花衣を君に - 4/7

◆der hohle Geruch ―虚ろが薫る―◆

 先日の姉の言を思い出しながら、レオンは木製の小箱の上で指先を往復させる。意味のない手慰みだ。暗夜の香水に興味があるという白夜の人がいるの、どうか親切にしてあげて、と微笑んだカミラはあまりにいつも通りで、わざわざ名を伏せて伝えた真意を測ることが、レオンには出来なかった。当のサクラも一体何を考えて、レオンに知識を請うていったのか、結局は分からずじまいだ。
 あの小さなガラス瓶は今、一体どこでどうされているのだろう。
 レオンは窓辺の椅子に腰かけ、嘆息しながら空を仰いだ。星界という場所の、城という体裁の建物の、自室ということになっている部屋。透魔王国の蒼穹も作りもののようで好みではないが、ここの空も負けず劣らず、舞台の書き割りじみていて座りが悪い。そもそも暗夜出身のレオンは、蒼天というものに馴染みがないのだ。
 軽く頭を振り、取り留めのない思考を払うと、レオンは小箱をいつもの場所にしまい直して立ち上がった。歩いていきドアを開ける。
「レオン様。どこかへ行かれるんですか」
 廊下にはゼロが立っていた。レオンは星界での臣下の行動に制限を与えた覚えはないが、直属の二人のうちどちらかは、大抵近くにいる。暗夜にいたときの癖なのだろう。レオンもまだ、命を狙う者が身近にいないという状況には慣れない。
「武器庫。この世界の流通はいつ絶えてもおかしくないし、数に余裕があるかどうか確認しないと」
 レオンは口早に行き先を告げた。ゼロは苦笑して、お気をつけてと短く言う。手伝うと申し出なかったのは、つまらない言い訳を看破した証明に違いない。気遣いに感謝して、レオンもそれ以上の無様を重ねず歩みを再開する。
 武器庫という場所に、特別な意味があったわけではない。強いて言うなら、第一に静か。第二に、単純な手作業が出来る。ただ座っていると、かえって考えが堂々巡りになるから。第三に――本当はこれが最も重要なのだけれど――白夜王女サクラが寄り付きそうもない。以上の条件を満たすのが、とりあえずそこだったというだけだ。
 武器庫の薄暗がりは、自国の空気を少しばかり思い出させてくれた。とはいえ先程から、端の方で何かが明滅しているのが気にかかる。足音を殺して近づいていくと、しゃがみ込んでいたのは他でもないサクラであった。
「何をしているの、こんなところで」
 声をかければ、サクラは肩を震わせて振り返った。口許を覆って悲鳴を呑み込んでいる。だが化け物を見るような目も、レオンを認めるとやわらかくほどけた。その程度には警戒心を解いてくれているのだなと、小さな身体を見下ろしたまま思った。
「ご、ごめんなさい。大したことではないんですけど……」
 サクラは視線を手元に戻し、祓串の柄をそっと撫でる。武人のそれとは違うたおやかな腕。力よりも温もりを深く知る白い指先。
「呪力が半端になっているものがいくつかあって、気になっていたんです。まとめられるものはまとめて、お役目を終えたものは焚き上げようと思って……」
「あなたが自ら?」
「気付いた人がやった方が早いですし……一番よく使うのは多分、私ですから」
 伏せられたまつ毛は長かった。俯いた拍子に花色の髪が揺れていた。彼女が魔力を移動させる度、光の粒子がその輪郭を金色に彩る。
 サクラがここにいる以上、レオンが留まる理由は消えた。むしろ本来の目的を考えれば、じゃあ頑張って、と社交辞令を言って出ていくべきだった。
「手伝うよ」
 なのにこんなことを口にしてしまったのは、きっとその輝きから目を離せなかったからだ。
「でも……」
 サクラは口ごもりながら、またレオンを見上げる。これがポーズとしての遠慮なら、レオンも心置きなく立ち去れるのに、生憎とこの姫君は他国の王子を本気で気遣っている。だから反駁したくなる。
「術式こそ違うが、暗夜の魔術も白夜の呪術も基本理論は同じだ。これくらいのことなら僕にも出来る」
 レオンは彼女の隣に片膝をついた。説明されなくとも、どれが終わっていてどれがまだなのかは気配で分かる。先の台詞が大言でないことを示す為に、一度実践してみせる。
