花衣を君に - 5/7

◇錯綜◇

 やるせない、と思う心を止められずにカザハナは小さく息をついた。直属の臣だとて主の行動すべてを把握しているわけではない。目の届く場所であれば守ってみせるのに、知らない場所で傷ついて帰ってくるサクラを見るたび胸を苛むのは無力感だった。それはツバキも同じこととカザハナは信じていたが、今回ばかりは勝手が違うようだった。
「リョウマ様が選んだのが良くなかったのかもしれませんねー」
「なに言いだすのよツバキ! レオン様相手に下手なお返しはできないっていうサクラの優しさを……」
「……私、少し歩いてきますね。おふたりはゆっくりしていてください」
 ふたりに否と言う隙を与えず、部屋の主は姿をくらましてしまった。久しぶりにサクラとゆっくり話でもと浮かれていたカザハナにとっては晴天の霹靂だ。ゆっくりしていてください、などと言われてしまえばここから動くこともできない。サクラはああ見えて頑固だ。止められないとカザハナは思ったし、ツバキがどう感じているかはわからないが、カザハナは見るからに傷ついているサクラに遠慮なく追いすがれるほど無神経ではなかった。
 部屋に置き去りにされ、気まずい沈黙が落ちる。カザハナがサクラに怒鳴ることなどあり得ない。けれど、同僚の男は別だった。
「あなたのせいでサクラを怒らせたじゃないの!」
「カザハナはちょっとサクラ様に甘すぎるんじゃないのー? しかもまた呼び捨て……」
「レオン様の肩を持つわけ!?」
 呼び捨ての件は分が悪いので無視してツバキに食いかかると、困ったような顔で見つめ返される。いつでも飄々としたツバキには珍しい表情だ。
「俺はサクラ様の味方だよ。当然でしょ」
「そうじゃなかったら叩き斬ってるわ」
「別にあの方を特別好意的に思ってるわけでもないよー」
「だったら……」
「ただ、レオン様のお気持ちもわかる気がするんだよねー……」
 わかる、とだけ言って説明はしないツバキの態度がもどかしい。はっきりとサクラから話を聞いたわけではないが、主が落ちこんでいるのはレオンとの口論が原因のようだった。レオンの気持ちを想像できるなら、なぜサクラの気持ちは想像できないのだと腹立たしい。サクラとレオンが距離を縮める過程を誰より近くで見守ってきたのだ。認めたくはないが、それはツバキとレオンの臣下も同じであるはずだ。
「たしかに……サクラ様もはっきり言えないところはあるかもしれないけど、おふたりが喧嘩になるときはたいていレオン様の言い過ぎが原因だったじゃない! サクラが控えめなのをいいことに言いたい放題……」
「こら。それじゃあただの悪口だよー。軍議の件では俺もむっとしたけど、今回はレオン様が一方的に悪いってわけでもないんだからー」
「なんでそんなことがわかるのよ!」
 サクラの臣下として対等な立場であるはずが、ツバキにだけ知ったような顔をされてはカザハナの立つ瀬がない。同性であるという点を加味しても、サクラのことはカザハナのほうが理解しているはずだ。レオンのことは、どうやらツバキのほうが理解しているようだと認めざるを得ない。カザハナとて無為にツバキと口論をしたいわけではない。
「うーん、そうだなぁ。カザハナがサクラ様に贈り物をしたとするでしょ」
「……うん」
「そのお返しが、リョウマ様の選んだものだったらどう思うー?」
「光栄に思うわ」
 当然だ。カザハナはリョウマを尊敬しているし、憧れてもいる。というのはカザハナの理屈であって、ツバキの求める答えではなかったらしい。ツバキが赤い髪を揺らしてその場で唸る。なんだか言外に物分りが悪いと言われているようで腑に落ちない。
「う、うーん……。じゃあ、ヒノカ様が選んだものだったら?」
「そもそもどうしてサクラ様以外の人がお返しを選ぶのよ」
「それをご本人に……ううん、なんでもないよー。例え話だからー。それで、ヒノカ様が選んだものを渡されたらどう思う?」
「どうって……。……サクラ様には絶対言わないでよ」
「はいはいー」
