」
 だが現在レオンの耳には、それは意味を持った言葉として届いてこない。彼女の両手を強引に掴んで、顔を近づけた。
「サクラ王女」
「は、はい?」
「僕のこと好き?」
「へっ!?」
 サクラは真っ赤になって視線を彷徨わせた。えっと、あの、その、としどろもどろで話を逸らそうとしている。レオンの質問はたった一つで、あり得る答えはたった二つのはずなのに。
「一言でいい。好きか嫌いか」
「そ、そんなこと、急に……」
「嫌い?」
「そんなはずないです!」
「よかった」
 強い即答に、レオンはようやく肩の力を抜いた。同時に冷静さが戻ってきて、思いの外きつく握ってしまっていた彼女の手をぎこちなく放す。
「……ごめん。今のは完全に僕が言わせたよね」
「そんな……ことは」
「いいよ、無理に弁明しなくて。すまなかった」
 本当に無様すぎて嫌になる。サクラの優しさに付け込んで好き勝手なことばかり言って。これでは兄君たちにちくちくやられるのも道理だ。
 レオンが目を合わせられずにいると、あの、とサクラから話しかけられた。
「……レオンさんこそ、私のこと、どう思って、ますか」
「え?」
 予想外の質問に、また間抜けな声が出た。
 この期に及んでまだ伝わっていないだと? しかも彼女の声は気圧されるほど真剣。長いまつ毛を伏せて、まるで何かを押し殺すような調子で。
「好きでもない男のひとに、香水いただいて舞い上がっちゃって、軽い気持ちでお返し選んで、こんな風に浮かれて待ってたりする女だって、思ってますか」
「あなたはそんなひとじゃない」
「ありがとうございます。あなたもきっと、そんなひとじゃないと、私は思います」
「――そう。どうもありがとう」
 レオンは指輪の箱をそっと隠した。どうやら勝算はありそうだけれど、今日は劣勢だからやめておこう。渡すのは、もっと自分が優位なときだ。例えばそう、有無を言わさぬ電撃戦だとか。
「それより、どういう心境の変化? お互いが選んだ香水を交換しようなんて。散々、香水なんて嫌いだ、意味がないって否定したのに」
「あ、あんまり蒸し返さないでください……」
 今度は一転、サクラが両手で顔を覆った。
「レオンさんだって、私のこと、いつも血塗れみたいにおっしゃって……」
「心外だな。そこは文脈から正しく汲み取ってほしいよ」
 レオンは腕組みして首を傾げる。先に血の匂いの話を持ち出したのは、サクラなのに。
「そ、そうじゃなくてですね!」
 サクラは手を外してレオンを睨み上げる。が、平時の彼女の怒った顔は、申し訳ないぐらい迫力がないのだった。真面目に聞くから普通にしてほしい、と頼むと、サクラは一度小さく口唇を尖らせてから、普段の顔つきに戻って続きを話し始めた。
「最初にレオンさんに選んでいただいたとき、私、とてもぼんやりと『香水』というものに憧れていただけだったんです。何が好きとか、似合うかどうかとか……深く考えていなくて。香りと在り方が結びつくなんてこと、思いつきもしないで」
「うん」
 レオンは短く頷く。それは彼自身もそうだった。言葉にすぎない『感想』ばかり聞き集めては、彼女の『気持ち』の欠片を得たと錯覚していた。何を何の為に、誰の為に選んでいるのか、思い返せば空気を掴むように不確かだった。
「でも……あのとき」
 どのときの話なのか、サクラが俯いたことですぐに分かる。レオンは彼女が癒してくれた箇所に手を置きながら、先を待つ。
「私も誰かの血を纏ってる、って、言われたとき。このままじゃいけないって、思ったんです。……私ももう、ただ癒すだけの者ではありませんし。戦う術を手に入れたのなら、もう、在り方を他人に……他人の匂いに委ねては、いけないと」
「香水は人工物だろう。ましてこれは僕の意思が介在してる、他人の匂いだ」
「いいえ」
 サクラは顔を上げ、きっぱりと言った。木漏れ陽が薄紅の瞳を淡く彩っていた。
「『あなたが考える王女サクラ』の香りは、確かに『私』ではないと思います。けれどそれを『私の一部』に出来る身体も、これひとつのはずです」
 レオンの顔を見つめたまま、サクラは両手を自身の胸の上で重ねる。まったく、と内心で嘆息し、レオンは首の後ろをかく。
「それなら、そろそろ新しく選んだ香水を確認してもらっていいかな。気分よく過ごせない出来じゃ、それこそ意味がない」
 木陰に並んで腰を下ろした。レオンは畳んだ白いハンカチに、薄紅色の液体を数滴垂らす。
 悩んだ挙句、結局彼女の名前に近い花の香りに決めた。安直だと言われてもいい。存在と不可分のものから、かけ離れる方が不自然なのだ。
 レオンの差し出した右手に、サクラが顔を寄せる。小さな鼻を少しひくつかせ、すぐに口許を綻ばせた。どうやら前のものよりお気に召したようだ。