「別に親切心じゃない。あなたに癒してもらっているのは、僕たちも一緒だから」
「ありがとう、ございます」
 サクラは微笑んで、作業を再開した。甘い本音は信じてくれないくせに、辛い嘘ならすぐに納得してくれるのだからやっていられない。よく見れば串の残りはあまりなくて、これなら自分は暗夜の杖をやると言えばよかったのだと今更気付いた。つまらない後知恵だ。
 重い無言に耐えかねたのか、サクラが愛想笑いの口唇から、意味のない言葉を吐く。
「む、蒸しますね、この中」
「そうだね」
 星界は常に晴れている。明かり取りの格子窓から差し込む陽は、じわりじわりと室温を上げている。不愉快と呼ぶほどでもなく、わずかに汗ばむ。
「暑くはないかい」
「あ……はい、大丈夫です。白夜の夏はもっと、厳しいですから」
「そう。でも無理はしないで。あなたぐらい小柄なら僕でも運べるけど、倒れないに越したことはない」
「き、気をつけます」
 また会話が途絶える。レオンは一瞬だけ目を閉じて、深く息を吸い、そして吐いた。
 この距離でならはっきり分かる。立ちのぼっているのは互いの肌の匂いだけで、手を加えられた香りは介在していない。何となく勘付いてはいたが、こうして確信を得るのはなかなかに堪える。
 あのとき。彼女に白夜の香水を渡されたとき、自分が贈ったものを身に纏ってくれないのなら、何故これをくれたのかと、問えなかった。自分の浅ましさを見抜かれていたようで、それを清算されたのだと思い知らされてしまいそうで。
 サクラ。その名を与えられ、そのように在れと愛される少女に、別の果実のエッセンスを混ぜて、変質させたかった。彼女が『美味しそう』と微笑んだ林檎の香り。エリーゼが小さい頃好んだお伽話では、お姫様は魔女の作った毒の林檎で永遠の眠りについた。彼女を目覚めさせたのは、他国の王子様のキス。今回、姫に毒林檎を仕込んだのは、呪いが得意な他国の王子なのだから笑えない。
 だが、『いじわるなまじょさん』――当時のエリーゼの呼び方――も、先日に限っては、歪んだ欲だけで香水を調合したのではなかった。彼女が『素敵』と評したシトラスの香りを扱いながら、レオンは一種、安らぎのようなものを感じていたのだ。あるいは共鳴。透魔の空気を『よそよそしい』と表現したサクラに、己の心と似た色を認めて、ふと落ち着いた。その甘えた親近感も、本人に見透かされるのはどこか具合が悪い。
 サクラは時折何か言いたげにこちらを窺ってくる。恐らく訊きたいのは同じことだろう。レオンもまた、あの香水を肌に塗りつける勇気を持てずにいるから。
 漂うのは沈黙ばかりだ。
「あの辺も、ごちゃごちゃしちゃって危ないですよね。後で少し整理――」
 痛々しいまでの笑顔で、サクラは乱雑に立てかけられた槍を指差した。レオンは彼女の細い手首を片手で掴む。
「やらなくていい」
 このまま力を込めれば、男としては華奢な自分でも、骨を折ることが出来そうだった。それぐらい頼りない。不穏な仮定を追い出すように言葉を続ける。
「そこにいてくれるなら僕がやる。あなたが怪我をしても、僕は一般的な止血処置しか出来ない。けどそこに杖があるなら、あなたは僕をすぐ癒せる。それが理にかなってる」
「けど、レオンさんも、お忙しいんじゃ……」
 レオンはサクラのこの、最後まで言い切らない癖が嫌いだった。しかし今、何よりも気に入らないのは自分自身。彼女を避けてここに来たくせに、引き留める口実をもっともらしく探している。その女々しさを自嘲する気力すらなく、ゆっくりと指を開いた。
「『気付いた人がやった方が早い』んだろう?」
 彼女自身の言葉を引用して、やっと黙らせる。サクラではなく自分を。これ以上惨めな気持ちになりたくない。
 レオンは立ち上がり、刃物が置かれている壁際に歩いていった。串の整理を続ける彼女の息遣いを背後に感じながら、興味もない槍を不必要なほど規則正しく並べ直していく。
 サクラが早く立ち去ってくれないだろうかと思った。そこにいてくれと懇願したくせに、彼女が姿を消してくれたらどんなことが出来るだろうと。例えば槍の穂先を握り締めて手の平に食い込ませ、汚れた血をそこら中に撒き散らすような、くだらない想像ばかりしていた。