 適当に聞こえる相槌だが、ツバキはこう見えて口が堅い。信頼のおける相棒だ。頻繁に喧嘩をしている時点で完璧に守れているとは言い難いが、サクラを困らせるようなことはしないというのがふたりの暗黙の了解だった。優しいサクラはカザハナの気持ちを拒みはしないだろうが、民を導く立場にある主に、親友だからといってわがままで子どもじみた感情をぶつけたくはない。
「……ヒノカ様のほうがサクラ様のことをわかってるみたいで妬いちゃう、かも……」
「うん、正解。だから俺は、今回は中立でいたいと思ってるよー」
 話はそこで終わりのようだった。ツバキの言う正解に辿りついたというのにすっきりしない。そもそもこの会話はどこから始まったのだったか、とカザハナは記憶をさかのぼる。当事者はカザハナとヒノカではなくレオンとリョウマであったはずだ。つまり、感情はそのままに登場人物を入れ替えればいい。
 少し機転を利かせればすべてがあっさりとつながった。そして、とるべき行動もひとつだった。刀を手に立ちあがり、襖に手をかける。
「……えっ? ちょっと。どこに行くつもり?」
「レオン様にご挨拶してくるわ」
 そのまま走りだすことも辞さない勢いだったが、慌ててカザハナの腕を掴んだツバキに阻止されてしまう。
「俺の話聞いてたー!? そんなことしたら余計にこじれるよね?」
「だって、どういうつもりなのよ! 私のサクラにそんな……恋慕だなんて!」
「カザハナはただの臣下でしょ」
「親友よ!!」
 カザハナとて、昔よりはレオンへの理解も進んでいる。噂通りの冷徹な王子でないことも、レオンがサクラに向ける視線がずっとやわらかくなったこともわかってはいるのだ。しかしそれとこれとは話が別だ。おとなしいサクラにあんな我の強い王子は毒でしかない。
「離しなさいよ!」
「親友だったら、サクラ様があの香水を大切になさってることもわかるよね? 俺たちの出る幕じゃないんだよ」
 普段は間延びした緊張感のない話し方しかしないくせに、こういうときのツバキは冷静だ。おかげでカザハナまで頭に昇った血が冷めてしまった。悔しいがツバキの言う通りだ。サクラが心底嫌がっていたなら、そもそも香水を贈ることすら許さなかったのに。
「どうしてレオン様なのよぉ……」
「それはサクラ様だけが知っていればいいことだよ」
 ツバキはサクラの親友ではないから他人事のように笑っていられるのだ。などと本気で思うなら、同じ主に命を捧げると決めているツバキに対するひどい侮辱だ。かといって、今すぐツバキのようには割り切れない。
「……団子屋、付き合ってよ」
「えー。太ってどうするのー?」
「食べたあとであなたを完膚なきまでに叩きのめすから太らないわよ」
「そ、そういうこと真顔で言わないでくれる……?」
 身の危険を感じたのか、カザハナを抑えていたツバキの手が離れる。さすがに、レオンのもとへ殴りこみに行こうなどという気はもうなかった。
「向こうの臣下はどう思ってるんだろうねー」
 臣下、と聞いてつい顔をしかめてしまった。ふたりとも第二王子の臣下だけあって腕は立つのだが、一癖も二癖もある連中なのであまり関わりたくはない。
「サクラ様が嫌だなんて言わせないわよ! 不敬だわ」
「カザハナのほうがよっぽど不敬だからね~。……うーん。俺は、ゼロとは少し話したことあるんだけど……」
 ずいぶん煮え切らない言い方をする。視線で催促すると、誤魔化すような笑みが返ってきた。なんだか嫌な予感がする。
「俺たちも上手くやらないとねー。サクラ様のためだから」
「な、なに言ってるのよ!」
 カザハナの悲鳴に近い絶叫を聞き流したツバキは相も変わらず涼し気な笑みを浮かべている。四人で仲良くなんて冗談ではない。そう思うのに、それぞれの臣下を見つめるサクラの優しい眼差しは自然に想像できてしまった。

 

 

 部屋を飛びだし、なにも考えずに城内を歩いていたサクラは、自分を呼ぶ声に遅れて気がついた。カザハナでもツバキでもない。ふたりはまだサクラの私室にいるはずだ。