「どう?」
「私にはもったいないぐらい、素敵な香りです。……でも、ちゃんと相応しく在れるように、頑張ります。もう逃げたくないですから」
 まるで年上のように穏やかな顔で、サクラは言った。レオンは今度こそため息をついて、ハンカチの端を指先でつまんだ。白い布が広がり、彼女の方へ甘い風が流れる。サクラは手品でも披露されたみたいに、レオンの人差し指と親指に挟まれて泳ぐハンカチを見つめている。
「どうしたんですか?」
「いや、降参の証。あなたがあんまり強いから」
 肩をすくめたら、彼女は楽しそうに笑ってくれた。渾身のおふざけはどうやら成功したようだ。
「私の用意したものも、確かめてもらっていいですか?」
「もちろん。僕はもったいぶるの得意だけど、もったいぶられるのは苦手だからさ」
「ふふ。ご期待にそえたら嬉しいです」
 サクラは手にしていた巾着から小さなものを取り出し、レオンの目の前で開いてみせた。この間の角ばったものとは違って丸い容器。やはり木製で、中には淡い色の練り香水が入っている。レオンは――やや業腹だけれどリョウマのおかげで――剥き出しになっていた指で一筋すくい、手首に軽く塗ってみる。体温で揮発して、やわらかく薫る。青風のように涼やかで、自由な、清々しい香りだった。
「どうですか?」
「うん。僕は好きだな」
「よかったぁ。緊張したんですよ」
 改めて、ガラスの小瓶と木の器を交換する。重さの違いにやや驚く。サクラも香水を自分の肌へわずかに移して、満足そうに吸い込んだ。
「これなら、カミラさんのお茶会にもお呼ばれ出来そうですね」
「何の話?」
「誘っていただいたんです。気に入りの香りを見つけたら、いらしてって」
「その男子禁制の会の鍵を僕につくらせたのか。やってられないな」
 レオンは頭をかいた。結局、何だかんだで互いのきょうだいには――ある種余計な――世話をかけている。サクラが気遣わしげに、軽く腕に触れてきた。
「あの、レオンさんは、お姉様とお茶はなさらないんですか?」
「するよ、きょうだいだけのときはね。臣下がいるときは肩身が狭い」
 レオンは、サクラを弾かない程度に身を縮めた。ルーナはダメ出しが多いし、ベルカは無言の視線が痛い。嫌いではないが気が休まらないのだ。サクラは少し顔を伏せて、レオンの腕に置いた指に力を込める。
「女性の扱いには、慣れてらっしゃるのかと思っていました。ものを贈ることも……」
「まさか。そうだったら僕は、ヒノカ王女やカザハナにも文句を言われないように、もっと上手くやってる。あの香水のことだって、ゼロに何て言われたと思う? 『アドバイスだけでいいのに先走りすぎ』って。あれは耳が痛かったな」
 慣れないおどけた口調で言えば、サクラが口許を押さえてくすくす笑った。ああなんだそんなことか、とレオンも力を抜く。
 やはり、見栄を張りすぎていたのかもしれない。それは、まぁ、つけられる格好なら出来ればつけたままでいたいけれど……触れ合うのに邪魔なら、潔く取り去ってしまった方がいい。こんな風に。鎧と同じように。
「なんだか今日のレオンさん、その……ご自分のこと、いろいろ教えてくださいますね。すごく嬉しいです」
「そうかな。この前、白夜の神聖なる巫女様はお片付けが苦手だって、重大な秘密を知ってしまったからね。釣り合う分の弱点ぐらいは握らせておこうと思っただけかも」
「そ、その話はやめましょう? もっと、えっと……文化の話とか、しましょう!」
 その必死さがおかしくて仕方なかったのだが、話が進まなそうなのでレオンは笑いを噛み殺す。似合わないしかつめらしい咳払いをしてから、サクラはようやく柔和な表情に戻った。
「白夜では、高貴な香りは『嗅ぐ』とは言わずに『聞く』と言うんだそうです。オロチさんに教わりました。香道の話ですけど」
「へぇ。風雅だね」
「はい。……私、レオンさんのこと、いつも聞こえていたらいいなって、思ってます」
 うん、と頷いて、レオンは手首で口許を覆った。緑の音が聞こえる。まだ遠く花色も。
 この香りたちも次の戦いで、血の匂いと混ざるだろう。それが互いの無二の記憶になる。量産品ではない、二人だけの空気になる。そしてラストノートは、穢れの抜けたどこまでも純粋なものを楽しんでいよう。
 薄紅の髪を風に揺らしながら、サクラが天を仰ぐ。
「いつか本当の青空を、一緒に見たいですね」
「そうだね。……そうしたいな」
 月並みに返し、レオンも目を細めて上を向く。彼女の香りは、自分の匂いは、ここにある。きっとずっと聞こえている。
 初めて、この蒼穹が厭わしくないと思った。いつか光も青も、花と同じように愛おしくなればいい。