 

 

 願いも虚しく、サクラは作業を終えても武器庫を去らなかった。少し離れたところからじっと見守られていたので、レオンはついに『キリがないから今日はこの辺にしよう』と逃げを打った。先にサクラを外に出し、しばらく立ち尽くしてから、ここに期待したほどの効果がないことを痛感して自分も表へ歩み出る。急な明るさに眩暈を起こしそうになり、片腕で陽射を遮った。いきなりの光量の変化にも未だ慣れない。
 先の戦いでは負傷者も多く出た。サクラが串を気にしていたのもそのせいだろう。この分では次の出撃はいつになるか――幸いにして五体が無事なレオンには、やや退屈な時間でもあった。好んで戦をしようというのでもないが、早期に終結するのならそれに越したことはない。士気も物資も無限ではないのだ。
 ふらふら歩き回った挙句、どこに繋がっているでもない船着き場のそばに腰を落ち着けた。今日は素潜りをしている面子もおらず、波はひどく穏やかだ。レオンは大きく嘆息して俯く。
 この仮初の平穏が、ある意味で戦場よりも苦手だった。時の流れから隔絶された不変は、どこか死にも似ている。修めた学問柄、暗黒には親しんだレオンだが……星界はこれだけの不吉に満ちながら、安息の仮面を被っている分だけ薄気味悪い。油断や堕落の果てに不意を衝かれるぐらいなら、いっそ張り詰めた場所で常に神経を尖らせている方がましだ。
「こんな場所だから、余計なことばかり考えるんだよ」
 皆が褒めそやす――本人は特段誇っているわけでもないが――金髪をがしがしとかき回しながら、レオンは毒づいた。
 戦場は過酷だが楽だ。生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。シンプルな理屈を折り重ね、戦況を手懐けて勝利を得るだけでいいなら、レオンだとてずっと余裕の面をしていられる。こんな、女性一人の言動にいちいち頭を悩ますような馬鹿馬鹿しさからは解放される。
 水面と睨み合っているのも飽いて、首を回して天を見上げた。あのわざとらしい青から、これもまたあまり馴染まない白が一直線に降りてくる。暗夜には生息しない天馬だった。単独で行動しているわけもなく、当然騎手も一緒にレオンの前に立った。
「レオン王子。少しいいか」
 もう一人の白夜王女ヒノカは、鞍にまたがったままレオンを見下ろしていた。視線を外して話しがちな妹王女と違い、姉王女はこちらが目を逸らしたくなるほど力強く相手を見据えるのだった。
「何か御用が?」
 レオンが礼儀として立ち上がると、ヒノカも地面にその足を着けた。身長差を除けば目線は同格になる。
 ヒノカは相手が男であっても、他国の王族であってもまるで物怖じしない。あの長柄の薙刀を、置き藁にでも振り下ろすように、一息に斬り込んでくる。
「私に用はない。ただ、貴殿からサクラへの風当たりが、また強くなっているように感じたのでな」
「いかにも天馬乗りらしい比喩だ」
 レオンの姑息な皮肉にも、ヒノカは顔色一つ変えなかった。落ち着いた声で静かに返す。
「私のことをいくら愚かと思おうと、それは貴殿の勝手だが。……あの子はとても聡明な子だ。内気だというだけで侮るのはやめてもらおう」
「僕はサクラ王女のことを侮ってなどいません」
 即答してしまってから、悪手だと気付いてレオンは内心舌打ちした。こういうものは感情的になった方の負けだ。軽く咳払いをして、平常心を取り戻そうと努める。
「あなたのこともですが。尊敬している、という言葉を使っても構わないと思っています」
「では何故サクラを邪険にする」