 星界において水路が走るのは城の外だけではない。四方を水路に囲まれた中庭がその証拠だ。涼やかな水の音に乗り、より弾むように響く少女の声は、サクラの沈んだ気持ちさえも軽やかに引きあげた。
「サクラ! おいでよ!」
 庭の中央にはお茶会のための一式がそろっている。サクラの返事を待ちきれなかったのか、椅子から立ちあがりエリーゼがこちらまで駆けてくる。いつかの回廊での出来事を思いだした。
「……ふふっ。やっぱり兄妹、ですね」
「なにが? サクラ、今忙しい? カムイお姉ちゃんもいるのよ」
 まくしたてるエリーゼの後方で焼き菓子に手をのばしていたカムイが、こちらを見て華やかな笑みを浮かべた。エリーゼは普段の服に近い意匠だったため気づくのが遅れたが、カムイのほうは一目瞭然だった。無駄な装飾のないすっきりとした白のドレスだ。思ったよりも本格的なお茶会だったらしい。
 エリーゼにつれられてサクラも輪に加わる。菓子と紅茶を用意したのは有能なメイドと執事だろうか。白夜にはない菓子をサクラが見慣れたと言えるようになったのはエリーゼのおかげだ。
「こんにちは。サクラさん。……どうかしましたか?」
 席についたサクラと目を合わせてカムイが言う。答えられずにいるサクラに向けて、カムイがそっと言葉をつけ足した。
「顔色が優れないようですから……」
 カザハナとツバキだけでなく、今回のことにまったく関係のないカムイにまで心配をかけている。情けない。けれど少しだけ気が楽になったのも本当だった。エリーゼとカムイは臣下のふたりほどは事情を知らないはずだ。
「……口論に、なってしまって」
「サクラさんが? 口論……ですか?」
 カムイが心底不思議でならないという声で言う。口論というより、失言で相手を怒らせてしまったというほうが正しいのかもしれない。どちらにせよ、カムイが疑問に思うのも不思議はないほどサクラには縁遠いことだった。人に恵まれていたとも言えるし、口論になってでも貫きたい強い自我というものがこれまでのサクラには希薄だったのかもしれない。
「誰と?」
 エリーゼの問いは他意がないだけに鋭い。迷ったすえに口をひらいた。ここで黙っていても戦場でぎこちない姿を見せればそれぞれと付き合いの長いきょうだいには伝わってしまうだろう。
「レオンさん、です……」
 何度もまばたきをしたエリーゼが、今度は眉を吊りあげてサクラに迫る。てっきり責められるものと思ったが、エリーゼが怒っている相手はサクラではなかった。
「もー! またレオンお兄ちゃんがサクラにひどいことを言ったのね!」
「ち、違います! レオンさんは悪くありません。私が……」
 サクラのきょうだいに対する配慮なのかそうではないのか、誰かがそばにいるときのレオンは事務的で丁寧だ。見ようによっては優しいと言ってもいい。ふたりになると遠慮がなくなるのはある意味気を許されているのかもしれないと思っていたが、先日の一件で自信を失ってしまった。
 ともかく、誤解されるような強い物言いはきょうだいの前ではなかったはずだが、目の前のエリーゼはどう見てもレオンに対して憤慨している。兄妹ゆえの気安さはあれど、レオンは妹をことのほか大切にしているように見えたが、案外ふたりのときはそっけなかったりするのだろうか。それこそサクラとふたりでいるときのように。都合よく痛む心臓を動かす感情に、本当は少し前から気づいていた。
「サクラが?」
「……私が、レオンさんにひどいことをしてしまって」
「上手く言えなかっただけじゃなくて?」
 ここに来てから驚いてばかりだ、と思いながらエリーゼの顔を見つめる。サクラも自分が第三者であれば、もう少し冷静に現状を捉えることができたのだろうか。
「サクラは優しいから、言えないことがたくさんあるんだよね。でも、大丈夫よ。レオンお兄ちゃんはとっても強いから、サクラが思ってること全部言ったって、こっわーい顔でちゃんと言い返してくるはずよ!」
「さ、さらに激しい口論になってしまうのでは」
「そのときはあたしがサクラの味方をしてあげる! ふたりなら大丈夫よ! ね?」
 仲直りではなく再戦を勧めてくるあたりがエリーゼらしい、のかもしれない。口にしたから喧嘩になったのではなく、口にしなかったから喧嘩になったのだ。理解はしたが、レオンの前で上手く話せる自信はまだない。
「ありがとうございます、エリーゼさん。でも、お気持ちだけで十分です。レオンさん、拗ねてしまうと思いますし……」
「レオンお兄ちゃんが」
「す、拗ねる……」
 エリーゼとカムイの声が綺麗につながる。さすが姉妹と思わされる連帯感だ。カムイはサクラの姉でもあるが付き合いはエリーゼとのほうが長い。真剣に言ったのに、ふたりは笑いをこらえきれないという顔をしている。耐えられなかったのかとうとうカムイが吹きだした。
「サクラさんから話を聞いていると、レオンさんが子どもみたいで」
「そ、そんなことはないと思います……!」
「サクラったら、喧嘩中なのにレオンお兄ちゃんのこと庇うの?」
「レオンさんが頭のいい方なのは本当ですから」
 必死の弁明も虚しく、エリーゼの口元はゆるんだままだ。
「たしかにレオンお兄ちゃんは物知りだけどすごく抜けてるところもあるんだよ。この間だってね……」
「エリーゼさん。だめですよ。レオンさんはサクラさんの前ではがんばっているんですから」
 唇を閉ざしたエリーゼがカムイのほうを見る。本当は話したくてしかたないのだろう。頬のあたりがむずむずと動いていた。
 レオンの失敗談が気にならないわけではなかったが、無理に聞きだすことでもないだろうとエリーゼが淹れてくれた紅茶のほうに手をのばす。きっとなにを聞いたところで自分のレオンを見る目は変わらないとも思っていた。
 レオンの話題を皮切りに、しばらくはお互いのきょうだいの話に花を咲かせた。あの厳格そうなマークスもエリーゼには甘いと聞くと、リョウマの態度を思いだして嬉しいような恥ずかしいような思いをした。
 紅茶が切れ、菓子も綺麗になくなったところで、そろそろ部屋へ戻ろうかと視線を巡らせる。そっけない態度をとってしまったカザハナとツバキのことが気にかかっていた。机の上が片付こうと会話の尽きないエリーゼとカムイの声がふっと遠ざかる。風に編まれるようにして流れてきた香りに身をこわばらせた。
 誰への用事だろう。目をあわせずにすむように俯いてから考える。エリーゼでもカムイでもいい。できることなら早く終わってほしい。突然黙りこんだサクラを見て首をかしげたエリーゼは、遅れて来客の存在に気づき椅子から飛びあがった。
「レオンお兄ちゃん!」
「こんなところにいたのか。ハロルドが泥だらけになって探してたよ」
 城内でどうやって泥だらけになるのだろうという疑問を吹き飛ばすのがハロルドの不運だ。サクラは直接目にしたことはないがとにかくすさまじいと聞いている。「そ、それは大変かも……」話を聞いたエリーゼも青い顔をしている。
「サクラ王女。少しいい?」
「……は、はいっ!」
 油断していた。用があるのはエリーゼのほうだと思っていたのに。声につられて顔をあげてしまう。怒っているようには見えないけれど、機嫌がいいようにも見えない。
「経路に変更があった。明日の軍議の前にあなたには前もって話をしておきたい」
「わかりました」
 自然と答える声にも力が入った。進軍に関わることであれば否やはない。そういえば喧嘩になってしまう前にふたりで話したのも武器庫だった。戦が好きなわけではない。いつかレオンに告げた言葉に変わりはないけれど、だからこそ最善を尽くすのも王族の役目だ。
 席を立ちエリーゼとカムイに軽く頭を下げる。「よろしくお願いします。レオンさん。サクラさん」軍の将であるカムイからの激励にサクラはしっかりとうなずいた。
「どちらに伺えばいいですか?」
 中庭を抜け城内に戻ったところで問いかける。レオンが歩調を合わせているのだろう。早足にならずとも置いていかれることはなかった。
 歩きだしてから聞くのもなんだか間抜けだと思いながら、サクラを見おろすレオンの視線に棘がないことにひとまずは安堵する。冷たい言葉をかけられるよりはいいのだが、いくら待っても返答がない。