 問われ、とレオンは眉をひそめた。発言の内容はどうでもよかったが、妹王女に抱いた嫌悪感と似たものが、胸の内に起こったから。サクラの尻すぼみの癖が嫌だと思ったのに、ヒノカの潔さの過ぎる言い切りも苦手だなどと、どんな対応をされれば満足だというのか。白夜の王女たちにも自分にもうんざりしながら、一方でレオンは心にもないことを、すらすらと口にしていた。
「サクラ王女に対して、ひどい対応をしているように見えるのならば、それは僕の過失ですから謝罪します。彼女は何も変わっていないし悪くもない。僕の心持の問題です」
 こんなことは日常であって罪悪感すら湧かない。一見筋が通っているように聞こえるのも、培ってしまっただけの単なる技術だ。
「どういうことだ」
 だが律儀に柳眉を吊り上げるヒノカを、気の毒に思う情ぐらいはレオンにも残っていた。ここからは本気の言葉で、彼女に相対する。
「それ以上は口を挟まないでください。あなたには無関係だ」
「私はあの子の姉だぞ、妹を心配して何が――!」
 ずっと大真面目だったヒノカは、今度もきちんと、、、、怒りに顔を染めた。そういう態度を取られるほどに、レオンは己の血が凍っていくような錯覚に陥る。感情がどんどん冷たくなる。
 白夜の者は誰も彼も、レオンからすれば異様なほどに真っ直ぐだった。ひねくれていると評される第二王子タクミでさえ、一定方向に捻じれているだけで、しっかりと垂直に立っている。きっと光がどこからでも等しく見えるから。暗夜のように、乏しい明かりを求めて蔦を這わせずとも、天を目指して迷いなく伸びていけるのだ。サクラだとて。
 世界が違う。根本が。軸が。
 このままヒノカの正論を聞き続けていたら、きっと侮蔑的な言葉で彼女を刺し貫いてしまう――渦巻く昏い感情と裏腹に、レオンが冷静に自己分析していると、白夜の人間が二人駆け寄ってきた。確かヒノカの臣で、アサマとセツナといったはずだ。直接会話をしたことはないが、人の顔と名を覚えることは有用だとレオンは理解している。友好関係を結ぶうえでも、自衛の為にも。
「ああはいはいヒノカ様、その辺で。申し訳ございませんレオン王子、この方はこう見えて意外に繊細なのですが、生憎そういった機微というものに関してはてんで疎いのです」
 アサマがにやついた面で割って入ってきた。生来あんな造形らしいが、ヒノカがレオンの襟を掴もうとしていたのをさりげなく抑えている辺り、隙がない。
「きび、だんご……?」
 対してセツナは、隙だらけで首を傾げている。だがレオンがヒノカに害をなそうとしたとき、瞬時に心臓を射抜くのは、アサマの法力ではなくセツナの冷酷な弓矢だろう。
「ヒノカ様も。こういうことは首を突っ込むと天馬に蹴られて死にますよ、はは」
「離せ! 何をわけのわからないことを……!」
 朗らかに笑うアサマと、暴れるヒノカ。武僧は無駄な力を入れているようには見えないが、関節の可動を封じているので戦姫も制限を強いられているのだ。セツナは同僚の行いにも主の憤慨にも無頓着の顔で、レオンの手に何かを押し付けてくる。
「レオン王子、飴あげる……さっきオロチが四つくれたから……」
「ど、どうも」
 一応礼は言っておくが、飴玉一つ剥き出しで渡すのはいかがなものか。
「とにかく、サクラにもっと優しくしてやれ! 貴殿の損になることでもないだろう!」
 捨て台詞を最後に、ヒノカは臣たち……というよりもアサマに引きずられていった。レオンは一人残され、水辺に静寂が戻る。
「このままじゃよくないのは、僕だって解ってるけど」
 呟いた言い訳に答える者もない。そのまましばらく、捨てるにも気が引けるが、口に入れようとも思えない砂糖の塊を手の中で持て余していた。

 

 

 部屋に戻ったとき、ゼロはただおかえりなさいと頭を下げただけで、遅かった理由を問いはしなかった。ヒノカにあまりにも踏み込まれた後だったので、その距離感がとてもありがたい。
 飲み物を手配させて、窓辺の小さな卓につく。ゼロは近くの壁に寄りかかっていた。レオンも臣に強いて椅子を勧めはしない。ティーカップを傾けて、舌に馴染んだ紅茶を喉に流し込んだ。暗夜人を前に暗夜の物を口にして、ようやく自分というものを全面的に許されたような心持になる。気後れするほど細い神経ではないつもりだったが、どこか調子の狂うイメージがずっとあったから。
「大体、サクラ王女から香水のことを訊いてきたんじゃないか。僕はアドバイスを求められたから現物を見繕ったのに、それを試しもしないっていうのはどういう了見なんだ」
 カップを置き、レオンはティースプーンの装飾を爪先でいじった。独言の体でありながら、出来ればゼロが聞いてくれることを期待しつつ。ゼロは最初から承知の様子で、軽く腕を組んでいる。
「アドバイスだけでいいのに、いきなり現物がよくなかったのでは?」
 何気ない返しにレオンの指が滑る。跳ね上がったスプーンはソーサーを派手に鳴らした。度重なる主の醜態に、ゼロが浅くため息をつく。
「先走り、というやつですかね」
「なんだろう。深い意味のないはずの言葉が、お前の口から出るだけでひどく恥知らずに聞こえる」
「俺はレオン様にそういう口の利き方はしないようにしているんですが。割と傷つきますよ」
「すまない。多分、今悪いのはお前の態度じゃなくて、僕の受け取り方だ」
 長く息をついて、レオンは自身の心をどうにか制御しようとした。思うようにいっていないのを見て取ったか、ゼロは首を傾げる。
「まぁ先走ったというよりも、ストレートすぎたんじゃないでしょうか」
「なにが」
 レオンはぶっきらぼうに尋ねた。ゼロの、そういう口の利き方はしない、と言ったまさにその口が微かに歪む。
「男が女に香水を贈るっていうのは、『そういう』コトでしょう?」 
「ち、違う。別にそういう……いかがわしい理由じゃない」
 レオンは茶で喉を潤そうとして、自分の出した手がカップの持ち手と反対であることに気付き、途方に暮れた。一言で気は済んだのか、ゼロもそれ以上の意趣返しはせず、すっと真顔に戻る。
「白夜では意味が違うんですかね」
「……どうだろう」
 呟きながら、レオンは彷徨ったままだった手で額を押さえた。
 そこも完全に自分の手抜かりだ。意見を聞いただけなのに勝手に現物。しかも白夜における『香水を贈る』という行為の意味が、もし暗夜以上に艶めいたものだったとしたら。
「僕がただのケダモノみたいじゃないか……」
 ゼロが微妙そうに笑うだけなのは、まだしも敬意を抱かれているのだと思うしかない。
「サクラ王女は、誤解で他人を一方的に軽蔑するようにも見えませんが」
「軽蔑はしないかもしれないが誤解はするかもしれない」
「贈り物までしておいて、恋心の露見は避けたいんですか」
「そこまで女々しくはない。ただ、真意と違う風に受け取られていたら困るというだけだ」
「でしたら、男で暗夜人の俺に訊くよりも、ご本人にお訊きになる方が確実でしょう」
「ちょうど今、同じ結論に至ったところだ」
 レオンは紅茶の残りを飲み干し、席を立った。やることが決まったのなら早い方がいい。
「思考整理の手伝いをありがとう、ゼロ。助かった」
「お役に立てたなら何よりです」
 ゼロが恭しく頭を下げた。他所での様子しか知らない者は信じないが、本来の彼は生真面目なのだ。あれが処世術ならレオンも敢えて訂正して回りはしないというだけで。
「捜すところまでは付き合ってもらっても?」
「ええ。得意分野ですよ」
 ゼロが先に歩き始め、脇に退きながらドアを開けた。当然彼は、レオンを通すつもりでそうしたのだろうが。
「あ、レオン様! 戻ってらしたんですか?」
 その境界をあっさり越えたのは、廊下からやってきたもう一人の臣・オーディンだった。
「果ては西から東、北から南に至るまで魂の躍動に我が身を震わせながら闇色の王子を求めた旅路が、始まりの場所に帰結するとは皮肉な運命……」
「散々探したけど行き違って部屋に戻っていたという解釈でいいのか」
 レオンが棒読みで問うと、そーですーとオーディンはあっけらかんとした顔で答えた。機嫌を窺うばかりだった他の臣下候補と違い、彼のこの『弁えない』ところがレオンは実のところ気楽だったりもする。
「で? 何か用なのかい」
「白き夜を統べし王子より預かった、我が主へ向けたひとひらの謎こそは、幽玄に揺らめきこの手をすり抜け……」
「わかりやすく」
「はい」
 修辞は長いものの聞き分けはいい。オーディンは大袈裟なポーズをやめ、人差し指で自分の頬をかいた。
「リョウマ王子が、『俺の選んだ品に何か不足はあるか』って。意味わかります?」
「おまえっ……!」
 ゼロがオーディンに詰め寄って何か言おうとしていたが、レオンの耳には届いていなかった。
「……そう。そっちの、そういうこと」
 口唇の端が引きつる。レオンが開けられずにずっと持ち歩いているあれは、『端からサクラからの贈り物などではなかった』のだ。それが彼女の答えだった。
「ありがとう、オーディン。リョウマ王子には『何の問題もありません』とお伝えしろ」
「え? あ、はい? レオン様は?」
「野暮用だ。ゼロも来なくていい」
 開け放したままの扉から出ていく。もらった白夜の飴玉はもうどこかでなくしていた。これからレオンは、もっと大きな何かを失うことになるだろう。