「あ、あの……」
「……会議室はマークス兄さんとリョウマ王子が使ってるから、僕の部屋でもかまわない?」
「は……はい」
「じゃあ、こっち」
 そう言って今度は先導するように歩きだしたレオンは平然としている。動揺しているのはサクラだけだ。以前、ひとりで行動するなと怒られたことがある。今回はレオンがいっしょだからかまわない、のだろうか。レオンでなければ了承などしないしついてもいかないが、それをここで伝えると多大な誤解を生むような気がする。
 結局無言でレオンのあとに続き、先に扉を開けたレオンによって部屋の中に通された。サクラの私室はアクアと同じく白夜風だが、レオンの私室は暗夜風だった。エリーゼの部屋と似たようなしつらえだ。彼の性格を体現するように、きちんと整理整頓がなされている。
「お、お綺麗ですね。私は気を抜くとすぐに散らかしてしまって……その……」
 後半は明らかに余計だった。レオンも困ったような顔をしている。片付けが極端に苦手というわけでもないのだが、忙しい日々が続くとつい後回しにしがちではあった。恥ずかしさから俯くサクラに、レオンは妙に歯切れの悪い口調で「まあね」とそっけなく返した。
 奥の平机にはすでに地図が広げられており、サクラは勧められるがまま近くの椅子に腰をおろした。レオンが向かいに座り、話が始まる。地図を見おろし、時々確認するようにサクラのほうを伺うレオンの瞳は真剣そのものだった。初めてレオンのことを綺麗だと思った瞬間を自然と思いだしていた。
 人の生死に関わる話をしているのだ。サクラの態度は不謹慎で不誠実だ。けれども、燃えるような赤い瞳が最も人を惹きつけるのは、彼が戦に勝ち人を守るための策を練っている瞬間だった。弓道において美しさは強さだ。綺麗だと思うと同時に強い人だと思った。だから認められたかったのかもしれない。ほかでもないレオンに。
 雑念を振り払い、レオンの話に集中する。レオンは生易しい教え方はしないので、説明は簡潔で進みが早く専門用語も多い。その気がなければ呪文にしか聞こえない。けれど、本気で頼めば立ち止まってサクラとふたりで考えてくれる。兄との違いはそこだった。リョウマもタクミも聞けば答えてくれるが、サクラにその先を要求することはなかったように思う。どちらも正しく優しさだ。気づかないまま甘えることをやめられてよかった。守られたいのではなく守りたいのだと思う。兄がどれだけ強くとも、レオンがどれだけ強くとも、戦う方法はひとつではないし人を傷つけるのは見える刃だけではない。
「不思議な建物ですね」
「偵察に向かったオーディンが嫌な魔力を感じると言ってた。……ええと、もう少し長ったらしくて面倒な言い方で」
「でも、透魔城にいるハイドラさえ倒せれば……」
「……奇石城ロウラン、ね。……本当にあの建物がそうなら苦労はないけど」
 含みのある言い方をしてレオンがペンを置く。話は終わりのようだった。サクラよりずっと多くのものが見えているレオンは不安に思うことも多いのだろう。会話の内容を反芻しながら、衛生兵に伝えるべき事柄を頭の中で整理する。
 いつの間にか席を立っていたレオンが飲み物を手に戻ってきた。彼が動いたことで空気も揺れる。覚えのある香りをほのかに感じた。
「あ、の。練り香水……今日もつけてくださっているんですね」
 なにを言っているのだろう、とレオンは思ったはずで、サクラも口にしてから頭が真っ白になった。どうして口論になったのか忘れたわけではない。気づいたら確かめるように問いかけてしまっていた。
「リョウマ王子にこれ以上嫌味を言われるのは僕も御免だから」
「兄様はそんな狭量な方では……」
 前回が正しく口論なら、今回は冷戦だ。レオンは声を荒げることも罵ることもしなかったが、静かな声が内包する皮肉を見逃すほどサクラも子どもではない。
「そうだね。立派な方だ。……そんなこと、僕もわかってるよ」
 投げやりに感じられる口調に驚いて顔をあげた。こんな言い方をする人だっただろうか。
「どうしてつけもしないのに受けとったの。理由があって断る女性に怒るほど狭量じゃないつもりだよ。僕も。あなたには、リョウマ王子には到底及ばない浅慮な王子だと思われているようだけど」
 頭を殴られたように感じて、とっさに声がでなかった。あてつけではなくレオンが本当にそう思っているのだとしたら。そこまで考えて、知性とも理性ともかけ離れた言葉をレオンに向けようとしている自分に気づいた。認めたくはないけれど、この感情をもっとも端的に表現するなら怒りだ。事務連絡はなんの問題もないのに、私的な話になったとたん、レオンに上手く伝えられないし、サクラも彼の言いたいことがわからなくなってしまう。
「……違います! レオンさんをそんなふうに思ったことなんてありません!」
 怒ってばかりなのに、ひどいことばかりサクラに言うのに、傷ついた顔をするのはずるい。許したくなってしまう。最初から怒りを持続させる方法なんて知らない。それでも怒りに呑まれていないと別の感情にとらわれてがんじがらめになってしまうから。
「怪我は……なさらないでください」
 部屋を訪れた目的を思いだしてそれだけ告げた。どんな傷も癒やしてみせる。サクラの、戦巫女の役目で責務だ。
 あなたは必要ないと言われるほうが余程いい。治せることと傷つくことはまるで違う。
「戦の信用までないんだ」
「いいえ……。みなさんが傷つくところを見たくないんです」
 嘘偽りのない言葉だったのに、レオンは感情のこもらない声で「そう」と他人事のように呟いた。

 

 

 透魔城を目指しての進軍は奇しくもレオンの予言通りに阻まれてしまった。全軍が誘いこまれたのはロウランではなく地下遺跡だった。オーディンの言う通り、この場所には悪意を孕んだ魔の気配が満ちている。
 手紙を残して先攻したカムイとの合流には成功したが、この場を切り抜けるには潜む数多の透魔兵を倒して遺跡を制圧するしかない。
 遺跡全体を覆う怪しげな呪術も厄介だが、圧倒的な視界の悪さと死角の多さも兵に焦りをもたらした。放たれる魔法を明かり代わりに歩兵部隊も前へ進んではいるが、戦況は思わしくない。
 サクラは先日のレオンとの話し合い、またその後の軍議での決定通りに、後方で負傷兵の治療にあたっていた。護衛を兼ねて近くの敵の迎撃を請けおっているのはタクミとその臣下だ。これほど心強いことはない。 
 前方の暗闇で光ったのが暗器の先端だと気づいたとき、サクラはまだ弓をかまえた段階だった。カザハナがサクラの前に飛びだすよりもはやく、緑衣をまとった矢が闇を駆けていく。醜い断末魔が響き渡った。振り返って姿をたしかめると、タクミは険しい顔をしていた。
「なんなんだよ、この遺跡……。こっちは少し先を見るのがやっとだっていうのに」
「お怪我はありませんか、タクミ兄様」
「大丈夫だよ。サクラこそ、気をつけろよ。ヒナタとオボロもこの暗さのわりにはよく動いてるけど、暗器なんかは間に合わないこともあるから。サクラは僕のそばにいたほうがいい」
「はい……」
 自分の心配はしていなかった。後方は敵も少ない。なにより本人が言うようにタクミがいる。見えているというより、風神弓に導かれるのだそうだ。神器を持たないサクラが想像するのは難しい感覚だった。
 反面、前線の様子は不安だった。後方からでは味方の動向を完全に把握することができない。敵の気配を捉えることさえ難しい地下遺跡ではなおさらだ。
「向こう、騒がしいな」
 タクミは耳もいい。一度戦場にでるとあらゆる感覚が研ぎ澄まされるのだという。弓兵に向いた資質だ。タクミの言う方角にはロッドナイト部隊が控えているはずだ。「確認してきます」タクミに目配せをしたカザハナがサクラのそばを離れる。ざわめきをはらんだ空気が痛い。
 じりじりと髪の先から焼かれるようなもどかしい時間は、行きの倍の速度でカザハナが戻ってきたことで終わる。
「サクラ様! オーディンが……!」
「……傷が深いのですか?」
「大声でずっと呼んでるの、レオン様の名前じゃないかと思って……」