 

 

「お、俺なにか悪いこと言った?」
 オーディンは、レオンの去っていった先とゼロの顔を交互に見ながら声を震わせていた。ゼロは嘆息して首を横に振る。彼は何も悪くない。タイミング以外は。
 事情を説明すると、哀れな同僚はさっと蒼褪めた。
「ど、どうするんだ。やっぱり俺たちも理由を探す手伝いをした方がいいのかな」
「よせ。色事ってのは時に殺しより厄介なシロモノだ。うかつに触ると死ぬどころじゃない」
「そうだ、カザハナってサクラ王女と友達みたいに仲いいよな?」
「だからやめとけ。お前は自分の下半身とキス出来る身体になりたいのか?」
「うっ、じゃあお前がツバキに訊いてきたらいいじゃないか! 仲いいんだろ!」
「よくはない」
 第一印象ほど嫌いではないが、全く揉めずに事を済ませる自信があまりない。
 オーディンは忙しなく動き回っている。
「じゃあどうするんだよぉ。いつまでも分からないままじゃ、レオン様も気の毒……」
「普通にしゃべるな、俺の調子まで狂う。いつもの妙ちきりんな話し方でもして、いったん落ち着け」
「この漆黒より生まれ出で炎のごとく舞い踊る我が言の葉が妙ちきりんだと!」
「よし、それでいい」
 ゼロは窓に歩み寄り、注意深く外を睨んだ。どうやらこの部屋を観察するほど悪趣味な者は、流石になかったらしいが。
「リョウマ王子も、直接じゃなく間接的に責めてくるとは。随分イイご趣味だ、すました顔していやらしい」
 オーディンも歩いてきて、ガラスの向こう側をぼんやりと見つめ始める。
「本気の話、俺たちはレオン様がサクラ王女に香水を贈ったことも贈られたことも知らなかったし。一体どうすればいいのか……」
「俺は知ってた」
「裏切り者!」
 ゼロは、憤慨するオーディンの口に小さな塊を突っ込んだ。先程レオンが、食べる気がしないとソーサーに転がしたままにしていた飴だ。オーディンは一瞬目を白黒させた後、なにこれうまい、と呟いた。しかしすぐに話題を戻してくる。
「じゃ、なくて! レオン様はサクラ王女に禁断の香りを授けられたわけだろ。むやみに物を恵んだり贈ったりしないレオン様にとっては、それって神聖なる儀式だったはずじゃないのか」
「だろうな」
 尊大なのと純朴なのと口調が混ざっているとは、動揺も深刻と言ったところか。ゼロが肩をすくめると、反対にオーディンは肩を落とした。
「なのにサクラ王女はその封印を解かないばかりか、お返しで贈られた香水までリョウマ王子の見立てだなんて、そんなの――」
「可哀想だって? そんなこと口にしてみろ、殺していただけたら運のいい方だぞ」
「ううー……!」
「唸ったところで仕方ないだろう」
 ゼロは頭をかきながら同僚をなだめた。気持ちは解らなくもないが、こればかりはいかな忠臣とて代わってやることが出来ない。オーディンは、ホントうまいなこれ、とどうでもいい独り言の後、両手を上方に大きく広げる。
「はー。俺の魔術で、お二人の本音を白日のもとへ引き出し、永遠の幸運を降らせられたらいいのに……こう、必殺技的な何かで」
「やめておけって何回言わせるんだ?」
 ゼロは忠告するものの、オーディンのこういう発想も嫌いではない。くつくつと喉を鳴らして、少し乗ってやる。
「ダークマージのヤることじゃない。グラビティ・マスターも手を焼く魔法を、お前ごときで手懐けられやしないさ。俺の矢だって、放ったところで丁度イイところに当たる気配もなさそうだ」
「ずるい、今のちょっとカッコイイ」
「お前は平和でいいな。オーディン」
 さて、主の方は穏便にいくだろうか。