 言葉の意味を理解するのと、弓を手に走りだしたのはほとんど同時だった。タクミの声とカザハナの声が重なる。大慌てで追いかけてきたのはカザハナだった。タクミの言いつけを破ってしまった。そばにいるように言われたのに。髪を乱して、美しくもかわいらしくもない格好でただ急ぐ。一刻も早くということしか考えられなかった。
 事態はふたりの想像よりも切迫していたようで、サクラの姿を見とめたロッドナイトたちが案内するように道を開ける。礼もそこそこに走り抜けると、治療を受けているレオンとそばで名前を連呼するオーディンの姿が見えた。
「サクラ様が来たからには大丈夫よ」
「れ、レオン様! レオン様っ!」
「大丈夫だって言ってるじゃない!」
 常ならば微笑ましく感じる臣下同士のやりとりも、もうほとんどサクラの耳には入っていなかった。目を合わせようとしないレオンの容態を把握することが最優先だ。どうやら簡易的な処置はなされている。今すぐ治療を終えれば命にかかわる怪我ではない。けれど、ひどい傷だった。右の脇腹に巻かれた包帯を染めているのは血だ。敵のものではなく、レオン自身の。
「……来ないで」
 忠告を無視してレオンに近寄る。祓串に魔力をこめると、ふたりの周囲を呪符が舞う。本物の紙ではなく、呪い師や陰陽師が操る生き物と同じ、まがい物の札だ。呪符が視認できるほど鮮明であるほど、癒やしの力も強固なものとなる。
 唇を噛むレオンを見て、なにかがぷつりと切れたような気がした。なにを悔いているのだろう。戦線を離脱したことだろうか。臣下に心配をかけたことだろうか。レオンは優れた指揮官というだけでなく、彼自身が暗夜王国一と呼ばれる魔道士だ。彼の不在はそのまま深刻な戦力の低下をもたらす。はやく、送り届けなくては。傷を癒やして前線へ。
 冗談ではない、と思った。
「……ひどいです」
「どっちが……」
「どうして無理をなさるんですか」
 祓串を操る手は止めずにまくしたてる。珍しいサクラの剣幕に、怪我をしたという負い目もあってかレオンの語調は冴えなかった。
「……僕が無様だってことは認めるけど、愚かな兵にも治療を施すのがあなたの務めだよ」
「違います。あなたは聡明な人です。私も、責務だからあなたの治療をしているわけではありません」
 血の匂いがする。目に痛い赤に埋もれるように、贈った練り香水の香りが混ざっている。ふるえを誤魔化すように、サクラはそっと息を吸いこんだ。懸命に祈ったところで血の匂いは消えない。
「き……嫌いです。香水なんて」
「……今はそんな話をしてる場合じゃ」
 第一あなたはつけもしないのに、とでも言いたげな表情だった。その件に関してはサクラも言いたいことがある。あったのだけれど、もうすべてどうでもよくなってしまった。
「だって、意味なんかありません。もう香りなんてわからないもの。……愚かなのは、私のほうですね……」
 消え入るような声に同調するように幻の呪符が消え、ふたりを囲む淡い光も収束する。痛みを与えないように細心の注意をはらって脇腹に触れる。傷はふさがったはずだ。触れた手のひらから伝わる熱があたたかいから。
 贈られた香りひとつ守り抜くことができないほどに弱い。レオンも、サクラも。サクラは香水をつける勇気さえ持てなかったけれど同じことだ。仮に王子から贈られたシトラスを身にまとっていたとして、きっとサクラも血の匂いしかしない。香りはそばにいれば混ざるものだから。
「……どうせ、血の匂いで消えてしまうのに。レオンさんはいつも、私たちを守ってくださるから。……私、あなたがあなたでないものの匂いをまとって帰ってくるのを待つことしかできないんです。……いつだって」
「……どういう意味?」
「大切なんです。私だって、守りたいです。……守らせて」
 レオンがこんな姿で戻ってくる前に伝えたかったと詮ないことを考えた。冷たくても、いじわるでも、ひどくてもいい。身勝手で傲慢なサクラの言葉に反論してほしくて、待つことしかできないとわめいた唇を閉ざして、彼の声が届くその時を願った。