 

 

 彼女を呼び出すことは、いざ実行に移してみれば簡単だった。なるべく事情を知っていそうにない、白夜の者を見つければいい。ちょうど第二王子タクミの臣ヒナタが通りがかり、向こうから声をかけてくれた。サクラ王女を呼んでもらいたいと言うと、ヒナタは特に理由を聞くこともせず、直接取り次いでくれた。
「あ、あの……なんでしょう」
 サクラは曖昧に微笑みながら、レオンの正面に立っていた。間合いは六歩と半分ぐらい。二人で話すには少し遠すぎる。
 レオンが選んだ城の回廊は、鮮明な境界線で光と影を断絶させた。仮初の城下町も、賑やかな声も全て別の世界の話。レオンの棲む暗さとは違う場所の夢。
「僕の渡した香水は、気に入らなかった?」
「え?」
 サクラは意外そうに目を剥いた。予想もつかないほど記憶の中心から弾かれていたのかと、頭の奥で何かが疼く。
「いいんだ。ああいう嗜好品は、はっきりと好みが分かれる。そうならそうと口で言ってくれた方が、僕も納得しやすい。本当に処分しましたとは流石に言いづらかったかな」
「レオンさん……? なに、いって……私、嬉しかったって、ありがとうございますって、言いました……。信じて、くださらないんですか?」
「どうだろう。気遣いだけは信じるけど」
 声ではなく息だけで笑うのも、レオンの癖の一つだった。この軍に属するようになってから、『味方』の前ではなるべく控えるようにしていたけれど。
「な、んで、そんな、言い方」
 そう。この笑い方をされた相手がどんな感情を抱くのか、レオンは深く自覚していた。だからと思って封じていたのを、今、意識的に使っている。口唇の片端を、よく見えるように持ち上げてやる。わざと。
「だって。あなたはあれを、一度もつけてくれてないじゃないか」
 ――サクラが震えて言葉を失うのも、何もかも見越したうえで。
「ねえ。ひどいひとだね、あなたは」
 レオンは、ずっと持ち歩いていた練り香水を取り出した。四角い木製の小箱。彼女を思わせる、けれど彼女ではない者の意思で選ばれたもの。グリーン系のとても爽やかな――レオンに『似合う』のではなく、レオンに『そう在れ』と強いているような木枠の正体が、今は痛烈に解りすぎて。
「そんなにもきっぱりと僕を拒んでおいて。そのうえ、兄君の香りで僕の香りを消そうというんだ」
 だったらいい。それでいい。どうせ先に呪ったのは自分で、呪い返しも彼女にしか理解出来ない。それなら。
 レオンはその香水を指先で大胆にすくい取り、首の動脈を横切るようにすりつけた。刃物でなぞれば、確実に死に至る線を引いた。淡く上品に揮発するはずの香料は、近すぎる距離で強く鼻腔を刺す。彼女の属するものが命じた空気を纏って、レオンは笑う。
 彼女は己から『よそよそしさ』を遠ざけ、レオンに『慣れ親しんだ香り』を望んだ。たったそれだけのこと。きっと最初から、単純明快な話だった。
「これで満足?」
 これであなたにとって、僕は透魔兵よりも意味のない、見えない存在になったろう。
 きびすを返す。認識されないものが主体を慮る道理などなかった。レオンがどう振る舞おうと、彼女にはもう、関係がない。